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前野健太のガラケー旅日記

前野健太

シンガーソングライターで、近年では俳優、エッセイストとしての顔も持つ、前野健太が日本全国を旅して記すフォトエッセイ。 ガラケー写真がとらえるのは人なのか、街なのか、それとも……。

長崎

「長崎の夜はむらさき」という歌がある。間近で聴いたことがある。本家本元、瀬川瑛子さんの歌唱をである。縁があって「人生、歌がある」という歌番組に出た時のこと。色っぽかった。自分で歌ってみると、とてもむずかしく、演歌、歌謡曲の独特の節回しがいかに複雑で高度か、思い知らされた。
 今回ライブでこの歌を歌ってみようと思ったのは、長崎市内で初めてのライブがあるから。佐賀の武雄でライブを終え、翌日長崎入り、ライブはその次の日だったので、少し街を散策することにした。
 長崎駅から路面電車に乗り、宿のある駅へと向かった。電車から降りてしばらく歩くと宿の近くにさっそく喫茶店があった。助かった。しかも創業77年という立派な喫茶店。名前は「冨士男」。次の日も必ず来よう。そう思った。

 前から思うが、喫茶店ほど重要なものがあるだろうか。街の中で一息つけて、物思いにふけられる。コーヒーや紅茶を飲んで、甘いものがあれば食べられる。近所の人たちは世間話をして交流ができ、旅の人はその街のことを知れることもある。寒いですね~、そんな一言でも、心が少しあったまり、軽くなる。窓の外を眺めれば、その街の人たちの営みが垣間見え、その気になれば歌を書くこともできる。
 知らない街を歩くことが好きな自分にとって、喫茶店は最も重要な場所かもしれない。以前訪れた街で、なかなか茶店がなく、見つけた時の安堵感、幸福感といったらなかった。夏だったから尚更。暑くて外を歩き回れない。ああ茶店だ。助かった。という具合に。これはもう公共のものにするべきなんじゃないだろうか、茶店がどんどんつぶれてる状況で、自治体や国はこの重要性に気づいた方がいいかも知れない。そんなことをノートに書いたこともあった。
 話が逸れた。そう、「冨士男」は素晴らしい茶店だった。翌日ライブ前に見つけた「1・1」という店も素晴らしかった。ワンワン、と読むらしい。長崎は茶店が多い街なのか。すぐ山、すぐ海なので、土地がなく、店が密集している感じも好きだった。
 路面電車に乗って、適当なところで降り、歩いた。これが出島か。

 修学旅行できっと来ているはずなのに、もう何も覚えていない。ここに昔オランダ人が閉じ込められていたという。どういう暮らしだったのか。その周りの長崎の人たちの心境は。近くのカフェに入り、物思いにふけった。ここのカフェも素晴らしかった。

 外へ出るとすっかり夜で、夕飯でも食べようかと店を探し歩いた。宿の近くの思案橋のほうまで戻ればたくさん飲み屋があるが、この辺で食べるのもいいな、という気持ちになっていた。近くの店に入ると平日ということもあり空いていた。繁華街から少し離れているので、静かだった。カウンターでゆっくり飲んだ。大将から魚の話を聞き、おかみさんからはパンフレットをもらった。小冊子で、魚のこと、長崎のことが少し書いてあった。その中に、長崎の夜景が世界新三大夜景になった、という記事と写真が載っていた。そうか、夜景か。まったく見るつもりはなかったけど、ライブ前日にこの街の夜景を見ておくのもわるくない。おかみさんに、夜景って綺麗ですか、と聞くと、うん、すごく綺麗ですよ、と言う。時計を見ると夜の8時。この時間でもやってますか、もちろんやってますよ、ロープウェイはもう閉まっちゃってるかもしれないけど。タクシー呼びましょうか、とおかみさん。話を聞くと大将とおかみさんの甥っ子さんがタクシーの運転手をしているらしい。そりゃもう行くしかない。何かが動き出した瞬間だった。
 会計をしてお2人の写真を撮らせてもらい、外へ出るとタクシーが待っている。乗り込んですぐに甥っ子さんなんですねと聞くと、いや、甥っ子というか、それは兄の方ですね、と。あまりその話には乗り気ではなかったので、やめて、展望台の話に切り替えた。運転手さんは少しずつテンションを上げて、長崎の街のことを色々と話してくれた。ほろ酔いで、それを聞きながら、車窓に流れる街の明かりを眺める。少し夢の中のようだ。このタクシーに身を預け、山頂を目指した。

