いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人

第10回

準備の章【後編】 とても悩ましい色覚検査の問題②
~これまでの検査は「正確」なのだろうか~

更新日:2022/11/30

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 前回は、「色覚検査を受けるべきかどうか」という問いに答えるために、まずは日本で行われている色覚検査の流れを概観しました。結局、一世紀以上前に考案された、石原表による判定が支配的な地位を占めていることがわかりました。

 それでは、その判定結果は、どの程度、当事者の解決すべき困りごとと相関しているのだろうか、というのが今回のテーマです。

 結論は「検査はあまり正確ではない」ということなのですが、その不正確さとともに、どのような困ったことがかつて起きてきたか、さらにこれからも起こりうるかも少し考察します。

石原表の診断は「正確」なのか

 21世紀になってから、イギリスで開発され、欧州各国、オーストラリアやニュージーランドでも使われている色覚検査CAD(本連載第7回参照)は、新しい検査の常として従来検査との比較研究を行っています。

 まず本来の確定診断方法であり色覚検査のリファレンス(ゴールドスタンダード)であるアノマロスコープ検査と結果がよく一致することを確認し、その上で、石原表で「正常となる人」(「誤読」が4表以下)と「異常となる人」(「誤読」が8表以上)を、CADのスコアと比較してみたところ、とても興味深いことが分かりました(参考文献【35】)。

 なお、話がややこしくなるため、ここでは、中間的なスコア(「誤読」が5表から7表)については触れません。

 端的に言いますと、「石原表での正常」と「石原表での異常」の人のCADのスコアは、互いに大きく重なり合っています。

 この検査の結果を示した【図21】を見てください。連載第7回の【図17】をベースにしていますので、まずはその見方を復習しましょう。

 図の中のドットは、すべて個々人の検査結果を示しています。横軸が「先天色覚異常」にかかわるもの(赤-緑の弁別能力)で、横軸に沿って広がる分布が、これまで「正常/異常」とされてきた、ヒトの色覚多様性のひとつのあり方を示していることになります。眼科の診断とすり合わせるなら、左端には「正常」とされる人が集まっており、右端に行けばいくほど(横軸の値が大きいほど)、「先天色覚異常」の度合いが高くなります。

【図21】
 表の横軸は、「先天色覚異常」のかかわる赤-緑の弁別にかかわるスコア。一方、縦軸は加齢や病気などに関係することが多い青-黄の弁別にかかわるスコア。図の中のドットのひとつひとつが、個々人の検査結果に相当する。このような定量的な検査が開発されることで、「正常と異常」が、あらかじめくっきりと分かれているわけではないことがはっきりした。また、石原表のような従来の検査が、必ずしも「正確」ではなかったことも強く示唆している。

 さて、今回示した【図21】には、赤と青の枠を書き加えました。

 青の枠は、石原表で「正常」と判定される人(「誤読」が4枚以下)が分布する範囲です。横軸のスコアが10を超える(図の横軸の中央あたり)人もいることにまず驚かされます。

 また、赤の枠は、「異常」と判定される人(「誤読」が8枚以上)が分布する範囲です。こちらは青い枠より全体的に右側に寄っていますが、それでも、スコアが2や3くらいの人もいて、これはかなり多数派の3色覚に近いものです。

 そして、ここで注目すべきなのは、赤と青の枠が大きく重なる範囲がある、という事実です。

 重なり合った区間にいる人たちは、赤-緑を区別する能力は同じくらいなのに、従来の石原表の結果次第で、「正常」にも「異常」にもなりえます。これは昔の話ではなく、今も日本の眼科で行われている判断基準に従ったものです。

 ここでCAD検査はどれくらい信頼できるのか、という疑問を持つ方もいるでしょう。新しい検査なのですから、当然のことです。

 ひとつぼくが言えるのは、CAD検査が現代水準の科学的検証を受けて実用化され(いくつも論文や報告書が出版されています)、今ではイギリスや欧州各国を中心に、航空や鉄道の安全を確保するためのものとして信頼されているという事実です。生活上の困りごとと相関することを示した研究もあります。

 一方で、石原表は100年以上前に開発され、時々改訂されながらも、代表的な色覚検査としていわば「君臨」してきました。しかし、その判定結果をそのまま「真に色覚異常」としてよいかどうかはっきりしません。著作権者にも確認しましたが、そのような研究自体、行ったことがないそうです。

 こういったことを考え合わせると、石原表の判定結果で「正常/異常」を分けるのは、控えめにいっても問題があるのではないか、という疑念が頭をよぎります。

20世紀から疑念はあった

 実は、20世紀から、石原表の判定と、実際の生活上の困りごとの相関があまりよくないのではないかという指摘がありました。

 石原表の結果は、「色覚異常の程度の判定に使えない」、そもそも「石原表で正常となる人はほんとうにすべて正常なのか」といった様々な疑問が、熱心な眼科医や眼科学者から出されてきました。

