第9回
巡業
更新日:2024/10/23
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中原中也の『サーカス』という有名な詩がある。「幾時代かがありまして」で始まり、中盤は――
「サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ」
そしてブランコの揺れる様が、実に個性的な表現で繰り返される、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と。
この表現によって、サーカス小屋のはるか高みに揺れる空中ブランコが、公園のありふれた遊具のブランコとは似て非なるものだということがはっきり伝わる。人の命を弄ぶように揺れる空中ブランコ。それを見上げる観客は、乗り手の無事を祈ってハラハラする一方で、もしかすると落ちるかもしれないという自覚せぬ黒い期待をも込めて目を輝かせる。
空中ブランコがほぼ現在の形に定着したのは、十九世紀半ばからと言われる。かつてのパフォーマーは世襲が多かったようだが、人気を高めるためできるだけ若い美男美女が選ばれるようになっていた。モーリス・ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドンも、画家になる前にはモデル業、その前にはブランコ乗りをしていたという(拙著『画家とモデル』参照)。
印象派の時代には、スーラが点描画で『サーカス』の制作に取り組んだ。これは当時パリで興行していたフェルナンド・サーカス団の女性曲馬乗りを主役にしたものだが、スーラの早逝により未完の遺作となった。
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エドガー・ドガ『フェルナンド・サーカスのララ嬢』 1879年 油彩・キャンバス 117.2×77.5cm ロンドン・ナショナル・ギャラリー(イギリス) 画像提供/アフロ -
エドガー・ドガ(1834~1917)作『フェルナンド・サーカスのララ嬢』は、ドガ唯一のサーカス作品。一見、トランポリンで跳び上がっただけのように見えるが、ムラート(白人と黒人の混血)のララ嬢のパフォーマンスは他に類を見ず、ドガが夢中になって四日も通い、スケッチしまくったのもうなずける。
ララは歯だけで身体を支え、天井の垂木まで吊り上げられていくのだ。ゆあーん、ゆよーんと揺れながら上ってゆくその身体自体が、空中ブランコそのものであったろう。
構図は、客席からオペラグラスで見上げたようなアングル。踊り子を描く時には桟敷席から見下ろしたドガだが、今回は実際にオペラグラスを使い、のけぞれる限りのけぞって見ていたはずだ。見られるララもまたドガと同じほど頭をのけぞらせ、ロープの先のマウスピースを歯でしっかり嚙みしめる。ブーツをはいた両足はそろえて膝を折る一方、両腕はバランスをとるため、まるで空中を泳いででもいるように、右腕を前方へ、左腕を後方へ伸ばす。
もちろん安全ネットは張ってあるが、それにしてもの、凄いパフォーマンスだ。
サーカス(circus)の語源は、古代ローマの戦車競技場キルクスと言われる。異説としては、ラテン語の円周(circumferentia)から来たと主張する学者もいる。いずれにせよ、どちらもサークル状なのに変わりなく、円形広場や丸型巨大テントで、観客にぐるりを囲まれる興行だった。
現代の若者にとってサーカスと言えば、芸術の域にまで達したシルク・ドゥ・ソレイユ(=太陽のサーカス)や、親子で楽しめるディズニーランド的な木下サーカスなどの、会社組織化した健全な大サーカスだろう。しかし半世紀ほど前までサーカスという言葉には、どこかいかがわしく不健全で、危険なイメージがつきまとっていた。子供が一人で見に行けばさらわれて酢を飲ませられ、身体を柔らかくされて宙返り芸を仕込まれる、などと噂されるような、恐怖と背中合わせの娯楽であった。
