失踪願望。失踪願望。

第30回

ともだち、馬乗り、彷徨老人 二〇二三年一〇月

更新日:2024/10/02

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10月1日(日)

 三陸からどさっと秋刀魚が届いた。かつては大衆魚の象徴だったこの細長い魚も不漁がたたり、高級魚値段で売られていると聞く。ありがたくまず塩焼きにしたが、老夫婦では食べきれないので近所に住む雑魚釣り隊の太陽という青年に連絡すると「アイヨー」と魚市場のあんちゃんみたいな挨拶ですぐにわが家にやってきた。自分も三本ほど着服したあと、他の仲間と協力して、なじみの居酒屋などに配るという。
 連絡網を駆使して配るというのは、我々「雑魚釣り隊シンジケート」の得意技だ。釣果や鮮魚、酒や果物などが多く届いた時にすさまじいスピードで伝達が飛ぶ。逆に彼らが出張などでお土産を持ってきてくれることもある。この前はタケダが「精製した白い粉の、例のブツを入荷しました。今回のはブッ飛びますぜ」とか電話してきた。ハアハアと荒い息を吐きながら待っていると、さぬきうどんだった。

10月3日(火)

 先月起きてしまったマヌケな転倒の後始末で慶應大学病院へ。いつも通っている科とは違い形成外科なので少し迷った。縫合跡を確認するだけなのですぐ終わった。
 夕方に自宅に戻る途中、近所に住む息子と孫に出くわした。自転車で広い公園まで行って、そこでランニングやら筋トレやらトレーニングをするらしい。いいぞいいぞ。

10月4日(水)

 この連載の定例会議のために神保町の集英社へ。あれやこれやと話してから、神保町の交差点にほど近い中華料理屋に移動する。
 小学館の健太郎も合流し、翌週に控えた盛岡でのトークショーの打ち合わせ。といっても、「冷麺は絶対にぴょんぴょん舎だ」とか「夜はタラのフライでビール」だとか、シューマイと春巻を食べながらなお暴飲暴食のタクラミをしていただけだ。

10月5日(木)

 夕方に新宿に出て生ビールをやりながら新連載の打ち合わせをする。
 新潮社の編集者とはこれまでずいぶんいろんなところへの取材旅に出た。通算三カ月は「旅の空」をともにしただろう。
 ときおり、丸々一冊ぼくの「個人特集」のような臨時増刊号をだしてくれたり、これまでやってきた内外、大小の旅だけで「丸々一冊特集本」などというものを作ってくれているので、いろんなことをぼく以上にくわしく知っていたりする。
 そういう編集者チームが、わが人生と友達について、そろそろまとめてみたらどうだ、と言ってきた。
 編集者が「ともだちは人間形成の師ですよ」などと言う。それらを振り返って、そろそろ年貢をおさめたらどうだ、と言っているのだ。
 たしかにぼくはこれまで友人づきあいによって生きてきたような気がする。親や兄弟よりもそれぞれの時代の友人が人生の先生だった。いろいろ面白い友達とつきあってきたからこういうニンゲンができてしまったのである。そろそろその責任をとってもらいたいのだ。
 子供の頃までさかのぼってみると、ぼくのようなガサツな人間の基本づくりにかかわっていた、と思われる人が早くも何人かいる。ホームレスの人々だ。家に帰ってノートに書き出してみると面白い人がいっぱいアタマに浮かんできた。最初の親友は六、七歳ぐらいの頃、いつも浜にいた。海に行くたびに一緒にカニだの貝だのを捕って食っていた「カメさん」と「カルシウム」(そういうあだ名)でしたな。
 名前を思いだすと、穏やかな内房の海や小川の風景が浮かんできた。いままで書いたことのなかった人の顔がいっぱい浮かんでくる。これは楽しくここちよく書けそうな世界だな、と直感した。連載で毎号一人~二人、どんどん書いていける「面白人間図鑑」になるような気がする。

10月7日(土)

