失踪願望。失踪願望。

第33回

ネクタイ、命日、逃亡記 二〇二四年一月

更新日:2025/04/09

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1月1日(月)
 この日記を始めて何年目になるのだろうか。年が明けるといつも雑煮のことから書いているような気がする。ここ数年、元日から来客、ということもなくなり、雑煮やおせちのことしか書くことがないのだ。
 我が家の雑煮は醤油が基本で、昆布と鰹節で出汁をとる。具は大根、人参、鶏肉、白菜と定番王道だが、ぼくに選択権や決定権があるわけでもない。控えめに「里芋が入ると嬉しいなあ」とチラホラ進言してみて、入っていると嬉しい。今年は娘も帰っているし、ゆずの皮、三つ葉なども碗を彩り正月らしさ倍増だ。餅は軽く焼いてひとつだけ。食後は花びら餅とほうじ茶だ。
 小さい頃の雑煮といえば大根の葉を干した「干葉(ひば)」が入っていた。あれは千葉だけのものなんだろうか。
 その頃のぼくの母親は日本舞踊のお師匠さんをしていたので、新年というとその弟子がいっぱいやって来る。長兄が公認会計士をやっていたのでお得意さんがお酒などをぶら下げてやって来る。両方のお客さんが入り乱れる中、親戚の人などもやって来るので年初はとにかく大賑わいだった。現在の我が家の新年はというと、地元に根差した年始回りの付き合いなどないから静かなものだ。せいぜい家族との挨拶ぐらいだが、息子の岳の子供たちはお年玉を目当てにちょこっと顔を出すぐらいだった。
 夕方、能登地方を震源とする地震があった。大変なことだ。ぼくは東京にも直下型の地震がいつか来ると覚悟している。
1月2日(火)
 孫の海ちゃんが家にやってきて、ネクタイが欲しいと言う。
 学校の制服でつけるのだろうか。ネクタイなんてここ二十年くらいしていないので、好きに持っていきなさいと答えた。
 日本橋の蛎殻町に三松商事というネクタイ専門の会社があって、サラリーマン時代そこに用があって寄ると必ず一本ネクタイをもらえるのが嬉しかった。
 と過去形で書いたら、今も三松商事は蛎殻町に健在だという。老舗が元気なのは喜ばしい。
1月3日(水)
 時代遅れと言われている年賀状だが、それでも毎年、一〇〇通、二〇〇通が自宅や事務所に届く。物書きになって数年で忙しさを理由にやめてしまったが、みな律儀なものだ。
 訃報、喪中が増えてきた中で、結婚しましたとか、たまには飲みましょうとかの連絡があると安心する。
1月4日(木)
 年末から娘の葉が帰省している。彼女はワイン調達係で、午後になると少し大きめのリュックサックを背負って商店街を抜け、駅前の輸入食品店でワインを適当にみつくろって、重くなったリュックを揺らして帰ってくる。これこそ正しい「買い出し」だ。やれネットスーパーだ宅配業者だという世界で自分の食べるモノ飲むサケを自分の足で買いに行くことはとても健全に見える。
 そんなことを思いながら不健全な親父は妻が揚げてくれたトンカツを娘が買ってきてくれた赤ワインでいただくのであった。BSかCSで『ディア・ハンター』をやっていた。娘が深夜まで付き合ってくれた。
1月5日(金)
 前日の夕方、事務所が入っている西新宿のビルの一部で火事があったらしい。無事に鎮火したようだが、万が一、燃え移っていたら、とやや焦った。事務所には書籍とか原稿用紙とか積んであるから、よく燃えただろう。町内でごくたまに「火の用心」とねり歩く消防団の声が聞こえるが、西新宿の高層ビル街にもいるのだろうか。
1月6日(木)
 長年、講談社の「出版文化賞」の写真部門の選考委員をやっていた。
 この賞の選考委員には、先日亡くなった篠山紀信さんがいた。篠山さんは話好きで選考の間ずっと話をしていた。面白い話が多く、その合間に差し込んでゆく作品への評価はいつも鋭く、ほとんど彼のプライベートな講演のようでぼくは楽しみにしていた。
 とはいえ、こちらもプロの写真家の端くれで、しかも当時は若かったので彼と意見がぶつかったりもしたのだが、「椎名くん、それはね」と笑顔でいつもヒラリヒラリとかわされていた。その後にしたためる「選考の理由」という短文も名文だった。一芸に秀でた人はなんでも圧倒的に鋭い。ぼくはいつも「ずるいなあ、チキショウチキショウ」と思ってジタバタしていたものだ。
 そういうなんでも鋭いゲージュツ家は他にも何人かいる。伊丹十三さん、山下洋輔さん、東海林さだおさんあたりの名前が浮かぶ。みんなめっぽうオモシロいエッセイを書く人ばかりだ。チキショウチキショウ。
1月9日(火)
 訃報ばかりだ。
 ぼくは八代亜紀さんの歌う「舟唄」が好きで、あの有名なフレーズを何度も原稿で書いた。ある時、飲み仲間に「椎名さんはあぶったイカでいい、とか言いながらあまりスルメは食べない」と指摘された。
『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』では八代さんが主題歌を歌っている。あの筋の通った太くて美しい「いかにも演歌!」という声で寅さんを聴いていると涙が止まらなかった。ウイスキーを飲んだ。あぶったイカは自宅になかった。
1月11日(木)
 タルケンこと南方写真師の垂見健吾から電話があり、「来月、宮古島に来るんだって? 俺も行くさあ」と元気だ。
 どうやら沖縄に移住した西澤亨に聞いたらしい。その西澤は大阪にいる雑魚釣り隊のヤブちゃんが沖縄に遊びに来た時に聞いたらしい。ヤブちゃんは竹田が大阪に出張した時に串カツ屋で聞いたらしい。情報化社会の中で人伝連絡網が生きていることに笑った。みんな宮古島に集結して釣りだ泡盛だそばだと騒いでいるが、宮古島には文学賞の選考で行くのだ。彼らがついてきてもやることがないのだが、そういう根本的な理由は彼らは求めていない。「じゃあ俺も行く」、それだけで奴らは動いている。

