旅から生まれた名画 中野京子

第6回

子供の旅

更新日:2024/07/24

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 鶴は越冬のため毎年十月以降に日本へ渡って来て、三月にはロシアや中国へ帰ってゆく(いわゆる「北帰行」)。それだけ鶴にとって日本の冬は暖かく、夏は暑すぎるということだ。逆にロシアでは十月に鶴は去り、三月にもどってくる。行き帰りは逆でも、日本人もロシア人も鶴の渡りを見て厳しい冬の到来と水温む春の訪れを知るのだ。

 また日本が鶴を霊鳥と見なしているように、スラヴ民族の言い伝えでも鶴は神の使いであり、秋に死者の魂をあの世へ連れてゆき、春はこれから生まれる子の魂を運んでくると信じられてきた。

 鶴に対する日露のこうした相通じるイメージから、『鶴』(ガムザートフ作詞、フレンケリ作曲)という美しい楽曲が生み出された。一九六五年、広島の原水爆禁止世界大会に出席した旧ソ連の詩人が千羽鶴に感銘を受け、詩を書いたのがきっかけだ。

 歌詞の概要は――帰国しない兵士たちは戦場で血にまみれて斃れているのではなく、きっと白い鶴に姿を変えて飛んで行ったのだ、というもの。

 メロディーは鶴の優雅で神秘的な飛翔を想起させ、歌詞には国を守って戦った兵士への鎮魂の思いがこめられている。『鶴』がロシアの新しい民謡となり、多くの歌手に歌い継がれ愛され続けているのも当然だろう。ロシアの著名なオペラ歌手、故ホロストフスキーが哀感たっぷりに歌う『鶴』に、聴衆が涙する映像を見たことがある(ロシア人は涙もろい)。

 実際には鶴の渡りは、だが優雅なだけではなさそうだ。二千から四千キロもの長い旅程を編隊を組んで飛ぶのだから、脱落者が出ないように翼を休める必要がある。時々地上へ降り、昆虫や甲殻類、魚などを食べてエネルギーを補給する。常に餌が見つかるとは限らないし、飛行に不慣れな幼鳥を連れていれば休憩回数は増える。中継地点で何日も休みを取らざるを得ないと、越冬に遅れて渡りは危険を増す。足で歩くしかなかった時代の、人間の旅と同じなのだ。

 しかしそれを知ってなお、高い空を風に乗って、あるいは風に抗って飛翔する鶴の渡りの姿には、ロマンをかきたてられずにおれない。


アレクセイ・ステパノヴィッチ・ステパノフ『鶴が飛んでゆく』 1891年 油彩・キャンバス 62.8×112cm トレチャコフ美術館蔵(ロシア) 画像提供/アフロ

 ロシア芸術家同盟の創設者のひとり、アレクセイ・ステパノヴィッチ・ステパノフ(1858~1923)が、実際に見た光景をもとに『鶴が飛んでゆく』を描いている。

 ロシア内奥部の、どこまでもどこまでも広がる平坦な大地。山もなければ、小高い丘すらなく、急流の川も存在しようがない。外界に通じる海もなければ、樹木すらないステップ地帯だ。同じ景色ばかりが延々と続き、閉所恐怖とは逆に、広空間に対する恐怖すら生まれそうな気配。

 こういう地域は昼夜の気温差が大きく、また夏は暑く、冬は氷点下になる。厳しい環境から、ここも人口密度が極端に低そうだが、それでも子供は十二人もいる。逆に、村全体で十二人しかいないのかもしれない。それも各戸が子だくさんなだけで、ここにいる大部分が兄弟姉妹ということもあり得る。

 いずれにせよ、悲しいほど貧しい村だ、それは子供たちの着ているぼろぼろの服が如実に物語っている。晩秋の寒さをしのぐため帽子やスカーフを被っている子は多いが、裸足の子が三人もいるのは靴が高価で買ってもらえないからだ。もちろん玩具や人形など誰も持っていない。

 海も山も見たことのない彼らは今、鶴の渡りを熱心に見つめている。甲高い鳴き声も聞こえているだろう。鶴はV字型編隊を作り、力強く飛んでゆく。幼い二人の子だけが鶴に無関心でこちらへ顔を向けている。鶴の渡りと冬の到来の関係をまだ知らないのかもしれない。

 寝そべったり、座ったり、皆ひとかたまりになって見上げているが、画面左の少年だけが仲間から離れている。できる限り鶴を追いかけようと、思わず走り出したのだろうか。少年の立つ砂利道は、他の子たちがいる草地とその先との境界線さながらだ。彼の、少し前のめりになったような後ろ姿は、漠とした憧憬から鶴を見ているというより、もっと明確で意志的に感じられる。

 いつかこんな場所から抜け出したい、鶴だけが知る他の世界へ行ってみたい――少年はそんな思いから今この時、旅の小さな第一歩を踏み出したのだ。

 百数十年前に実在したであろうこの子の、望みが叶っていますように。


 鶴の幼鳥は自分たちだけで渡りをしようなどとは思わない。その点、人間より利口かもしれない。

 世に知られている「子供十字軍」(ないし「少年十字軍」)の悲劇は一二一二年に起こった。

 北フランスに住む羊飼いの少年エティエンヌが神のお告げを受け、イスラムから聖地エルサレムを奪還すべく、子供だけで遠征隊を作ろうと呼びかけるや、たちまち各地から少年少女が集まり、最終的には三万人に膨れ上がったという。実際には貧民や娼婦など、大人もずいぶん同行したらしいが、それでもコアの部分は子供たちだと言われているので、この宗教的熱狂の異様さがよくわかる。


