旅から生まれた名画 中野京子

第11回

森の中

更新日:2024/12/25

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 森のそばに貧しい樵(きこり)の一家が住んでいた。飢饉の到来で、いよいよ一家は追いつめられ、このままでは家族全員餓死するばかりとなった時、妻は夫にこう言った。子供二人に小さなパンをそれぞれ一切れずつ持たせて、森の奥に置き去りにしよう、と。彼女は継母だったのだ。父は仕方なくうなずく。

 だが夜中の両親のこの会話に、男の子が聞き耳をたてていて、すぐ対策をたてた。こっそり家を出て白い小石をいっぱい拾い、ポケットに詰め込んだのだ。賢いこの子の名はヘンゼル。そう、これはグリム童話集の中でも特に有名な「ヘンゼルとグレーテル」の物語である。

 翌日ヘンゼルと妹グレーテルは両親から森に置き去りにされたが、来た道に白い小石を少しずつ落としておいたので、難なく家へ帰ることができた。それからしばらくしてまた飢饉となり、再び森へ置き去りになることがわかった。しかし前夜継母が戸に鍵を掛けたため、ヘンゼルは白い小石を拾うことができず、やむなく持っていたパンを少しずつちぎって道にまいたが、それは鳥たちに食べられてしまう。

 こうして深い森の中で迷子になった幼い兄妹は、ひたすら歩き続け、小さな家に行きついた。それはお菓子でできた家だった。夢中で食べていると、老婆が出てきて親切さを装ったが、実は子供を太らせて食べる悪い魔女だった。彼女はヘンゼルをもっと太らせるため檻に入れ、グレーテルをこき使って家事を強いた。

 ひと月後、魔女はヘンゼルを食べることにした。窯を焚き始め火の具合を見るため中を覗き込んだところを、グレーテルが後ろから思い切り押して魔女を焼き殺した。

 兄弟は魔女が隠していた宝物を持ち、森を歩き始めた。今度はすぐ川にゆきついて、泳ぐカモの背に乗せてもらって家に着く。父は子捨てを深く後悔し、継母も亡くなったていたので、以後、三人は仲良く豊かに暮らしたという。

 ――ほんとうは継母ではなく実母だった、子捨てや子殺しは飢饉の年に珍しくなかった、また悪い魔女とは単に村の共同体からはじきだされた一人暮らしの老女であり、ヘンゼルたちは強盗殺人犯なのだ、云々、といった説はさておき、この「ヘンゼルとグレーテル」が明確に示しているのは、子供の逞しい成長力である。

 親に捨てられるというのは自立への促しであり、森や魔女は乗り越えねばならぬ試練であり、それを克服したあかつきには親への恩返しとして宝物を持ち帰る。ヘンゼルは自分より弱い妹を守るが、逆にこの守るべき対象がいたればこそ心身が鍛えられたともいえる。一方、頼るばかりだったグレーテルもまた、兄のピンチを境に思いがけない底力を発揮して問題を解決した。二人は大人に近づき、それによって森を脱出できた。試練の旅は終わったのだ。

 さて、この物語のもう一つの主役は「森」だ。

 ヘンゼルとグレーテルはドイツ名。固有の人名がほとんど出てこないグリム童話において、これは例外的である。つまり森の国ドイツのお話であることが、はっきり示されている。ドイツにおける最大の森といえばシュヴァルツヴァルト(=黒い森)。そこは今現在でさえ南北一六〇キロ、総面積五一八〇平方キロもあり(東京二十三区の面積は約六二七平方キロ)、ヘンゼルたちの時代はまだ開墾も進んでいなかったから、さらに広かったはずだし、丈高い古代のモミの木で鬱蒼としていたろう。


