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生きづらい女子たちへ

雨宮処凛

恋、仕事、人生、思うようにいかないのはなぜ?
そんな女性たちに、時に優しく、時に暑苦しいエールを!

「安全に狂う方法」と、「狂った世界」で壊れずに生きる策

「安全に狂う方法」

 そんなタイトルの、ある意味「危険」な本を読んでしまった。

 これを読んだが最後、いてもたってもいられなくなって、自分語りが止まらなくなるような、今までの自分の行動・言動への認識が根底から覆るような、そんな本。

 帯にはこんな言葉が躍っている。

〈感情に執着して苦しんでいるとき、人を殺すか自殺するしかないと思った。その苦しみから、暗闇から、地の底のようなところから、出口が欲しかった。知りたかったのは、出る「方法」だった。そんなものはないと思っていた。あったのだ〉

〈「アディクション」イコール「依存症」ではない。《固着》こそがアディクションなのだ。それがない人は、いない。だからこの本を、アディクションを自覚する人と、未だ名づけられぬアディクションを持つ人におくる〉

 そんな「危険」な本とは、赤坂真理氏の書いた『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』。医学書院から2024年6月、出版された。

 赤坂真理氏は1995年デビューの作家。私は『ヴァイブレータ』(講談社、1999年)を皮切りに、彼女の小説を熱心に読んできた読者の一人だ。2012年に刊行された『東京プリズン』(河出書房新社)ももちろん読んでいる。ちなみに約20年前、「鳩よ!」(マガジンハウス、1983~2002年)という雑誌で赤坂真理氏と生きづらさなどをテーマに往復書簡をさせて頂いたことがあり、それは今も私の自慢である。

◆◆◆

 そんな赤坂氏が「このままでは人を殺すと思った」ことからさまざまな実践が始まる。本書はそれを軸に構成されているのだが、なぜそれほどまでに追い詰められたのか。

〈愛のもつれ。こじれ。日ごろニュースで報道される殺人や心中事件がこれでできていて、さまざまな文学や歌の歌詞に定番中の定番として出てくるのだから、相当数こういう人がいるはずだ。だが、未遂のときにそのことを告白する人はほとんどいない〉

 このままでは殺してしまう――。

 そんなことを思った経験は私にもある。特に若かりし頃は刺し違えるような恋愛ばかりしてきたように思う。

 お互いをひどく傷つけあい、もう愛なんだか憎しみなんだか執着なんだか意地なんだかわからなくなるような、別の感情に形を変えた異形の何か。それが自分と相手をがんじがらめにして、もう殺すか死ぬかしかないと思い詰めるような。

 本書には「一番になること」という見出しのあとにこう続く。

〈誰もが、誰もが、誰もが、「一対一でわたしだけを見てほしい」という欲求を、どこかで持っている。わたしだけが愛される世界。わたしが一番愛される世界。相手が、わたしのだけのものである世界。誰にも渡さない。渡さなくていい。渡すものか。分かち合うことさえしたくない。そんなの信じられない。できるとは思えない〉

 この感覚、多くの人が身に覚えがあると思う。

 一番になりたいからこそ、ホス狂いは海外出稼ぎしてまでシャンパンタワーをするのだろうし、不倫・浮気された人はその経緯や相手をSNSで晒したりするのだろう。

◆◆◆

 本書ではさまざまな感情がアディクションをキーワードに語られるのだが、赤坂さんは〈最もよくあり、逃れにくいアディクションが、「思考」であると思う〉 と指摘する。

〈アディクションとは、「強度のとらわれ」である。あることについて考えることが一日の大半を占めてしまい、必要なことまでを圧迫する。しかもその状態から、努力で離れることができない〉〈お酒を飲む、ギャンブルをする……アディクションとしてどういう行為をするかは、問題の本質ではない。行動として何をしなくても、そのことをずっと考えているだけで日常生活は圧迫されるのであり、問題の本質はそこである。「とらわれ」である。そこから多くの思考や言動の誤作動が起きるようになる〉

 これを読んで、ハッとさせられた。私自身、この数年間、ずっとある思考にとらわれていたからだ。何年も、何をしていてもそれが心から離れたことは一度もない。数年というレベルで晴れ晴れとした気持ちになったことが一度もない。そしてそのとらわれは、突き詰めると私に死ぬべきと囁いており、またそのとらわれから逃れる方法も、やはり死しかないと漠然と思っている。

 しかし、赤坂さんが書くように〈死にたがる身体はない〉。

〈アディクションの症状そのものが心身の分離である。アディクションは多かれ少なかれ、頭を止められない症状だ。頭の固着、頭の欲求に引きずられる〉

 再びハッとさせられたのは〈面白いのは、頭とマインドは、苦しみよりも退屈しないことを選ぶらしい、ということである〉 というくだり。

〈つまりは、退屈するよりは苦しむほうがいい。苦しみを考えることは、実に多方向からアプローチでき、際限がなくて、退屈はしない。苦しくても、アディクションの秘密の一つがここにある気がする〉

