いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人

第21回

<コラム>社会学者・徳川直人さんが見る「色覚異常問題」②

更新日:2024/01/17

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 前回は、かつてわたしたちの社会で、色覚にまつわる「推論」が壮大な規模で駆動して、社会的な懸念が過剰に膨れ上がる一方、当事者が言葉を失っていく仕組みについて考えました。わたしたちの社会で「かつて起きたこと」とは、専門家(眼科医など)、当事者を含め、社会の隅々にまで行き渡った、「色覚異常」に対する過剰反応の体系だったかもしれないのでした。

 それでは、2020年代の今、徳川さんが「懸念すること」とはどんなことでしょうか。学校で児童、生徒、全員を網羅する徹底的な色覚検査がなくなって、かつてのようなひどい「色覚差別」も一見、収まったかのように見えるからこそ、逆に、頭をもたげる問題というのはあるのでしょうか。
「色覚差別」という言葉にジェネレーションギャップがある
 まず徳川さん自身が、書籍『色覚差別と語りづらさの社会学』を出版した際のエピソードから。

「本のタイトルに『色覚差別』という言葉を使ったところ、それが、今、どんな意味で通用するのかが、かつてと違ってしまっているかもしれないと気づきました。私が使うときには、『色覚検査を受けて色覚異常というラベルが貼られたら、いろいろな進路制限にあったし、就業制限にあった。理不尽じゃないか』ということを思い浮かべます。でも、そうではなくて、タイトルからの想像で『色が見えないのに必要な検査もしてもらえない。ひどいですよね、差別ですよね』という声をいくつかのところで聞いて、当事者の間にもジェネレーションギャップが生まれているかもしれないというのが課題意識の一つとしてあります」

 前回も見たように、かつては網羅的な検査で「異常」とされた人たちから「言葉を奪う」ことが起きていました。一方で、現在は、「必要な検査にアクセスできないことで当事者が不利益を被った」と眼科医会が訴え、それに共感する当事者も出てきているわけです。徳川さんは「若い当事者は声の持ちようもないまま、かつてより孤立しているかもしれない」と懸念しているそうです。

 ならば、「検査の『撤廃』が当事者に不利益をもたらした」という主張は、どの程度、妥当なのでしょうか。

「現状では検査機会が足りない、いわば過少ケアではないか、というわけですが、実は、かつても過少ケアでした。検査しても、「赤緑色弱」のような名前が告げられるだけで、具体的に何がどのように見えづらい場合があるのかの説明もなく、当人に対するケアも支援も、もちろん環境調整もなかったというのが、実態だったからです。熱心に検査はするのに事後対策が何もないとは、ただ選別しているだけで、医療倫理違反ではないか、というのが、「色覚差別」批判の重要な論点でした。『検査の撤廃が当事者に不利益をもたらした』とは、あたかもかつての検査が当事者本位で理想的に作動していたかのような印象を人に与える、一面化された見方だと思います」

 このあたりは、まさにジェネレーションギャップがあっても不思議ではないところです。徳川さんやぼくのような世代には、検査による不利益を自分自身の体験として知っている人が多くいます。しかし、学校健診で色覚検査があまり行なわれなくなった以降の世代にとっては、ピンと来る話ではないでしょうし、「検査を受けなかったために不利益を受けた」とのみ感じる人がいても不思議ではないのです。

「しかし、たしかに、何の考慮もせず、当事者をそのままの社会に放り込むだけになっても、また問題でしょう。そこへ『将来、失敗したり、制限を受けたりするかもしれませんよ』と言えば、不安を覚えて検査を希望する人も出てくるにちがいありません。そういったことを通じて旧弊が再現され、検査を受けていろいろ諦めておくことが『当事者の利益』そして『当事者の希望』なのだとされてしまうことを、警戒すべきなのだと思います」
基礎哲学を変えること
 既存の検査自体が持っている、純粋に科学的、医学的な問題については本連載の「準備の章」で語りました。それとは別に、社会的な問題がきわめて大きかったことも、徳川さんは前回、説明してくれています。

 今、「何の考慮もせず、当事者をそのままの社会に放り込む」ことが課題になっているとしたら、どのように解決できるでしょう。

 検査とカウンセリングが必要だとしても、これまでについて振り返り、改善することが不可欠だということは明らかです。

「従来は、検査で『異常』だとされると、『いろいろな仕事でミスをするかもしれないので、不向きな道は避けておきなさい、周りの人に助けてもらいなさい』のように、ネガティヴな言い方がされてきました。今後は、支援やケア、そして環境調整の基礎といったポジティヴな観点が必要です」

 では、そのポジティヴな観点とは?

