いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人

第16回

第1章 CUDOの2人に聞く──2色覚はどんな色の世界?④
~色覚マイノリティの文化が必要!~

更新日:2023/04/26

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■満開の桜はピンク色か?
「色覚都市伝説の続きですが──」と伊賀さんはさらに言います。

「お花見なんかもそうじゃないかと思うんですね。桜はピンクだというけれど、色弱だと白く見えると言いますよね。それで、色弱の人が桜の絵を描くと、むしろ、ありえないくらいピンク色に描くことがあるんですね。でも、本当はソメイヨシノって、ピンクというよりは白い花ですよね。この前、こういう話をしたら、みんなびっくりしていました。いや、蕾はピンクだけど、開花するともう白なんだよって」

 これは二重の意味で「都市伝説」(?)なのかもしれません。ソメイヨシノの花の色は、蕾はかなり濃いピンクで、開花すると白っぽくなります。時間がたつと、花の中心部、いわゆる萼(がく)の部分がピンク色に色づきます。もっとも、「個体差」が大きいようです。最後まで白に近いものも多いですし、逆に花びら全体がピンクに色づくものもあります(実はぼくは、この件が気になり始めてから、春先、近所や出先の桜の花の色の変化を見ています)。いずれにしても満開になった時点では白に近いことが多いようです。

 それでも、桜は薄ピンクというのが「常識」(「記憶色」というのかもしれません)なので、一般的な3色覚の人もなんとなくピンクだと思いつつ写真を撮ると、後でパソコンの大画面で確認したら真っ白に近くて「あれ、違う」と気づいたりすることもあるのではないでしょうか。

 こういったことは本当に微妙な色の違いの問題なので、3色覚の人もそれほどしっかりとしたコンセンサスがあることでもないと思います。でも、2色覚の人は、桜が白く見えた時に、「自分の色覚のせいだ」と思ってしまうわけです。そして、サクラの実際の花びらはとても淡いのに、絵に描く時には「盛って」しまうこともあるそうです。

 しばしば「桜の色がわからないので、花見が楽しめない」と感じる人まで出てくるというのなら、それは残念なことです。みんなが愛でているものを自分がわからないと感じるのは、疎外感につながることなので、自分だけ楽しめていない気分になってしまうのでしょう。

「でも、図鑑でソメイヨシノの説明を読んで、ちゃんと開花すると白っぽくなると書いてあるのを確認して、なんだ、そういうことだったのかと分かると、もう話が変わってしまうんです。じゃ、なんで今までお花見はつまらなかったんだろうっていうと、それは友達がいないからじゃないのって、お互いに笑い合ったりしました」


開花したばかりの白い花びら(【写真14】)と、散り際に近い中心部に赤みが出たもの(【写真15】)、葉桜になった頃、花びら全体が薄ピンク色になったもの(【写真16】)。近所の同じ木で観察。さすがに同じ花ではありませんが。

■2色覚だから得意な場面
「準備の章」で、ヒトの3色覚と2色覚では、メカニズム的にメリット・デメリットがそれぞれあって、優劣の話ではないと書きました。

 先に少し触れた中南米のオマキザルの研究でも、昆虫の探索など2色型には特有のメリットがあって、実は、そちらの方がむしろはっきり際立つほどでした。では、ヒトの場合はどうでしょう。すでに、本連載の4回目でも触れたことですが、2色覚の方がメリットがありそうな領分がいくつか挙げられます。

 まず、2色覚の方が色のカモフラージュに騙されにくいというのは当然のことでしょう。当事者のエピソード的なものだけでなく、すでに多くの研究があります。もっと細かく言うと、赤や緑っぽい色を背景にした時に、青-黄の色の違いでものを探す探索タスクでは有利であるようです。その他にも、2色覚の方が、空間分解能(つまり、広義の視力です)が高かったり、明暗のコントラストをよりよく検知できたり、暗所に強かったり、といったことも、萌芽的な研究として示唆されています。