◆◆◆

 なんとなく、わかる。

 本書には、そんな苦しみから解放される方法への手がかりがいくつも登場する。ダイナミック瞑想、「意識的に狂う」こと、呼吸、石牟礼道子と水俣、ダンスなどなど。緊急避難的ないくつかの技法も紹介されている。 一方、秋葉原事件 や京アニ事件 、「黒子のバスケ」事件 がアディクションから読み解かれる。読んでいるうちに、これまでの自分の無意識の行動の定義が根本から鮮やかに変わっていく感覚に包まれる。同時に、「赤坂真理の小説を読んでる時しか発動しない感情」が炸裂して、途中からノンフィクションを読んでいるのか小説を読んでいるのかわからなくなるような強烈な体験をする。

 と、この本を要約して語るのは不可能なのでひっかかった人はぜひ読んでほしいのだが、本書には、インターネットとアディクションについての記述も何箇所か登場する。

〈インターネットのテキストは、雰囲気や声のトーンなどでくるまれることのない、純度の高い「思考そのもの」である。ダイレクトに脳に届いて、脳に残り続ける。Twitter(X)や掲示板に炎上が多いのはこのためだ。気になってしようがなくなり、反応してしまう。それも即時に。そのことばかりを考えてしまう。そうして反応が反応を呼び、膨れ上がる〉

〈問題飲酒をする人がお酒のことしか考えられないように、その人(その人たち)のことしか考えられなくなる。その人への固着、愛着、その人から受けた(と感じている)拒絶、痛手、屈辱、傷〉

◆◆◆

 先に、私の数年にわたる「とらわれ」を書いた。死ぬべきというささやき。その多くが、ネットによって蓄積し、刷り込まれていったものだ。死ななければいけない、死んでお詫びしなくてはいけない。多くの人が私に怒り、糾弾し、この世界から消えることを願っている――。いつの間にかその思考がずっと頭の中を支配している。忘れたくても頭を離れない。それなのに、SNSを断ち切ることができない。さすがに傷口に塩を擦り込むような見方はしないし、そこで誰かと交流したりもほぼせず、ましてや議論など絶対にしないけれど、常に内戦状態で、フラッシュバックのきっかけに満ちているXでさえなかなか見ることをやめられない。

 私がこの本に手を伸ばしたのは、どこか藁にもすがるような思いからだ。ここに何か、大きなヒントがある気がしたのだ。

 本書には「インターネットという人災」という節もある。

〈インターネットは、それが発達していない時代には無関係で済んだ人間を、突然目の前に「関係あるもの」として持ってくるようになった〉

〈こうした閉鎖空間で思い込んだことは固着しやすい。脳にこびりつく〉

◆◆◆

 私は2000年に物書きとなったのだが、この24年間は、インターネットが普及・発達してきた四半世紀と重なる。そんな中で、「文章を書いて発表する」ということをめぐる環境は本当に、劇的に変わった。

 一言でいうと、原稿料は下がり、炎上リスクがブチ上がった。

 デビュー当時は、一人の読者に対して手紙を書くような気持ちで書いていた。それは親密な世界で、ここでしか書けない秘密の話がたくさんあり、それを共有することでお互いが生き延びられるような「密室」。私と読む人との間には、前提として大きな信頼感があった。

 それが今はどうだろう。ネット媒体で発表した文章はもちろん、書籍の文章の写真がSNSに晒され、切り取った一部だけを取り上げて糾弾される時代となった。「正しさ」から少しでもはみ出すと公開処刑の対象となり、人生終了のリスクがある。それで対価は下がってるんだから、やってられないとしか言いようがない。

 そのような状況から広がったのは、当然のごとく、萎縮だ。自分が書き手だからこそよくわかる。あ、この人のこの書き方、炎上恐れてるやつだ。書かなくていい注釈や言い訳ばかり並べて切れ味めっちゃ悪くなってる、等々。そういう炎上対策が施された文章を読むたびにどこかシラけるけれど、気がつけば自分だって時にそうしている。それしか、自分を守る方法がないから。炎上した時、誰も助けてくれないことを嫌というほど知ってるから。

 そんなことを書くと、「差別もヘイトもなんでもありのひどい時代に戻りたいのか」という声が聞こえてきそうだが、90年代鬼畜系サブカル的なものがよかったなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、「正しくないもの」の居場所が極端になくなると、病む人間が必ず出てくる。厳しく規制して地下に戻るほどにその対象が危険になることは歴史が証明している。

◆◆◆

 一方で、書き手である私自身にも「正しさ」が押し付けられる。SNSという距離感がバグる場所で、無遠慮に投げつけられる言葉たち。「正しさ」だけではない言いがかり的なものまでをも膨大に浴びているうちに、私の「とらわれ」はより強固になっていった。以下、これまでSNS等で投げかけられたものだ。