ギュスターヴ・ドレ『子供十字軍』(フランソワ・ミショー著『十字軍の歴史』挿絵) 1877年刊 木口木版 画像提供/アフロ

 十九世紀フランス人画家ギュスターヴ・ドレ(1832~1883)による版画『子供十字軍』からも、その雰囲気が伝わってくる。

 先頭に立ち、一人だけ無帽の少年がエティエンヌであろう。そばの少年たちは牧羊杖を抱えている。羊飼いというのは最下層の仕事で、親のない子もよく羊飼いになった。彼らにとっては最初から失うものなど何もない。神の啓示を受けたエティエンヌについてゆけば、必ずやエルサレムが奪還でき、騎士になれる、英雄になれる、と信じた。いや、信じたがった。

 画面の少年たちの多くは口を開けており、讃美歌を歌いながら行進しているとわかる。右下には支援する司祭の姿もある。列は延々と途切れなく続く。邸宅のバルコニーから貴婦人らが見下ろし、暗い表情だ。彼女らには子供たちの無謀と旅の危険がはっきり予見できている。同時に、止めても聞いてもらえないこともわかっている。事実、出発前に説得しようとした大人も少なからずいたのだが無駄だった。いったん出来た流れはもう誰にも止められない。

 遠征の結果は貴婦人たちの心配どおりだった。そもそも一行にはほとんど路銀がなく、行程での喜捨を当てにしていた。富裕な町なら施しものも多かったが、寒村では何も与えられず旅は過酷で、飢えにより、病気により、怪我によって、子供たちの半数以上が脱落してゆく。死者も多かった。ようやくマルセイユにたどりついた子たちは、ある意味、さらに悲惨だった。船を用立てたのが奴隷商人だったため、アレキサンドリアやブジーなどの市場で奴隷として売られてしまったのだ。

 同じ時期、子供たちはドイツでも沸騰していた。ケルンにニコラウスという十歳くらいの少年(やはり羊飼いだったとの説あり)がいて、天使からエルサレムを奪還せよと命じられる夢を見たと言い出す。フランスと同程度の人数が集まったようだが、違うのは、こちらには大人が少なく、逆に子供たちの平均年齢は高かったようだ。

 もう一つ違うのは、武器になり得るようなものをほとんど持たなかったこと。純真すぎる信仰心から、敢えて旗や十字架だけで進んだと言われている。しかもドイツからだとエルサレムまでは鶴の渡りと変わらない四千キロの長距離、途中には狼やイノシシの棲息する深い森があり、さらにはアルプスまでも立ちふさがる。一行の半分はアルプス越えの前に飢えと渇き、病気や怪我で命を落とした。もちろん子供には険しいブレンナー峠での事故や疲労死もあった。

 イタリアのジェノヴァ市の年代記には、七千人の男女と子供が到着したと記されている。当時は十五歳からが「大人」と見なされていたので、現代の我々が少年少女と思うような子供でも、統計には大人にされていることを考慮せねばなるまい。

 彼らはフランスの一行とは違い、船を調達するつもりは最初からなかった。なぜならモーゼが紅海を真っ二つに割ったように、ニコラウスが地中海を割って海底を歩いてゆける、と信じていたからだ。ニコラウスはニコラウスで、夢に登場した天使が海を割ってくれると信じていた。

 七千人は海辺に座り、海が割れるのを待った。何日も何日も待った。奇蹟は起きないと各々が納得するまでには、個人差があったが、それでもついに大半が現実を突きつけられた。それを見計らったかのように、当市の僧侶が人々を説得したと言われている、もう故郷へ帰りなさい、と。

 往路の厳しさにこりごりしていたので、帰った者は少なかったという。多くはそのままイタリアに留まり、ドイツにいた時と同じ低賃金労働者になるか農民になった。少なくとも奴隷ではないことを良しとすべきだったろう。ニコラウスがどうなったかは記録がない。

 この出来事からおよそ七十年後に、ドイツの小さな村ハーメルンで起こったのが、子供たちの大量失踪事件だ。どこからか現れた奇妙ないでたちの男が吹く笛の音に導かれ、ハーメルンの子供たちがいっきょに百三十人も忽然と消えてしまった(詳しくは拙著『中野京子の西洋奇譚』中公新書ラクレ参照)。

 さまざまな仮説が唱えられているが、この「ハーメルンの笛吹き男」事件も十字軍と関わりがあったのではないかと推測する研究者もいる。

 十字軍は第七回目の遠征で終わったはずだと思われるかもしれないが、現実社会はゲームのようにきっかり終了することはない。公的な遠征は七回だが、その後も散発的に十字軍を名乗る大小の遠征隊は各地で生まれていた。笛吹き男がそれら十字軍のための人集め要員で、ハーメルンの子供たちをどこかの国の新エティエンヌや新ニコラウスに憧れるよう誘導した可能性もなくはない。

 その後、誰ひとり故郷にも帰らず、連絡もなかったということは、つまりは行き倒れて鶴になったのだろう。
●アレクセイ・ステパノヴィッチ・ステパノフ(1858~1923)…現ウクライナ南部出身の画家。測量学校で絵画教育を受け、卒業後にモスクワ絵画彫刻建築学校へ進んだ。1903年にロシア芸術家同盟を創設、1905年にアカデミー会員となる。外光表現に長け、自然や動物、農村の生活を生き生きと描いた。
●ギュスターヴ・ドレ(1832~1883)……ストラスブール出身の、19世紀フランスの画家。聖書や失楽園などの古典からエドガー・アラン・ポーの『大鴉』の挿絵まで幅広く画才を発揮し、19世紀出版メディアの寵児というべき活躍を見せる。人気挿絵画家という評価に満足せず、後年は油彩画も手がけた。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『名画と建造物』『愛の絵』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』など著書多数。最新刊は『名画に見る「悪」の系譜』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

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