 また戦争だ。
 中東パレスチナ自治区のガザ地区を巡って、イスラム組織がイスラエルに向けてロケット弾などで攻撃を開始したらしい。武力衝突はエスカレートしていくだろうとの報道だが、このイスラム組織「ハマス」を詳しく知らない。どの地区に空爆、というニュースと並行して、その組織がどんな思想で何が目的で、という事実を報じるべきだが、肝心な情報が置き去りにされている気がする。
 そういう時は、ツマかマゴに聞く。彼らは「~と報じられているけれど、~なんじゃないかなあ」と最後に必ず私見を聞かせてくれるのでありがたい。その後で新聞を読むとおおよその状態が摑めることが多い。

10月9日(月)

 前の週は細かく出かけていたが、今週は蟄居(ちっきょ)ウィークだ。原稿を書き、疲れたらヒルネをし、夕飯でビールを飲む。テレビをつけて、いい映画がやっていたらラッキーだ。

10月12日(木)

 最近、近所を歩いていると小型犬を散歩させているオバサンとよく行き会うのだが、その名前も分からないモコモコした小型犬がヒャンヒャンとやかましい。犬は好きだが、都会の犬はかわいそうだ。
 もし広い土地を与えられて好きな動物を飼っていいと言われたら迷わずに馬を選ぶ。馬はしっかり人間の言葉を理解するし、ヘボは簡単に乗せない気概のようなものがある。走る姿勢も揺れる四肢も毛並みも美しい。
 唐変木で風来坊のわが人生で自慢できることはそんなにないけれど、乗馬だけは自信がある。いろんな馬で旅をした。
 競馬などでいちばん活躍している馬はまずサラブレッドで、大体五〇〇キロぐらいの重さだ。脚が細く長くバランスがよくてカッコいい。スピードも速い。常歩(なみあし)からトロット(小走り)にはいるところでうまくリズムを合わせて、座る鞍の重心位置をさがし、腰と全体を安定させることができると、早駆けになったところで鞍に腰がすいついてくる。常に走りたがっている馬だから、こうなると最高の感触だ。風になっていけるのだ。
 ブラジルのパンパ(世界一の大草原)では今でもガウチョ(牛童・カウボーイ)が10人ほどのチームを組んで牛を移動させる仕事をしている。何十年も前のことだがテレビのドキュメンタリー番組でその仕事を体験した。キツイ、クタビレル、キビシイの3K職場だった。
 現地の言葉で「さすらいの野郎たち」と呼ばれる本物のカウボーイ集団にまじってぼくも同じ仕事をした。そのときはクォーターホース(四〇〇メートルくらいはサラブレッド級の走りをする、というのが名の由来)をあてがわれた。三五〇頭の牛を二泊三日で移動させるアメリカ映画そのものの世界だった。夜はキャンプなので焚き火をかこんでウイスキーを飲みながら荒野の歌でも聞けるのだろうか、と楽しみにしていたが、みんな夕方にはくたびれきってしまい、そそくさとそこらに寝てしまうのには驚いた。ぼくも寝てしまった。ジャララカという毒ヘビがたくさんいるところで、油断のならない旅だった。
 カウボーイがツバの広いテンガロンハットをかぶっている理由がよくわかった。一日中激しく揺れるので水筒などを身につけていても振動ですぐ落としてしまう。小さな川を渡るときテンガロンハットのツバを両手で持って馬から乗りだして水を汲み、走りながら水を飲み、残った水を頭から一気に被って一瞬の冷たいヨロコビを味わうのだ。馬のワイルドな旅を実際にやらないと本当の馬話は書けない。
 そのときの旅では牛を届けてカラ馬(何も追っていない)となり、すっかり気が楽になり飛ばしていたら鞍ごと落ちてアバラを折ってしまった。

