失踪願望。失踪願望。

第32回

片付け オレオレ 新世界 二〇二三年一二月

更新日:2025/03/26

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12月1日(金)
 師走。
 急ぎの仕事はないので使っていない三階の本だらけの部屋の片付け整理をはじめた。本のほかは映画関係のものがごろごろしている。映画の現場でも十六ミリ関係の撮影機、レンズ類なんか今は使わなくなっているのになあ。他人にはガラクタ、ぼくにはたからもののカタマリ。アリフレックスを一〇〇万円で買ったオロカな日々を思い出す。
12月3日(日)
 朝から掃除の続き。外国で買ってきた装丁の面白い本やかっこいい文具などが発見されて「お、これはいいぞ」と一瞬、迷うが十数年、机の引き出しに眠っていたということは、それはもう不用品なのだ。
 事務所のWさんも来てくれたので、仕事の資料や過去の原稿などを見せて判断を仰ぐが「不要です」「それもいりません」「ゴミです」「捨てます」「なんですかソレ」と、キビキビと容赦なく決断してくれてはかどった。
12月5日(火)
 連日の掃除で腰が痛くなってきたが、腰痛とは関係なく今日は慶應病院の消化器外科に行った。
 人並みに胃腸が疲れているらしい。以前は「人より胃腸が頑丈ですね」と言われるとどこか嬉しかったが、今は「人並み」と言われて嬉しい。不思議なものだ。
12月6日(水)
 慶應の皮膚科に行く。今年は痒みや蕁麻疹(じんましん)などに悩まされた。
12月7日(木)
 眠れずにテレビをつけるとNHK・BSで『刑事コロンボ』をやっていた。でかした! と見はじめたのだが、夜中のスタートだったので、コロンボがじわじわと犯人の動機を追及するくらいまでしか覚えていない。眠ってしまって犯人がオチる場面を逸した。まあともかくコロンボのおかげで眠れた。
 刑事コロンボにはずいぶんお世話になった。武蔵野にいる頃からだから長いつきあいになる。最初の頃はNHKの地上波でやっていたんだよなあ。コロンボ役の声優、小池朝雄がなんといってもよかった。ああいうのこそを適役というんでしょうねえ。少し間を延ばして話すと生き生きしてくる。コロンボは英語よりも日本語のほうが似合う顔になっている。
 毎回、監督は変わるのにいくつかのきまりごとはちゃんと守って受け継がれていくのもいかにも映画の国、アメリカだった。
 犯人は名だたる俳優。そこそこ上流階級の役どころが多かったから彼らの暮らしぶり、生活ぶりが結構いろいろ見えて面白かった。
 寝室ひとつ見ても、なにもかもしつらえが大きく重厚で、この国の人々はミエで暮らしているんだろうなあ、などと見えてしまう。
 コロンボの捜査だが、かなりのところであからさまな「ひっかけ」があり、友人の日本の弁護士に聞くと日本風の捜査が入るとこれじゃあことごとく簡単にひっくり返される、あるいは検事捜査で分解、という程度のモノらしい。
 まあテレビを見ている人たちにとって納得できれば、というのでいいのだろう。
 巨大なシェアを誇る番組なんだから一度くらい私立探偵のヒーロー「フィリップ・マーロウ」くらいゲストで招いたりしてほしかったなあ。この頃やらなくなってしまったがぼくはコロンボよりも「フロスト警部」のほうがだんぜん好きだ。あそこに出てくるイギリス系の役者はみんなバツグンに巧い。そしてサクソフォンがメインのBGMが圧倒的にやるせなくペーソスに満ちている。素晴らしいのだ。
12月10日(日)
 映画に凝っていたころ自宅の三階に映画室(シアタールーム)を作った。五メートル×十メートルという広さだったからちょっとした試写室ぐらいだった。電動式の四・五メートルのスクリーン。ドルビーサラウンドの八スピーカーシステム。「オトナリ座」は、十年ちかく続いた。  ここで上映したものでよかったのはジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』、『シェーン』『アラビアのロレンス』『さらば愛しき女よ』『グラディエーター』『幕末太陽傳』。映画好きを二十人ほど呼んでぎゅうぎゅうになりながら見た。  そんなことを思い出しながら、よろよろと掃除の続きをした。スクリーンとオーディオシステムをおもいきって処分した。さらばオトナリ座よ、だ。