それはサーカスが猥雑で、人間や動物たちの曲芸や道化師の笑いばかりでなく、身体障碍者などの見世物まで含んできた歴史が長いからだ。またほとんどが中小の巡回サーカスで、毎年の祭などに合わせてどことも知れぬところから流れきて薄暗い小屋を設置し、幻惑的な非日常を見せてあっという間に去ってゆくというそのあわただしさも、定住しない者は何をするかわからないとの根深い不信と結びついた。 -
ルートヴィヒ・クナウス『舞台裏』 1880年 油彩・板 81×111cm ドレスデン美術館(ドイツ) 画像提供/アフロ -
ドイツ人画家ルートヴィヒ・クナウス(1829~1910)が十九世紀後半の巡回サーカスの舞台裏を描いている。タイトルもそのまま『舞台裏』。
こじんまりして貧しげなこのサーカス団は、ほぼ家族のみで運営されているらしい。テントや小屋を設営する余裕はなく、田舎町の広場の木々にロープを渡し、粗布を四方に巡らせて仮の「舞台裏」を作っている。
画面左上には、明るい陽を浴びて綱渡り芸をする若者が、長いバランス棒を持って慎重に前進するのが見える。演技はもうすぐ終わるのだろう。赤いトルコ帽をかぶった使用人らしき男が垂れ布の向こうから、次の出し物の準備を促す。その足元に、小太鼓やカラフルなボールなどが乱雑に置いてある。外の客席は、布の隙間から見る限り、びっしり埋まっているようだ。
舞台裏は仄暗く、驚くほど生活臭が漂っている。右下には皿やスプーン、鍋や調理道具が散乱し放題で、本来それらを片付けるはずの母親は、自分もコメディエンヌないしダンサーとして出演せねばならないし、観客である殿方の相手もしなければならない。今もずうずうしく中へ入り込んできたシルクハットの紳士に微笑み返している。どんな権力者かしれないので、無下にはできない。
その前方で、彼女の娘と思しき可愛い少女が髪に赤いリボンを付け、犬に手を伸ばす。二匹は単なるペットではない。犬種の中でもっとも物覚えがよく、サーカスにひんぱんに登場するプードルなのだ。少女は二匹を調教し、立ち歩き芸などを観客に披露するのだろう。
もうすぐ観客の前へ出なければならない道化師は、白塗り化粧も終わり、サザエさん(!?)風のヘアスタイルも整えて準備万端なのに、妻がシルクハット野郎と際どい雰囲気になっているため、代わりに末っ子に哺乳瓶でミルクを与えている。鑑賞者へまっすぐ向けた感情のない眼差しは、夫から道化への切り替えがうまくゆかないからか、それとも巡業続きの人生に嫌気がさしたのか……。
『舞台裏』が描かれた三年後の一八八三年、アメリカで「バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト団」が創設された。バッファロー・ビルの本名はウィリアム・コーディだが、西部開拓時代にバッファロー(=アメリカ・バイソン)を仕留めるプロ・ハンターの競技会でダントツの一位となり、そこからついたあだ名だった。
バッファロー・ビルは生前から伝説の主だった。一八四六年にアイオワの丸太小屋で生まれ、小さいころから乗馬が得意だった。十五歳になるとポニー・エクスプレスという、早馬で郵便を届ける仕事をし、その後は軍の斥候に雇われて鉄砲の腕も磨く。バッファローハント競技で優勝したのもその頃だ。対シャイアン族戦にも参加して、敵の大将トール・ブルを射殺し、さらに名声を上げている。
さっそく娯楽小説作家の目に留まり、『バッファロー・ビル 辺境の男たちの王』という本が出版され、舞台化までされた。舞台では当初バッファロー・ビル役を俳優が演じていたが、途中から本人が主演して各地を巡回し、批評家の酷評をものともせず、ニューヨークでの最終公演まで成功裡に終了した。そしてこの時、バッファロー・ビルは出演料を不当に中抜きされていることに気づいた。
気づいてどうしたかといえば、先述したように自らの劇団を仲間とともに立ち上げた。つまり最初は劇場での演劇として始めたのだ。特筆すべきはカウボーイの、いわば神格化だった。それまでは単なる貧しい労働者としか見なされていなかったカウボーイを、正義のために戦う男の中の男として構築することに成功したのである(映画における西部劇が、かつてはこれを踏襲していた)。