 東京女子医科大学眼科学教室教授だった加藤金吉(石原表の開発者、石原忍が東京大学医学部長をつとめた時期の最後の直弟子で、色覚をテーマにした博士論文で博士号を取得、「戦後」の色覚研究の権威です)は、1950年代から60年代という早い時期にこの疑問を投げかけています(参考文献【42】【43】)。

 先に紹介したCAD検査の研究結果は、そういった指摘を裏付けているようにも見えます。このあたりは、日本でも検証した上で、今後整理していく必要があるところだと思われます。

従来の診断は過剰だった?

 以上のようなことを踏まえると、こんな疑問もさらに生じます。

 石原表の判定で「正常」とされてきた人たちが、CAD検査のスコアでは分布のかなり右側、普通に考えると「色覚異常」側に思える領域にも食い込んでいることをどう考えればよいのか、と。

 こういう人たちは、本当は赤-緑の弁別という意味ではかなり不利なはずなのに、「正常」と診断されて、日常生活でも、様々な職業でも特に問題なく過ごしてきたようです。少なくとも、表立って「検査では『正常』なのに、『色間違え』で大きな失敗をする人がいる」と実際に問題にされた事例は寡聞にして知りません。

 とするなら、実際、これくらいの人は、実生活においても職業的にも、極端な齟齬なく多数派の3色覚の色世界に適応できる人たちなのではないでしょうか。実際、イギリスではそのような解釈に至ったようです。

 イギリスの新検査は、もともと民間航空のパイロット(日本ならJALやANAに相当するような会社の旅客機パイロット)や管制官の適性を調べるために開発されたものです。そして、旅客機の操縦で実際に必要とされるタスクを綿密に分析して照合した結果、1型(P型)の人はスコアが12以下、2型(D型)の人は6以下に適性があると結論しました(【図22】、参考文献【44】【45】)。

【図22】イギリス民間航空局では新しい検査のスコアと、実際に航空業務で必要とされるタスクとをすり合わせて検討したところ、従来、門前払いされてきたうちの3割から4割に適性があると分かった。また、ごくまれに、石原表で「正常」となる人の中にも不適格な人がいることも分かった。

 結果、従来、色覚を理由に不可とされていた人の3割から4割に門戸が開かれました。

 この基準は、イギリスだけでなく、EU各国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどですでに使われています。各国の民間航空パイロットはそれぞれの国の基準で選ばれ、国際便にも搭乗するので、この検査を受けて資格を得たパイロットは、すでに日本の空も飛んでいます。またロンドン地下鉄も同じ基準を運転士に適用することにしました≪注ⅳ≫

 日本でも、色覚多様性をめぐる科学的な知見や、検査についての新しい理解を取り込んで、そもそも色覚異常とはどういうことなのか、といったところから、問い直すべきところに来ているようにも思えます。

≪注ⅳ≫  従来不可だった先天色覚異常の当事者の3割から4割に門戸が開かれたとはいえ、残りの6割から7割の人たちは適性を認められませんでした。ここでは、決して、それぞれの視覚が「劣って」いるからではないことを強調しておきたいと思います。

 航空や鉄道の信号の体系は19世紀に確立したものがそのまま今も踏襲されています。当時、色覚多様性についての知識が乏しく、多数派の3色覚のみに適した色を採用したことが、現状につながっています。

 一方で、少数派の「2色覚」や「異常3色覚」と診断される人たちの中には、時空間分解能(視力)がよかったり、微妙なコントラストの差を敏感に捉えるなど、有視界飛行でより安全性の高い資質を備えている人が多いことは知られていませんでした(これは今やっと科学的に解明されつつあるところです)。興味のある方は、連載第5回を参照してください。

 現状で、2色覚や「強度」の当事者が、緩和された条件も満たすことができないのは、あくまで、すでに決められたシステムに適応することができないからです。かといって信号の体系を変えるといっても、世界で一気に変えることが難しいとされてしまうでしょう。

 このように考えると、強い憧れを持っているのに、航空パイロットや鉄道運転士になれないと拒絶される人々に対して、申し訳ない気持ちになります。それは、本人の色覚が「劣っている」わけではなく、歴史的な行きがかりで確立してしまった仕組みによるのですから。

 と同時に、航空、鉄道の「色のバリアフリー化」が本当にできないか、必要なタスクを洗い出して、試みてみる価値はあるだろうと思います。これまで他の分野でも、実は制限が「思い込み」に過ぎなかったと分かることも多かったのですから。