チャールズ・ロビンソン「森の中のヘンゼルとグレーテル」『THE BIG BOOK OF FAIRY TALES』より(1911年刊)画像提供/アフロ

 アーサー・ラッカムとともにイギリスの挿絵文化の黄金時代を担ったイラストレーター、チャールズ・ロビンソン(1870~1937年)が「ヘンゼルとグレーテル」も手掛けている。これは夜の森を心細げに歩くシーンだ。満月だったとしても、頭上を覆うばかりの樹木のせいで闇は深い。小さな子にとっては、凶暴な巨人たちに囲まれたほどの恐怖だろう。枝葉のざわめきは彼らの唸り声に感じられたろう。ヘンゼルはグレーテルの手をしっかり握り、空を見上げる。二人の幼さと、少年の決意が伝わってくる。

 広大な、いや、広大すぎる森は迷宮そのものだ。山は垂直の恐怖、森は水平の恐怖。歩いても歩いても同じ所をまわっているような錯覚を起こす。ヘンゼルは樵の子だし、森の入り口は遊び場だったはずだが、それでも奥へ進むとそこはもう異界だった。

 そのうえ森には狼がいる。当時のヨーロッパ人がどんなに狼を恐れていたかは、「ペスト、狼、オスマントルコ」(日本で言えば「地震、雷、火事、親父」に相当)という言葉が残されていることからも明らかだ。ヘンゼルたちもフクロウの鳴き声などに混じって、狼の遠吠えを聞いていたかもしれない。

 森には人骨も無数にあった。その多くは、どうしても森を抜けなければならなかった旅人たちの、何世紀にもわたる死の積み重ねだ。それを免れたヘンゼルとグレーテルの奮闘は、口から口へ伝えられ、グリムの童話集に収められることとなった。


 森は人類最初の神殿と言われる。古代人にとって森は恵みを与えてくれると同時に、畏怖の対象でもあったからだ。御神木信仰は日本にもあるので理解しやすい。

 また深層心理学的には、森は女性的なるものの象徴とされる。特に若い男にとっての女は森のように不気味で不可解で魅力的で、探索すべき対象だという。残念ながら探索に遭難や事故はつきものだが。

 世界中の神話に、森に棲む不思議な女性的なるものがよくでてくる。ギリシャ神話における英雄中の英雄ヘラクレスがなぜアルゴ探検隊から脱落したか、というエピソードもその一つだ。 

 コルキス王の金羊毛を手に入れるため、イアソンをリーダーとしたギリシャの英雄たちおよそ五〇人が、アルゴ船で海を渡った。アルゴナウタイと呼ばれた彼らの中には、ヘラクレスを筆頭として、オルフェウス、テセウス、双子のカストールとポリュデウケスなど、日本人にもおなじみの名がある。

 航海の途次、船はある島に立ち寄った。ヘラクレスは自分の櫂が折れたので、新しいのを作ろうと従者のヒュラスを連れて森に入る。ヘラクレスは、櫂にするための木を探す間、ヒュラスに水を汲んでおくよう命じた。こうしてヒュラスは泉を求めて一人で森に分け入り、泉を見つける。

 ヒュラスは美しい若者だった。どれほど美しかったかというと、泉のニンフたちを完全に魅了するほどにだ。彼女らはヒュラスの美しさを今のまま永遠に留めるため、彼を泉の底へと引き込んだ。

 多くの画家が『ヒュラスとニンフ』を描いているが、ここでは女性画家の作品を見てみよう。ヴィクトリア朝時代後期のイギリス人画家で、文学的主題を得意としたヘンリエッタ・レイ(1859~1928)の作品だ。


ヘンリエッタ・エマ・ラトクリフ・レイ『ヒュラスとニンフ』1910年 油彩・キャンバス 142.3×222.8 cm 個人蔵 画像提供/アフロ

 少年と青年のあわいにあるヒュラスが、泉のほとりに身をかがめた瞬間、スイレンの浮かぶ泉からニンフたちが浮かび上がってきた。長い髪に花を挿し、水中にいたというのに水滴一つついていない柔肌のニンフたちは、まるで人気アイドルを見つめるような憧れの眼差しでヒュラスを見つめ、腕をひっぱろうとする。一人はすでに水中から出て、彼のすぐ後ろで何ごとかささやく。ヒュラスは無力だ。

