旅から生まれた名画 中野京子

第18回

動物たちのアルプス越え

更新日:2025/07/23

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 中央ヨーロッパに位置するアルプス山脈は東西に長く延び、スイス、イタリア、フランス、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、スロベニアにまたがっている。

 山脈の最高峰モンブランはフランスとイタリアの国境にあり、標高四八一〇メートル(富士山は三七七六メートル)、山頂は常に雪で覆われており、モンブラン(=「白い山」)の名はそこからくる。

 今では飛行機で楽々と越えられるアルプス山脈だが、それまでは徒歩、スキーの使用、また動物たちの力を借りるしかなかった。人間のためにアルプスで働いた動物たちの姿を見てゆこう。


 肖像画や動物画の分野で人気を博し、サーの称号も得た十九世紀イギリスの画家エドウィン・ランドシーア(1802~1873)による初期作品『瀕死状態の旅人を蘇生させるアルペン・マスチフ犬』は、実話をもとにしている。


エドウィン・ランドシーア『瀕死状態の旅人を蘇生させるアルペン・マスチフ犬』1820年 油彩・キャンバス 189 × 237 cm ワシントン・ナショナルギャラリー(アメリカ)画像提供/Heritage Image/アフロ

 ここはモンブランの東側に位置する、スイスとイタリアを結ぶサン・ベルナール峠。古来、アルプス越えの重要な交通路として知られるが、難所であることに変わりはなく、特に冬は旅人や遠征軍の兵士たち多数の命を奪ってきた。

 そうした人々を少しでも救うべく、十一世紀にベルナール・ド・マントンという神父が近くに修道院を開いた。旅の途次に病気やケガをした人々を治療したり宿泊させるホスピス(中世ヨーロッパに建てられた救護施設)も兼ねた施設である。その功績が認められ、彼は後年列聖されてサン(=聖)・ベルナールと呼ばれることになる。それにちなんで修道院もサン・ベルナール修道院と呼ばれ、さらに峠の名もサン・ベルナール峠となった。正確に言えば「グラン(=大)・サン・ベルナール峠」だ。ちなみにモンブランの南側、フランスとイタリア間の峠は、「プチ(=小)・サン・ベルナール峠」。

 この修道院の飼い犬たちが救助犬として使役され始めたのは、十七世紀半ばころだ。この犬種は後にサン・ベルナール、英語読みでセント・バーナードとなる。

 ではなぜ本作のタイトルが、セント・バーナードではなくアルペン・マスチフなのか。それは古代ローマ帝国の軍用犬だったモロシア犬種が、アルペン・マスチフへ、さらにセント・バーナードへと品種改良されていったからである。これら歴代の優秀な犬たちは、二十世紀初頭に至るまでの三世紀間で、およそ二五〇〇人もの雪中遭難者の命を救ったというのだから驚く他ない。

 ランドシーアが描いたのは、彼の時代における救助犬の活躍シーンだ。

 ――背景は峨々たる雪山。峠にも厚い雪が積もり、道を見失いやすい状況とわかる。まだ若い黒髪の男が、半ば雪に埋もれて仰向けに倒れている。流行の白い幅広衿シャツに毛皮のコート、やわらかそうな皮手袋から、階級の高さがうかがえる。顔色は土気色で、明らかに死線をさまよっている。

 二頭の救助犬は彼の上半身を覆っていた雪を大急ぎで取り除き、まだ息があることを確認したのだろう。画面右の犬が生存者発見を知らせるため激しく吠えたてる。左の犬は遭難者の左手を舐め、刺激を与えて目を覚まさせようとする。

 画面右端の修道士(黒い修道服、首には十字架)が犬の激しい吠え声に気づき、後ろに続く他の修道士たちに左腕を高々とあげて合図する。犬と人のすばらしい連携プレーだ。

 男の手を舐めている救助犬の首には、ラム酒を入れた樽状の小瓶が取り付けてある。遭難者が意識をとりもどし、震える手で小瓶に手をのばしてその強いアルコールを飲み干せば、一気に内臓が温まって生きる意欲も涌いてくるに違いない。その様子を見た利発なセント・バーナードは、一声「ワン」と吠えて励ますだろう。男が蘇生した喜びと、彼の生命を救った自分の仕事への誇りに満たされながら。