「例えば、『これは多様性の一種。実はみんな少しずつちがった色を感じている、その差がすこし大きかっただけ。今の世の中では不利になってしまうことがあるかもしれませんが、それはあなたのせいではなく、現在の技術や社会習慣が人間に対してミスマッチを起こしているわけで、そこは改善や配慮を求めることができます。特別なことではなく、みんなに認められた権利です。困難があっても、今は相談できる時代ですから、自分で決めつけないでください。自分の力で解決できることや、あなたの特性が強みを発揮する場面だってあるかもしれませんよ』というふうにすると、大きく違ってくるはずです」

 これは、ぼくには、とても合点がいく説明です。と同時に、よくある反論についても思い至ります。「それは理想論で、実際にミスマッチで苦労することがあるのだからネガティヴな言い方になるのは仕方がない」というふうに考える人も、少なからずいるようなのです。時には、当事者自身が、そのような意見であるでしょう。

 だからこそ、「基礎哲学」が変わるべきなのだと、徳川さんは続けます。

「ただカウンセリングの言葉を変えるというのではなく、前向きなカウンセリングを可能にするため、社会づくりの基礎哲学を上のような方向に変えることが必要です。検査や相談は当人の選択に資するものだ、とは、そのような社会を目指していて初めて言えることではないでしょうか」
専門家が「啓発」を行うべきだが……
 では、そのように大切な「基礎哲学」を変えるためには、どのようすればいいのでしょうか。

「かつての制度に問題があって廃止されても、そこで培われた『推論』は存続しがちで、制度的な選別を求める力が発生し続けるんです」と徳川さんは言います。つまり、何もしないで放置していると、古い考えの重力圏にとらわれたままになる可能性が高いのです。

「方向性を変えるには、上のような啓発を、いろいろな専門家が行うべきだと思います。しかし、色覚では逆に、眼科の専門家がネガティヴなメッセージを発信して、社会を身構えさせていないでしょうか。それではカウンセリングにも『前向きな言葉をかけて空文句になってはいけない』という圧力がかかり、当事者を萎縮させ、すると理解や調整のための声もあがらず、環境のバリアや先入観も是正されぬまま……『社会の現実は』という、その問題的な現実を作り上げてフリダシに戻るという、前回見た『閉じた循環』になってしまうと思うのです」

 こういった懸念は、例えば、今、検査を呼びかけるために語られる言葉にも、明確にあらわれているように思えます。「検査を受けましょう」と強く推奨するためには、就労時の支障や苦労について大げさに語る必要があり、その際には、かつてをなぞるような論理が今も使わます。

 例えば、日本眼科医会が2015年に作った、色覚検査を広く呼びかけるポスターがよい例でしょう。
<徳川さんのブログ>
https://allcats.sakura.ne.jp/iro/5/susume.html

「このポスターは、『異常のタイプや程度により、一部の仕事に支障をきたすことがあります』、だから『進路を決める前に検査を受けて自分の色覚を知ることが大切です』と呼びかけています。そして、例えば、サーバ監視を『2色覚には難しいと思われる業務』と分類しています。見る人は、なるほど色を見分ける必要があるからやめておいたほうがよいのだな、と推論するでしょう。また、『2色覚でも少ない努力で遂行可能な業務』の中に『端末作業を伴う一般事務』もありました。『遂行可能』とはいえ『努力』が必要というのだから、PCでの事務作業も不利なのだな、と解釈する人も出るでしょう」

 このポスターは、20世紀の状況を知る当事者の多くにとって、衝撃的なものでした。色覚をめぐる論考をブログなどに公表し始めていた徳川さんにとっても見逃せないもので、さっそくポスターの根拠を探したそうです。

