旅から生まれた名画 中野京子

第14回

恋の旅

更新日:2025/03/26

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 恋は、それ自体が旅のようなもの。

 その道筋は広々と真っ直ぐだったり、危険な急カーブを描いたりする。明るい陽射しに恵まれもすれば、嵐に阻まれる場合もある。見晴らしの良さを楽しむ一方、あっという間に行き止まりになったりもする。すばらしい風景に陶酔し、薄暗い迷路で死にたくなることもある。

 先は見えないが、それでも恋人たちは道が続く限り旅を続けるだろう。


 イギリスの風俗画家ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール(1869~1956)の『エデンの園』には、若い恋人たちの旅のスタートが描かれる。


ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール『エデンの園』1901年 油彩・キャンバス 123×94 cm ギルドホール美術館(イギリス)画像提供:Bridgeman Images/アフロ

 曇天の空。冬枯れの公園。葉の一枚もない裸形の木々が寒さに震えている。後景には無人のベンチや高い柵があり、その柵の向こうに客待ちの辻馬車と御者の姿がぼんやり見える。地面は濡れ、雨が止んだばかりとわかる。

 若いカップルが寄り添って歩いてゆく。

 身なりから、あまり豊かではないがきちんとした生活を送る中産階級の男女と想像がつく。男は泥で汚れないように、ズボンの裾を少しまくり上げている。靴は実用本位の品だ。雫の垂れる傘を二本、左手で無造作に握る。彼女の傘も持ってやっているのだ。

 そんな彼の冷えた手を少しでも温めようと、彼女は手袋を嵌めた両手でやさしく包む。色の無い風景の中、二人の服も黒が基調だが、彼女の少しだけ赤味のある帽子と明るい金髪、そして色白の肌だけが仄かに浮かび上がる。

 何よりこの笑顔!

 まるで沼に、たった今、美しい睡蓮の花が開いたかのようだ。希望にあふれ、相手を信頼しきって見上げる笑顔。この幸せそうな笑顔こそが、本作を忘れがたいものにする。

「人生最上の幸福は、愛されているという確信にある」というヴィクトル・ユゴーの言葉は、まさに彼女のことを指すかのようだ。

 男性の顔は見えない。

 だが女性にこのような笑みを浮かべさせる男性が、どんなに彼女を愛し、大切にしているかは、見る者に十分伝わってくる。愛する者同士の顔つきは似てくると言うから、きっと彼も今、彼女と同じ満たされた表情なのに違いない。

 リヴィエールは、『公園の恋人たち』というような風俗画風のタイトルにはせず、物語を想起させる『エデンの園』という題名をつけた。この世に初めて誕生した初々しいアダムとイヴ、まだ禁断のリンゴを食べる前の人類の祖先を、鑑賞者が画中の二人に重ねあわせ、さまざまな思いをめぐらせることを期待したのである。

 だから筆者も想像を膨らませ、画中の二人が実在したと仮定し、彼らの恋の旅の行く末を考えてみたい。

 制作年は一九〇一年。ヴィクトリア朝最後の年だ。一月には大英帝国の象徴だった女王が崩御し、栄光の残照ともいえる時代に入るわけだが、もちろん若い恋人たちも画家も、この時点では知る由もない。まして十三年後に未曽有の大戦争(後年、「第一次世界大戦」と呼ばれるようになる)が勃発するなど、どうして予想できようか。

 公園でのこのシーンの後まもなく二人は結婚し、子供を産み育て、これまでどおり堅実で穏やかな家庭を営んでいた。そこへ大戦だ。

 夫は戦地へ送られることになる。彼は楽観し、クリスマスまでには勝って帰るよ、と意気揚々と出発した。敵のドイツ人も全く同じ楽観ムードだったことは知らなかった。戦況は膠着し、地獄のような塹壕戦になる。夫は敵のマスタードガスにやられたが、幸い失明はせずにすんだ。

 妻は子供たちとともに残されたが、四年も戦争が続くと食糧難に苦しめられ、やがてスペイン風邪まで猛威を振るって、とうとう愛児の一人を亡くす。

 一九一八年十一月、ようやく戦争は終わり、イギリスは戦勝国になった。とはいえ被害は甚大だった。戦死者は九十万弱、戦傷者はその倍以上、民間人も十一万人近くが餓死や病死したのだ。

 夫は翌年、痩せ細った姿で妻のもとへ帰る。妻もやつれはて、疲れ切っていたが、しかし笑顔で夫を迎えた。夫はその顔に二重写しのように若いころの彼女を見た。咲きたての睡蓮のような、希望にあふれ、信頼しきった笑顔。それは戦場の悲惨をいやというほど見てきた夫を、瞬時に癒すほどのものだった。

 彼らの旅はさらに続き、死のその時まで深い絆が変わることはなかった……。きっとそうであったに違いない。この二人なのだもの。


 恋の旅は一人でもできる。

 ドイツの彫刻家であり画家のマックス・クリンガー(1857~1920)による連作版画集『手袋』が好例だ。

 このエッチング版画集は全十点から成り、それぞれに小タイトルがついている。クリンガーの出世作で、二〇一七年開催の「怖い絵展」にも(全点ではないが)出展されたので、覚えている人もおられよう。