 映画の撮影で現地に長逗留したときになじんだのがモンゴルの馬だ。
 モンゴルの馬はサラブレッドと比べるとひとまわり小さくブコツな体型で、走り方も側対歩(そくたいほ)だった。同じ側の前脚と後ろ脚が対になって進む側対歩は、斜対歩(しゃたいほ。右前脚と左後ろ脚、のように対角線上にある脚が対になって進む)で進むサラブレットとちがいちょっと癖があるので、慣れるまで工夫がいる。慣れてくれば揺れも少なく、安定して、山登りにも強いからあまり気を使わずに走らせることができる。体重は三〇〇キロ前後だからサラブレッドと比べると鞍におさまったときの目線は低く、無骨な小型トラックという感じだ。この馬とは半月ほど旅をしたことがあるが、性格は穏やかで草原を心から愛しているのがよくわかった。
 ヨーロッパではペルシュロンに乗ったことがある。スコットランドだった。
 ペルシュロンは日本ではあまりお目にかかれないが見上げるような大型馬だ。フランス北西部、ノルマンディー地方原産の重種にアラブ種など東洋馬を交配させたという。北海道でやっているばんえい競馬で登場する巨大馬がそのイメージだ。体重は大きくなると一トンもあるから、鞍までよじ登るしかない、というあんばいで高度感がすごい。走らせるとダンプカーの運転席より高いところに目の位置があり、それでドカンドカンと進む。一〇分ぐらい走らせていると鞍に体をおくバランスも具合のいいところがわかってきて相当に気合が入る。
 スコットランドの誰もいない海岸をドカンドカンと走った。迫力ある走りをする馬だったが、「へこんだ馬」だったか「屁をたれる馬」だったか、はっきり覚えていないがそのようなへんてこな名前だった。
 ヨーロッパのむかしの「イクサ」はこんなのがぶつかりあった、ということがわかり、そんな時代にいなくてよかったな、と思った。もっともイクサになるとぼくのような雑兵は槍をかついで馬のまわりをとりかこんで走り回っていたのだろうけれど、モサモサしているうちにご主人の馬に踏みつぶされてオワリになっていただろうな。

10月13日(金)

 明日から盛岡へ行って、トークショーとサイン会をするのだが、今回のテーマ本は先月に出た「怪しい雑魚釣り隊」の最終巻なので、みんな暇なら来いようと隊のメンバーに声をかけると日本全国から二〇名近くが集まるという。なんなんだ。
 トークショーは明日の一五時開始なのだが、なぜか多くのメンバーが前泊し、既にジンギスカンやおでんを食べ、「予習だ」と、冷麺をすすってる者もいるらしい。なんなんだ。
 極め付けは下戸でコーラを嘗めるように味わう「コークマン」と呼ばれる三嶋だ。「晴れて四年ぶり三回目の無職となりましたので、自転車で向かいます」と一週間ほど前に律儀に日本橋で記念撮影をしてから奥州街道をえっちらおっちらと北上しているようだ。
 繰り返しになるがイベントは土曜日の一五時に開始される。世界でも有数の交通網を誇る現代ニッポンでは北海道からでも沖縄からでも当日朝に出られれば盛岡には着くはずだ。でもコレ、なんなんだ。

10月14日(土)

 東京駅で事務所のWさんが携帯を紛失した以外は無事に盛岡に到着し、待ち構えていた雑魚釣り隊とまずは「ぴょんぴょん舎」で乾杯をする。冷麺も大盛でいった。
「クロステラス盛岡」でのトークショーは満員御礼。
 全国から駆けつけた雑魚釣り隊も登壇した。隊の料理長でもあり、普段はスカロックバンドのヴォーカルでもあるザコ(本名は小迫剛)には、ギターを弾きながら登場してくれよと頼んでおいたのだが、彼は「じゃあシーナさんが好きな『男はつらいよ』を歌いながら出ていきます」と言っていた。どこから出てくるのか、と思っていたら、吹き抜けとなっているトーク会場のすぐ脇のエスカレーターを朗々と歌いながら降りてきた。カッコいいのだ。紅白歌合戦のようだった。
 無事にイベントを終えて各自ホテルに荷物を置く。何人かは「クロステラス盛岡」の運営会社である三田農林株式会社の持ち物である空き家を特別に開放してもらい、そこに泊まって徹夜で麻雀をするようだ。電気も水道も通っていない空き家だというが、屋根があるならやつらにとっては御殿のようなものだろう。
 ともかく行きつけのイタリアンに再集合して盛会と再会を乾杯する。ビールに始まって、ハイボール、白ワイン、サングリアなどが次々と空いてゆく。興が乗ったところでザコが再び「男はつらいよ」を歌ってお開きとなった。
 といってもまだ一九時だったので、雑魚釣り隊の今夜の根城となる空き家に麻雀牌をチェックしに行くと(東京から牌と簡易卓を送っておいたようだ)、発電機を稼働させクリスマスツリーのような電飾が部屋中に張り巡らされ、煌々と雀卓を照らしていた。
 じゃらじゃらと卓を囲む者、畳に円座して飲み続ける者、再び夜の盛岡に消えて行く者たちは、日本酒派、ハイボール派、スナック派で分かれて真夜中まで帰って来なかった。
 ぼくはこのごろ麻雀はやらなくなった。負けるだけだし。

