失踪願望。失踪願望。

第28回

腰痛、マゴたち、アナザーワールド

更新日:2024/06/26

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8月1日(火)

 若い頃に柔道をやっていた。じいさんになってくると、どうやらその頃の無理や不始末で腰痛モチになってしまったようだ。いま書きながら思ったのだけれど、これ「腰痛餅」ではないですからね。キナコかけても餡をいれてもヨーツーモチ。あまりうまそうじゃないですなあ。でも焼いて食べるとけっこういい味がでたりして。
 柔道ではぼくは「内股」という派手な投げ技が得意だった。その名のとおり、襟首を引きつけていきなり後ろむきになり、相手の股のあいだに大きく片足を入れ、キェーッなどといって力いっぱい跳ねあげる。
 タイミングよく決まると相手はスパンと全身もちあがり、一回転して背なかから落ちる。決まったら! ですがね。
 外されると自分だけ回転して背から落ちる。相手から「バーカ」などという目で見られる。キマるのと、外されるのとでは随分ちがった。
 ぼくがよくやられたのは「釣込腰」という技だった。たいてい背の高いほうが「内股」をやり、低いほうが「釣込腰」をやった。この技は攻めてくる相手の前で一回転していきなり腰を落とし、襟首をつかんだ手をまっすぐ上に伸ばしてそれを支えにして投げる、という強引な技で、攻めていくとき、突然相手の姿が消えて、こっちの体が宙に浮いていくんだから困る。足腰が強くないととてもできなかった。背負い投げよりもキレがよかった。
 高校のすぐ近くに警察学校の訓練学校があって全国からドロつきさつまいもみたいな猛者(もさ)がゴロゴロ集まってきていた。こっちはドロつきジャガイモだったけれど、なにしろ将来の機動隊を養成する学校だったから、さつまいものほうはもの凄いのがやたら物凄いイキオイで、ぼくたちはみんなしてよくぶっとばされにいった。いや、稽古をつけてもらった。
 ときには終わったあと一緒にカレーライスなど食ったりしてけっこう仲良くなっちゃうヒトもいた。芋同士だからね。
 あるとき一番親しくなった栃木弁ペラペラのやつから「おまえのところに千田っつう女生徒がいるだろ。なんて読むのかな。せんだ? かなあ、チダかあ」などと言ってきた。
 そのひととつきあいたいから紹介しろ、というのだった。ぼくの学校ではなぜか部活やってる生徒は鞄に名札をつけることになっていたのでそいつは駅とかバス停なんかで見て名前を知ったのだろう。
 きれいな顔をした生徒だったので学校でも有名なやつだったけれど、ぼくはまるで知らないふりをした。知っていたとしてもそもそも柔道部のジャガイモは、自校生徒であってもやたらに話しかけることなんかできなかったから最初から無理な頼みだったのだ。
 その警察学校の先輩は大きい体をしながら「小内刈」というその文字のとおりのセコい小技をよくつかってきて、しかもその技によって相手が倒れると「あびせ」といって強引にのしかかってくるので「乱取り稽古」の評判がわるかった。
 ぼくの腰痛は歳をとってからはっきりしてきた。まあ今の仕事が毎日ずっと座っていることが多いからなあ。
 腰痛は特に長い移動時がつらいので、事務所のWさんに相談すると新宿の京王百貨店でエアウィーヴという楽に持ち運べる簡易折りタタミ座布団を買ってきてくれた。背もたれもついた座椅子型でさっそく座ってみると確かに楽だ。軽くて持ち運びもしやすい。チームで移動するときはWさんが持ってきてくれる。

8月2日(水)

 座布団は届いたが「一気に腰痛解消!」とはいかず連日の猛暑にもやられている。なんとか元気がでてきたので出演する気になっていた映画の件も、腰の痛みがひどくなっているので断ることにした。思いがけないことだった。クランクイン間近のこの段階まできて断るのは、自分が一時期映画をやってきただけにその失礼の度合いはよく分かっていた。男気あふれるプロデューサーとシャイで気のよさそうな監督にすまない気持ちでいっぱいだ。
 撮影は真夏の日中に屋外で行われる予定だった。これまで何か新しいことを依頼されるとできるものはなんでもやってきた我が人生だったので、断るのは抵抗があったが仕方ない。とてもじゃないが、体力が保たないと思った。

8月4日(金)

