失踪願望。失踪願望。

第36回

妖精、イベント、身分証 二〇二四年四月

更新日:2025/06/11

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4月2日(火)
 去年、怪しいオジイ役で出演のオファーをもらっていた映画が完成したというので八重洲に試写会に行く。
 なかなかブンガク的な作品で、少し長いけれどそのぶん楽しめた。歩くシーンが多くて、出演は無理だったなあ、と妙に安心した。
 その足で新宿に寄って「池林房」でビールとハイボール。映画館の後の酒はうまい。
4月7日(日)
 新宿「犀門」の料理長の葛原さんが我が家を急襲してきた。彼は坊主頭で眼光は鋭く口下手で恰幅がいい。いかにも居酒屋の料理人といった風体だ。両手にたくさんタケノコを持っている。しかもあく抜き後の即戦力タケノコだ。店の客が茨城に秘密の山を持っていてそこに毎春、掘りに行っているらしい。今年はオーナーの太田トクヤも行ったらしい。元気だなあ。
 ともかくありがたくいただき、妻がさっそく出汁をふんだんに使った薄味の煮物にしてくれた。春の味だ。ビールがうまい。
 葛原さんは「来年も持ってきますよ」と言ってくれた。春の訪れを告げるヒトはもっとディズニー映画の妖精みたいな見た目だと思っていたが、うちの場合は坊主頭の迫力ある料理人だ。
4月10日(水)
 慶應病院へ。医者は「顔色がいいですね。冬が去ると上向くんですかね」と笑っていたが、あながち外れていない。熊や蛇は冬眠できていいなあ、と羨ましい。
4月12日(金)
 午後に三鷹で指圧を受けた後は新宿「池林房」で生ビールを飲みながらの打ち合わせ。
 初めて会う若い編集者から回顧録のようなものを書いてくれないか、という依頼だった。
 ぼくは既に三百冊以上の本を書いている粗製乱造作家ということを改めて言うが、「だからこそ書いてほしい」という熱量があった。
 もちろんうかつに返事はできないが、「まだ書ける」と編集者に力強く言われるのは作家のエネルギー源だ。仕事とは別に人生の分岐点などについて酒を飲みながら語った。金曜の新宿は人が多かった。
4月15日(月)
 自慢じゃないが眠りが浅いので、夢はけっこう見る。超長編の夢を見ることもあれば、ショートフィルム豪華三本立ての時もある。
 今朝は四合瓶くらいのサイズの山下洋輔さんがリビングに登場して「椎名さん、これあげるよ」と何かを握った右拳を突き出しながらテレビの裏に隠れてしまった。探しても出てこなかった。いい夢なのか悪い夢なのかよく分からないが、どちらかといえば愉快な目覚めだった。
4月17日(水)
 ぼくは思いつき即行動の衝動型で生きてきた。
 昨年、雑魚釣り隊のチーフコックのザコが盛岡のイベントの時に「男はつらいよ」をモダンな感じで歌っていたのを聞いて「これはもっと多くの人に聞いてほしい」と使命感を抱き、いつもの新宿の「池林房」で先日、宍戸健司や竹田に相談してみた。
「ではイベントをやりましょう。しかし、音楽イベントを開催して椎名さんに踊って歌ってもらうわけにはいかないので、新刊を売りましょう。出版社に相談しましょう。ちょうど雑魚釣り隊も結成二〇年なんです」
 タイムリーに池林房のオーナーのトクヤが顔を出した。このヒトは新宿三丁目駅のC5出口から徒歩四〇歩にある芝居小屋「雑遊」のオーナーでもある。ハコはそこにしよう。日程とキャパシティを確認して、新刊音楽イベントという謎のプロジェクトが立ち上がった。その場で本の雑誌社と集英社と小学館に連絡も飛んだ。雑魚釣り隊の連中との遊びはいつも話が早い。
 このイベントの総合運営を去年、広告代理店から独立して「株式会社vidro(ビードロ)」という郷土愛溢れる会社を立ち上げた長崎出身の橋口太陽に任せた。企画構成を竹田。ぼくは何もしなくて大丈夫、と思っていたのだが、竹田からこのところ毎日、連絡がある。今日も朝から電話が鳴った。
「イベントタイトルください。早くください。それ決まらないと告知も内容も演目も決まらないです。はやくはやくタイトルタイトルタイトル。題字も書いてください」
 そんな簡単に決まるもんではないのだが、こういう時はシンプルがいちばんだ。
「雑魚釣り隊20周年記念 新宿3丁目まつり」にした。
4月18日(木)
 昼前に橋口太陽が自宅に押しかけてきて、「イラストください。イラストイラスト」とわめいている。
 タイトルなら昨日、竹田に出したと抗うと「セットでメインビジュアルが必要なんです。告知ポスターにしたり、記念Tシャツも作ろうと思っています。ラフでいいのでイラストイラスト」とテキも譲らない。
「今日疲れた。明日書く。帰って寝ろ」とカタコト簡略化で断ってみたが「ダメダメアスオソイ。イマスグヨコセハヤクハヤク」と太陽も強硬だ。
