失踪願望。失踪願望。

第41回

朦朧、ミシリ、アイソトープ 二〇二四年九月

更新日:2025/08/20

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9月2日(月)
 熱が下がらない。少し眠るとラクにはなるので、その間に原稿やゲラに最低限の手を入れ事務所のWさんに託す。原稿を書く気力がない。
9月3日(火)
 奄美大島でマングースの根絶宣言が出されたそうだ。
 昔はよくハブとマングースの戦いをショウとしてやっていた。ああいう異種混合のタタカイをみるのはけっこうつらかった。島ではハブ捕りの名人がいて、その報奨金で生活している人がいるなんていう話を聞いたこともある。奄美大島に「ハブの天敵」としてマングースが持ち込まれたのは1979年頃だというから、ほぼ半世紀前だ。しかし、昼に動き回るマングースは夜行性のハブと出くわす機会が少なく、逆に畑を荒らしたり、アマミノクロウサギやルリカケスような在来の希少な野生動物を食い散らかし、その生存を危うくした。これはまずいと、環境省が二〇年ほど前から防除事業を始め、それがやっと終結して根絶、という経緯のようだ。
 ピーク時では一万匹以上いたというマングースを根絶させたのだから、快挙には違いない。長らく駆除に取り組んだみなさんの尽力には頭が下がる。しかし、よくよく考えると、そもそも人間の浅はかな思いつきでマングースを放ち、「あ、間違えた」と今度は根こそぎ駆除したんだから、全体像としてはおかしな話ではあるのだ。マングースの側だってたまったもんじゃない。
 最近よく、池や川の外来種の問題を取りあつかったテレビ番組を目にする。外来種のほとんどは、彼らみずから勝手に闖入してきたわけではなく、誰か人間が持ち込んだものなんだよなあ。
9月6日(金)
 まだ熱があるのか、日中は少し朦朧としている。用があって編集者に電話をかけるが、通話を終えてしばらくして「ああ、もう一度電話をしなきゃ」と言い忘れを思い出し、かけ直そうとしてから「あれ、何を話すんだっけ?」と混乱したりする。ということで、ところてんを食べて眠る。暑さとダルさを引きずっている感じだ。
9月8日(日)
 竹田が午後に「今からちょっとそっち行っていいすか」と連絡をよこす。改まって話がある、と言われると、こっちも少し用心する。今頃なんだろ。結婚の報告かと身構えていると、大量のジャガイモを抱えてやってきた。
 彼はカーリングを長らく追っていて、毎夏は数週間、北海道で取材をしているらしい。現地の行きつけの寿司屋などには顔馴染みの漁師や農家がいてガブガブ日本酒をやっていると「お前、体力ありそうで暇そうだな」とアルバイトの誘いがあり、彼はもともと物事を深く考えるタイプではなく、フットワークが異常に軽いので「いいっすよお」と請け負って、夏場はもう何年もジャガイモの収穫を手伝っているようだ。
「ごつごつした、いわゆるジャガイモらしいのがキタアカリで、これは焼いても揚げても蒸してもいいです。コロコロ丸いのがインカのめざめ。これは栗やさつまいもに喩えられるように甘味があって、スライスしてポテトチップスにしてみたら最高でした。皮が赤いレッドムーンは煮崩れしないのでシチューやカレーですかねえ」
 首にかけたタオルで汗をぬぐって竹田は流暢に説明してくれた。まるで本職のようである。彼が取材に行く北見市はタマネギの名産地でもあり、大ぶりのタマネギもいくつか入っていた。ジャガイモとタマネギが大量にあると安心するなあ。
9月10日(火)
 ほんの少し暑さがやわらいだので、テキ(太陽)が油断しているうちにタクシーに乗り神保町の集英社へ。大きなモニター付きの会議室を予約してもらった。ちょうど別の仕事で確認したいこともあったので、三〇年以上前に撮った映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』を一〇年ぶりにゆっくり見たかったのだ。
 舞台は石垣島だ。冷房の利いた部屋で温かいカフェラテなるものをすすりながら見る南の島の景色はなかなかいいものだ。時にさりげなく、時に熱をもって映像に寄り添う音楽は、高橋幸宏さんによるものだ。自らの監督作品ながら、胸に沁みてくる。気づけばぼくは涙を流していた。最近涙もろくなっていてやや焦る。トシによるのかなあ。