 では、実際に伊賀さんや田中さんは、それを実感することはあるのでしょうか。

「猛吹雪のときに車を運転したときに、恐怖感のレベルが全然違うというのが分かったことがありますね」と伊賀さん。

「僕を含めて色弱の人が2人、一般色覚の人が3人、ぜんぶで5人乗っている状況で、猛吹雪の中を走っていたんです。その時に、こんなにスピードを出したら前に何かが出てきても絶対止まれないだろうと感じる速度が違うんですよ。それで、色々話していて、色弱の2人の方が、遠くまで見通せていることがわかって、ああ、そういうところが違うんだなと思いました。他にも、大嵐の時にヘッドライトをつけていて、どこまで先が見えるかというのも違う、と僕の友人で言っている人がいて、僕自身もそう思いますね。あと、子どもの頃、動物園に行った時に、竹林の前にいる雉を見つけるのが、僕と弟はすぐにできるんだけど、他の家族は全然できなくておかしかったとか。そういう話は、他にもいくらでもありますね」

「私は魚を見つけることかなあ」と田中さん。

「川や池があると、なんとなく覗き込んで、魚がいるかとか探すじゃないですか。そんな時に、魚がいるのを人よりも早く見つけるように思いますね。これは、もともと色弱の知人が言っていたんですが、言われてみて自分でも確認するようになると、やっぱりそうかなと。これは色で見ているんじゃないんですよね。上から水面を見て、ああ、そこに魚がいるっていうのが他の人よりも早いかなっていうぐらいです」

 やはりそうなのか、と思う半面、これらはあくまで「個人の感想」です。とはいえ、萌芽的な研究の裏付けも出始めているので、「さもありなん」と思うことばかりではあります。

 ちなみに、「赤、緑の背景で、青-黄の色の違いを見つけるタスク」の研究を行った九州大学の須長正治さんは、論文の中で「本研究に得られた結果から、2色覚は3色覚よりも色覚特性の全ての面で劣っているとは言えないことが明らか」「3色覚と2色覚は、それぞれ、色彩環境に応じて、得意な課題が変わってくる」と述べています(参考文献【57】)。

 やはり、得手不得手があって、それぞれ適したことをやって補い合うスタイルが、ヒトのヒトらしさなのだと言えるのかもしれませんね。
■2色覚文化が必要?~「仲間」に出会うことが難しい~
 以上、1型(P型)2色覚の伊賀さん、2型(D型)2色覚の田中さんのお話をうかがってきました。

 CUDO、カラーユニバーサルデザイン機構で、色のバリアフリーの普及活動をしつつ、啓発活動にも力を注いできたお二人は、自身の見え方を自分で突き詰めつつ、他の当事者とも対話することで、大いに理解を深めてきたのだなと感じることしきりでした。

 そんな中で、一番心に残ったのは、先天色覚異常と診断される当事者は、「自分と同じ色覚の人に『色』にまつわるタスクに対応するやりかたを教えてもらう機会がない」という問題です。

 例えば「焼肉問題」にしても、3色覚の人が使っている手がかりをそのまま使おうとしても無理があるわけです。それを自分と同じ色覚タイプの先達に「こういうところを見ればいい」というふうに普段から教えてもらえれば、それほど苦ではなくなるのかもしれません。

 しかし、それができない様々な事情がこれまでありました。

 まず、身近に「先達」を見つけることがとてもむずかしいのです。

 眼科の診断で「先天色覚異常」とされるのは、日本では男性の約5パーセント、女性の約0.2パーセントとよく言われますが、その中でもびっくりするくらいの多様性があります。「強度」や2色覚と診断される人は、診断される人の中の半分以下ですし、さらにその中でも、1型(P型)と2型(D型)では見え方が違うわけです。