 実にもって犬というのは、人間の頼もしい大事な友である――そのことをランドシーアは本作で我々に改めて伝えてくれている。


 同じグラン・サン・ベルナール峠を越えて、ナポレオン軍がイタリアに攻め入ったのは、一八〇〇年の五月だった。行軍中に死傷者はでたが、雪は降らず、戦争も大勝利に終わったため、後にナポレオンは、お抱え画家的立場だったジャック=ルイ・ダヴィッド(1748~1825)に『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』を依頼した。

 後ろ足で立つ愛馬にまたがり、激しい追い風にマントを翻したナポレオンがこちらへ目を向け、右手で上方を指し示す。まるで、もっともっと上を、世界制覇を目指すぞ、と言わんばかりだ。背後には大砲を運ぶ軍列も見える。また足元の岩棚には、「ボナパルト」「ハンニバル」「カール大帝(=シャルルマーニュ)」の文字が見える。アルプス越えした三人の英雄、というわけだ。


ジャック=ルイ・ダヴィッド『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』1800年 油彩・キャンバス 271× 232 cm ヴェルサイユ宮殿美術館(フランス)画像提供/akg-images/アフロ

 プロパガンダとして、また理想化された英雄の典型像として、この作品は――ナポレオンに対する好き嫌いはさておき――すばらしい完成度だということを認めない人は稀だろう。

 評判が良かった上、ダヴィッドにとっても自信作だったため、彼は同じものを全部で五点も描きあげている。ただしオリジナルとの違いを示すため、それぞれマントや馬の色、キャンバスのサイズなどは変えてある。

 本作からおよそ半世紀後、『レディ・ジェーン・グレイの処刑』で知られるフランスの歴史画家ポール・ドラローシュ(1797~1856)が、『アルプス越えのナポレオン』を描いた。もちろんダヴィッド作品に触発されてのものだ。


ポール・ドラローシュ『アルプス越えのナポレオン』1848年 油彩・キャンバス 289×222cm ルーヴル美術館(フランス)画像提供/ALBUM/アフロ

 ここに描かれたナポレオンは英雄性の欠片もなく、防寒具に寒そうにくるまり、地元民に手綱を引かれたラバの背に乗って断崖絶壁の細道を不安そうに通っている。峠にはまだ雪が残っており、長い氷柱(つらら)もあちこちに見える。

 ラバは雌の馬と雄のロバを掛けあわせてつくった家畜で、足腰が強く蹄が硬いため悪路や山道には馬より適している。乗馬の不得意なナポレオンがサン・ベルナール峠の難所で一時的にラバを使った可能性はなくもなく、ドラローシュは歴史のリアリズムを狙ったらしい。

 しかし実際にはナポレオンのアルプス越えの年は暖冬で、まして五月下旬なのだからこのような残雪はなかった。リアリズムと言いながらも、これまたダヴィッドとは別の意味でプロパガンダ作品だったのかもしれない。

 本作も数点ヴァージョンがあり、それにはイギリス人からの依頼もあった。さらに小型版はヴィクトリア女王所有である。ナポレオンに恨み骨髄のヨーロッパ諸国の中でも、とりわけフランス嫌いのイギリス人(英仏戦争を百年も続けた犬猿の仲)なら、ドラローシュ作品に溜飲を下げても驚かない。


 そのイギリスを代表する画家のひとり、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)も、歴史的アルプス越えのシーンを扱っている。


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー『吹雪:アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』1812年 油彩・キャンバス 146×237.5cm テート美術館(イギリス)画像提供/akg-images/アフロ

