第4回
馬車
更新日:2024/05/22
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馬ほど文明の発達に貢献した動物はいないだろう。この強くて賢くて美しい大型動物は、人間をその背に乗せて飛ぶように走り、農作業の負担を格段に軽減し、重い車体を引き、戦場で勇猛に戦い、時に食料となった。
二十世紀初めにかけて鉄道や自動車が誕生するまで、馬はオートバイであり、高級スポーツカーであり、タクシーであり、トラックであり、トラクターであり、通勤列車であった。実際、鉄道の初期の異名は「鉄の馬」だったし、第一次世界大戦の戦場でさえまだ騎馬隊が活躍していた。
それほどにも有能な馬だが、一つだけ欠点がある。全ての動物に共通する排便問題だ。とりわけ十九世紀末の大都会には、自家用馬車、辻馬車、駅馬車、郵便馬車がひしめくようになり、その問題は無視できないほど拡大した。たとえば人口六百万時代のロンドンの街には、三十万頭もの馬が縦横無尽に闊歩していたため、一日四百万キロ以上の糞便が道路に落とされた。
これでは掃除人がどんなに箒を振り回しても無駄で、雨など降ろうものなら泥と混じりあって凄まじい状態になった。当時のペシミストたちの予測では、世界中の主要都市は一九三〇年頃までに馬糞で埋め尽くされて廃墟化するだろう、というものだった。幸いその予測は外れ、馬とバトンタッチした自動車が走り回るようになって、馬糞問題は解決した(近年、石油がまもなく枯渇する、と大騒ぎしていた人たちがいたのを思い出す)。
いずれにせよ馬車は、人口密集地ではなく郊外を走る分には糞便問題を起こさない。
その代わり、郊外の旅行者を苦しめたのがハイウェイマンだった。イギリスの場合、ロンドンからは幾筋も放射状に幹線道路ができており、特に十七世紀にハイウェイマンが急増、凶悪化した。同時代のパリとは比較にならないほどの実害だったが、それは王政復古後のごたごたで警察力が足りなかったせいだと言われる。
ハイウェイマンとは、幹線道(highway)沿いの人けない森や荒野に出没し、馬車を襲って乗客の金品や、時に命を奪う強盗を指す。徒歩の旅行者を狙う追い剥ぎ(footpad)と違うのは、ハイウェイマンが馬に乗って移動していたことだ。当時のヨーロッパで馬に乗り慣れているのは、貴族、上級軍人、御者など馬を扱う職業の者と、数がきわめて限られていたから、同じ悪党ではあっても、ハイウェイマンは追い剥ぎより格上と見なされていた。
そしてそこからさらに面白い現象が起こる。
日本でも、貧しい者に被害を与えるコソ泥や追い剥ぎは憎まれたが、金持ちしか狙わない強盗は喝采を浴びることがあった。特に江戸後期の鼠小僧次郎吉のように大名屋敷ばかり狙い、鼠のようにどこからでも忍び込み、しかも誰にも危害を加えなかったことで庶民から「義賊」と称えられ、人気を博した例がある(盗んだ大金を困窮者に配ったというのは完全なフィクションらしいが)。
イギリスのクロード・デュヴァル(1643~1670)もそんな人気者の一人だ。有名なこのハイウェイマンは、嘘か真か定かならぬさまざまな伝説に包まれているが、一番人口に膾炙した言い伝えは――
フランス没落貴族出身のデュヴァルはイギリス貴族のもとで働き、やがてロンドンに出てハイウェイマンになった。常に貴族風の装いをし、金品を奪う際もほとんど暴力は振るわず、また女性には紳士的態度で接した。乗合馬車の客が貧しい職人やお針子だけの場合には何も奪わないで投げキスだけで解放したという。
またある時、金持ち夫婦の馬車を襲撃した際、デュヴァルはその若い妻の美しさに魅かれ、もしクーラント(バロック時代の舞曲)をいっしょに踊ってくれるなら略奪品の多くは返してもいい、と申し出た。彼女が了解したので、しばしダンスを楽しんだ後、約束どおり去って行った。
このダンスの逸話を、十九世紀のイギリス人画家ウィリアム・パウエル・フリス(1819~1909)が『クロード・デュヴァル』のタイトルで絵画化している。 -
ウィリアム・パウエル・フリス『クロード・デュヴァル』 1859~1860年 油彩・キャンバス 108.8×153cm マンチェスター美術館(イギリス) 画像提供/アフロ -
画面中央では当時流行のファッションに身を包んだ美女が、いくぶん怯えて緊張した表情ながらもスカートの両端を優雅な仕草で掴み、左足を前に出して静かにステップを踏む。その向かいに立つ、赤い長上着の男がデュヴァルだ。目を黒いマスクで覆っているので顔立ちは定かでないが、完璧な姿勢と自信たっぷりの様子から、ハンサムだったとの噂が肯定されよう。右手を高く掲げ、左手は羽根付き黒帽子を持ったまま腰に当て、拍車付きの長い乗馬ブーツを履いた右足を前に出す。
二人はこうして小さな円を描きながら、次第に近づいてゆくのだ。曇った空の下、荒涼と広がるヒースの野でありながら、彼らのいるところだけがまるで宮廷ででもあるかのように、全く違う空気が流れている。だからこそであろうか、画面左端で両手を縛られている白髪の男性が、抑えた怒りと嫉妬の目で見つめている。彼女の夫なのだ。富裕な老貴族が政略結婚で娶った若い妻の心を疑っている。