“ペットボトルの水を飲むなんて意識が低い”(すみません)。

“肉を食べるなんてありえない、なぜベジタリアンでないのか”(なんと言えばいいのか……)。

“タバコ吸うとかクズすぎる”(もうずーっと前に禁煙しましたが、別に喫煙者をクズとは思いません)。

“もっとパレスチナの虐殺について発信・行動しろ”(できる範囲でデモの呼びかけ人になったり参加したりそれを記事にしています)。

“貧困問題についてあれこれ言うなら自分の家でホームレス引き取れ”(そういう問題じゃないですよね?)。

“かわいそうな動物を救え”(と言われましても……)。

“○○の事件(国内外のあらゆる事件が入る)の被害者の支援をしろ/するな”(自分で決めます)。

“外国人排斥デモについて文句を言うならお前が外国人のゴミ捨て場の掃除をしろ”(どうしてそうなる?)。

“今SNSで話題の○○についてどう思うか態度を今すぐ表明しろ”(私はSNSで話題のあらゆることに反応してコメントするという契約を誰とも結んでいない上、年間5億円支払われてもそのような依頼はお断りします)、等々。

 この他、ありとあらゆる種類の罵倒や容姿、年齢などに対する中傷がついてくる。

 よく、SNSでバズった人がその反応に驚き、「著名人のメンタルえぐい」などと書いているが、私のような超小物でさえ、日々これほどの言葉を浴びているのだ。

◆◆◆

 と、ここまで書いてきて見えてきたものがひとつある。私に「世界の悲劇」についてなんとかしろという声は、SNSにより地球の裏側の悲劇まで見えるようになった現在、その不条理さに耐えられなくなった人たちの悲鳴にも思えてこないだろうか。

 例えば私たちは、遠く離れた県の保健所で、数日以内に殺処分予定の犬の姿さえスマホで目にする日常を生きている。SNSによって、「知らないで済んだこと」は急激になくなった上、私たちは不条理に敏感であることは良きことという教育を受けてきた。が、人類にとって、世界中の悲劇がこれほど可視化されるという事態は初めての経験だ。「正しい」人間であろうとするほど、スルーできないことが増えていく。そしてSNS上では「見て見ぬふりをする人間は卑怯」という正義を振りかざす人が多くいる。この辺り、何か大きなものが隠れていそうだ。

 もうひとつ、書きたい。この数年で私はさらに人が怖くなったのだが、それは「コロナ禍によるオンライン化」による。これまでリアルに行なっていた講演をオンラインですることが増えたのだが、その場合、対面だと決してありえないような攻撃的なコメントを書き込む人が増えたのだ。質問や意見として、「あなたが話した○○について、そんなことは聞いたことがないのでエビデンスで示しなさい」など高圧的なものもあれば、人格を否定するようなものまで。これは対面の講演では決してなかったことだった。何か、生身の人間ではなくコンテンツのひとつとして厳しく評価・チェックされているのを感じるのだ。こんなことに傷つく自分がおかしいのかと思っていたけれど、時々一緒に出演する学者や記者といった人々は私以上に傷ついていたりして(私よりネットで暴言を受ける機会がないため)、やっぱりそうだよね? 私、傷ついておかしくないんだよね? と改めてほっとする。そういう経験をするたびに、人類、たかがインターネットくらいでここまでわかりやすくヤバくなってどうした? と思う。

◆◆◆

 あと少ししたら、ここまで書いたような現象のひとつひとつが名付けられたり、明確に加害行為とみなされたりしてハラスメントとして広く認知されるだろう。そう思うと、なぜ、みんなこれほど無防備に、デジタルタトゥーで未来の自分を殺す行為をしているのだろうと心配になるほどだ。

 さて、『安全に狂う方法』について書いていたら、SNSによって狂った世界で殺されない方法みたいな話になってしまったが、それが私の今の「とらわれ」なのだから仕方ない。

 インスタントに救われるような本じゃない。だけど、藁にもすがる思いでこの本を手にとった私は、読んで考え文章を咀嚼し読み返し、という過程で、何か生まれ変わるような経験をしつつある。少しずつ、「とらわれ」が薄れていっているのだ。

 赤坂さんの苦しみと読者の苦しみが唯一無二の化学変化を起こすような本。不思議な読書体験の余韻に、今も浸っている。

著者プロフィール

雨宮処凛

作家/活動家
あまみや かりん 1975年、北海道生まれ。作家、活動家。反貧困ネットワーク世話人。バンギャル、右翼活動家を経て、2000年に自伝的エッセー『生き地獄天国』でデビュー。自身の経験から、若者の生きづらさについて著作を発表する傍ら、イラクや北朝鮮へ渡航を重ねる。その後、格差や貧困問題について取材、執筆、運動を続ける。『生きさせろ! 難民化する若者たち』でJCJ賞受賞。著書に『一億総貧困時代』『「女子」という呪い』など多数。

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