旅から生まれた名画 中野京子

第10回

船旅

更新日:2024/11/27

  • Twitter
  • Facebook
  • Line
 大型長距離豪華客船は「動くホテル」と形容され、船内にはさまざまな娯楽施設やパーティ会場、複数のレストランなどが用意されている。

 客室がグレードごとに分かれているのは言うまでもない。そのグレードは、現代においては支払う金額の差にすぎないが、二十世紀前半までのそれは明確な階級差でもあったから、貴族や大資本家といったファーストクラス専用のパーティ会場や娯楽施設に、それ以下の人々は近づくことすらできなかった。一方でファーストクラスの人々は、自分より下のグレード・ゾーンに入るのは自由だった。現実社会が反映されていたのだ。


「ボートデッキのスポーツルーム」(「ホワイト・スター・ライン社の3本スクリュー蒸気船」宣伝用パンフレットより) 1912年 画像提供/Alamy/アフロ

 そんな時代の豪華客船内スポーツ施設の様子を描いた「ボートデッキのスポーツルーム」というイラスト(逸名画家)がある。ボートデッキとは最上層の甲板のことで、救命ボートが置かれていたためこう命名されている。右舷に設けられたこのスポーツルームはファーストクラス専用であり、女性はウエストを絞った当時流行のドレスを着て、電動乗馬で運動不足を解消中。斜め向かいの男性も同様だ。前景左には、ボート漕ぎマシンで汗を流す男性も見られる。

 ヨーロッパではスポーツにも階級差があった。実は見えない形で今もある。乗馬やポロはそもそも馬だの厩舎だのを所有せねばならないのだから、自ずから富裕層に限られる。他にボートレース、ラグビーなども同様だ。反対に装備にお金がかからないものが、下層階級のスポーツと見なされることが多い。

 絵にもどろう。

 これは実在の船舶会社の宣伝用パンフレットに掲載されたイラストの一つである。我が社の最新鋭大型客船は、このように充実した施設も提供していますよ、というわけだ。船の名は――「タイタニック号」。

 海難史上もっとも有名なこの豪華客船の名を、知らぬ人は稀だろう。一九一二年四月、イギリスからアメリカへの処女航海中、ニューファンドランド沖で氷山と衝突して沈没し、乗客乗員合わせた犠牲者数は約千五百から千六百人(三等客室に移民もおおぜい詰め込まれ、偽名や重複登録もあって正確な人数は確定不能)、生還者はわずか七百人余りだった。

 この史実に架空の男女の悲恋をからめたハリウッド映画『タイタニック』(J・キャメロン監督、一九九七年公開)は、特殊効果による沈没シーンの迫力もさることながら、乗客たちの階級格差の実態が視覚的にもわかりやすく描かれていた。当時よくあった結婚事情、即ちイギリスの没落貴族の娘とアメリカの新興資産家、前者は金のため、後者は箔を付けるための愛のない結婚だ。そこへ自由の国アメリカでの成功を夢みる貧しい主人公レオナルド・ディカプリオが加わる。

 タイタニック号の沈没は出港から四日後だった。したがって映画の若者たちの恋の旅もわずか四日。ロミオとジュリエットより一日短い。

 この映画に関しては、筆者の船旅の経験ともリンクしたことがある。まだツインタワーが存在していた頃、友人とニューヨークのリバティ島へ自由の女神像を見に行った。小さなフェリーに乗るのだが、その日は雨で、我々を含めて全員世界各地から集まったお上りさんばかりの乗客は、仕方なく屋根付きの客室に座っていた。

 島が近づいてきて、雨も少し小降りになり始めた時、突然、若い白人男性(国籍不明)が客室の通路を走り抜け、デッキに駆け上がるや両腕を翼のように拡げて「I'm the King of the world!」と大声で叫んだのだ、『タイタニック』のディカプリオになりきって。

 雨のせいで沈鬱だった客室にドッと笑い声があがり、まるで誘われるように全員がデッキに出た。皆、この映画のこのシーンを知っていたのだ。世界的に大ヒットした映画の威力は凄まじいものと思い知らされた。リバティ島に着くと雨は完全に止んでいた。

 大西洋を渡って無事アメリカに到着した船の中で、歴史上もっとも有名なのが、十七世紀前半の「メイフラワー号」だ。

 タイタニック(Titanic)がギリシャ神話の巨神タイタン(Titan=ティターン)からの命名であるのに対し、メイフラワー号は五月の花(=May flower)というなかなかロマンティックな意味をもつ。また前者が当時最先端の蒸気船だったのに対し、後者は建造して二十年もたつ貨物用の小型帆船だった。

 このメイフラワー号がイギリスのプリマスを出帆したのは、一六二〇年九月。乗客百二人の半分以上は商人や移民希望者たちだったが、四十一人がピューリタン(=清教徒)だった。彼らはイギリス国教会よりもっと厳格で禁欲的なカルヴァン派の流れを汲み、国教会からの分離を図ったためジェームズ一世に迫害されていた。クロムウェルの「ピューリタン革命」が起こるのはまだ二十数年先である。

 信仰の自由を求めたピューリタンの有志たち、男十七人、女十人、子供十四人は、未開の新大陸に渡って植民地を作ることを目指し、乗船したのだった。大変な覚悟だっただろう。船からして貨物用なのでろくに客用設備はなく、多くが積み荷の間にごろ寝するしかなかった。おまけに天候は荒れに荒れ、航海はいつもよりずっと長くかかった。