 タルケンは写真家のくせに写真を撮るのがなんだかいつも恥ずかしそうだ。被写体からけっこう離れたところで三百ミリぐらいの望遠レンズを構え、相手が気が付かないうちにパシャパシャっとやってしまう。それがなかなかいいんだなあ。
1月13日(土)
 葉がニューヨークに帰っていった。
1月19日(金)
 この失踪願望チームで新年の挨拶と宴会の予定だったが、竹田が発熱したらしく欠席した。いつもいちばんサケを飲む、頑丈さが取り柄の丸太のような男なだけに少し心配だ。心配だ心配だと言いながら、打ち合わせの後、神保町の中華料理屋でたらふく牡蛎と春巻を食いながら紹興酒をたくさん飲んだ。
 ふと気づくと円卓に、生ビールのグラスがひとつ増えている。「今日は目黒さんのご命日でした」と編集Tが言う。ぼくは何も言えなかった。こういうのは苦手なんだ。しばらく黙っていた。
1月21日(日)
 冬になると半田麺を買いだめする。圧倒的麺命の我が人生も長くなったものだが、味や使いやすさを考慮すると総合戦闘力は一番なのではないか。
 この時期は鍋のシメにいい。我が家は豚肉のしゃぶしゃぶをすることが多いが、どちらかといえば豚肉は露払いみたいなもので、前座はたっぷりのレタス。主役は最後に登場する半田麺様だ。エノキやしいたけのエキスがたっぷり出た鍋に投入すると三分ちょっとで仕上がる。僕は冬季の鬱なのだが、この半田麺をずぞずぞほふほふと食べている時のみ「冬も悪くないな」と安易に気持ちが変わったりもするのだ。
 徳島から大量に取り寄せるので、ついでに世話になっている人にもお裾分けした。お礼の電話がかかってくるので、正しい食べ方を四、五人に伝授した。そろそろ半田麺普及委員会の仕事が来てもいい頃だ。
1月22日(月)
 大きな文学賞の受賞作家が、その受賞作の中で人工知能を使用したことが話題となっている。
 賛否があるのだろうが、それで作品が面白くなるならいいのではないか。自分も使いたいかといえば分からない。その前にパソコンがロクに使えない。
 人工知能でたとえば小説を書くということは面白いのだろうが、とりあえず読む気はしない。こっちが人工頭脳になったら面白いのだろうけれど。
1月24日(水)
 慶應病院に行って薬をもらう。だいぶ寒くなった。新宿に寄って熱燗でも飲みたいが、タクシーを降りて店に向かう数十歩で体が冷えそうなのでおとなしく帰宅した。
1月26日(金)
 この日、鎌倉市の病院で桐島聡を名乗る男が見つかったとの報道があった。元過激派の、何で追われていたのか実はよく知らないが、警察の軒先にずっと指名手配のポスターが貼られていて顔は知っている、あの男だ。
 やっと見つかったかというより、この情報溢れる現代でよくもずっと逃亡潜伏ができたなあという感想だ。
 外国人英語講師を殺害した市橋達也が『逮捕されるまで』という3年弱の逃亡記を書いていたが、臨場感に溢れていて一気に読んでしまった記憶がある。確か南の島の無人島に隠れていたという記事を読んだ。その島はけっこう知っているがハブだらけで有名な島で、その近所に行くとたいていハブの死骸を見ることがある。ずいぶん勇気のある男だなあと単純に思った。
 その二〇倍くらいの期間の逃亡だもんなあ。どこにいたんだろう。手記のようなものがあるなら、読んでみたい。
1月28日(日)
 植村直己冒険賞の最終選考のため市ヶ谷へ。この審査員も長年やっているが、最近は「冒険も根本から変わったなあ」と毎年痛感する。
 植村さんは欧米的な価値観に自己をかき乱されずに自分の世界を作り上げた人だ。二度ほど会ったことがあるが「ぼくのやっていることはたいしたことないんですよ」と笑っていた。でもその言葉には冒険の本質がある。「私はすごい冒険をしました」とか「いよおし、探検に出発だあ」なんて人には冒険はできない。なぜか他人に吹聴する人は非常に多い。周囲にどう思われようと独自路線を進んだものが外から評価される。冒険とは本来そんなものだろう。どんどんそういう人が出てきてほしい。
 ちょっと会議が長引いて帰宅すると初場所は終わっていた。照ノ富士が勝ったようだ。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。

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