

第39回
夏風邪、ビル風、津田梅子 二〇二四年七月
更新日:2025/07/23
- 7月1日(月)
- 朝からなんだかアタマが働かず、原稿が書けない。おかしいと思って熱を測ると三九度あった。夏風邪にしては高熱だ。
そうか原稿が書けないのは熱のせいだったか。なぜだか少し安心し、木山捷平(きやましょうへい)の本でも読もうと気持ちを切り替えたが、手元にはない。探すのも億劫だ。結局、テレビを見てしまう。
- 7月2日(火)
- 昔住んでいた小平や国分寺のあたりを取材する予定だったが、熱が下がらないので延期してもらう。
一橋学園駅の近くにある大勝軒では、まだ存在感のあるでっかいラーメンを出しているのか確かめたかったのに残念だ。
- 7月3日(水)
- 熱が下がったので慶應病院に行く。変な日本語だ。本来なら熱が上がったから病院に行く、のはずだ。昨今の感染症やらなんやらで熱があると病院に行けない。世の中はどんどんヘンテコに複雑化していくのだろうか。
- 7月5日(金)
- 小伝馬町のギャラリー「ルーニィ」で「蕎麦とビール」というタイトルのぼくのミニ写真展が始まったので見に行った。
小さなモノクロの写真が多く、なんだかあまりにも娑婆っぽい。もっとノスタルジックな建築物とか不思議な植物とか撮ればいいのにな、と我ながら思うが、特に東京では撮りたいビルなど思いつかないのだった。強いていえばこのギャラリーがあるあたりの下町の風景やお祭りの様子などを撮っておきたいのだが、それらもどんどん失われていっているらしい。確かに浅草橋、馬喰町などを通りかかっても、だいぶ景色が変わっている。学生の頃、ちょうどそのあたりにある伸銅品屋さんの倉庫でアルバイトをしていたから、なにかとなつかしいところなのだ。
この日は展覧会の後、来場してくれた皆さんと近所の蕎麦屋で蕎麦とビールを楽しむというイベントに参加した。少人数の集まりがかえって親密で心地よく、ビールがうまい。夏なのになんだか肌寒かったので、蕎麦焼酎のアチアチ蕎麦湯割りという、粋なんだかヤボなんだかわからないものを作ってもらった。
- 7月8日(月)
- 岩切靖治と豊田皓と虎ノ門の焼き鳥で久しぶりにイッパイやる。二人とも大きな会社の社長だった。「元気だったかあ?」「ああ、ぼちぼちだ」などと近況を確認し合う定例会だったのだが、八十歳前後のじいちゃん同士が顔を合わせると、いつの間にか週に何回病院に行くとか、緑内障はやったか白内障はどうだとか病気自慢になっている。小学生が予防接種の注射をした後に「ちょっとチクっとするけどたいしたことなかったよ」とか胸を張るのと構図としては同じだ。病気の話をしながらのビールと焼き鳥はうまかった。
- 7月9日(火)
- この失踪願望のチームで池林房で打ち合わせをする。この夏から秋にかけての取材のスケジュールなどを相談したかったのだが、暑いからか店内はサラリーマンのおとっつぁん連中が多く、けたたましくやかましい。
これでは打ち合わせもままならないので店を出て、路上にテーブルを出している近くの大衆居酒屋で飲み直す。時折ビル風が通り抜けて、なかなか気持ちが良かった。トクヤが通りかかったので「キミの店はうるさすぎるよ」とクレームをつけたが、「賑やかに映画や芝居、そして文学論を交わす店を作りたかったんだからしょうがないんだい」と反論されてしまう。あのおとっつぁん達の喧噪が文学論だったとは。
- 7月10日(水)
- 小学館から文庫新刊が出る。そのお祝いということで神保町の寿司の名店「ひげ勘」を編集者が予約してくれたのだが、血圧が高い。確かアジやマグロ、ブリなどは血圧を下げる効果がある食べ物だった気がするが、そのぶん酒も飲むだろうし、少し体調にも不安があったのでキャンセルした。これまでのわが人生、こういう集まりを直前にやめたことなどなかったのだが、このところやっぱりおかしい。