 六十六日後の十一月半ば、船はようやく北アメリカに到着した。近代的装備の整った鉄の塊タイタニックが沈み、五月の花びらのように波に翻弄されたオンボロ木造帆船メイフラワーが、ぎしぎし音をたて気息奄々となりつつも船旅を完遂させたのだから、世の中というのはわからない。


ピーター・フレデリック・ロザメル『プリマス・ロックへの巡礼者たちの上陸、1620年』 1854年 油彩・キャンバス 104.5✕139.4cm ラファイエット大学(アメリカ)画像提供/Alamy/アフロ

 十九世紀アメリカの歴史画家ピーター・F・ロザメル(1812~1895)が、『プリマス・ロックへの巡礼者たちの上陸、一六二〇年』を描いている。ここで言う「巡礼者」とは、初めてアメリカの土地を踏んだ彼ら、ピューリタンたちが、後世、「Pilgrim Fathers=巡礼始祖」と呼ばれるようになったことに拠る。またプリマス・ロックとは、彼らがメイフラワー号からボートに乗り替え、プリマス(現マサチューセッツ州)の最初の岩(Rock)を踏んだことを指す。イギリスのプリマスと同名なのは、以前このあたりを探検したイギリス人が、故郷のプリマスと同じ名をすでに付けていたからだ。短いアメリカ史だが、それでもけっこうややこしい。

 ロザメル作品は、ヨーロッパの伝統的歴史画に倣っている。つまり、舞台で演じられる歴史劇を彷彿とさせる。画面中央で、男性にエスコートされてプリマスの岩に足を踏み出す美女も、ボートを縄で引っ張る手前の男も、母親に抱きつく少女も皆、長旅の痕跡のいっさいない衣装を身に着けているし、史実どおり岩にはすでに雪が積もっているが、画面から冷気は感じられない。

 とはいえアメリカ建国の第一歩を人々に思い出させる、自国讃歌の歴史画としてはこれで良いのだろう。

 同じテーマのリアリズム絵画も見てみたい気がするけれど。


ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「戦艦テメレール号』1839年油彩・キャンバス 
90.7 × 121.6cm ナショナル・ギャラリー (イギリス)画像提供/akg-images/アフロ

 乗客のいない、船舶自体の旅もある。ウィリアム・ターナー(1775~1851)の傑作『戦艦テメレール号』がそれだ。

 フランス語の形容詞テメレール(téméraire=向こう見ずな)の語源どおり、このイギリス戦艦は長らく向こう見ずな戦いぶりで名を馳せてきた。まずはトラファルガー戦で旗艦ヴィクトリー号を獅子奮迅の働きで救い、次いで地中海へ、北欧へと、戦場も艦長も兵士たちも目まぐるしく変えながら戦い続け、七年後にはついに満身創痍となって最前線から身を引いた。

 第二の人生(船生?)は、川に浮かべた監獄船としてのものだった。勇敢な海軍兵士を乗せていた船が、犯罪者を閉じ込める檻となったのだ。幸い、これは三年で終わる。次の二十年間は新兵収容船としてお役に立ち、最終の御奉公はヴィクトリア女王即位の祝砲を撃つことだった。そうして翌年、テメレール号はついに解体業者に売りはらわれる。

 ターナーが描いたのは、夕陽をバックにテムズ川を下ってゆく老艦テメレールだ。もはや自力では進めず、最新の外輪式蒸気曳船に引かれてゆく。ばらばらに解体されるために引かれてゆく。死ぬために引かれてゆく。画面右下の真っ黒なブイは、まるでテメレールのための墓標のようだ。

 黒煙を上げて進む最新の小型蒸気船は、時代遅れの大きな帆船をいとも軽々と牽引する。新旧交代の残酷。どうして人の一生に重ねあわせずにいられよう。どんなに華々しく活躍しても、地道に働き続けても、老いは情け容赦なくやってくる。若い者に引かれてゆかねばならない。若いころ自分が老人に対してそうしたように。

 ターナーは戦艦テメレールの長い旅を讃え、船体を黄金色に輝かせ、マストを天に突き刺すほどに高く描いた。かつての勇姿を見る者に思い出させねばならない。忘れさせてはならない。

 本作が発表された時の新聞批評は、「まるで一人の人間の晩年を見せられたかのようだ」というものだった。こうした感慨はしかし、ある程度の年齢にならないとわからないことだろう。これから旅に出る若者と、旅の終わりが見えてきた者とでは、世界は全く違って見えているのだから。
●ピーター・フレデリック・ロザメル(1812~1895)……19世紀アメリカの画家。20歳のとき看板描きとしてフィラデルフィアに移り、そこで初めて美術展を見て本格的に絵画を志す。肖像画やアメリカ史の一場面を劇的に捉えた歴史画に秀で、ペンシルヴェニア美術アカデミーで教鞭をとり、校長も務めた。
●ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)……19世紀のイギリスのロマン主義の画家。20代半ばでロイヤル・アカデミーの会員となり、風景画家としての地位を確立。初期は写実的な作風だったが、印象派を思わせる大気や光の効果、自然の猛威を劇的に表現した後半生の作品で名高い。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.