オピニオン
西村章
時事問題や社会現象、文化、スポーツまで現代の動きを各界の専門家が解説。
パリオリンピックにおける「スポーツウォッシング」批判を考える
斎藤幸平氏の発言から
オリンピックの時期になると、いつもマスメディアの報道は狂騒曲のように大会一色に染め上げられる。2024パリオリンピックでもその風景は変わらなかった(この原稿を書いている段階ではパラリンピックは開幕していないため、以下の議論は基本的にオリンピックのみに絞る)。
また、今回のオリンピック開催期間中には、「スポーツウォッシング」という言葉も多少の注目を集めた。日本ではさほど認知されていなかったであろうこの言葉がにわかに注目された理由のひとつは、東大准教授・斎藤幸平氏のニュース番組での発言にあったようだ。
「全然、見ていない。スポーツウォッシュに加担したくない。私は反五輪でボイコットしている」という斎藤氏の発言主旨は、当該番組を視聴していなかったため、後にオンライン記事を読んで知ったのだが、その理由は、オリンピックの開催期間中に「パレスチナの人、ガザの人が忘れられてしまって、ジェノサイドを覚えている人がいないということに、私は少しでも抵抗したい」ということであったという。
氏の姿勢は、溢れかえるオリンピック報道にうんざりしていた人々から支持を集めたようで、軌を一にするようにSNSでも「スポーツウォッシング」という言葉を用いて過剰なオリンピック報道に苦言を呈する投稿や発言が増えていった印象がある。ただ、オリンピック報道とひとくちにいっても、これらの苦言等は主に放送局、特に地上波ニュース番組やワイドショーなどに向けられたものが大半だったように見受けられる。上記の斎藤氏発言も、「見ていない」「ボイコット」という言葉から判断すると、批判の対象は競技の中継やスポーツニュースなど放送メディアに向けられたもの、と解することができる。
「スポーツウォッシング」とは何か?
「スポーツウォッシング」とは、爽やかで健全なイメージを持つスポーツのソフトパワーを利用して、国家や為政者、開催地の悪評から人々の注意や関心を逸らせ、イメージ浄化を図ろうとする行為を指す。嘘をごまかす、という英単語“whitewash”を援用し、スポーツを使って何かをごまかす行為、という意味で使われるようになったのがそもそもの始まり、とも言われている。
過去に行われたスポーツウォッシング行為は数々あるが、もっともわかりやすい例は、ナチス政権下のドイツで行われた1936年のベルリンオリンピックだ。近年では、2022年のサッカーワールドカップカタール大会で、現地移民労働者の苛酷な就業状況や性的少数者に抑圧的な内政というマイナスイメージを覆い隠すスポーツウォッシングだという批判が参加国やチームからも起こり、大きな議論になった。「スポーツウォッシング」という言葉を用いて、このような議論や批判がヨーロッパやアメリカのメディアでさかんに起こるようになったのは、知る限りでは2010年代半ば頃だったと記憶する。
オリンピックそのものが「スポーツウォッシング」なのか?
世界最大のスポーツイベントであるオリンピックには、スポーツウォッシングだという批判が常につきまとう。では、そのオリンピックの何がスポーツウォッシングなのか、誰が何の目的でオリンピックを使って誰に対してスポーツウォッシングを仕掛けようとしているのか。それを具体的に検討するには、
・近代オリンピックそのものが抱える課題
・日本メディアのオリンピック報道に関する課題
・日本のマスメディアの構造的課題
という、三つの層に切り分けて考察する必要があるだろう。
第一の、近代オリンピックが自らの裡に抱える課題や問題については、これまでにも様々な指摘があり、関連研究や書籍も多い。その詳細な検討は今回の目的ではないので、ここではひとまず措く。
本稿の論旨に絞ると、オリンピックをスポーツウォッシングだと断定するのであれば、「平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」(日本オリンピック委員会(JOC)ウェブサイトより)というオリンピズムの精神や、スポーツを通じて世界平和を促進するオリンピック・ムーブメントという活動指針がスポーツウォッシングだと批判することと同義になる。しかし、人間社会の理想をスポーツを通じて希求しようというこれらの思想がスポーツウォッシングと相容れないことは明らかだ。
したがって、オリンピックというイベントをスポーツウォッシングだと批判するのであれば、現代のオリンピック、たとえば今回のパリオリンピックがオリンピズムやオリンピック・ムーブメントが掲げる理念から乖離していることについて批判する、という論理構成になるだろう。
問題はマスメディアにあるのでは?