10月15日(日)

 ホテルをチェックアウトしてまだ元気なやつら数人が「ぴょんぴょん舎」に集まり、昨夜の報告を聞く。二日酔い重傷者は多数出したものの、なんとかみな消息は摑めている状態なのもいつもどおりだ。結局、盛岡に八日かけて辿り着いた三嶋は疲れ果てて空き家で横になったが「ポンとかロンとかトビとか、うるさくて眠れなかった」と文句を言いながら、「もうちょっと北へ」と早朝に出かけたようだ。
 冷麺を平らげビールも何杯か飲み、新幹線で眠っている間に帰京。いつもなら、東京駅からタクシーに乗って自宅に直行するところだが、この日は違った。

 日曜午後の東京駅は混雑しすぎて殺気立っていた。
 Wさんが紛失した携帯が遺失物センター(正確には、お忘れ物承り所)に届いていたそうで「よかったよかった」と皆で受け取りに行く。
 遺失物センターには忘れ物をした人が列をなしていて、付き添いはすることもない。編集Tとともに待っていたが、ビールを飲み過ぎたせいでトイレに行きたくなった。まだまだ時間もかかりそうなので、大きな荷物を編集Tに預けトイレへ行く。
 しかし東京駅というのはただでさえ風景が似ているうえに行くたびに工事が終わったり始まったりしていて、人混みをかき分けトイレに到着し用を足した時には、どういう経路でここまで来たかさっぱりわからなくなっていた。
 ぼくは携帯電話をポケットなどに入れる習慣がないので、頼みの綱は、いま編集Tの近くにある、と気づいた。
 夕方に向かって駅構内の混雑はどんどん激しさを増していく。
 闇雲に歩いても自分が地下にいるのか地上にいるのか、現在地がまったく摑めない。屋外だったら太陽の位置で分かるのに、この都会ではその経験はなんの役にも立たないのであった。
 途中「銀の鈴」と書かれた方向指示の掲示板があって、「おお、銀の鈴だ。知っているぞ」と思ったが、よく考えたら銀の鈴を起点に歩いてきたわけではない。混乱している。確か日本橋口方面に出て、そこから八重洲口の方に歩いていったはずだ。誰かに道を聞こうと思ったが、みんな速足なので声をかけるスキがない。外国人も多い。そもそもなんて聞けばいいか分からない。「編集Tはどこですか?」と聞くわけにもいかない。たまたま通った駅員らしき人に「日本橋口はどっちですか?」と聞いても「私は警備員なので」と冷たい。
 会社員時代は、新橋から東京に出て中央線によく乗っていた。慣れているはずの東京駅でこの仕打ち。いっそこのまま中央線に乗り新宿に行ってしまおうかと思ったが、財布もバッグの中だ。
 おお、わが身はいま一銭も持たない彷徨(さまよ)える老人なのだなと気づくと急激に喉が渇いてくる。一本の水すら買えないのだった。
 このまま東京駅構内で身元不明者として朽ち果てていくのだろうか。おなかがすいたら海苔弁をかっぱらうしかないのか。ついでにビールもいただきたいところだが逃げ切れる気がしないなどと不埒なことを考え続けて、おそらく二〇分くらいだろうか、実際はもっと長かったかもしれないが、東京砂漠を彷徨い続けていると雑踏の中から「椎名さあん!」という声が聞こえる。どこだ、どこから聞こえるのだ、と目を泳がせていると、ぶんぶんと手を振りながら大股でみるみる近づいてくる女性がいた。編集Tだった。映画だったら「感動の再会!」とかキャッチコピーがつく場面だろう。「まじ良かったス! もう迷子のアナウンスをしてもらおうかと思いましたー」と冗談(ではないのかもしれない)を言う編集Tの顔がちょっとひきつっていた。Wさんとともにかなりあちこち探し回ってくれていたという。
 シッソウ紙一重!
 とにかくぼくは生き延びた。聞けばなんてことはない。遺失物センターからいちばん近い階段から一フロア下がっただけで、たいした距離ではなかったのにぼくは当てずっぽうにずんずんと進み、変なところに迷い込んでしまったのだ。混雑に当てられたのだろう。東京コワイ。
 Wさんも携帯を奪回し無事にタクシーに乗ると緊張がほぐれた。さっきまでの猛烈な喉の渇きを思い出し、盛岡に同行していたタケダに連絡をしてみると「新宿の『どん底』でトクヤさんと太陽さんと安着祝いと反省会をしています」とのことで、そっちに車を回してもらってビールとハイボールにありついた。東京駅の冒険譚を話すとみんな腹を抱えて笑っていた。
 たくさん歩いたので久しぶりによく眠れそうだ。