不正確な検査では、もやーっとする人が続出する

 ここまでの議論を踏まえて、現在の色覚検査をめぐる状況をいったんまとめます。

1) 現在、日本で普及している色覚検査では、実際の「困りごと」に即した検査結果が得られるとは限らない。言い換えれば、「有意義な結果」にならないことがある。検査を受けて「異常」と診断されても、特にメリットがない人が多く出る。

2) しかし、従来検査で「正常」であることを求める職業が今もあり、その場合は、「困りごと」がないにもかかわらず、検査を受けなければならない(そして、「異常」とされた場合には、その職業には就くことができないので、実際に業務に支障がないことを示す機会はなく、その制限は固定される)。

 現状は、このように、実に悩ましいものです。

 全員が受診すれば、助言や支援を必要とする人はおおむね見つかるだろうし、将来、鉄道現行の基準で運転士や航空パイロットなどになれない人も早めに分かるわけだから、多少「必要ない人」を見つけてしまってもいいではないかと考える人がいるかもしれません。でも、それもおかしな話です。

 まず、自覚できないままに「異常」とされる側には、それなりに、負担があります。

「あなたは自分では分からないかもしれませんが、異常です」「あなたは多数派の3色覚の色を間違うことはないと言いますが、それは信じられません」と決めつけられることになるわけで、控えめに言っても、もやーっとしたものを、意味なく飲み込まされるような経験になりえます。

 受益者がものすごく多く、もやーっとする程度の「被害」がわずかなら、正当化できるかもしれません。しかし、そこも怪しいです。

 ぼくは、かつて拙著『「色のふしぎ」と不思議な社会』(筑摩書房)の中で、毎年、学校で一学年の全員検査を実施すれば、どの程度の人が「色覚異常疑い」として眼科に行き、「異常」と診断されることになるか試算したことがあります。それによれば、一学年ごとに、だいたい5万人の「色覚異常疑い」が生じ、そのうち半分はいわゆる「偽陽性」なのに、色覚異常と判定される可能性があることが分かりました≪注ⅴ≫

≪注ⅴ≫  20世紀における話ですが、今よりも「雑な」検査が行われていた形跡があり、その時、男性で異常とされた人の半分近く、女性の場合は95パーセント以上が偽陽性だったかもしれないと示しました。詳しくは『「色のふしぎ」と不思議な社会2020年代の「色覚」原論』を御覧ください。 21世紀になって事態が改善されているかどうかは、検証が必要です。

 20世紀には、全員検査が行われており、その頃は、ひとたび「異常」とされると、「もやーっとしたものを、意味なく飲み込まされる」では済まない被害を受けることになりました。当時は、ほとんどの業種に、色覚の制限がありました(参考文献【46】)。

 20世紀半ばから後半にかけての保健体育の教科書には、“色覚異常の当事者や保因者は、結婚して子孫を残すことは慎重に考えるように”といった主旨のことが平気で書いてあったくらいで、色覚を理由に婚約が破談になったり、結婚後でも発覚すると離婚に至ることも珍しくありませんでした(参考文献【47】【48】)。

 もっとも、こういったことは、21世紀になってかなり緩和されています。先天色覚異常が「異常」ではなく、多様性の中の一部なのだという社会的な理解が行き届けば、さらに緩和されるでしょう。

 しかし、現状の日本の眼科では、むしろ、「異常」であることを、「正常」とは別のものとしてその大変さを強調して、より多くの検査につなげようとしており(「異常」ではなれない職業や苦労しそうな職業があることを、大げさに言い立てる、など)、注意が必要だと考えています。

不正確な検査は、本当に困っている人の邪魔をしかねない

 さらに、長期的に考えれば、不正確な検査は、本来、検査で利益を得るはずの人たちの邪魔をする方向にも作用します。

 困りごとがないのに「異常」とされた人たちは、「きみは色覚異常なんだね。大変だね」と言われたら、「いや、そんなことはない」「大したことではない」と言うでしょう。実際、本人にとっては、「大したことではない」わけです。

 そして、そのような人たちは、イギリスの民間航空パイロットの基準を参考に言うなら、従来「異常」とされてきた人たちの、たぶん3割、4割にも達します。多くの人を検査して、「異常」の診断をすればするほど、実際に困りごとを持っている人たちはその中で薄まってしまい、切実なニーズが覆い隠されたり、ぼやかされたりしてしまうかもしれません。

 例えば、「色のバリアフリーが必要だ」というためには、「こんな困りごとがある」ということを社会に納得してもらう必要があります。しかし、同じ「先天色覚異常」と診断される当事者が、「困っていない」「大げさだ」などと言い始めたら、いわば仲間割れのような状況になって、信じてもらいにくくなります。

 今、それがあまり目立たないのは、21世紀になってから、学校健診での色覚検査が任意になり、「困りごとがないけれど『異常」と診断される人」が以前よりも格段に少なくなっているからだと理解しています≪注ⅵ≫