そのすぐ隣でデュヴァルの手下が短い縦笛でメロディを奏でる。車輪の前ではもう一人の手下が、ダンスをよく見ようと黒マスクを半分ずらす。彼らの奥に座らされている少年は、夫婦の間の息子に違いない。なぜなら馬車の中で気絶している女性は、おそらく少年を教えるガヴァネス(住み込みの女性家庭教師)と思われるからだ。
他にも車内からハイウェイマンに手を合わせて慈悲を乞う老女、頭にピストルを突きつけられて動けない御者などがいて、まるで映画のワンシーンのようだ。さらには、少年の頭部のずっと先の地平線に処刑台まで見えている。デュヴァルの最期を暗示する心憎いまでの配置だ。動画のなかった時代、こうした物語絵画は鑑賞者の目にいきいきと動いて見えただろう。
さて、デュヴァルだが、賞金首の筆頭となり、ついに酒場で逮捕された。公判にはおおぜいの女性ファン(?!)が詰めかけ、減刑嘆願書まで出されている。なんとチャールズ二世も処刑反対を表明したというから、さすが「陽気な王様」の異名を取るだけある。しかし判決は覆らず、デュヴァルは絞首刑となった。まだ二十七歳。墓標には「男性は財布に、女性はハートに用心せよ。(中略)デュヴァルは女性たちの喜びであり、悲しみでもあった」と記された。
もし駅馬車がトロイカのように速かったら、ハイウェイマンの出る幕はなかったろう。
ロシア人画家ニコライ・セミョーノヴィチ・サモーキシュ(1860~1944)の『トロイカ』を見るだけで、その爽快きわまりない疾走感が伝わってくる。 -
ニコライ・セミョーノヴィチ・サモーキシュ『トロイカ』 1917年頃 油彩・キャンバス64×111cm トレチャコフ美術館(ロシア) 画像提供/アフロ -
トロイカとはもともと数字の「3」から来ており、乗り物としてのトロイカは「三頭立ての馬橇(および馬車)」のことだ。雪の上を滑るように走るロシア独自のこの橇は、なんと時速五〇キロまで出るというから馬車の最速だ(一般の駅馬車は平均時速八キロほど)。
遠くにロシアらしい玉ネギ型クーポラを載せた教会が見える。深い根雪の上にさらに新雪を重ねた道なき道を、三頭の馬が自らの走りを楽しむように疾駆する。御者もいっしょに走っている感覚になるのか、短距離選手のような動きを見せる。一方、橇の乗客は冷風と粉雪をまともに浴びてそうとう寒いらしく、頭から顎にかけてしっかり布を巻いている。
見てのとおり、トロイカは実に装飾的だ。中央の馬が付けている馬蹄形の木製頸木(くびき)には模様が彫刻され、美しく彩色されている。裾には金メッキもほどこされて華やかだ。現代の長距離輸送の大型トラックが、電飾をたくさん付けたりと、満艦飾の派手さを競うのに似ていよう。トラック野郎ならぬトロイカ野郎のお出まし。
両側の二頭は首に複数の鈴がまかれ、シャン、シャンという、一キロ先まで聞こえる大きな響きをたてて人々にトロイカの存在を知らしむる。当時トロイカは郵便馬車として使われることが多かったから、これもそうなのかもしれない。ロシアの厳しい自然の中を長時間走り抜けるのは、死の危険にさらされることでもあるから、実は頸木模様にも鈴の音にも悪魔祓いの意味があった。
さて、なぜトロイカの馬は三頭で、しかも並んで繋がれ、走る時は(本作を見てわかるように)馬たちが扇状に見えるのか?
これがもっとも速度を出せる編成とされていたからだ。中央の馬が一番大型で一番速く、持久力もあり、両側の二頭は同じ馬種なのが望ましいとされた。本作も中央は黒馬、両側は赤白のブチになっている。黒馬がまっすぐ走り、左右の馬はバランスを取るため自然に頭を外側に向けるのだという。それで正面からだと扇状に見えるのだ。
さらに凄いのは、これまた本能的にそうなるらしいが、ギャロップの第一歩は右の馬は左足から、左の馬は右足から出しているという。サモーキシュは何点も馬の絵を描いているだけあり、本作でも馬の足の動きは正確そのものだという。
ちなみに明治政府は北海道を開拓するにあたり、ロシアから専門の職工を雇用して馬橇の製作を進めたのだそうだ。
- ●ウィリアム・パウエル・フリス(1819~1909)……ヴィクトリア時代のイギリス人画家。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに学び、キャリアの初期は肖像画を描き、1850年代半ばからはパノラミックに群像を捉えた風俗画で大成功を収めた。アカデミー会員として古典を重んじ、ラファエル前派や耽美派の画家とは対立していたといわれる。
- ●ニコライ・セミョーノヴィチ・サモーキシュ(1860~1944)……ロシア帝国下のウクライナ北部出身の画家。サンクトペテルブルクの美術アカデミーで学び、パリに留学。戦争画を描いて頭角を現すとともに、ロシアやウクライナの風俗画も手がけた。ロシア革命の前後を通じて従軍画家の任に当たり、晩年はクリミア地方の美術行政に取り組んだ。
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- 著者プロフィール
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中野京子(なかの・きょうこ)
北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」。