10月17日(火)

 内幸町の日本プレスセンターで「コロナの記録と記憶~メディアは何を報じ、何を報じなかったのか~」というシンポジウムがあって、その基調講演として話をしてほしいという依頼があった。あんまり作家でコロナに感染した人はいないのだろうか。いても公表しないのであろうか。まあ、ほうぼうで書いていることだし、引き受けて壇上に登り、症状や後遺症などについて話してきた。
 ぼくの場合は特にナイフとフォークが当たる金属音などが気になるようになったが、「それがコロナの後遺症だ!」と断言できない気持ち悪さがある。書くべき漢字が思いつかないことも増えたがそれもコロナ感染と因果関係があるのかは誰も分からない。そのあたりを参加者ともっと議論してもいいような気もしたが、あの頃の話はすること自体が苦痛なのだ。早く帰ってビールを飲みたい。刹那的に生きている。

10月18日(水)

 秋の恒例となった市川市写真展の審査のために、市川市へ。
 乱暴に言えば、地元の写真好きのおっちゃんたちが集まった市川市写真連盟が主催する写真賞なのだが、だからこそ素人ならではのアイデアなどが盛り込まれていて、毎年うならされる部分がある。

10月22日(日)

 再度、市川へ向かい、表彰式に参加する。今年は「題名をもっとうまくつければなあ」という応募作が多かったなどと講評した後は、写真好きおじさんたちと近くの居酒屋で打ち上げだ。
 この仕事も二年目になったので、儀礼的な会合というよりも写真好きの仲間と「いっぱいやっか」という感じで楽しい。原稿が残っていたので名残惜しみながらも先に帰らせてもらい、しっかり書いた。

10月25日(水)

 原稿書きウィークはテレビをつけていることが多いのだが、どこも大谷翔平の話題ばかりだ。MVPを獲るのか、二刀流を継続するのか、どのチームに移籍するのかなどと、関係ない人が興奮気味に語っている。
 単純に「すごいなあ」とは思うが、あれくらいすごいと「夢がある」というより、もうみんなのやりたいことを彼が一人でやってしまった。そんな気もする。果たして野球小僧たちは「大谷みたいになりたい」と純粋に願うことができるのだろうか。

10月29日(日)

 茨城県神栖市立の図書館が「著者を囲む会」という定例イベントを開いていて、そこに招かれた。
 神栖は太平洋に突き出すように位置する銚子の北側に位置する町だ。鉄道駅はなく、利根川対岸を走る成田線という路線沿線からタクシーに乗るか、自宅からタクシーに乗るか、都心からは交通手段の選択が難しい土地のようだ。そう思っていたら「俺が送るよ」と息子が言ってくれたので、ありがたく世話になった。途中のサービスエリアでソフトクリームもオゴってくれた。
 現地に着くと野口くんという、以前、わが事務所でアルバイトをしていたセーネンが待っていた。大学生時代の四年間、しっかり原稿の資料集めや整理などの雑用をこなしてくれて、卒業時に後釜として弟を、その弟はさらに妹を紹介してくれた。一族郎党でわが事務所を手伝ってくれたのだ。
 結婚して、今は神栖に住んでいるというので顔を見せにきてくれた。元気そうだった。帰りはソフトクリームは食べなかった。

10月31日(火)

 三鷹で指圧のマッサージを受ける。少し疲れるのだが、それが心地よい。帰ってビールを飲む平和な一日だった。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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