 それはダヴィッド作品に名前のでてきた、カルタゴの名将ハンニバルのエピソードだ。ナポレオンから遡ることおよそ二千年。紀元前二一八年の第二次ポエニ戦争の時代である。ハンニバルはローマ帝国に直接攻め込むべく、領地スペインを発ち、八月のはじめにピレネー山脈を越え、九月にフランスのローヌ川を渡り、秋のアルプスに挑んだ。誰もまさか大軍がアルプスを越えられるなどと、想像もしていない。当時は悪魔そのものと畏れられていた山脈なのだ。

 ローマの隙を突いたハンニバルの奇襲作戦はみごとに成功したが、カルタゴ軍の痛手も大きかった。歩兵三万八千、騎兵八千、戦象三十七頭で構成された軍に、秋のアルプスが襲いかかり、人も馬も象も次々に凍死、滑落死、戦死(山にはカルタゴに敵対するケルト族がいた)してゆく。無事イタリアの地を踏むことができたのは、歩兵二万、騎兵六千、戦象数頭にすぎなかった。

 古代史におけるこの有名なアルプス越えを取り上げるにあたり、ターナーが目指したのは戦史というより、これまでどおり「自然」をどう描くか、ということだった。今回はその脅威の視覚化だ。

 ダイナミックな構図の中、恐ろしいまでの自然の大きさと、豆粒のごとき人間が対比される。象すら豆粒だ。凄まじい空気の渦は太陽を呑み込む勢いであり、襲い来るブリザードや雪崩に人間も動物も無力だ。

 それでもターナーは、戦象の存在感を鑑賞者にはっきり認識させるため、巧みな工夫を凝らしている。画面中央左下、はるか彼方に長い鼻を上に伸ばして進んでゆく象のシルエットが見える。誰かを乗せているようだ。ハンニバルだろうか。この象もハンニバルも大気の嵐に屈しないのだろうかと、見る者にさまざまな思いを巡らせる印象的なシルエットだ。

 本作が発表された一八一二年は、ナポレオンのロシア侵攻の年でもある。そして誰も知るとおり、ナポレオンは大敗した。春に七十万の兵を率いて出発した彼が、冬に連れ帰ったのは(実際には捨て置いて先に逃げたわけだが)わずか三万弱だった。

 峻険なアルプスには勝てたナポレオンだが、ロシアの平たい大地に惨敗したのである。
●エドウィン・ランドシーア(1802~1873)……19世紀イギリスの画家・彫刻家。ロンドン生まれ。王立美術院で学び、若い頃から動物画の才能を発揮した。特に犬や鹿を描いた写実的かつ感情豊かな表現で高く評価された。ヴィクトリア女王からの信頼も厚く、王室関連の作品を多数手がけた。彫刻家としても活動し、ロンドン・トラファルガー広場にあるライオン像の制作に関わった。
●ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748~1825)……フランス新古典主義を代表する画家。パリに生まれ、王立美術アカデミーで学んだ後、ローマで古代美術に触れ、歴史画の様式を確立した。明快な構図と輪郭を特徴とし、フランス革命期には政治活動にも関与し、ナポレオンの公式画家としても活躍。王政復古後はブリュッセルに亡命し、同地で没した。
●ポール・ドラローシュ(1797~1856)……19世紀フランスの歴史画家。パリに生まれ、国立美術学校にてアントワーヌ=ジャン・グロに師事した。劇的な構成と緻密な写実表現を特徴とし、感情豊かな歴史画で高い評価を受けた。アカデミズムとロマン主義の中間的立場をとり、同時代の美術界に大きな影響を与えた。
●ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)……イギリス・ロマン主義を代表する風景画家・水彩画家。ロンドンに生まれ、王立美術院で学んだ。自然の壮大さや光の効果を重視した詩的かつ崇高な風景表現で知られた。油彩・水彩の双方で活躍し、晩年には抽象的な手法にも取り組むなど、革新的な作風を展開した。その表現は印象派をはじめとする近代絵画に大きな影響を与えた。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

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