- 7月11日(木)
- 週末は盛岡でイベントと取材なのだが、シーナの体調が上向きにならないという話を聞きつけて、編集タケダが漢方を勧めてくれる。
「一般的には大黄甘草湯あたりが服用されていますが、これはよく食べる体力のある人向けで、血圧の値に影響する可能性もあります。ご高齢で冷えのあるシーナさんは桂枝加芍薬大黄湯あたりがいいかもしれません」という説明。
だいおうかんぞうとう。けいしかしゃくやくだいおうとう。どちらも読めなかった。
- 7月13日(土)
- 桂枝加芍薬大黄湯は飲んでいないが、クーラーのきいた室内で経口水を摂り原稿を書いていたので、体調は良くなった。盛岡行きはなんとかなりそうだ。明確な理由がないのにいつも前泊して待ち構えているライター竹田に、現地はどんな感じだ? と電話をしてみる。
「今夜はちょっと趣向を変えて、鹿角ホルモンを食べています。宍戸さんと健太郎と太陽さんが一緒です。ビールからハイボールに切り替えました。これから二軒目の小料理屋風の料亭で地酒を飲みます。女将が美人!」
もう既に何人か集まって飲んでいるようで、奴らは相変わらずだ。現地の気温やら天気やら「室内は冷房がきいて寒いので羽織るものがあったほうがいい」とか、そういう役に立つ情報が欲しかったのだが諦めて「たくさん飲んでいなさい」と言って電話を切った。
- 7月14日(日)
- 日曜日の東京駅は混雑していて、特に昨今は他国言語が飛び交う混沌の空間となっている。さらにこの日は雨で湿気も高く、なかなかの不快指数だ。
ぼくはいつも混雑を避けて、日本橋口の駅前ロータリーへタクシーで向かう。ここは新幹線専用改札なので、人の往来も少なくストレスもない。この時も改札までスムーズに向かったのだが、タクシーの車内で上着のポケットに入れておいたはずの切符が、いつの間にかない。
Wさんが慌ててタクシー会社に電話をするが、車内には落ちていないという。そこでWさんは歩いてきたルートを辿り、降車スペースまで戻ったところ、緑色のチケットが小雨に静かに打たれていたという。無事回収。濡れていたので自動改札は通れず、駅員にハンコを押してもらって入場した。
乗車にも十分間に合い、Wさんがシフォンクリームサンドとカフェラテをホームの売店で買ってくれた。朝飯がわりに甘くてふわふわしたものを食べ、ホッとしていると眠ってしまい、気がつくと盛岡到着。ぴょんぴょん舎で二日酔い気味の前泊組と合流し、冷麺をカミカミすする。盛岡は晴れていたので生ビールはまぬがれない。
クロステラス盛岡で無事にトークショーを終えて「海ごはん しまか」でウニホヤの打ち上げをする。ホヤを夏に食うとたまらなくうまい。東京ではこのうまさを再現できないのだ。冷麺からクロステラス経由のしまか宴会。この盛岡黄金コースはいつ行っても楽しいものだ。次の盛岡は秋の予定だから秋刀魚やタラ、カツオあたりが楽しみだなあ。
- 7月16日(火)
- 連日、米トランプ大統領銃撃のニュースの続報が入る。
実はトランプとは誕生日が同じらしい。だから何だというわけではないのだけれど。
この事件に関連し、テレビでは世界情勢への影響を論じ、過去の事件や発言を掘り返し、各国経済への余波を懸念する。ありとあらゆる議論がされている。
ただ、銃撃というショッキングな出来事について、日本のマスコミ、特にテレビはどこか興奮気味で、何かを案じているというよりも、わあわあ騒いでいるだけのような気がする。SNSの世界では「自作自演だ」なんていう声さえあるらしいが、ぼくなどには本当のことは何も分からないし、知る術もない。こういう時こそマスコミには、冷静で中立な報道をしてもらいたいのだけれど。
少しもやもやとしながら三鷹にいつもの指圧を受けにいく。背中のあたりが少し楽になった。
- 7月17日(水)