 朝から慶應病院へ通院。午後、自宅で打ち合わせ。今、書いている「すばる」のSF風の短編や、単行本用の書き下ろしを少しずつ進めている話、最近、札幌で起きた猟奇的な事件の話など。
 文芸誌「すばる」に書いている連作SFにむかうとき、いつも懐かしい故郷に帰っていくような安堵感がある。これまで連作SFはじわじわ三誌に書いてきた。自己判定だがうまくいったのもあるし、途中で挫折退却したのもある。どのSFも何年も続いたいわゆる「アナザーワールド」であって、成功率は五〇パーセントを切っていた。
 最終形態としての単行本にいきついていったのとヤサグレて雨に打たれているような長編との対比だ。七作が単行本になっているが五冊分はどこかに埋もれてしまっている。潜んでいるのはぼくの部屋のどこかだ。「ちゃんと育てあげようとしている」親としては辛いコトバだがすでに六~七冊分の「水子」をだしている。すまぬ、すまぬといいながら今夜も船を出しているのだ。
 うまくいったのは日本SF大賞をいただいた五〇〇枚の『アド・バード』。失敗したのはある出版社の崇高な文芸雑誌に約三年、連載していたもの。単行本にはなったが担当の女性編集者からたぶん「わからない」といわれて大幅に書き直したものだ。出来上がったその本は一度手にとっただけでほうりなげた。あれはその編集者にも読者にもつくづくすまないことをした、と詫びる気持ちでいっぱいだ。その頃、ぼくは自分が書いているSFの世界から脱出できなくなっていたのだろう、と思う。いま書いている最新作のSFはコロナ騒動を挟んで六~七年がかりの連作長編だ。ひさしぶりにここちよくうまくいっているような気がする。気がするだけだが。
 ぼくがこのところずっと書いているSFは二〇八〇年頃と江戸時代がまじりあったような世界でのできごとだ。SFは常にいくつのガジェットを創出させるものだが、いま世の中にあるドローンなどはその頃からぼくは「知り玉」などという名で頻繁に書いていたものだった。ああ、これはいわゆるひとつの自慢話だなあ。すまん、すまん。今日はその最終章を出版社に送ってなんだか気持ちが虚空にヤサグレちまっているのだ。
 ぼくが最初にSFを書いたのはもう四〇年も前のことだが、ドローンに代表されるように、いつのまにか小説に書いたような近未来的なギアが実装されつつある時代になっている。
 リアルなサイエンスフィクションを書くことの難しさや面白さについて、いくらでも話ができた目黒を思い出し、いないことに気づくと呆然としてどうしていいかわからなくなってしまう。気持ちが複層化しているとでもいうのか。整理の糸口がどこにもない。
 夕方から新宿に出て、映画の話で相談に乗ってもらっていた宍戸健司に会って詫びる。彼は「残念だけど、無理しないでください。暑いのでもっとビール飲みましょう」と豪快に笑ってくれた。社長になっても相変わらずカラアゲやフライを好んで食べていて元気そうだ。「元気があればなんでもできる」とは本当のことだなあ。少し涼しい気がしたのでクーラーではなく扇風機を微風にして寝た。昔からクーラー的なものに弱いが、近年は凍えるまでの時間が早い気がする。

8月6日(日)

 こう暑いと出かける気もなくなって部屋でテレビをつけてしまうが、大手中古車販売会社「ビッグモーター」の不祥事がらみのニュースばかりで、暑苦しさが増す。保険金の不正請求や社内パワハラなど、叩けばホコリが出てくる出来事にTVはくらいつく。人々もそれを見る。除草剤を使って店舗前の街路樹を枯らすという暴挙まで行っていたという。企業としては当然ながら社内にいる個人としても善悪という概念は失われ世の中と自分の関係を見失っていた――というコトなのだろう。

8月9日(水)

 映画の話を断ってストレスがなくなったのだが、なんだか胃腸が重たいので、慶應病院で診てもらうが特に異常はない。安心したがただの飲みすぎでしょ、という方々からの声が聞こえてきそうなので、新宿には寄らずにおとなしく帰宅した。夏バテにはうまい生ビールが効くのだがなあ。

8月11日(金)

 一日、部屋で原稿を書く。畑から高級果物が盗まれる被害が全国で拡大しているらしい。夏バテには朝のフルーツがいいと、毎朝食べているので、なんとなく自分の果物が盗まれたような気持ちになる。民放はくだらないので高校野球をなんとなく流しておく。
 近所に車高の低いオモチャみたいなカートを貸し出す業者があるようで、外国人がそれを乗り回してうるさいしあぶないんだあいつら。それと最近増えてきた電動キックボード。住宅地の横丁などで小さい子を連れているおかあさんやおばあちゃんなどに危ない。どうして日本の道路はいつまでたっても主客転倒しているのだろうか。クルマにしてもああいう街角安直モーター機械にしても、いつの時代も鉄とモーターで武装した乗り物が我が物顔で素っとばし、立場上弱い人を睥睨していく。日本は隅々までまだ大人社会になっていないのだなあ。
 毒づいていたら一日が終わってしまった。暑い暑いといっているとあっという間に十日ばかり経っている。むなしい夏だ。

