失踪願望。失踪願望。

第29回

傷跡、雑魚釣り、半田めん

更新日:2024/07/17

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9月2日(土)

 幕張の海っぺりで育ったということもあるからか、若い頃からいろいろな海岸でキャンプをして、作家になってからは潜ったり笑ったり溺れたり遠くを眺めたりして海と関わってきた。
 よく「好きな海はどこですか?」などと聞かれる。もちろん季節や目的にもよるが、よく考えると千葉の海もいいが、完成度(?)から言うと「種差(たねさし)海岸」と答えることが多い。青森県八戸市の海だ。険しい岩々があったり、なだらかな天然芝の丘があったり、ひろ―い砂浜海岸があったり、自然というよりも野性が残っている場所だ。緑の季節も強い日差しの中でも雪景色でもいい写真が撮れるので、これまでたくさん歩いた。
 その種差海岸が三陸復興国立公園に指定されて十周年を迎えるということで、そのイベントに招かれ少し話をした。地元の人がぼくの話に深く相槌を打ってくれているのがわかり、なんだか安心した。

9月4日(月)

 ついにはげしく転んだ。といってもはっきりした記憶がない。トイレにでも行くつもりだったのだろう。転んだ拍子にテーブルの角にでもぶつけたのか、頭部からの出血が激しくティッシュで押さえるがとてもじゃないけど間に合わない。そうしてすぐに到着した救急車で搬送された。一枝さんが手渡してくれたティッシュの箱と一緒だった。
 慶應病院で、右眉の上が長さ五センチ、深さ一センチほど切れているので縫合手術をした。六から八針程度を縫ったようなのだが、この「何針」という表現は、糸の種類が劇的に増えた最近では減ってきたようだ。医療用のホチキスを使ったり接着剤で済ますこともあるらしい。若い医師がテキパキと処置をしながら、いろいろ教えてくれた。頭部、特に目の周りの手術だし全身麻酔なのかなと思っていたらおそろしく細かい麻酔を何本も打っていた。医学の発達はすばらしい。幸いCTなどの検査では問題なく、脳や眼にもダメージは残らないようだが、白目の充血はしばらく続くと言われた。我がマナコは黒目と白目の境目に赤が混在してきて、何やら地球外生命体のようだ。
 ともあれ打ち所が悪ければ最悪の事態もあったかもしれない。家族にも仕事関係の人にも心配をかけてしまった。記者会見があるとしたら「ご迷惑をおかけしました。注意深くしぶとく生きないといけない。そう気持ちを新たにしたところです」とか言うんだろうなあ。

9月6日(水)

 当たり前なのかもしれないが、しばらくアルコールはご法度なのがつらい。飲むなと言われた時の酒こそうまいのだが、ちゃんと飲まなかった。
 飲んではいけないと言われると酒のことばかり考えてしまう。昔、浅草のバーで木村晋介と飲んでいたことを思い出した。木村はどこにいてもその場に居合わせた人と仲良くなってしまうので、そのバーには何人も顔見知りがいた。いつも冷奴とかもろきゅうなどをオゴってもらっていたので、ありがたかった。書いていて思い出したが、そこは浅草ではなく小岩の「浅草バー」という店だった。もう閉店しちゃっただろうなあ。ああ、冷えた生ビールが飲みたい。

9月9日(土)

 まだ傷跡が残る和風お岩のフランケン面なのでおとなしく家で読書をする。
 久しぶりに外国文学などを手に取った。面白い本ではあるのだが、集中力が持続せず適当なところで切り上げてしまう。昔は読書に熱中して気づいたら朝なんてこともあったのになあ。
 若い頃は文学論を交わすことが何より楽しみだった。高校時代、クラスメイトのウエダ君は「いま俺はトルストイやバルザックを読んでいるんだ」とか言っていたけれど、本当に読んでいるのか怪しいやつもいた。難しい本を読んでいることが一種のステータスでもあった時代だったので、それを鼻にかけるやつも多かった。
 サラリーマン時代にキザな野郎がいて「椎名さん、文学の話をしましょう」と言ってくる。なぜだか資本論を2回読みましたと言っている。即座に「嘘だ」と分かった。あんなもんを2回読むヤツはいないし、本当だとしたら本格的にバカだ。「そうかあ、君はすごいんだなあ」と適当に感心した。文学論なんて言葉はまだ現代にあるのだろうか。

