第8回
駅と乗客
更新日:2024/09/25
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かつてウィーンには、北西駅という美しい駅舎があった。当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフが主導した首都大改造の一環として、一八七三年に建造されたものだ。急ピッチの建設で同年のウィーン万博にも間に合い、六つあるウィーン終着駅のうち二番目の大きさを誇った。行き先は帝国領モラヴィア(現チェコ)のプラハ。
しばらくは人流も物流も盛んだったが、やがてハプスブルク帝国が崩壊してチェコが独立し、北西駅の乗客数は激減。駅舎だけが残された。第二次世界大戦が始まってオーストリアがドイツに併合されると、ナチスのナンバー2たるヘルマン・ゲーリングが乗り込んできて、ここでユダヤ人排斥を正当化する大演説を行った。さらに終戦間近にはソ連軍の爆撃で建物全体が甚大な被害をこうむる。戦後、旅客輸送は再開されたが、駅舎の復旧はされぬまま、一九五九年、百年に満たないその役割を終えた。 -
カール・カーガー『ウィーン北西駅への列車の到着』 1875年 油彩・キャンバス 91×171cm ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア) 画像提供/アフロ -
今はもう存在しない帝国時代の北西駅の様子を、同時代のオーストリア人画家カール・カーガー(1848~1913)が『ウィーン北西駅への列車の到着』に描いている。
本作が発表された一八七五年には、鉄道は以前ほど珍しいものではなく、駅舎もガラスを多用するのがトレンドになっていた。列車の出入り口の上部壁面は屋根の勾配に合わせて三角を形成し、無数の鉄枠で囲まれたガラスが外の明かりを透かしている。
これには誰もが既視感を覚えるだろう。なぜなら駅の情景を描いたもっとも有名な作品、モネの『サン・ラザール駅』(一八七七年制作)とそっくりだからだ。当時はパリもウィーンもロンドンも、主要駅の構内はこのように似かよっていた。どこも大聖堂のごとき壮麗な伽藍のイメージを目指したからだ。 -
カール・カーガー『ウィーン北西駅への列車の到着』(部分) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア) 画像提供/アフロ -
それかあらぬか、画面右端の近くに、トンスラ頭(鉢巻状に髪の毛を残し、他は剃り上げる独特のヘア・スタイル)のカトリック修道士が、右手に大きなバッグを持って立っているのが見える。
駅が巨大化したもう一つの理由は現実問題への対処だ。蒸気機関車というのは、石炭を燃やした熱でボイラーの水を沸騰させて蒸気を作り、そのエネルギーをピストンを通じて車輪に伝え、走らせる、という仕組みである。当然ながら煙突からは大量の白い蒸気ばかりか、石炭が不完全燃焼だと灰色や黒い煤煙も出る。それが駅構内に充満すれば空気は煙突内部なみに澱むし、乗客の顔や衣服も黒い煤だらけになってしまう。それを避けるには屋根を高くし、プラットホームを低くし、煤煙を開口部から外へ逃がす必要があった。画面左に蒸気機関車の巨大な鼻先があるが、煙が盛大になるのは出発便。とりあえず人々は無事なようだ。
プラハからの長距離列車が到着し、降りてきた乗客や迎えの者、駅員、物売り、ポーターなどでホームはごった返している。ドイツ語、スロヴァキア語、ポーランド語、マジャール語などが飛び交っているだろう。標準ドイツ語ばかりでなく、いわゆるウィーン下町訛り(ロンドンのコックニーのような訛り)も混じり、帝国の混沌と同じく言語も混沌としていた。
またこの時代は厳然たる階級社会だったから、列車内ではそれが反映されていた。一等車の乗客は貴族や財閥の上流階級で、多くは召使を伴い、食堂車はあまり利用せず、召使に注文させて個室まで運ばせる。二等車は中産階級。食堂車を利用したり、途中駅の物売りから購入して、自分の席で食べる。三等車は労働者階級なので、なるべく余計な支出はせぬよう、家から食べ物をバスケットに入れて持参する。そのような明確な区分けは、しかし駅という中間地点では溶解し、階級の違う者同士がありえないほど接近せざるを得なくなる。 -
カール・カーガー『ウィーン北西駅への列車の到着』(部分) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア) 画像提供/アフロ -
画面左の四人の人物は、服装や態度から貴族だろう。ヒップを膨らませた最新流行のフランスファッションを身にまとった二人の女性は親しい仲らしく、顔を寄せあっている。人形を抱いた小さな娘と犬を同伴して汽車から降りた女性は、長旅で疲れているのか、あるいは何か不幸があったのか、表情は暗い。
彼らのすぐ後ろには、バグパイプを持つ薄汚れた風体の男が立っている。この頃もまだ存在していた、放浪の楽士と思われる。さらにその後ろでは、長いスカーフを頭に巻いた東欧風の女性が、乗客の女性に繊細な刺繍をほどこしたクロスを売ろうとしている。 -
カール・カーガー『ウィーン北西駅への列車の到着』(部分) ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(オーストリア) 画像提供/アフロ -
駅の物売りは他にもいる。しかも貧しい少年だ。彼女らの少し右横に立ち、新聞を売っている。さらに右手には同じ年頃の少年が立ち、果物を食べながら新聞少年を睨みつけている。こじゃれたフランス風カンカン帽をかぶり、腰には赤いサッシュを巻き、長靴下も同色だ。生まれた家が違うだけで、これほどの格差。
この二人の少年の中間で何かトラブルが起きている。二等車の客と思しき肥満体の男が、青緑色の制服に褐色のエプロンをつけた男たちから、どうやらクレームを受けているようだ。彼らは当時のウィーン駅独自の、いわば「駅構内の何でも屋」。ポーター業を含むさまざまな雑事(多言語への対応やトラブル調停など)をこなしていたから、この度もおそらく客への苦情を申し立てているのだろう。