- 虎ノ門の目医者に行く。特に問題なし。暑いのに東京タワーのあたりにはたくさん人がいた。ゆらゆらと陽炎が揺れているのが見えた。
- 7月20日(土)
- 体調が悪かったり、何も考えたくない時はDVDで昔の映画を見る。話の筋と展開が分かっているから、安心して思考停止状態になれるのだ。
同様の効果があるのは、麻雀番組だ。対局を観戦していると「おお、三人テンパイか。どうなるんだ」というスリリングな場面はあるが、しょせん他人のゲームだからという客観的な目線もあり、精神的にはちょうど落ち着く。
娘から電話があったのでその話をしてみると「それはちょっと分かるなあ。私もニューヨークタイムズ紙オンライン版に載っているパズルを黙々と解くのは気分転換と、小さな気晴らしになる」と同意してくれた。同意とはいえ、海外高級紙のパズルと麻雀番組の位置づけが同列でいいのか、ふと疑問に思う。
- 7月22日(月)
- 午後から神保町の学士会館で文学賞の選考会を頑張ったので、生ビールを飲む資格は十分だ。久しぶりにランチョンに行ったら、編集タケダが来てくれた。
しかし、なんということだ。目当てのアイスバインが売り切れらしく、失意の開宴になってしまった。とはいえ、スモークサーモンをむぐむぐと食みながら黒ビールを飲み、オムライスを頼む。どれも大変おいしくビールが進むが、やはりアイスバインが食べたい。「子供みたいですねえ」と編集タケダは笑っていた。
- 7月23日(火)
- 先日の写真展からの少人数宴席「蕎麦とビール」が好評だったらしく「蕎麦とビール、おかわり」の会に呼ばれた。
東京は気候が壊れはじめていて天井知らずの暑さであるから、断る理由もない。編集タケダもこれを聞きつけて「この猛暑ですから、生ビールと蕎麦は不可避ですねえ」と扇子をパタパタさせながらやってきた。
深掘りした話ができたかどうかは分からないが、涼はとれた気がする。しかし、帰りのタクシーは冷房のききすぎだった。
- 7月24日(水)
- あまりお金を使わない。居酒屋はツケで請求書を回してもらっているし、タクシーはメンバーズカードで払っている。だから今月に出た新札をまだ見ていなかったが、コンビニで買い物したら津田梅子と北里柴三郎がやってきた。かつて津田塾大学の近所に住み、今も北里大学病院で人間ドックを受けている身としてはなんとなく嬉しい。
- 7月25日(木)
- 体調がすぐれなかったが、内幸町の日本プレスセンターに行き、斎藤茂太賞の授賞式だけに参加する。その後のパーティーはキャンセルさせてもらった。またレストラン「アラスカ」のカレーを食べ損なった。特別賞を受賞した高田晃太郎さんの『ロバのスーコと旅をする』を再読したが、いい意味で軽く読み進むことのできるいい作品だった。
- 7月26日(金)
- 酷暑や猛暑にあてられて犬のようにハヒハヒいって毎日を過ごしているが、移動のタクシーや室内の過剰冷房に喉をやられ、寒気がする。本の雑誌の浜本編集長との打ち合わせを延期させてもらう。
- 7月30日(火)
- 体調が回復しないので慶應病院へ行く。ひと月の間、ずっと風邪をひいていたような夏だ。こんな低調のまま生きていかなくてはいけないんだろうか。むかしから夏は好きだったんだけれど、この夏は今までにない低調さだ。困った気分になっている。
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第9009285077Y38029
Ⓒ 撮影/内海裕之
- 著者プロフィール
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椎名 誠(しいな まこと)
1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。
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