9月11日(月)

 病院に行って抜糸をしてもらう。眼科と整形外科も巡って、経過はすべて問題なしというお墨付きをもらった。無事の生還だ。白目の充血はまだ残っているが、近所の焼き鳥屋で親しい仲間らと放免祝いをする。
 厚焼玉子、中トロの刺身、レバー、ハツなどを食べる。バンブータケダが白目の充血をよく見せてくれというので見せてやると「うええ、気持ちわりい」と遠慮なく言って、冷や酒を飲んでいた。ちくしょう。少し酔ったので注意深く歩いて帰った。

9月14日(木)

 テレビは阪神が優勝したと騒がしい。監督の言う「アレ」とはなんなのかよく分からないので、読書の秋だ。ふと手に取った坂田明さんのミジンコの本が過剰極まっており面白かった。必然的に山下洋輔さんの『ピアニストを二度笑え!』も読む。
 山下さんの本もとにかく面白い。山下本はそれぞれもう絶対に五回ずつぐらいは読んでいた。この本は五×二でなんと十度笑っているわけだ。『ピアニストを笑うな!』という本もあったが言いつけをきかずやっぱり笑ってしまった。結局どの本でも大笑いさせてもらっている。精神が健康になります。ジャズ界の有名な外人プレイヤーのネーミングをそれぞれ『東京スポーツ=プロレス』的に翻訳しちまうという荒技のときも笑いましたねえ。山下さんの海外バンド旅のドシャメシャ話は世間のあらゆる旅話の最高峰をいくものなのである。山下さんはハナシの組み立てとその表現がとんでもなく粋な人なんですねえ。
 ぼくがモノカキの駆け出しの頃、お目にかかりたい有名人に会いにいくという、相手にとってはたいへん迷惑かつ勝手せんばんな連載をやっていた。
 そのとき山下さんの葉山のお宅をたずねたのだった。山下さんは気持ちのいいいつもの笑顔で迎えてくれた。緊張しながらいろんな話を伺ったあとに応接間でピアノの演奏を聴かせてもらった。
 ぼくは音楽、とりわけジャズをなーんにもわかっていないきわめつきのトウシロウだから、そういう無謀なことが頼めたのだ。
 気がつくと約三メートルほどのアインシュタイン的空間をはさんで一対一で山下さんのピアノを聴かせていただく、という贅沢な暴挙に出ていたのだった。やがてぼくは丸ごと圧倒されて、そこからじわじわと「にじり去っていった」のだった。
 それから数年して山下さんが能登の海岸でピアノ演奏するというイベントについていったことがある。ピアノは海岸の岩の上にあった。そのまわりで島の若い衆が樽太鼓を叩くのだ。カニがたくさん出てきた。曲は当然最後のほうで「カーニ、カニカニカニカニ」という声がかかり「カニカニ音頭」となっていく。ピアノを囲む若い衆の叩く樽太鼓の音も激しく「カーニ、カニカニカニ」とバチを持つ両手を天にむかってつきあげていく、という闘魂と陶酔の怪しい夜となっていったのだった。それを近くで見ていたぼくはまたもや圧倒され、やっぱりじわじわうしろに去っていってころがり、カニ這い歩行でその場から逃れていった、というわけなのだった。
 次に山下さんの新刊が出るのはいつだろうか。二十冊以上ある山下さんの本の中では、絶妙な「当て字」でも大笑いした。「野暮舌呆輔」の日記では、「沈宿(しんじゅく)」「恥部谷(しぶや)」ぐらいは序の口で、「破綻男(マンハッタン)」「一気酒飲(ガーシュイン)」「目飛出便車(メルセデスベンツ)」なんていう怪しい字面の連発だ。山下さんのタカラモノ本を再読四読してきたが、あたらしいのが足りない。早くもう二十冊ほど書いてもらいたいのだ。そういう本を手の届くところに置いておきたい。