近代オリンピックそのものが抱える種々の問題はともかくとしても、今回のパリオリンピックがウクライナやパレスチナの人々にとって非常に重い意味と意義のある大会だったことは、紛争の当事者ならぬ我々にも容易に想像できることだ。彼ら彼女たちにとって、パリオリンピックは、「スポーツを通じた平和の追求」を世界にアピールできる重要な機会で、スポーツウォッシングとは真逆の意味を持つ大会だったといっていいだろう。であるとすれば、今回のオリンピックそのものをスポーツウォッシングだと批判する行為は、平和にスポーツができる環境を当たり前に享受している者の傲慢な思い上がり、といわれてもやむを得まい。
つまり、パリオリンピックとスポーツウォッシングについて考察するのであれば、その伝えられかたや受け止められかた、要するに上記項目の二つめと三つめに該当する、オリンピックと日本のメディア報道の課題、について議論の焦点を絞り込むのが妥当だろう。 では、二つめの課題であるオリンピックの競技中継やそのダイジェストを伝えるニュース番組、選手インタビューなどを膨大に報道し続けた日本のマスメディアは、果たしてスポーツウォッシングを行っていたのか。あるいは、少なくともウォッシング行為に加担をしていたのだろうか。うんざりするほど大量のオリンピック報道が「我々の注意を何かから逸らせるため」に誰かの仕掛けたものだったと仮定した場合、それはいったい誰が何を隠蔽するためにスポーツのソフトパワーを利用していたのだろう。
そんなふうに問いかけてみると、「自分たちを政治・国際ニュースから引き離して抑圧しようとする権力者たちの仕業にきまっているだろう」という指摘が返ってきそうだ。じっさいに、過去には政治家が放送局の番組内容に介入した例もあり、前回の東京オリンピックの際には政治家たちから「オリンピックに夢中になって当面の政治問題を忘れてくれればいい」という主旨の発言があったのも事実だ。そのような事例を念頭に置いたとき、オリンピック関連ニュースの洪水でその他の報道が質量ともに大きく減少していた理由をこの目新しい言葉で説明できると感じて、そんな発想になるのかもしれない。
マスメディアは何かを隠しているのか?
だが、この過剰なオリンピック報道は政治的意図に操られたスピンコントロール(情報操作)にちがいないという指弾は、政党や政治家の力を過大に評価した陰謀論的発想といったほうが妥当であるように思う(もちろん、スポーツの熱狂を何かの隠れ蓑に利用しようとする動きに対しては常に細心の注意が必要だが、それは、仕組みを生み出し操作する強大な力を持った何者かがいると断定する陰謀論とは明確に別のものだ)。
今回のパリオリンピック中継や報道で多くの人が抱いたであろう違和感の数々は、わざわざスポーツウォッシングという言葉を持ち出すまでもなく、長年指摘され続けてきた日本メディアの旧弊な体質として批判すれば充分こと足りる。
過剰なメダル至上主義やそれに基づく国別メダル数カウント、ナショナリズムを煽る報道内容、各社横並びの視聴率至上主義的番組編成、努力と感動の物語に回収しようとする凡庸な選手インタビュー等々、これらはいずれも今回のオリンピックに限った現象ではなく、何十年も前から連綿と批判されてきた問題ばかりだ。
スポーツは、斜陽化をたどるテレビ局にとって安定した視聴率(≒広告収入)を見込める数少ない優良コンテンツで、他局に視聴者を奪われないために「よそがやるならうちはもっとやる」とばかりにチキンレースにも似た肥大化競争が続き、それが現在の供給過剰な状況を招いたこと、また、スポンサー企業が機嫌を損ねて離れていくことを怖れて放送内容はますます無難で日本的事なかれ主義に拍車がかかり、それによってスポーツ報道の批評性がどんどん軽視されていったことは、過去にも様々に検証され批判されてきた。
つまり、マスメディア、特に放送業界の過剰な五輪シフトは、陳腐きわまりないオールドメディアのこのような旧弊な問題(上掲箇条書きの三項目め:日本のマスメディアの構造的課題)がまたしても露呈しているだけ、と考えるのがもっとも合理的で説得力のある理解だろう。
ロシアの問題から考える
ただ、そうはいってもこれらの洪水のような報道が、オリンピックを愉しむ人々に対してスポーツウォッシングがもたらすものと同様の、一定程度の「パンとサーカス」効果を与えてしまうことは事実だろう。上で紹介した斎藤氏のコメントも、オリンピックの華やかさに気を取られるあまり、目の前にある社会の重大な問題から注意を逸らしてしまいがちな状況に警鐘を鳴らし、注意喚起をしたいという意図からあのような発言を行ったのだろう。
