旅から生まれた名画 中野京子

第7回

強いられた旅

更新日:2024/08/28

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 旅に出るつもりなど毛頭ないのに、気づけば運命にあやつられるまま、旅の空の下に置かれてしまった人々がいる。

 ギリシャ神話の「誘拐された王女」、『旧約聖書』の「人類初の殺人者」、そして十九世紀前半に実在した「貧しい靴屋」を例に、それぞれ見てゆこう。


 まずはギリシャ神話。

 フェニキア(地中海東岸、現在のシリア・レバノン付近)の王女エウロパが、侍女たちと海岸で遊んでいた。すると真っ白な美しい牡牛があらわれ、そばにおとなしく座った。しばらくすると彼女らは牡牛に慣れ、花輪で頭を飾るなどして可愛がる。ところがエウロパが、つい気を許して牛の背に乗ると……

 何とその牡牛はエウロパを乗せたままずんずん海へと入ってゆき、侍女たちの悲鳴を後に泳ぎだして、ついには地中海を横断し、ギリシャ南方に浮かぶクレタ島に到達した。王女は図らずも長い船旅(牛旅?)を体験したことになる。そしてエウロパ(Europa)が連れまわされたあたりは、彼女の名にちなんでヨーロッパ(Europe)と呼ばれるようになった。

 クレタ島に上陸したエウロパと牡牛は交わり、次々に三人の子が生まれる。実はこの牡牛、エウロパに恋した主神ゼウスの変身した姿だった。そこからさらにエウロパという名は、木星の第二衛星の名にもなる。というのは、太陽系最大の惑星たる木星は、この最高神(英語名ジュピター、ローマ名ユピテル)と同一視されてきたからだ。

 ところで、なぜゼウスは牛に姿を変えたのか。

 現代の日本人にとって、牛といえば乳牛がもっとも身近で、それすら実際に見る機会は稀だろう。一般的なイメージとしては、牧場で草を食む温和な草食動物、つまり改良された家畜としてのそれであり、エウロパたちのように牛の美しさに魅了されるという前提が、まず理解の及ばないところではある。

 しかし古代の牡牛崇拝からもわかるように、去勢されていない野生の牡牛は、獰猛なオーロックスやバイソンにつながる隆々たる筋肉を持ち、逞しい生命力や雄々しさにあふれ、また角が仄めかす生殖能力の高さのシンボルでもあった(人間でいえば、シュワルツェネッガーやスタローンに通じると言えようか)。エウロパたちがそのあまりのマッチョさに最初はこわごわと、だが徐々に慣れていったのはそんな次第だ。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『エウロパの略奪』 1559~1562年 油彩・キャンバス 178×205cm イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(アメリカ) 画像提供:Heritage Image/アフロ

 多くの画家が牡牛に乗るエウロパを描いてきたが、官能性において群を抜くのはティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)作『エウロパの略奪』だ。後年ルーベンスが、先達の画法を学ぶため忠実な模写作品を残し、またベラスケスが『アラクネの寓話』の画中画に使ったことでもよく知られている。

 画面左、海岸で侍女たちがあわてふためいているが、エウロパをさらった牡牛との距離は遠い。青い空を、愛をつかさどるクピド(=キューピッド)たちが寿ぐように飛びまわる。また海中にもイルカにまたがって伴走(伴泳?)するクピドがいる。

 頭に花輪を飾り、どことなく怖い目をした牡牛は、顔と首のあたりが白い長い毛で覆われ、ゼウスの髭を想起させる。エウロパは薄衣一枚で胸をはだけ、両脚を開き、王女とも思えぬ、あられもない姿態をさらす。ふりあげた腕の影になって表情は見えにくいが、舞うように翻る赤い布が彼女の興奮と恍惚を示す。

 エウロパはクレタ島へ着くまでの旅の過程ですでにもう、愛の歓喜を味わっているのだ。ティツィアーノの神話解釈と描写力には感服するしかない。発注したスペイン・ハプスブルク家のフェリペ二世も、さぞやご満悦だったに違いない。