9月15日(金)

 一枝さんと孫の風太くんと事務所のWさんという珍しいメンバーで近所の中華料理屋へ。ツマとマゴが酒を飲まないのでWさんに「遠慮せずに飲みなさい」と促して突破口とし、ぼくもビールと紹興酒を飲んだ。ここの春巻はタケノコがシャキシャキでうまいんだ。

9月19日(火)

 ワープロの調子が悪く、手書きで何枚か原稿を書く。久しぶりで腕が疲れたが、机をペン先が叩く音が小気味よく、捗った。たまには気分転換になってよいが、やっぱり疲れるのだ。
 原稿を手書きすることは少なくなったが、ぼくが愛用していた原稿用紙の原型は絵本の出版社「こぐま社」が作ったものだった。四〇〇字詰原稿用紙でなんともいえず味わいふかいもので、もともとは高名な絵本作家が手書き(フリーハンド)で線をひいたものだそうだ。絵本の作家は、そういう単なる罫線だけでもヒトを感動させる力をもっているのだなあ、と感心したのだった。
 こぐま社は親友の沢野ひとし君が長く勤めていたところで、その原稿用紙を一冊貰い、タカラモノのようにして大切に使ってきたが使い切ってしまった。そこで、その手書き罫線の原稿用紙をそのまま印刷したものをつくり、ちゃっかり使い続けている。もう三十年ぐらい前のことだ。当時は思いもよらなかったが、文字が書いてないとはいえこれは完全なる盗作ではないだろうか。気がつかなかった。どうかお許し願いたい。いまは味けないワープロ稼業なのでほとんど使うことはないが、何か大事な手紙などを書くときにその原稿用紙をつかわせてもらっている。

9月21日(木)

 夜中まで原稿仕事をしていることがよくあるので、ときには空腹になる。子どもたちが一緒に住んでいた頃は夜更けでも冷蔵庫を覗けばなんらかの食べ物があったが、今はきれいに片付けられている。あきらめる習性はついているが、それでも空腹の欲望がまさるときはしぶとくなにかと対策、探究する。
 ここ数年助けられてきたのは「半田めん」だ。ソーメンよりも太く、うどんよりも細い。熱湯にパラパラ入れると三~四分でゆだってしまう性格のいい奴だ。
 むかし同世代の仲間ら数人と共同生活をしていた頃は、ソーメンでもうどんでもよかった。茹であがったのに少々のショーユ、マヨネーズ、ラー油をかけてかきまわしそのまま食べてはヒーハーヒーハーとシアワセだった。ハタから見るとむなしい光景なのかもしれないが、これがうまいんだなあ。今はそれじゃあアンマリなので、軟弱ながらダシ汁をつくってそれにいれるという、こしゃくな食い方だ。

9月24日(日)

 昨日は三鷹へ指圧のマッサージに行ったので珍しく調子が良い。仕事をして夕方からは秋場所を見る。
 東前頭十五枚目の熱海富士は健闘したが、スピード出世ならぬスピード優勝ができなかった。まだ若いからこれからだ。横綱の存在感のない場所が続いているなあ。大むかしは大関までしかいなかった。それでいいんじゃないだろうか。

9月25日(月)

 プロデューサーの残間里江子さん、ジャーナリストの安藤優子さんと、 手紙に関する鼎談のため青山へ。
 鼎談は面白かったのだが、青山という土地とは相性が悪い。いつだったか、しゃれたイタリアンに行ったらビールが冷えてなくて「ぬるいですヨ」と言ったら、店のオーナーが「これはイタリアの本場ナントカ地方のビールで冷やさないんです」という返答だった。それから青山で仕事があっても終われば新宿で飲むようにしている。この日も新宿まで戻ってから飲んだ。日本で「本場」とか「本格派」とかには絶対用心するようにしている。

9月27日(水)