だが、この溢れるようなオリンピック情報が作り出す「パンとサーカス」状況は、すでに説明したとおり、あくまでもバランス感覚を欠いたメディアの機能不全により生じた結果であって、為政者や何らかの権力者たちによる意図的な大衆操作ではないと考えるのが妥当だ。端的に言ってしまえば、現代は1936年のベルリンとは違う、ということだ。
だが、いや、だからこそというべきか、そんな現代社会でも驚くくらい簡単に、スピンコントロールとしてのスポーツウォッシングが成立してしまう場合がある。その具体例がロシアだ。スポーツウォッシングという現代的な問題についてロシアは非常にわかりやすい例であり、今回のオリンピックとも関連する事案なので、以下でいくつかの指摘をしておきたい。
IOCがロシアとベラルーシのパリオリンピック参加を禁止したのは、2022年以降続くウクライナへの軍事侵攻がその理由だ。だが、その軍事侵攻はそもそも2014年のソチオリンピック休戦協定期間中に行ったクリミア併合に端を発する。
この蛮行は、しかし、2018年のサッカーワールドカップ開催によってイメージが上書きされてしまった。サッカーの元アメリカ代表でパシフィック大学教授J・ボイコフ氏らはこのイベントをスポーツウォッシングだと指摘して批判したが、その声は大会礼賛の声にかき消され、ロシアが舞台を用意した華やかな競技大会にひたすら夢中になることを世界は選択した。
そんなふうに「アップデート」されていたロシアの印象が、2022年のウクライナへの全面侵攻(これも北京オリンピック休戦協定期間中の行為だった)までの間、彼らの本性を隠す都合のよいベールの作用を果たしたことは、否定しようのない事実だろう。その意味では、ロシアにスポーツウォッシングを許してしまったことや、世界がそれに安易に乗ってしまったことへの反省は、スポーツ界全体でもっと謙虚に共有されてもいい。今回のパリオリンピックは、それを顧みるひとつの好機にもなったはずだ。
パリオリンピックを通して見えたこと
ちなみに、パリオリンピック開催前には国連で休戦協定決議が採択されたが、この決議は有名無実なただのお題目で、ウクライナでも中東でも、そしてスーダンなど世界のどの紛争地域でも、まったく効力を持たなかった。
休戦協定決議の効力を発揮させたいという真摯な意志が本当に国連やIOCにあったのならば、オリンピック開催中に何度でもそれを強調することはできただろうし、各国のメディア単位でも何らかの行動や実行は可能であったはずだ。休戦協定そのものに直接焦点を当てるかどうかはともかくとしても、紛争当事者を大きく取り上げるなどの手法はいくらでも考えられただろう。
たとえば冒頭でも触れたウクライナやパレスチナの選手たちがオリンピックで戦う姿を伝えることは、視聴する人々に対してオリンピズムとオリンピック・ムーブメントの意義をなによりもわかりやすく明快に啓蒙し、平和の大切さを強く訴えかけることにもなったにちがいない。
しかし、その重要性と意義に比して日本のオリンピック報道、特に放送メディアでは、彼らの姿はほとんど伝えられることがなかったように思う(対照的に活字メディアの場合は、明確な意図をもった紙面構成に反映された記事や報道が散見された)。オリンピック関連番組をすべてチェックしたわけではないので断言はしないが、テレビ報道は例によって例のごとく「日本人選手」「メダル獲得」の大騒ぎに終始し、ウクライナ代表やパレスチナ選手の動向をほとんど伝えることがなかったように思う。あるいは伝えたとしても申し訳程度の内容で、視聴者の印象に残らないほど熱量の低いものだったのではないか。苛烈な紛争地域の選手たち以外の話題でも、たとえば、難民選手団初のメダル獲得(シンディ ウィナー・ジャンケウ ヌガンバ:ボクシング女子75キロ級:銅)という画期的なできごとがあったことを、日本のテレビ放送を通じて記憶している人は、いったいどれほどいるだろう。
日本のオリンピック中継やニュース等が、このような選手たちの活躍や動向を通じて近代オリンピックが(少なくとも名目上は)体現しようとしてきた〈スポーツを通じた平和への希求〉を報道というかたちで表現できていれば、おそらく斎藤氏もオリンピック観戦を「ボイコット」することにはならなかったのではないか。
