失踪願望。失踪願望。

第38回

朗読、傘寿、ホーマツ候補 二〇二四年六月

更新日:2025/07/09

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6月3日(月)
 昨夜、NHKラジオでぼくの「珊瑚礁の女」という短編をアナウンサーが朗読してくれたらしい。
 もうずいぶん昔に出した『さよなら、海の女たち』という短編集に入ってる作品だ。文庫版が手元にあったので改めて読んでみたのだが、割といい小説じゃないか。最近、いい文章を書けてない。あの頃のオレよ、どこ行っちゃったんだ。
6月5日(水)
 慶應病院に行く。守衛というか警備員の人が挨拶のように小さく頷いてくれた。
 ここへはよく行くようになってしまった。歳をとってくると多かれ少なかれそういうことになっていくんだろうな、とぼんやり思っていたけれど本当にそうなってしまった。大きな総合病院というのはすべてがシステム的になっていて「月アタマだから保険証を出せ」とか「5番の診察室の前で待て」とか、コンピューターの指示どおりに動いていく。そうしないと何もすすまないのだと思う。だから入り口で人間的な笑顔をみるとホッとするのだ。
6月6日(木)
 小雨だ。雨が降ると腰が痛いというわけではなく、腰は晴れている日でも痛い。指圧のために三鷹へ。最近は背中も痛い。
6月7日(金)
 妻と紀伊國屋ホールへ行き、松元ヒロさんの単独公演「ひとり立ち」を見る。
 松元さんはテレビに出ない芸人としても有名だ。思いがけない笑いのセンスで強烈に悪くなっていく世の中を軽快に切り取って笑いのめしていく熱いライブ。相変わらず世相にうといぼくはその話題にやっとついていくというかんじだったが楽しめた。四百席あまりの紀伊國屋ホールが満席だった。むかしここでぼくも講演というものをやっていたことがある。講演だからそのときも一人だった。本日は終わったあとそこから歩いて三分のところにある「犀門」へ行った。途中で集英社にいた元担当編集者の村田さんとあった。彼女も松元さんのライブに来ていたのだという。そのまま居酒屋に誘った。久しぶりに三人酒となった。タケノコの天ぷらに生ビールがうまい。あたりまえか。
6月11日(火)
 また慶應病院へ行く。なんだかここばっかり行っているなあと思うが事実なので仕方ない。先週は月例の診察と検査だった。
6月13日(木)
 免許は返納したがクルマに乗っていた頃、最後に乗っていたのはトラックだった。ピックアップトラックというやつ。ゴミゴミした渋谷区や杉並区の下町をよくまあ無事に走っていたものだ、と我ながら感心する。自宅に車庫入れするのがタイヘンだった。あるとき住宅地の中に入り込んでしまい、定規で描いたようなカキッカキッとしたクランクを抜けようとしたらはまってしまって、進むこともバックすることもできなくなり、文字通り進退きわまったことがある。クルマを置いて逃げ出したくなったけれどあれからどうしたんだっけなあ。ガシガシやって強引に逃げたんだろうなあ。
 自宅前の道はそんなに広くない。どちらかといえば「路地」レベルなのだが、けっこう車の通りは多い。二トントラックとワンボックスカーのすれ違いができるかどうか、といった幅員だ。譲り合えばなんてことないのだが、急いでいるのかクラクションを吹き鳴らし激しく自己主張をしている車両が時々いる。
6月16日(日)
 近くに住んでいる息子ファミリーとときどき一緒にめしを食う。この日は近くにある四川料理の町中華。息子ファミリーは五人。子供たちはみんな大きくなった。一番上は男子大学生、次が女の子の高校生で次が中学男の子と順序よく続いている。アメリカで育ったので十年ぐらい前はなんだかぎこちないところがあったけれど今は全員なじんだ。一番下の子はサッカーにのめり込んでいて実によく食い、よく運動するので筋肉少年になっている。食欲がものすごく、店にいくと最初にラーメンを食い、次にチャーハンを食い、次にまたラーメンを食い、それから単品料理に入るという怪物君だ。いくら食っても満足しないという。むかしの自分を見ているようで面白い。最後はデザートのアンニンドーフを食いトータル二時間だった。