 ですから、「診断される必要がない人が診断されない」ことは、個人レベルでも、社会レベルでも大事なことなのです。

 もちろん「就職の時にはじめて知ることになって、夢絶たれる人」が出るという悲劇は、とてもインパクトがあり、それを聞いてしまうと、検査を受けるべきだろうか迷う人が多いと思います。

 ここまで読んでくださった方なら、それはかつての思い込みに基づいて、古くから続く検査を採用しているがゆえに、「実際の困りごとではなく、検査そのものが障壁になっている」状況だとわかるはずですが、それでも、急には変わらないわけですから、障壁は障壁です。

 次回は、現状においても、検査を受ける意味が大きいのはどういう場合か考え、さらに将来的には、検査や、検査をめぐる社会環境が、どのように変わっていくのが望ましいのか見ていきます。

≪注ⅵ≫ 先天色覚異常と診断される人の中にも、非常に大きな多様性があり、必要としていることはかなり違います。その一部のニーズが優先されると、他の人たちのニーズが覆い隠されることもあります。

「困りごとがない当事者」の声が優先され、「困りごとがある当事者」への対応がぼやけるようなことが、実は20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて、起きていたかもしれません。

 社会学者で『色覚差別と語りづらさの社会学:エピファニーと声と耳』(生活書院 2016)の著者でもある徳川直人教授(東北大学 大学院情報科学研究科)は、1990年代、色覚差別批判から、多くの制限の撤廃、学校健診での必須項目からの削除に至った時期について、次のように総括しました。(徳川直人ウェブサイト
http://www.sp.is.tohoku.ac.jp/toku/sakuhin/book/2016sikikaku.html

〈しかし、その色覚差別批判は、従来の検査が該当者を非常に広く篩い分けていたことから、また、健常ではないが病気でも障害でもないという曖昧な状況から、色覚特性は「大した問題ではない」「障害ではない」等と強調しなければならなかった。その訴えによって理不尽な制限の撤廃を達成しえた点には、歴史的意義を認めなければならない。しかし他方、それがともすれば色覚特性の否認として処理され、本来それにとどまるはずのない色覚検査撤廃論に議論が集中してしまったため、あるいは諸種の制限の撤廃も理解の高まりによってというよりも行政的な指導によってなされたために、社会環境中の配色の改善、多様性の尊重、当事者本意の支援や共同といった方向性が積極的に打ち出されたわけではなかったという課題を今日に残した〉

 ぼくはこの総括は傾聴に値すると思います。強い差別があった時代に、その不合理を訴えた人たちは、「先天色覚異常は、大した問題ではない」と強調しがちであり、また、そうする必然性もありました。

 実際、多くの当事者にとって「大した問題」ではなかったわけです。しかしその声が大きくなると、困りごとを持っている当事者の存在は薄まり、そのニーズが覆い隠されがちになります。

 もちろん、非常に不合理だった職業的な制限が緩むこと自体はすべての当事者が歓迎したでしょうが、「社会環境中の配色の改善、多様性の尊重、当事者本意の支援や共同といった方向性」は、その時、相対的に強い主張にはならなかったのです。

 例えば、実際、学校の教育現場でも、全員検査をしなくても、クラスに1人は当事者がいることを前提に、色の環境を整えることがなされるべきだったのに、それは、文科省の呼びかけ(参考文献【49】)だけに終わり、むしろ、学校の現場では、当事者の困りごとは、忘れられてしまいがちだったかもしれません。

 その点を改善していく機運が高まっていくのは、21世紀になってある程度時間が過ぎてからのことです。また、現時点でも十分に改善したとはいえず、今後どのような課題があるのか、何が必要なのか、本連載でも考えていきたいと思っています。

図表作成・デザイン:小松昇(ライズ・デザインルーム)

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Ⓒ ATSUKO ITO ( Studio LASP )

著者プロフィール

川端 裕人(かわばた ひろと)

1964年生まれ。小説家・ノンフィクション作家。東京大学教養学部卒業。日本テレビ勤務を経て作家活動に入る。小説作品として『銀河のワールドカップ』『空よりも遠く、のびやかに』(いずれも集英社文庫)ほか、ノンフィクション作品として科学ジャーナリスト賞2018・第34回講談社科学出版賞受賞作品『我々はなぜ我々だけなのか』(海部陽介監修、講談社ブルーバックス)、『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)、『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)ほか多くの著作がある。また、共著作として科学ジャーナリスト賞2021受賞作品『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博との共著、中央公論新社)など。近刊は『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)。ツイッターhttps://twitter.com/rsider /メールマガジン『秘密基地からハッシン!』(初月無料)https://yakan-hiko.com/kawabata.html

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