 内容は一人の男(クリンガー本人がモデル)の妄想であり、フェティシズムの極致とも言える恋の旅だ。

 全体の流れは――

 ローラースケート場で、主人公は若い女性の落とした手袋を拾う。彼はそれを彼女に返さず家へ持ち帰り、ベッドに置いて彼女を思う。

 窓外の木に花が咲き、遠くに彼女の歩く姿が見えるが、顔を覆っている彼には見えていない。あるいは彼の妄執の対象は、件(くだん)の女性ではなく手袋に移ったのか。

 一転して主人公はヨットで嵐の海に乗り出し、波間に漂う手袋を必死に掬い上げようとしている。だがどうやら手袋は彼から逃れたらしい。次のシーンでは、白馬に引かせた巨大な真珠貝の馬車を、手袋自身が手綱を握って走らせている。そのまま海岸へ着いた手袋は、高い飾り棚に載って海に臨む。打ち寄せる波しぶきはことごとく薔薇の花に変貌。

 主人公はベッドでうなされている。まわりは洪水だ。手袋はそのベッドの巨大なヘッドボードと化している。次いで、あたかも幕間のように、舞台上にテーブルがぽつんとあり、その上に手袋が置かれている。

 再び急展開し、手袋は怪鳥に盗まれてしまう。

 最後は地に斃れた女性のように横たわる手袋。蕾(つぼみ)のままの薔薇がそれを見下ろす。そばにキューピッドが座っており、愛の矢が放たれた気配はない。主人公の恋が成就されず、妄想も終わったことが示される。


 まるでフロイトの『夢判断』の症例のようではないか。この書籍自体はまだ誕生していなかったが、クリンガーはフロイトと同時代人で、深層心理や自己探求への関心が高まっていた時代の子であった。

 肝心の絵を見てみよう。

 まず第二葉「行為」。ベルリンにあるハーゼンハイデ(Hasenheide=ウサギの森)にできた、初のローラースケート場が舞台だ。

 街灯の向こうに森が広がっているのは現実の風景だが、スケート靴で滑る登場人物たちの身体の傾き方が、一見現実離れして見えるため、異世界の出来事のような感覚を覚える。もちろん画家はそうした計算の上で描いている。


マックス・クリンガー『手袋』より〈行為〉1881年 エッチング、アクアティント、紙 24.7×18.9cm ワシントン・ナショナルギャラリー(アメリカ)画像提供:akg-images/アフロ

 またスケート場を横切る白い仔犬も、『不思議の国のアリス』を想起させる。いっそ犬ではなくウサギにしたらよかったのにと思わぬでもないが(アリスは言葉を話す白ウサギの後を追って不思議の国へ行った)、クリンガーはさすがにそれはやりすぎと自制したのかもしれない。

 いずれにせよ、顎鬚のこの主人公もここから一人よがりのワンダーランドに突入するのだ。今しも彼は、ほっそりした若い女性が落とした白い手袋を拾うところで、その時、自分の帽子も落としてしまう。

 また手袋だが、この絵では手首くらいまでの普通の長さなのに、物語が進むにつれ、肘までの長さになったり再び小さくなったりサイズは変わる。

 次は第七葉の「不安」。


マックス・クリンガー『手袋』より〈不安〉1881年 エッチング、アクアティント、紙 10.9×23.8cm ワシントン・ナショナルギャラリー(アメリカ)画像提供/アフロ

 ヨットに乗り、馬車を追いかけ、薔薇の海辺へ行ったのは、全て白昼夢だったのだろうか。いま主人公はベッドの中で悪夢にうなされている。

 背後には満月。持ち帰った手袋はヘッドボードと化している。洪水とともに醜い異形のものたちもベッドへ押し寄せ、彼を起こそうとする。手前の坊主頭は、右手でヘッドボードを、左手で後ろを指さす。後ろから近づきつつあるのは、手袋を嵌めた左手と素手の右手だ。ということは、これは彼女が自分の手袋を取り返しにきたのだろう。

 そしてそれが悪夢の根源になるということ自体、主人公の愛の対象が彼女ではなく手袋にあった証左ということになる。フェティシズムの奥深さを、己を主人公にして描くクリンガーはなかなか面白い。

 ちなみにクリンガーの実人生における恋の道はといえば、三十代からの十五年間、女性作家と愛人関係にあって娘も一人もうけたが、結婚はしなかった。その後、五十三歳で十八歳のモデルと知り合い、その十年後、それも死の数カ月前に彼女と結婚した。

 遺産を巡って、年齢の近い「妻」と「庶子である娘」が長い法廷闘争になったが、それは天国のクリンガーの知るところではなかった。
●ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール(1869〜1956)……ケント州ブロムリー出身の、イギリスの画家。父は風俗画、動物画家として活躍したブライトン・リヴィエール。イギリス最古の美術学校ロイヤル・アカデミー・スクールで学び、主に肖像画家として活躍。後に王立肖像画家協会、王立油彩画家協会の会員に選出された。
●マックス・クリンガー(1857〜1920)……ライプツィヒ出身の、ドイツの画家、版画家、彫刻家。カールスルーエの美術学校、ベルリン・アカデミーで学ぶ。女性や手袋をモチーフに用いるなど、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われている。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

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