そしてさらに右(※カトリック修道士の手前)。黒い服の男性が、ポーターをする「何でも屋」と何か話している。荷物からイーゼルの脚が見え、客の職業が画家とわかる。髭の生やし具合、トランクの「C K」のイニシャルから、カーガー本人の可能性が高い。画面にそっと自画像を入れ込むのは珍しいことではない。
こうした絵画は、まさに映画で言う「グランド・ホテル形式」そのもの。つまり、一つの場所に無関係のおおぜいの人間が集まることで化学反応がおき、思いがけない事件や人間模様、隠されてきた現実のリアルなどを見せてくれる作品のことだ。ホテル、大型客船、空港、そして駅舎が、典型的な「場」になる。
大ヒットした映画『タイタニック』(客船)もそうだし、少し古いが『大空港』(飛行場)、『ポセイドン・アドベンチャー』(客船)、『タワーリング・インフェルノ』(高層ビル)、『そして誰もいなくなった』(絶海の孤島)、『バルカン超特急』(列車)など、名作も数多い。もちろんそれら娯楽映画は、この『ウィーン北西駅への列車の到着』をはじめとした数多の群像劇絵画がヒントとなって生まれたのである。
さて、ヨーロッパの長距離列車を特徴づけるものに、コンパートメントがある(日本は鉄道導入時から今に続く開放式を採用したため、コンパートメントは普及していない)。
コンパートメントとは、車両をいくつかの個室に分けてプライバシーを確保するもので、一部屋丸ごとホテルの部屋のように借り切るタイプ(洗面台なども付いていてチケット代は高い)もあれば、他のコンパートメントからは区切られているものの、座席が四から六席あるため見知らぬ人間と同席せねばならないタイプがある。
いずれにせよ一等車のチケットを持つ者は一等車両のコンパートメントに入るし、貧しいものは三等車のコンパートメントに入るので(三等車の場合は開放式も多かった)、階級差によるストレスはない。もし隣席の者が気に入らなければ、他の個室へ移動するまでだ。 -
オーガスタス・エッグ『旅の道づれ』 1862年 油彩・キャンバス 65.4×78.8cm バーミンガム市立美術館(イギリス) 画像提供/アフロ -
ヴィクトリア朝時代の画家オーガスタス・エッグ(1816~1863)が、『旅の道づれ』で一等車のコンパートメントの様子を描いている。
列車が馬車に比べてかなりの速度で走っていることが、窓のブラインドに下げたタッセルの動きで示される。双子のような若い女性が向かいあって座る。当時流行していた馬鹿馬鹿しいほど盛大に膨らませたスカートで、コンパートメント内は息苦しいほど狭く感じられる。窓外の開放的な海辺とは対照的だ。
二人のそっくり同じドレスは、色こそ地味だが艶のあるサテン地で、仕立てもすばらしい。膝には小ぶりの黒い帽子に、水鳥の赤い羽根が飾られている。だが同じなのはここまでだ。画面右の女性はブルーの手袋をはめ、熱心に読書している。かたわらには薔薇の花束。左の女性は剥き出しの手を組み、ぐっすり眠っている。手前にはオレンジなどの果物が入ったバスケット。
この絵が単なるコンパートメント風景でないことは感じられよう。しかもエッグは道徳的な物語絵画を描くことで知られた画家である。従ってここでも教訓が語られているのだ。
右の女性が象徴するのは聖母マリアのような清らかさ、無垢。手袋の「青」と羽根の「赤」が、マリアを示すことを知らぬ者はいない。大天使ガブリエルが受胎告知のため出現した時、マリアは赤いドレスに青いマントをまとって聖書を読んでいた。またマリアは「棘のない薔薇」とも言われていた。
一方、左の女性は眠っている。それはつまり、宗教的にも道徳的にも目覚めていない証拠だ。俗世に無縁のシンボルたる手袋もしていない。果物は五感のうちの「味覚」を指し、すでに処女性を失っていることまで仄めかされている。
結婚前には純潔を守りましょう、という次第。
現代人にとってはそのような教訓よりも、もう一つのエピソードのほうが感じるところが大きいかもしれない。窓の外の風景はフランスのリヴィエラで、空気の良い保養地として知られていた。産業革命でスモッグが重く垂れこめていたロンドンから逃れるため、人々はよくここを訪れた。重篤な喘息に苦しんでいたエッグもその一人だ。しかし当時はまだそこまで鉄道は通っておらず、病身には辛い馬車で行くしかなかった。エッグはせめて絵の中で、リヴィエラに通じる列車を実現したかったのだろう。
本作が彼の絶筆となった。
- ●カール・カーガー(1848~1913)……オーストリア出身の画家。アカデミー仕込みの作風で描いた風俗画で知られる。1871年にミュンヘンに移り(本作もミュンヘン時代)、その間、イタリア、ベルギーなどを旅する。1881年に帰国すると、ウィーンの劇場、美術館などの装飾画を手がけて活躍した。
- ●オーガスタス・エッグ(1816~1863)……ヴィクトリア朝時代のイギリスの画家。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に学び、歴史画や教訓的なメッセージを込めた風俗画を多く描く。小説家のディケンズと親交があり、彼らが主宰したアマチュア劇団で演者として舞台にも立っていた。
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- 著者プロフィール
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中野京子(なかの・きょうこ)
北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『名画と建造物』『愛の絵』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』など著書多数。最新刊は『名画に見る「悪」の系譜』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」。