9月13日(金)
「本の雑誌」の浜本編集長が「たまにはそっちで打ち合わせしつつ飲みましょう」とスタッフ数人と近所に来てくれたので、中華料理屋で乾杯する。秋以降の連載の話が中心だったが、暑気払いのようなものだ。エビシュウマイと春巻を食べた。
9月16日(月)
 屋根裏や階段の踊り場などで不穏な気配を感じることがある。周囲を探ると、屋根や床を逃げるかのような「ミシリ」という音と共に気配は去ってゆく。
 気持ちのいいものではないので妻に相談してみると「ああ、ミシリ君ね。暑いと大変よね」などと平然としている。ミシリ君というのはどこの誰なのか? ややたじろいだが、よく聞くとハクビシンではないかとのことだった。このミシリ君も確か外来種のはずだとちょっと調べてみたら、ずいぶん昔から日本に住んではいたようだ。戦時中には毛皮をとるために輸入もされていたそうで、その点はマングースと似た境遇だ。このジャコウネコ科のミシリ君がいればネズミが寄りつかないというからそれはありがたいが、逆に衛生的な問題もあるのだとか。「まあ、問題ありそうなら考えましょう」と妻はやはり泰然としているのだ。本質的には女性のほうが豪胆なんだろうなと思う。ミシリ君よ、悪さをするでないぞ。
9月18日(水)
 通院する。タクシー車内の冷房が利きすぎているのは客へのサービスなのか、それとも運転手が暑がりなのか。暑がり運転手ならば申し訳ないと思いつつ、寒すぎるので冷房を切ってもらう。だが、気温が高すぎるのだろう、しばらくすると車内は蒸し蒸しして汗が出てきた。運転手に「スイマセン、少しだけ冷房を入れてください」とお願いすると、待ってましたとばかりに瞬時に冷房を入れてくれたから、これは暑がり運転手だったのだろう。
9月21日(土)
 実はしばらく前から、ぼくにしか見えないものを見ることがある。
 たとえば自室にまったく知らない人が出現したりする。雰囲気として害意はなさそうだし、怖くもないから放っておく。
 カーテンに日頃見ない大きな虫が止まっているのを見た。
 どうやらぼくにしか見えていないらしい、ということは理解している。我ながら不思議ではあるのだが、見えてしまうのだから仕方がない。このところの心身の不調に加えて、しばらく服用している薬の影響なのかもしれない。
9月24日(火)
 体調不良が続いていて、医者の勧めでアイソトープ検査というものを受けることにした。待ち時間があったのでその間にいろいろ資料などを読む。放射性同位元素を含んだ薬を注射し、血流状態から脳の機能異常を診断するらしい。なんとなくしか分からないが、とにかく病院に長くいる時間というのは退屈なものだ。
 そういえば、この前新聞に「病院に通えるなんて元気で羨ましい」という投書があったのを思い出した。自分でタクシーや公共交通機関を利用して、診察券や保険証を提示してお金を払って帰ってくる。それができる人はもう健康なのでは、という意見だった。一理あるかもしれない。
9月27日(金)
 本の雑誌社から出る新刊の打ち合わせを中華料理屋でする。我が作家人生では三〇〇冊以上の本を出してきたけれど、タイトルや判型を相談するときはいつも真剣勝負だ。
 タイトルは、たいてい最初の頃に頭に浮かんだものがいいようだ。
9月29日(日)
 一昨日の自民党の総裁選で、石破茂元幹事長が高市早苗経済安全保障相を決選投票で上回り、新総裁に選出された。
 しかしぼくが年をとっただけだろうか。いつ頃からだろうか、誰が総裁だろうと総理大臣だろうと、期待感などまったく持たなくなった気がする。選挙の時にいつも思うのは、あれだけ金とエネルギーを使って当選したがるのは、あの世界が相当においしいものなんだろうなということだ。

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Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。

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