 車は橋を渡り、すぐに急坂を登り始めた。この道が近道なんです、とぐねぐねと住宅街を抜け、山道を登り始めた。すぐに街が見下ろせそうな感じがして身を乗り出し窓の外を眺めようとしたが、まだ我慢してください、と運転手さんが言う。えーだめですか、とそれにのって見るのをやめる。楽しくなってくる。デートしてるみたいじゃないか。おじさん2人の車内。運転手さん飛ばしてぐんぐん展望台を目指す。着いた。外に出る。ぱらぱらと観光客、地元のデートか、カップルもいる。その向こうに現れた。長崎の夜景。たしかに美しい。

 運転手さんが案内してくれる。この上も綺麗ですよ。建物の中に入り、さらに上に登る。冷たい風。この街の歴史。今現在の営み。暮らし。人間というのは狂気をはらんでいたり、残酷なことをしでかしてしまう生き物だが、この明かりの美しさはなんであろう。

 ロープウェイは夜の10時までやっていたので、帰りはロープウェイに乗ってみたくなった。運転手さんは、ぜひ乗ってみてください、と言う。ありがたい。下りの運賃を稼げなくて申し訳ないと思いつつ、礼を言って別れた。
 1人になり、また夜景を眺めた。風がより冷たく、強くなった。歌でも作ろうかと思ったが、なぜか急につまらなくなった。旅先ではなるべく1人でいたい人間だが、なんか違った。運転手さんといたほうが楽しかったのだ。それに気がついた。長崎の人は優しいですよ。道中、運転手さんが言っていた言葉を思い出した。

 下りのロープウェイに乗ると、あっという間に地上に着いてしまった。駐車場にいた警備員にどうやって帰ったらいいのかを聞き、バス停を案内してもらい、バスに乗って繁華街まで戻った。あの楽しかった数十分は何だったのだろう。帰りもいっしょに山を下り、おすすめの店なんかを聞いて、そこまで連れてってもらう。それがきっと正解だったのだろう。反省しながら、夜道を歩いた。

 翌朝は「冨士男」へ行きモーニングを食べた。ライブは活水学院という素晴らしい場所で歌わせてもらった。そして次の日、まったく予定には入れていなかったが、祖父の故郷である大村に行くことにした。長崎県大村市。まずは大村ボートへと向かった。とてつもなく寒い風が吹き付けていた。

前野健太(シンガーソングライター/俳優/エッセイスト)

著者プロフィール

前野健太 (まえの けんた)

シンガーソングライター/俳優/エッセイスト
1979年2月6日生まれ、埼玉県入間市出身。2007年『ロマンスカー』によりデビュー。ライヴ活動を精力的に行い、「FUJI ROCK FESTIVAL」「SUMMER SONIC」など音楽フェスへの出演を重ねる。俳優活動においては、主演映画『ライブテープ』が第22回東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」作品賞を受賞。NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』他、TVドラマ、CM、映画、舞台に出演。エッセイ集『百年後』を刊行するなど、文筆活動にもファンが多く、他アーティストへの楽曲・歌詞提供も行う。最新アルバムは『ワイチャイ』(2022年)。文芸誌『すばる』ではエッセイ「グラサン便り」を2014年から2022年まで約8年にわたり連載。

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