アスリートアクティビズムについて
オリンピックとスポーツウォッシングに関連することがらでは、アスリートアクティビズムについても少し触れておきたい。アスリートが世の中の差別や抑圧、不平等などに対して意見や意思を積極的に表明するアスリートアクティビズムは、スポーツウォッシングに対して、アスリートの側からカウンターとしての行動を起こせる有効な手段だからだ。
だが、発言するアスリートたちの行動や意思表示は、オリンピック憲章規則50(選手が大会期間中に政治的・宗教的・人種的プロパガンダを行うことを禁止する項目)やオリンピズムの根本原則第4項(すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなくスポーツをする機会を与えられなければならない、と宣言する項目)との整合性が必ず議論になる。
パリオリンピックでのアスリートアクティビズムは、男子ボクシング57キロ級の1回戦、パレスチナ代表のワシム・アブサルvsスウェーデン代表のネビル・イブラヒムが象徴的な事例だ。判定で敗戦したアブサルは試合後にリング上で「パレスチナに自由を!」と叫んでタンクトップにプリントされたパレスチナ旗を指さし、対戦相手のイブラヒムもアブサルの右腕を高く掲げて支持を表明した。また、女子ブレイキンではアフガニスタン出身の難民選手団選手マニージャ・タラシュが競技中に「アフガンの女性に自由を」と記したケープを広げたが、これがオリンピック憲章で禁止する政治的行動にあたるとして失格処分を受けた。
この一件から1968年のメキシコオリンピック男子200メートル決勝の〈ブラックパワー・サリュート〉を連想した人は少なくないだろう。このとき優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カーロスというふたりのアフリカ系アメリカ人選手は、表彰式で黒い手袋をつけた拳を突き上げて黒人差別への抗議を示し、2位に入ったオーストラリアのピーター・ノーマンもふたりに連帯の意思を示すバッジをつけて表彰台に上がった。スミスとカーロスは政治的行動を取ったとして即日にナショナルチームから追放処分を受け、ノーマンも選手生命を絶たれた(後年に、3名とも各国オリンピック委員会からの謝罪と名誉回復がなされている)。
今後、スポーツと社会のよりよい関係を築くには?
日本の新聞記事でも、タラシュの失格に際してこの一件に言及する報道はいくつか見られたが、放送メディアの方はタラシュの例に限らず、発言し行動するアスリート全般に対して、総じて及び腰であった印象がある。このような「君子危うきに近寄らず」とでも言いたげな態度は、おそらく日本の放送界やスポーツ界関係者、スポンサー企業に全般して共通する傾向だ。
アスリートアクティビズムはもちろん、スポーツウォッシングという現代的な課題と向き合い、スポーツと社会のよりよい関係性を構築していくためには、イベントの主催者や競技団体はもちろん、それを伝えるメディアや、あるいは我々のように競技を観戦して愉しむファンひとりひとりも、直接の当事者としてそれぞれの立ち位置から闊達な議論を進めることが、今後ますます重要になってくるだろう。
国際オリンピック休戦センターのウェブサイトには、ネルソン・マンデラの以下の言葉が引用されている。
「スポーツには世界を変える力がある。人々を鼓舞する力がある。ほかの何ものにもほとんどなしえない方法で、人々を団結させる力がある。スポーツは、若者に理解のできる言葉で話しかける。スポーツは、かつて絶望しか存在しなかった場所に希望をつくり出すことができる。スポーツは人種の壁を打破することにおいて、政府よりも強い力を発揮する」(日本語訳/西村)
日本人のメダル獲得礼賛報道に暴走する一方だったメディア関係者には、このマンデラの言葉を噛みしめて、今後に向けた抑制的な検証と自制的な問題提起に活かしていただくことを切に願う。
- 著者プロフィール
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西村章 (にしむら あきら)
フリーライター
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)、『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』(集英社新書)などがある。