12月12日(火)
 朝から女性編集者が電話をくれて「昨日、ラジオを聞いていたら椎名さんの作品を福山雅治がいい声で朗読してました。癒されました」と興奮していた。芸能関係のことはあまりわからないが、きっとありがたいことなのだろう。いい声で朗読してもらえると本は売れるのだろうか。だったら毎日、読んでほしいものだと思って事務所のWさんに確認すると、今週はずっと『この道をどこまでも行くんだ』を読んでくれるらしい。
12月14日(木)
 武蔵小杉で講演があると聞いていたので、「久しぶりにあっちのほうに行くなら帰りに懐かしいラーメン食べたいなあ」と事務所のWさんに話していたらどうも話が嚙み合わない。東京の西側に住んでいた身としては「武蔵ナントカ」は三鷹や国分寺の隣と思っていたが、武蔵小杉は川崎なのであった。講演は無事に終わったが、ややブゼンとしつつタクシーで多摩川を渡って帰宅し、ウドンを食べて寝た。
12月15日(金)
 大谷翔平がロサンゼルス・ドジャースに移籍するようで、朝から記者会見だ契約だとテレビがうるさい。契約金だか年俸だか何億ドルとか言われてもよく分からない。でも日本にはロクなニュースがないから明るいニュースなんだろうなあ。
12月17日(日)
 毎年、年末に仲間と「粗大ゴミ合宿」という名の二〇~三〇人での無目的な合宿を福島県の勿来(なこそ)で敢行していたが、近年はコロナもあったし、去年は目黒の病気などもあって、行けなかった。
 すると去年「ではケジメをつけてきます」と何人か(それでも一四人行ったらしい)がいつもお世話になっている「白波荘」という民宿に足を運び、「今年で最後にします」と仁義を切ってきたらしい。
 海岸での野球も恒例で、そこには会津地方からぼくの読者で教員だった方が毎年、その年に出た本を携えて挨拶に来てくれていた。その人にも最終回を告げた。
 そして今年は「粗大ゴミ合宿の代わりに忘年会はやりましょう。那須の温泉です。麻雀卓があります」という甘い誘惑があったのだが、ぼくはそれにも行かなかった。正確に言うと行けなかった。数日前から倦怠感があった。熱などはないので、それが風邪なのか精神的なものなのかよく分からない。昔は「北に行く」なんて最高に楽しみな予定だったのだが。
12月18日(月)
 元寺尾の錣山(しころやま)親方が亡くなってしまった。好きな力士だったのに残念だ。
 阿炎は寺尾の愛称「アビ」からとった四股名だったのは知らなかった。阿炎が涙ながらにコメントしていてもらい泣きしてしまった。六〇歳かあ、若いなあ。
12月20日(水)
 ついに我が家にも詐欺の電話がかかってきた。
 若い女性の声でオーガニックシャンプーだか化粧品だかを売っているという売り込みの電話だった。
 平日の午後にじいさんが出て化粧品のセールスもないだろう。「必要ありません」と余計なことを言わずに切ろうとすると、「娘さんがご興味あればカタログだけでも」と食い下がる。刺激するのも怖いので丁寧に「それでも必要ありません」とやや強引に会話を終わらせた。
 酒場でその話を友人にすると「それはきっと家族構成とか探ってるんですよ」という意見があった。若い女の声に相好を崩して「うちは老夫婦だけですからねえ。息子も今は関西のほうで暮らしていてお盆に帰ってくるくらいですよお」などとうっかり話してしまうと、今度はオレオレ詐欺とかのターゲットにされてそっち方面から電話がかかってくるというおっかない二段構えのようだ。無愛想で偏屈な老人で良かった。
12月22日(金)
 愛媛で「ほそぼそ芸術」という慎ましいアーティスト活動をしている神山恭昭(こうやまやすあき)さんが、東京柳橋のギャラリーで「通称エエンヤロウカ展」を開催していて、トークショーのゲストに呼ばれていた。なんだか身体が疲れているし寒いので、申し訳ないがキャンセルしようかなと思っていたら、ツマに「行って話して、ビール飲めば元気になるんだから行きなさい」と言われ、柳橋に行ってきた。けっこう面白いイベントで、神山さんと会って話すのは楽しく、寒かったけれど会食でのビールは美味しかった。悔しいけれどツマの言ったとおりなのだった。