8月14日(月)

 夕方、少し涼しくなるとすぐさま新宿に向かい、「犀門」で新潮社チームと新連載の打ち合わせ。料理長の葛原さんに任せておくと刺身を適当に出してくれる。タコがうまかった。

8月15日(火)

 孫の風太君が成人した。じいじいとしては感無量でなにか盛大にお祝いをしたいのだが、本人は成人を実感していないからなのか、なにか「お祝い」のようなことはまったく望んでいない様子だった。当人は家庭教師をはじめとしたいろんなアルバイトが忙しく、小さかった頃のような家族集まってのお祝い夕食会のようなものにあまり気がのらないようだ。それにこの頃兄弟みんな忙しくなり、「いつでもいいぞ。スケジュールみんなあけてるからな」といっているのも我だけになっているようだ。法学部に進んだ風太君は勉強のほうも忙しい。成人したといってもビールにまだ関心はないみたいだ。ウーム。じいじいと父親のよっぱらい姿を見ているからなあ。
 長女の海はのびのび高校生となって毎日ちからいっぱい過ごしているらしい。学校の試験はいつも学年トップらしい。本当かよ? と思ったが本当にそうらしい。女系の強い我が家らしいタイプの子になっているようだ。その下の次男はサッカー少年になり、筋トレにすべてをかけているらしい。ぼくがもう使わなくなったダンベルを「使っていい?」と貰いにきた。いつの間にか目をつけていたのだ。興味は三者三様。時代はすすみ、状況はどんどん変化していくのだなあ。

8月16日(水)

「非常に強い」台風7号の影響で飛行機が飛ばない、新幹線が止まった、どこかの川が氾濫した、などなど朝からやかましい。お盆休みに直撃したことで被害に遭った人や予定変更を余儀なくされた人には大変だなあ、と素直に思うが、こういう時にテレビはどこか嬉々としている。「ナントカ岬にやってきましたあ」などとやってるが、なんで台風の時にわざわざそんなところに行くんだ。新品のヘルメットが寒々しい。

8月19日(土)

 毎日、暑いし腰も痛くて不機嫌に過ごしているところにタケダから電話が入る。カーリングの取材で北海道に滞在しているらしい。夏にもカーリングはやっているのか。涼しくていいかもしれない。
「こっちは涼しいすよ。朝晩は上着が必要なくらいっす。昨日は生牡蠣とアスパラ焼きを食べました」とやかましい。「で、用件はなんだよ?」と聞くと「ただの自慢でえす」と嬉しそうだったので、貴様覚えていろと捨て台詞を残して電話を切った。北海道もずいぶん行ってないなあ、と思いながらところてんを食べた。

8月22日(火)

 小学館から出る「わしらは怪しい雑魚釣り隊」最終巻の表紙のラフが上がってきた。沢野ひとしが描いたのだが、怪しくも馬鹿馬鹿しくてなかなかいい出来だ。真ん中で大物を見せびらかしているのはあいつだなとか、右にいる辛気臭いのは俺かなあとかいろいろ想像しているうちに「どーだ!」という言葉が出てきたので「サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊」というタイトルにした。
 沢野ひとしともずいぶん長いつきあいになった。ぼくの書いた本は三〇〇冊になるが最低でもその半分は表紙などのイラストを描いてもらっているような気がする。一人で一五〇冊。彼が絵を描いてくれると決まればとにかく黙って彼の感性で描いてもらえばいい。嬉しく、有り難いことだ。それに彼の絵がうまくなっているのに感心する。
 雑魚釣り隊は大惨事、じゃなかった第三次の怪しい探検隊の位置づけなのだが、足掛け十七年も続けてきたことになる。それも一区切りだ。秋にはほぼ全員が揃ってイベントをやるらしい。

8月26日(土)

 盛岡で講演のためにエアウィーヴの座布団を持ち込んで東北新幹線に乗るが、なんだか調子が悪い。このところ持ち歩いている小型の機械で血圧を測るとどうにも数字が安定しない。冷麺を食べる気にもビールを飲む気にもなれず、なんとかトークだけはこなし宿泊の予定を切り上げて日帰りにした。夜はホヤで冷酒をやるのを楽しみにしていたのに残念だ。

8月28日(月)

 腰痛がどうもよくならない。少し楽になった気もするが、基本的には痛い。腰や歯が痛いというのは、精神状態にも暗い影を落とすもんだ。これ以上腰の痛みと長い付き合いになるのは、と前から考えていたらしく、一枝さんが三鷹にある指圧の先生のところに連れていってくれた。約一時間。初めての体験だが、たしかに全身の血が動きだしたような実感がある。しばらくかようことにする。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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