その後、屋内の狭い舞台でのバッファロー・ビル体験話ばかりでは行き詰まると考え、屋外の広場へと場を移した。それとともにサーカス化して演目も増やした。西部男カウボーイと当時のステレオタイプのインディアンの戦い、駅馬車強盗、野生動物の狩り、アメリカ軍とメキシコ軍の戦いといった大アクションシーンの再現、またさまざまな銃器を使ったガン・アクションなどだ。 -
「バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト」の興行ポスター 1899年頃 リトグラフ 71×102cm アメリカ議会図書館 -
逸名の画家による、当時の興行ポスターの一枚を見てみよう。一番上に赤で「バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト」とあり、画面右に白いヒゲをたくわえたビルのひきしまった騎乗姿。サブタイトルは青字で「世界の荒くれ者たちの集合」と書いてある。絵は、インディアンが幌馬車の一行を襲撃するところだ。悪役をふりあてられていたスー族のインディアンたちもまた、仲間の団員であった。
結成二年後には、ライフル競技で優勝した経験をもつアニー・オークリーも入団して、花形スターになっている。彼女は疾走する馬に立ち乗りして遠くの標的を射抜いたり、逆向きのライフルを肩に抱え背後の瓶を撃つなど、さまざまな妙技を披露した(『アニーよ銃をとれ』で、今なお彼女は有名だ)。 -
パリのシャン・ド・マルスで行われた1905年のワイルド・ウエスト・ショーの様子 写真提供/アフロ -
このいかにも西部風のエキサイティングなショーはアメリカ各地どころか、ヨーロッパ各国をも巡業した。二百人の団員と動物たちを乗せた船が、大西洋を渡ったのだ。ヨーロッパ中が沸きに沸いた。テレビも映画もない時代なのだ。いや、テレビも映画もある今でも、土煙をあげて走る駅馬車を追うインディアン、それを迎え撃つガンマンを目の前で見られるなら、きっと興奮するのではないだろうか。
バッファロー・ビルやアニーたちスターは、イギリスではヴィクトリア女王、ドイツではヴィルヘルム二世、イタリアではウンベルト一世、フランスではカルノー大統領から勲章や宝石などを授与された。
バッファロー・ビルの晩年は投資の失敗で巨額の財産を減らしはしたが、自身が作ったワイオミングのコーディという町から三〇キロほど離れた広大な牧場付き地所で、自伝を書いたり、動物たちの世話をしたり、時々妻と旅行などして悠々自適の生活を送った。一九一七年、七十歳で死去した際、イギリスのジョージ五世、ドイツのヴィルヘルム二世、アメリカのウィルソン大統領が追悼の意を示している。
人々を喜ばせたすばらしい巡業、西部の男らしい男のすばらしい人生。
- ●エドガー・ドガ(1834~1917)……19世紀フランスの画家。官立美術学校で学んだ技術で、同時代の都市風俗、バレリーナや競馬を題材に描いた。対象の表情や動きを捉える視点はスナップショットを思わせ、日本の浮世絵等にも刺激を受けている。印象派展はほぼ皆勤(8回のうち7回展のみ不参加)。視力の落ちた晩年には、塑像や彫刻を手がけた。
- ●ルートヴィヒ・クナウス(1829~1910)……現在のドイツ南西部、ヘッセン州ヴィースバーデン出身の画家。デュッセルドルフで絵を学んだ後、1852年にパリへ出て、翌年からトマ・クチュールの指導を受けた。1860年からはベルリンで活動し、北方絵画に学んだ重厚さのある風俗画や肖像画を制作。子供を描いた愛らしい作品も多い。
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- 著者プロフィール
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中野京子(なかの・きょうこ)
北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』『名画に見る「悪」の系譜』など著書多数。最新刊は『西洋絵画のお約束―謎を解く50のキーワード』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」。