12月23日(土)
 講演のため盛岡へ。先遣部隊がいつもの「ぴょんぴょん舎」で待ち構えていた。
 雪が積もっていてとても寒いので、「雪濃温麺(ソルロンオンメン)」という熱々スープのメニューを頼んだ。これまでの人生で「盛岡といえばコレ!」と蜜月の関係を続けてきた冷麺を裏切るのは断腸の思いで、牛骨スープという未知の食べ物に挑戦するのは偉大な冒険だが、ぼくは決意した。
 すまんすまんと謝りながら白濁スープをすする。これがうまかった。やっぱり盛岡と言えば牛骨スープだ。
 腹を作っていつもの「クロステラス盛岡」に行くと、クリスマスということで山から伐り出してきたというでっかいモミの木が飾られていた。この「クロステラス盛岡」を運営する三田農林は明治創業の林業を中心とした会社で、さすがの貫禄だ。現在の社長も林太郎(りんたろう)という名前でさすがの貫禄だ。
 講演は「世界のクリスマス」というテーマだったのだが、気がつくとゾンビの話をしていた。クリスマスツリーを背中になんちゅう話をしているんだと思わないこともなかったが、東北の人はいつもながらの大らかさで笑ってくれていたのでまあよしとして、宴会方面に切り替える。
 時刻は一六時。予約していた「海ごはん しまか」は一七時の開店なので「ではゼロ次会ですね」と東北方面に行くといつも駆けつけてくれる高橋政彦君と松本伸カメラマンが素早く近所の店を見つけてきてくれた。最近の盛岡の話を聞くと、映画館が新しくできるらしい。いいニュースだ。
 一七時になって、本命の宴会開始。マグロ、カツオ、牡蠣、白子、穴子をたらふく食べた。痛風が怖いが食欲のほうが強い。二二時過ぎまで飲んで僕は自室に戻ったが、東京から来たこの「失踪願望。」チームと三田農林&高橋松本の盛岡チームは意気投合して、三寿司という老舗で深夜三時まで飲んでたらしい。バカめ。
12月24日(日)
 朝、ホテルの朝食会場で二日酔いだという編集者の武田とライターの竹田のダブルタケダが、改まって「椎名さん、大事な話があります」と言ってきた。
「椎名さんは昨日、長年連れ添った盛岡冷麺を卒業して雪濃温麺を食べたら、新しく素晴らしい世界が開けましたね? だから今日はさらに違う扉を開けましょう」
 なんだかまわりくどかったが、ぼくが今日もぴょんぴょん舎に寄って帰ろうと言っていたのだが、彼らは「たまには違う店にしよう」と主張していただけの話だった。
 結局、大同苑という有名店に行って「クリスマスだからビールとキムチですね」と、午前中から飲酒をした。牛タンがうまかった。冷麺はスープがねっとり濃厚でこれもうまい。外は雪がチラついてきた。竹田は「雪だからマッコリですね」と韓国どぶろくを頼んだ。
 ぼくは「竹田よ、マッコリではなく、マッコルリだ。正しく発音しなさい。二本頼みなさい」と年長者としてアドバイスしてあげた。年長者はたくさん飲んで少し酔った。盛岡駅に向かうタクシーから雪景色の岩手山が見えた。
12月27日(水)
 娘の葉が帰省した。しかし一週間もいないらしい。もうニューヨーク暮らしは三十年ぐらいになるだろうか。最近は日本語がやや覚束なくなっている。「気を長くして待っている、からね、あっいいや首を長くしてか」なんていう具合だ。面白いのだ。
 恒例ながら既に自宅には年末年始の宴会用に彼女がインターネットで注文した各種酒類が積んである。
12月29日(金)
 三鷹に指圧マッサージを受けにいく。だいぶ楽になったので年末年始の宴会は大丈夫だ。
12月31日(日)
 年賀状はもう何十年も書いていない。あれも不要とは思わないが、現代のなんでも省略されてしまう風物詩のひとつなんだろうなあ。何人からか「良いお年を」という連絡をもらって、今年もオシマイ。つらい一年だった。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。

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