「分類のもとになった原著論文を見ると、その職業分類については『やや独断的』と断ってありました。断定的なものではなく『目安』なのです。種々の事例にあたると、実際の状況は、仕事の内容や当人の色覚特性により多種多様、しかしそれだけに職場でも環境調整や配慮がないまま失敗させられたり誤解を受けたりしやすい。そういう問題提起のうえで、著者は、当事者『一人一人の状況』に応じた『柔軟』なカウンセリングを提唱していました。本人に自己理解と対策があれば『活躍の場が拡大する』、継続的な努力が必要な場合でも『熱意があれば、多くの業務は2色覚でも遂行可能』というのです。カラーバリアフリーに関する研究も別途おこなっていました」

 つまり、この原著論文には、今日的に大切な論点が多く含まれていたということなのです。掲げられた「分類」が「やや独断的」なことはともかく、その他の要素をさらに発展させれば、徳川さんが望ましいとした「専門家による啓発」へもつながっていった可能性もあったかもしれません。

「しかし、残念ながら、それらのまさに今日的に肝心なところが、このポスターでは消え去っています。結果、『色覚少数者は、検査を受けて自覚し、自制しておくべきだ』という旧態依然の論理が発生しているように思えます。そんな論理がどのくらい世に広まってしまうかは、未知数です。しかし、技術がますます色に満ちたものになる環境下で、このような情報に接したら、ただ不安になって引いてしまう人も多かろうと想像できます」
カラフルな社会と「優しい訴え」
 結局、「基礎哲学」が社会ぐるみで抜本的に変わらないままだと、要素としては前向きなことも、旧態依然の論理に組み込まれてしまう可能性があるわけです。

 例えば、基本的には歓迎すべきことである「色のバリアフリー」を推進する中でも、やはり気をつけなければならないところがあるといいます。

「まず、世の中がどんどんカラフルになってくるにつれて、この色使いが識別できなければ困るだろうという『推論』がどんどん高まっていきますよね。しかし実際、無思慮な色使いが氾濫して、戸惑う人も増えている、とも想像できます。ですから環境改善はもちろん進めるべきなのですが、しかし、その社会環境の改善が報道などで訴えられるときには、典型的に『日本全国で<色覚障害者>が何百万人います、だからこういう配慮をしましょう』という文言になってしまっていました。そのワーディングによって、支障を生み出しているのはその人たちの体の特性であるという理解が強化されてしまったと思うんです」

 この指摘にははっとさせられました。実際、「色のバリアフリー」の大切さを訴える際には、まさにそのように主張しがちです。むしろ標準的な論法だとすらいえます。しかし、それだと、当事者が直面する困りごとが、社会に由来するものというより、あくまで個人が本質的に持っている特性に帰着すると理解されがちなのです。

「この背景には『社会モデル』の誤用があります。『社会モデル』は元来、当事者が感じる支障や不安の原因そのものに社会が関わっているという問題提起でした。原因が社会にあるのだから、その社会を改善しましょうということなのです。にもかかわらず、配慮のところだけで『社会モデル』が言われ、『社会が助けてあげましょう』みたいな『優しい訴え』になってしまったわけです」

 そして、その「優しい訴え」は、「配慮」しやすい一部の領域にとどまっているのが特徴だといいます。

「『色覚障害者』に対して『社会が優しくしてあげましょう』と報道されがちだったのは消費場面や公共空間の中であって、働く場面がほぼ問われていないんですね。でも、かつての色覚検査体制はまさに労働問題でした。専門家によって『危険』とか『不利』が語られていたわけです。それが不問のまま、あるいは事業所などが環境調整について無自覚のままだと、『消費者としては歓迎してあげるけれど、でも、そんな困り事を持っている人が職場に来たら、やはり困る。本人も不利だし、危ないのではないか』という推論が動き出す一歩手前のところまで来ているのではないかと思います。

 言い換えると、働く場での調整がもっと説かれるべきだ、ということになるでしょう。それなしに、当事者にばかり『自覚』を説くかたちになっていないでしょうか」
数の論理の落とし穴
 徳川さんは、さらに、「数の論理」の危険性について語りました。