 というわけで、家族の中でも同じ色覚の、頼れる先輩がいることはまれです。遺伝の仕方から、息子が当事者でも、両親とも「正常」のことが多いので、核家族では、息子は両親から助言をもらうことはできません。きょうだいが同じタイプの色覚だったとしても、互いにまだ子どもですから、共有できるノウハウは限られているでしょう。一方、女性が「先天色覚異常」と診断される場合は、父親だけでなく、母方の親族にも当事者がいる可能性が高いですが、しかし、この場合、必ずしも見え方のタイプが似るとは限りません。

 では、外に目を向けるのはどうでしょうか。これも、20世紀までの社会のあり方ではとても難しかったのです。きびしい差別的な社会環境のため、当事者は自分の色覚の特性をできるだけ隠して暮らしていました。互いにカミングアウトして、知り合い、情報交換したり、「焼肉研究会」などを自然に開催できるようになったのはつい最近のことです。

 つまり、当事者はかぎりなく分断されてしまっていたのです。

「P型やD型の色覚文化ができるといいと思うんですよ」と伊賀さんは言います。

「色の名前にしても、今は3色覚の人の色の名前を無理に使っているわけですから。P型やD型の人たちだけが暮らす色覚マイノリティ国みたいなものを作って、10年、20年たてば、赤、緑、青、黄ではない別の色の呼び名を使い始めていると思いますよ」

 これはぼくもよく考えることです。2色覚者が多数を占める社会がもしもあれば、そこでは特に問題もなく2色覚者が鉄道を運行し、飛行機を飛ばしているでしょう。もちろん色による情報の伝達は便利なので、やはり使われるはずですが、それらは自分たちがわかりやすいように設計されているでしょう。そもそも、3色覚の世界で通用するのとはまったく違う色カテゴリーや色名が自然発生しているはずです。それらは、色相の区別は少なめで、明暗にかかわる区別はむしろ多くなるのかもしれません。地上に降りた雲のような桜の花を愛でる花見はそこでも盛んで、焼肉を焼く時にはみんなじっくり焼いて火を通すでしょう。どうすれば安全か、危険な時はどんな時か、などが共有できているので、3色覚の国と比べて様々な局面でリスクが高いということはないでしょう。

 これはあくまでただの思考実験です。

 現実的には、特定の色覚の人「だけ」が暮らす地域や国があったことはないですし、これからもないでしょう。頻度こそ違え、3色覚から2色覚まで常に様々な見え方の人がいるのが、ヒトの集団のヒトらしさだとしたら、そういった多様さをむしろ前向きに受け止めたいと思います。そして、様々な場所に立つ人たちが、互いに敬意を抱くことができるかどうか、というのがこれからの社会で大切なことになっていくのだと思います。ヒトの多様性はなにも色覚だけではないのですから。

 そんな中で、2色覚やそれに近い当事者が、自らの色世界に基づいた文化を作るというのは、本当に大切なことのように思えます。だからこそ、今の時代、色覚について語る言葉をもっと蓄積した方がいいし、本連載もその一助になればと思いを新たにしたのでした。

写真撮影:川端裕人
デザイン:小松昇(ライズ・デザインルーム)

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Ⓒ ATSUKO ITO ( Studio LASP )

著者プロフィール

川端 裕人(かわばた ひろと)

1964年生まれ。小説家・ノンフィクション作家。東京大学教養学部卒業。日本テレビ勤務を経て作家活動に入る。小説作品として『銀河のワールドカップ』『空よりも遠く、のびやかに』(いずれも集英社文庫)ほか、ノンフィクション作品として科学ジャーナリスト賞2018・第34回講談社科学出版賞受賞作品『我々はなぜ我々だけなのか』(海部陽介監修、講談社ブルーバックス)、『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)、『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)ほか多くの著作がある。また、共著作として科学ジャーナリスト賞2021受賞作品『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博との共著、中央公論新社)など。近刊は『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)。ツイッターhttps://twitter.com/rsider /メールマガジン『秘密基地からハッシン!』(初月無料)https://yakan-hiko.com/kawabata.html

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