 次は『旧約聖書』の「創世記」から、有名なカインとアベルの物語。

 禁断のリンゴを食べて楽園を追われたアダムとイヴは、まもなく二人の息子を授かる。長男のカインは「大地を耕す者」となり、次男のアベルは「羊を飼う者」となって働き、収穫時に神への供物を捧げた。ところが神はアベルの捧げた羊の初仔は受け取ったのに、カインの捧げた大地の実りたる作物は無視した。理由はわからない(現代に至るもさまざまな説あり)。

 カインはこれを神のえこひいきと感じ、怒りと嫉妬をアベルに向けた。そして彼を野へ連れだして殺害し、人類史上、初の殺人者となった。当然ながら神の目を逃れることはできず、カインはこう断罪される――アベルの血を吸った大地からは二度と実りを得ることはできない、今後おまえは漂泊者となり、地上を永遠にあてどなく彷徨い続けるがよい。

 カインは罪の印を付けられ、エデンの東へ追放された(ちなみにこの印は悪行の目印であると同時に、彼が殺されないように護る印でもあった)。


フェルナン・コルモン『カイン』 1880年 油彩・キャンバス 400×700cm オルセー美術館(フランス) 画像提供:Bridgeman Images/アフロ

 近代フランスを代表する歴史画家の一人、フェルナン・コルモン(1845~1924)が『カイン』という斬新且つ巨大な作品(横七メートル、縦四メートル)を描いている。

 コルモン自身の言によれば、これは彼が同時代の作家ヴィクトル・ユゴーの詩集『諸世紀の伝説』を読み、その中に書かれたカインについての自然主義的で詳細な描写に触発されて制作したのだという。

 奇しくもユゴーがこの詩集を書いたのは、亡命先のガーンジー島だった。第二帝政を批判してパリにいられなくなり、十九年もの亡命生活を余儀なくされていた時期である。カインの苦悩も身近であったろう。

 コルモンの長い長い画面は、カインのそれまでの長い辛い歩みと、これからも続くさらなる長い辛い歩みを嚙みしめるかのようだ。弟殺しの顚末を先史時代のリアルな現実として表現しているため、登場人物たちの姿はかなりショッキングだ。

 先頭に立つカインは蓬髪に白髭の痩せた老爺になり果て、背を丸め、前かがみで歩いている。ただし歩幅は大きく、足元も存外しっかりして見える。腰には重い石斧をぶら下げ、これを振り上げて今なお狩猟に参加しているのだろう。

 その後ろを息子や娘婿たちが、木製の大きな粗削りの輿を運びながら続く。輿の中央に座るやつれた老女はカインの妻だ。まどろむ二人の小さな孫をそばに置いている。その周囲には娘や嫁などの姿も見え、中には夫に抱かれながら運ばれる若い妻もいる。彼らはカインの犯した罪の巻き添えとして一蓮托生の身であるからして、誰ひとり幸せであってはならず、事実、幸せそうな者は皆無で、古代の鬱々たる葬列のごとき体をなしている。

 本来は農業従事者であったカインが、今や土を耕すことは許されず、耕しても何も実らず、また実るほど長く定住することもできず、こうして家族全員が狩猟による肉食を強いられている。輿のあちこちに、また男たちの肩に、血まみれの肉塊がぶら下がる。身にまとうのも獲物の毛皮だ。そして輿の最後尾には、狩猟犬が付き従う。

 壮大なこの叙事詩的作品に対し、こんなジョークは不謹慎だけれど言わせてもらう――もしカインも家族もヴィーガンだったら?


 最後はデンマークの小さな町オーデンセに実在した貧しい靴屋の旅。

 彼は年上の妻と六歳の息子と三人で、たった一間きりの家に住んでいた。靴屋とは言っても店はなく、正確には靴職人なので、玄関をあけたらすぐ先に庭が見えるような狭いその家で仕事をし、食事をし、眠った。近隣一帯はほとんどが極貧で、もちろん彼も例外ではない。なんとかして這い上がりたいと願っていた。

 そんな頃、隣村の金持ちの息子が徴兵されたが行きたくないので代役を探している、との情報を得た。代わりに行けば礼金を出すという。靴屋は妻の反対を押し切り、一八一二年に陸軍へ入った。貧しさが強いた旅立ちではあるが、必ず手柄を立て、大金を持ち帰るつもりだった。当時デンマークはナポレオンについていたので、勝ち戦を信じていたのも事実である。