 一枝さんと共に品川のモンベルに向かい、野田知佑さんを偲ぶ会に参加する。
 大勢が集まっていた。それぞれの思いで野田知佑さんの話をして笑ったり涙ぐんだりのひとときを過ごした。本当に存在感、影響力の大きい魅力的な人だった。ぼくもみなさんの前で何か話すことになった。その日、多くの人が野田さんのワイルドな行状を懐かしく話すケースが多かったが、ぼくは野田さんがとんでもなく名文家だったこと、川旅の折に風景や季節のめぐりなど、とてもこまやかな観察をし、文章を書いていたことを話した。その日の話が冒険的なことばかりで、あまり知られていない繊細な面が語られないのがもどかしかったからだ。
 野田さんの周りで遊んでいた懐かしい顔に会えて良かったが、帰りのタクシーで一枝さんから「あなたがタカハシさんと思って会話していた人、タカハシさんではなかった」という指摘を受けてやや驚く。
 タカハシさんとは通称・Pタカハシという週刊誌の編集者であり、僕にとってはプロデューサーだった。いろいろなところへ連れ出してくれて、もちろん野田さんが一緒の時もあった。だからそのあたりの話をしていたのだが、その人は笑って応じてくれていたのだ。それじゃあ、あの人はいったい誰だったんだ。

9月28日(木)

 いま新宿三丁目界隈は、自宅の次にウロウロしているところになっている。週に二回は行っているだろう。自宅からタクシーで十分で着いてしまう。いきつけの居酒屋「池林坊」は平日は五時開店で、なにかと便利なのだ。仕事関係の打ち合わせなどはもっぱらそこで生ビール飲みつつやることにしている。最近はこのあたりでも、外国人がウロウロしていることが多くなった。外国人に限らないが、慎ましさのない連中がどうにも目についてしまう。聞くところによると、店に入ればでっかい体で席を占領し、あまり注文もせず、それでいていつまでも帰らなかったり、なんていうケースも中にはあるらしい。店の規模にもよるだろうが、経営者にとってはなんとも悩ましい問題だろう。

 半田めんを悪くいうヒトはいない。半田めんのようなヒトにわたしはなりたい、と思いつつ、食べるときは深夜にテキパキと茹でている。

 長くこういう仕事をしていると、急に聞いてびっくりするのは担当編集者の異動とか定年退職だ。ある日、いきなり告げられることが多いので本当にびっくりする。ものすごくお世話になった人ばかりなのだ。連載エッセイや小説などのプランナーでありトレーナーでありアドバイザー役となってくれる編集者が多い。そういう恩人をいっぱい寂しく送りだし我はヨタヨタと居残っている。

9月30日(土)
 怪しい雑魚釣り隊の最終巻が発売になって届いていたのでパラパラやる。
 結成はニ○○五年で、足掛け十七年も遊んでいたようだ。結成当時は「つり丸」という釣り情報専門誌の連載だったが、途中から「週刊ポスト」に掲載されるという「移籍」を果たした。それを「メジャー移籍」と書くと、コンちゃんという初代担当編集が「どうせうちはマイナー弱小誌ですよ」といじけて面倒だけど面白かった。
 コンちゃんをはじめ、隊員は日本各地、時には海外の海に出撃し、いつも宴会の肴を釣ってきてくれた。イカユッケ、カツオの血合い、アジフライ、ブリのしゃぶしゃぶなんていう贅沢な料理がいつも大皿でどーんと出てきて新鮮そのものだった。おかげでそんじょそこらの居酒屋で出している刺身なんて食べられない体になってしまった。どうしてくれるんだ、とか言いながらまだその隊員たちと飲む日々は続いている。

 最終巻『サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊』(小学館)は、このシリーズ十二巻目という。本書のあとがきに思いもかけず感傷的なものを書いてしまった。三十人の仲間たち。みんな超個性的でいいやつだった。それにしてもワシは釣りが下手だったなあ。船には酔わなかったが酒にもそんなに簡単に酔わなかった。十七年間か。どんどんメンツが増えていくのでどうなることかなあ、と思ったけれどあれもこれも面白かったよなあ。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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