6月17日(月)
 なんだか腰がまた痛いので三鷹に指圧を受けにいく。「今日は筆が走ってSFの短編をなんとか仕上げる。夜は銀座の馴染みのクラブに顔を出し『センセ、ご無沙汰じゃないの。さみしかったわぁ』などと言われてややたじろぐ」といったことをここに書きたいんだけれど、もうそんなお店もなくなってしまったものなあ。ビールを飲んで寝る。
6月20日(木)
 打ち合わせがてら、新宿で誕生日宴会をしてもらった。八〇歳のお祝いは傘寿というらしい。事前に何が食べたいですか、と聞かれて「マグロが食べたいなあ、カツオもいいなあ」とごく控えめにリクエストを出していたら「まぐろかつお大漁W盛り」というスーパーデラックスゴールデンメニューがおわしたので、へへえと畏まってたくさん食べた。ビール、日本酒、ジン、ハイボール。打ち合わせをはじめた17時くらいは四~五人だったのだが、気づけば二〇人くらいの宴会になっていた。
6月24日(月)
 年末年始に娘が帰省していて、その時からテレビの具合が悪かった。
「リモコンが言うこと聞かないよ」と娘。「それにはコツがあるんだ。爪で鋭く二秒押すとヤツは屈服してチャンネルを替える」と父は偉そうに教えてあげたのだが、彼女は難しい表情を浮かべていた。
 先月、電話があって「もう古いしリモコンも反応が悪いのでテレビを買います。私が買います。傘寿のプレゼントです」と娘は高らかに宣言した。
 そのテレビが今日、届いた。最新モデルらしく何やらいろいろな機能があるようだが、文字表示が大きいのがありがたい。爪なんか使わなくてもリモコンはきびきび動く。
6月25日(火)
 ちょうど都知事選前だったので、政見放送を見ていた。
 候補者は耳触りのいいことばかり言っている。このアホくさいエネルギーと時間のムダ使いをなんとかしたいものだ。何を主張したいのか分からないことばかり並べるホーマツ候補がけっこう面白い。妻がそんな候補者の真似をしてくれた。似ていて笑ってしまう。
6月27日(木)
 新刊についてラジオでインタビューを受けることになり、午後に渋谷のNHKへ。以前も出た「著者からの手紙」という番組らしく、うっすらと記憶があって話しやすかった。
 収録は順調に終わり天気も良いので冷えた生ビールを一杯やりたい。まだ十四時過ぎだが、そんな時間から生ビールを飲ませてくれる不埒な店などあるだろうか。協議の結果、太田トクヤに電話して池林房を開けてもらった。トクヤは「何時だと思ってるのさ」と文句を垂れながらも、気分よく店を開け生ビールを注いでくれた。ちゃんと働いた日の生ビールはうまいのだ。そうでない日の生ビールもうまいけれど。
6月30日(日)
 講演のため、新幹線で名古屋へ。講演するまではなんともなかったのだが、今回のテーマは「お腹がすいたハラペコだぁ~」だったので、食べ物の話をしていたら腹がへってきた。
 愛知在住の天野というゴーカイでやさしい男が顔を出してくれたので、焼き鳥が食いたいと頼むと、高層ビルの上にあるヤキトリ屋にしてはずいぶん立派な店に連れていってくれた。東京から遊びに来ていた太陽も合流して、もも、皮、レバー、ハツとどんどん食べる。ビールとハイボールも飲む。レバーをお代わりした。月見つくねという卵黄につくねを浸して食べるやつが驚きのうまさだったので、スマホのカメラで記録しておこうと思ったが、うまくいかなかった。若いヤツらと飲み食いするとつられてこちらも食が回復する。最後に玉子ドンブリを食べる。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『続 失踪願望。 さらば友よ編』。

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