 だが靴屋はとことんついていなかった。この年、ナポレオンはロシアに攻め入って大敗する。ロシア軍にというよりロシアの冬将軍に敗けたのだが、六十五万もの多国籍軍兵士を引き連れて行ったのに、そのうちフランスへ帰還できたのはわずか三万と言われたほどの歴史的大敗だった(拙著『ロマノフ家 12の物語』光文社新書参照)。


アドルフ・イヴォン『モスクワ撤退の後衛を援護するマーシャル・ネイ』 1856年 油彩・キャンバス 179.8×301cm マンチェスター市立美術館(イギリス) 画像提供:akg-images/アフロ

 フランス人画家アドルフ・イヴォン(1817~1893)が、敗け戦の凄まじい撤退劇を描いている。延々と続く敗残兵の列。それを追撃するロシアの騎兵隊に、後衛が応戦する。傍らには衣服を奪われ雪に埋もれた死者が横たわり、凍てつくままに身動きのとれない兵もいる。ナポレオン軍の戦馬は見えない。それは補給が途絶え、食料が枯渇したため食べられたことを明かしている。

 靴屋はロシア戦線には動員されなかったらしい。だが引き続き翌一八一三年、またもナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ、これが退位の導火線となった。ナポレオン戦争は終わり、靴屋にはわずかな金が支払われたが、敗戦のインフレで価値は以前の十分の一になっていた。

 一八一四年の一月、靴屋は小さな家に帰った。肉体はおろか、精神もボロボロになっていた。今なら戦場を体験したことによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)と言われるところだが、当時は「頭がおかしくなった」で済まされる状況だ。錯乱し、突然「皇帝陛下のもとへ行かなくては!」などと叫び、二年後に亡くなる。

 一人息子は十一歳になっていたが、父が狂気に囚われてゆく過程をつぶさに見て、自分もいつかそうなるのではないかと恐怖を抱いた。まして父方の祖父もそうした傾向にあったから、当時の感覚ではなおさらだった。だがこの子、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、父のようにも祖父のようにもならなかった。

 確かに「変わり者」とは言われたが、それはむしろ子供心をもつ童話作家には必要な要素かもしれない。彼の作品群(「人魚姫」「雪の女王」「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」「裸の王様」etc.)は、今も世界中の人々に愛されている。

 ちなみにアンデルセンは無類の旅行好きだったが、貧しさに強いられて行った父親とは違い、行きたいところへいつでも自由に行く旅だった。
●ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)……盛期ルネサンスに活躍した、ヴェネツィア派の画家。ベッリーニの工房で研鑽を積むとともに、兄弟子のジョルジョーネからも影響を受けた。神話、宗教、肖像と幅広いテーマで画才を発揮。教皇、神聖ローマ帝国のカール5世やフェリペ2世など、同時代の貴顕に愛された巨匠。
●フェルナン・コルモン(1845~1924)……パリ出身の歴史画家。官立美術学校でアレクサンドル・カバネルに学び、アカデミックな技法で古代世界をテーマに描いた。個性を尊重した後進の育成者としても知られ、ロートレックやマルケ、藤島武二などがその門から巣立っている。  
●アドルフ・イヴォン(1817~1893)……フランス北東部、モゼル県出身の画家。20代の初めから義理の兄弟関係となったポール・ドラローシュのもとで絵を学び、1848年にサロン入賞を果たす。肖像画や戦争画に秀で、ナポレオン3世の肖像、第二帝政期の戦闘なども描いている。

著者プロフィール

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史・芸術に関する広範な知識をもとに歴史や名画の解説書、エッセイを数多く執筆。2007年に上梓した『怖い絵』シリーズが好評を博し、2017年に『怖い絵』展、2022年には『星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム』を監修。『名画で読み解く王家12の物語』『名画の謎』などの人気シリーズのほか、『名画の中で働く人々――「仕事」で学ぶ西洋史』『名画と建造物』『愛の絵』『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』など著書多数。最新刊は『名画に見る「悪」の系譜』。著者ブログは、「花つむひとの部屋」

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