 男性画家の作品では、明らかにニンフの美に力を入れてヒュラスが今ひとつ魅力に欠ける場合が多いが、このヒュラスは大きな目、ふっくらした唇を持ち、肉体は男性的だが顔は両性具有というか、まだ完全に男になるか女になるか決めていないというような曖昧さを残した「綺麗さ」がある。仕草は完全に女性的だ。

 森の奥へ足を踏み入れた若者が、女性的なるものに呑み込まれて破滅する定めが描かれる。

 何も知らないヘラクレスはヒュラスの名を呼ぶが返事はない。森の中を必死で探し回っているうち、アルゴ船はヘラクレスが乗船したと思い込んで出発してしまった。かくしてヘラクレスは探検から脱落したのだった。


 ラミアもギリシャ神話の登場人物だ。彼女についての伝承は多岐にわたるが、ヘンリエッタ・レイと同時代同国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849~1917)が、キーツの詩をもとに蛇女としてのラミアを描いた。タイトルは『ラミアと戦士』。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス『ラミアと戦士』1905年 油彩・キャンバス 90.2×144.7cm オークランド美術館(ニュージーランド)画像提供/アフロ

 設定は森の中だ。近くが戦場だったのだろう。若い戦士が敵を追ってか、敵から逃れてか、森に入って隊から離れてしまった。疲れ果てて腰かけ、兜を脱ぎ、剣をそばに置いて休んでいる。

 そこへラミアが音もなく這うように忍び寄る。蛇は実に女性的だ。だがラミアは吸血の魔女でもある。ウォーターハウスのラミアは、男性の憧れの典型として描かれる。しなやかな肢体、細面の整った顔、すがるような瞳をもつ。彼女は戦士の前にひざまずき、彼を見上げる。

 こんな女性に、いったい誰が抵抗できようか。思考力さえ奪われてしまう。森の奥に薄衣をまとっただけの美女がいるはずもないのに、それすら考えられない。あるいはその妖しさに気づいてなお、死んでもいいと思ったのだろうか、これほどの美女になら、呑み込まれようと引き裂かれようと本望だ、と。

 戦士はすでに彼女のつややかな赤毛(悪女の色)の髪を撫ではじめている。ラミアの薄衣は蛇の鱗模様だ。よく見れば、裾のあたりには巨大な蛇の抜け殻があり、彼女が脱皮して青年の前に現れたのがわかる。

 教訓1―森で出会った女からは全力で逃げよ。
 教訓2―美女はあなたにはすり寄らない。
 教訓3―己を知り、女を知れば、百戦危うからず。
●チャールズ・ロビンソン(1870~1937)……19世紀末から20世紀前半に活躍した英国人挿絵画家。祖父、父、兄弟とも挿絵画家という家系に生まれる。1890年代後半から手がけた児童書の挿絵に秀作が多く、『子供の詩の園』『不思議の国のアリス』『秘密の花園』などがよく知られる。アール・ヌーヴォーや浮世絵の造形感覚も取り入れた作風はモダンかつ幻想的。
●ヘンリエッタ・エマ・ラトクリフ・レイ(1859~1928)……英国ヴィクトリア朝時代の女性画家。神話画、歴史画を得意とし、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの学生時代の同期だったアーネスト・ノーマンドと結婚した後も、自身の姓で創作を続けた。1890年にパリに渡り、夫とともにアカデミー・ジュリアンに学んでからは画面に明るさが増した。
●ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849~1917)……ヴィクトリア朝時代の英国絵画を代表する画家のひとり。中世文学や神話を題材に、女性美を強調した作品を数多く残した。画家の両親のもとで育ち、1870年からロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに学ぶ。徐々にラファエル前派の影響が色濃くなるが、常にアカデミーで高い評価を受けつつ活動した。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

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