 仕方ないので理不尽な怒りを込めてヤケクソ的にデカいビールジョッキに変な人や妙な生き物が殺到する絵を描いた。その中ではルチャ・リブレのレスラーも怒っている。
「いやあ、こういうくだらないのが欲しかったんです。これで入稿準備しまあす。土曜日までに入稿原稿をください」と太陽は満足して帰っていった。昼飯を食べ損ねた。
4月19日(金)
「クロステラス盛岡」という場所で年に数回、トークショーをしている。毎回、テーマがあってそれを年度初めにぼくの本の刊行スケジュールに合わせて大まかに決めてくれるのだが、その打ち合わせのために、クロステラスの親会社である三田農林の三田林太郎社長、その部下の橋野浩樹青年、東北でイベントや出版、魚の買い付けなどをしている高橋政彦なんでも屋の三人が新宿にやってきた。
 雑魚釣り隊は昨秋にみんなで盛岡に押しかけて合宿と酒盛りをしているので、すっかり彼らとは打ち解けている。
「クロステラス三人衆が新宿に来るぞう。どってこどってこ来るぞう」
 竹田がそう通達するとわらわらと集まってきた。長くなりそうなので、大まかなテーマ案と最近の盛岡の話を聞いて早めに退散したつもりだったが、四時間も飲んでいた。
4月21日(日)
 天気も良かったので原稿をほっぽって家の前の道を眺めていた。夕方に孫が顔を出してくれた。
4月23日(火)
 朝から原稿を書き、午後に五月のイベントのチラシのデザインが届く。
 本の雑誌社と集英社と小学館が協賛になってくれたが、普通はこんなスピードで社名を使う許可は出ないらしい。持つべきは優秀な担当編集者だ。
 夕方から妻と共に犀門へ。佐高信さん夫婦と定例の食事会をする。佐高さんはもちろん奥さんも言いたいことをユーモアに包んで言う人で話が弾む。葛原さんがカツオ、ホンマグロ、マコガレイ、ホタテなどを刺し盛りにしてくれた。毎日このように過ごせればいい。
4月25日(木)
 池林房で来月のイベント「3丁目まつり」の進捗を確認する。
 まずは生ビールで乾杯、となった時に財布がないのに気づいた。
 ぼくはタクシーに乗る時は東京無線のメンバーズカードを使う。それは財布の中に入っているので、タクシーを降りたところまでは持っていたはずだ。東京無線に問い合わせてもらうがすぐには分からないという。
 こうなると平穏に飲んでいる場合ではない。タクシーを降りた地点から池林房までの五十歩の間に落としたのかもしれないので、伊勢丹の角にある交番に事務所のWさんと共にえっちらおっちら歩いて届けを出した。
 ただ、やはり担当した若い巡査(たぶん)は「見つかってからこちらから連絡しますので近くの署に来てもらうことになります。身分証明書を持ってきてください」と役所のようなことを言う。ぼくは運転免許を返納してしまったので、身分証は運転経歴証明書というシロモノだが、持ち歩いていない。
 困っていると奥から年配の巡査長(たぶん)が「さっき届いたものはあります」と登場した。
 おお、その黒皮のくたびれ具合こそ我が財布じゃないか。しかし、巡査長も「保険証が入っていますので、身分が証明できれば……」とやはり同じことを言う。
 本人が名乗るだけではダメなのか。少し途方にくれていると、Wさんがスマホを操作し、じきに発売される『続 失踪願望。』の書影を出して一言。
「このヒトがシーナです」
 効果はてきめんで、目の前のじいさんが著者と納得してくれたようで、無事に財布を取り戻した。
 ぼくは著作はたくさんあるが表紙に自分が載っている本は少ない。あんまり好きじゃないのだが、近著で作っておいて良かった。巡査長も「おお!」と驚いてくれて照れ臭かったが、まあともかく財布が戻ってきた。「誰ですかこの老人は」とか冷たく言われなくて良かった。
 安心して池林房に戻るともう連中は酔っ払っていて打ち合わせどころではなかった。財布の中身は六八〇〇円だった。
4月26日(金)
 指圧を受けるために三鷹へ。みっちり六〇分ほぐしてもらって少し楽になった。タクシーを呼ぶ時は三鷹の診療所か新宿の酒場か千駄ヶ谷の大病院のどれか。そんな生活になりつつある。
4月29日(月)
 もう一年以上使っているのにスマートフォンに慣れない。
 電話がかかってきて、相手が「すいません。気づかなくて」といきなり謝るが、かけた覚えがない。無意識で余計なところを触っているのだろう。
 孫が設定してくれた左義長まつりの動画もいつの間にかどこかに行ってしまった。こんな小さい端末でも迷路みたいに複雑なんだなあ。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。

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