「いくら少数者が何百万人いると言ってもパーセントにしたら数パーセントじゃないかと。だとしたら、世の中の仕組みとしては、九十何パーセントの人を基準にして制度を作るのが当たり前だろうと、これまた従来の推論に吸収されていく危険があると思います。ところがその論理こそが、実は九十何パーセントの人にとっても窮屈な世の中をつくってしまっていると私は思うのです。というのも、それは『個人は社会が課す身体条件を備えていなくてはならない』という、さらなる推論を生んでゆくからです」

 こうなると、色覚の問題は、色覚だけにとどまらず、もっと広い問題へとつながっていきます。

「あらゆる点で標準といった人はいないにちがいありません。いまこの点では『普通』の人でも、他の点では『少数派』かもしれない。いろんな『数パーセント』を足していったら何割になることか。なのに、社会は『オール標準さん』を基準にして動かないように見える、いやむしろ勝手にハードルを上げて、自分もいつ戦力外通告を受けるか知れない、そんな不安が世の中に広がり始めているようにも感じます。ネット世界には、安易なかたちで「色覚検査をしてみよう」とか、ほかにもいろいろなセルフチェックをすすめる動画があふれています。これは、一面、そんな不安の表れではないでしょうか」
メリットがないとだめなのか
 徳川さんと話していると、色覚をめぐる議論について(さらには、隣接する多くの分野の議論について)、陥りがちな落とし穴の所在を確認しながら、望ましい方向性を考えられるように感じます。関心を持った方は、ぜひ徳川さんの著作、『色覚差別と語りづらさの社会学 エピファニーと声と耳』(生活書院 2016年)を参照していただければと思います。

 ここでは、本連載にかかわることで一つ気になったことをうかがった上で、稿を終えることにします。

 本連載では「先天色覚異常」とされる人の見え方が、デメリットばかりではなくメリットを持っていることを強調しています。現状、悪いことしかないという「推論」が強く、実はそうではないということも言うべきだと思うからです。しかし、それを強調しすぎると、別の問題が頭をもたげることはないでしょうか。

「たしかに、そこは気を付けなければいけないところだと、私自身、常々思っています。例えば、発達障害の議論でときに見かける『発達障害天才論』が持つ危うさに似た部分があります。『これは人間の持つ多様性の一種だ、個性として尊重すれば、今までの前提について反省が得られる』なら良いと思うのですが、その個性が『天才かもしれない。エジソンを見ろ』みたいな話になっていくと、困り感への共感が失われ、天才でない人は支援しなくていいのかみたいな議論になり、かえってマイナス面が強まってしまうところがあると思うんです。

 色覚についても、「異常」視にあらがうためプラス方向の議論も必要だと思う一方、進化史上こんな有利なところもあったはず、だからメリットがあると言えば、そんなメリットを実感できない人にとっては、『社会から問い質される』というベクトルはそのままであるわけで、負のメッセージになっていく危険もあると思います」

 これからの連載で、様々な当時者にお話をうかがう中でも、できるだけ注意深くありたいと思います。完璧というわけにもいかないでしょう。それでも、恐れずに、またできうる範囲で気を配りながら、記述していきます。それを通じて「基礎哲学」を変えることに貢献できればと願ってやみません。

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著者プロフィール

川端 裕人(かわばた ひろと)

1964年生まれ。小説家・ノンフィクション作家。東京大学教養学部卒業。日本テレビ勤務を経て作家活動に入る。小説作品として『銀河のワールドカップ』『空よりも遠く、のびやかに』(いずれも集英社文庫)ほか、ノンフィクション作品として科学ジャーナリスト賞2018・第34回講談社科学出版賞受賞作品『我々はなぜ我々だけなのか』(海部陽介監修、講談社ブルーバックス)、『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)、『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)ほか多くの著作がある。また、共著作として科学ジャーナリスト賞2021受賞作品『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博との共著、中央公論新社)など。近刊は『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)。ツイッターhttps://twitter.com/rsider /メールマガジン『秘密基地からハッシン!』(初月無料)https://yakan-hiko.com/kawabata.html

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