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そこには私の至純な歳月があったのだから~映画『スープとイデオロギー』が描く「済州島四・三事件」をめぐって2【対談】金時鐘×ヤン ヨンヒ


映画『スープとイデオロギー』より

 ヤン ヨンヒ監督の映画『スープとイデオロギー』(公式HPはこちら)をめぐる対談1に続き、今回は「済州島四・三事件(注1)」に関わり、日本に脱出してきた詩人の金時鐘(キム シジョン)氏。来日からこれまで70年以上にわたり、日本語で詩作を続けてきた。事件については、2001年に刊行された小説家・金石範(キム ソクポム)氏(注2)との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社)までほとんど語ることはなかった。
 監督のヤン氏はこれまでも、ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』(2005年)、フィクション映画『かぞくのくに』(2012年)などで、自身の家族を通して、朝鮮半島と日本の歴史、それらに翻弄されながら生きる在日コリアンの姿を捉えてきた。
 今作は、ヤン氏の母を主人公に据えた、これまでの「家族」の物語に連なるドキュメンタリーである。作品の冒頭で母の口から語られるのは「済州島四・三事件」の記憶。当時、18歳の彼女は事件の体験者であったことを語り始め、娘も知らなかった母の人生が明かされてゆく。
 ヤン氏は、自身の母と同じ事件の当事者で、「自分の来し方を振り返るとき、『四・三事件』の無残な体験が私の人生の大きい比重を占めている」(『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書、2015年)と回想記に記す金氏が、母の体験をどう受けとめるのか知りたかったという。

歴史のしがらみから逃れられない

ヤン ヨンヒ(以下、ヤン) お会いしてお話しするのが初めてでして、緊張しています。

金時鐘(以下、金) あなたのお父さんのヤン コンソンさんとは民戦(在日朝鮮統一民主戦線。朝鮮総連の前身にあたる)のときからずっと一緒でしたよ。

ヤン うちのアボジ(父)が先生に失礼なこと言ってませんでしたか?

 朝鮮総連は僕を許せないと批判してきたけど、あなたのお父さんは僕にきついこと言ったことはなかったよ。まぁ、お人よしと言っていいのかわからないけど。70年代初頭までは総連の体育協会の会長をやられていたんだよね?

ヤン そうです。

 実はお父さん、ぼくのある集会の会場にたずねてきたことあるんよ。それは、あなたの話だったんですよ。「娘が映画撮っているから、時鐘トンム、ちょっと力貸してもらえんか」 って言って。

ヤン えっ! 私には「芸術をしたければ帰国しろ!」と言ってたんですよ。

 帰国って北にか? 

ヤン そうです。それで私が、「頭おかしいんちゃうか! 息子3人も行かせて、まだ懲りひんのか!」とか父に言って、大喧嘩になってた(笑)。

 お父さんと会ったときに「うちの娘、映画作るのを頑張っておるから、頼むわ」と言われた。僕は「私は詩人ですから、できることが何かあるとすれば、新聞で映画についての記事を書くとかなら、できるかもしれませんが」って答えたよ。お父さんは「もうあの子は、どないして生きていくんかな」言ってたわ(笑)。ヨンヒさんのこと、心配してたんだよ。

ヤン 驚きです。初めて聞きました。

 お父さんは、大阪を代表する総連の重鎮です。対して僕は、総連の批判の矢面に立たされていた男です。お互いに会っても、何か表立って話すことはできなかった。ただ、冠婚葬祭なんかで否応なしに一緒に席を持つときはあって、そういうときに会うと気さくな人でしたよ。わざわざ大っぴらにやって来て、「時鐘トンム、元気か?」言うて(笑)。

ヤン 全然知りませんでした。


ヤン ヨンヒ氏、金時鐘氏

――先ほどヤン監督が、緊張するとおっしゃったのには、金時鐘さんがほかならぬ「済州島四・三事件」の当事者であったことがあると思います。その方に映画を観てもらうことの重さを感じていらっしゃる。時鐘さんは、映画をご覧になっていかがでしたか?

 僕はこの映画を2度観たんだけど、四・三事件が大きくウエイトを占めている映画とは思わなかったな。それよりヨンヒさんのお母さんの姿が印象的だった。ヨンヒさんのお母さんは、日本で生まれて、終戦直前で済州島に引き揚げて、そこからまた四・三で日本に逃げてきたんだよね。つくづく、私たち在日コリアンは、政治的、歴史的なしがらみから逃れられない存在であることを考えさせられた。そんな在日が、日本人へ向けて表現しようとすると、とかく気負いが先立つことがある。訴えるような、プロテスト的な表現を取ることが多いけど、この映画は気負うところがないのがよかったです。それと、ヨンヒさんが、日本人の男性と一緒になって何ら気後れを持たないような感じも爽やかだったね。ヨンヒさんの持っている表現力の率直さがストレートによく出た作品だと思った。それこそ、お父さんも映画の最初に出てきたね。

ヤン ええ、私の長編デビュー作の『ディア・ピョンヤン』(2005年)というアボジを主人公にした映画のシーンを『スープとイデオロギー』でも使いました。

 お父さんがヨンヒさんに「早く結婚しろ、誰でもいい。アメリカ人と日本人以外なら」と言っていた(笑)。僕は今年、93歳になるんだけど、その言い方に在日の先代たちから続く根っこにある意地みたいなものを感じるんだよ。あのお父さんの言葉は大いに笑った。そう言われていた娘が、よりによって日本人のお婿さんを連れてくるんだから(笑)。でも、お父さんが生きておられても、「まったくお前というやつは!」と笑って結婚を喜んでくれたと思うわ。
 それから、映画を観て感じたのは、お母さんはヨンヒさんを、一人娘だからなのか、お嬢さんとして非常に慈しんでいるのがわかる。日本のお客さんが映画を観ると、あのお母さんの一切飾らない性格に少しびっくりするんじゃないかな。お婿さんの荒井さんに対しても、日本人の振る舞いと違って、なんでも率直にありのままをさらすでしょう。でも、あれはお母さんの荒井さんへの精いっぱいのお愛想なんだよな。
 しかし、あのお母さんが、荒井さんのために作る鶏のスープに入っているニンニクは入れ過ぎちゃうか? 臭いだろう(笑)。

ヤン 荒井はニンニクが好きなんです(笑)。

 後にも先にも見たことないよ、あのニンニクの量は(笑)。
 あのように、在日と日本人が関係しあうシーンを日本の観客のみなさんがどう感じるか。それと、四・三事件について日本人がどこまで気持ちを寄せてくれるか。私にとって四・三の体験は、いまだに悪夢にうなされ続けるものなんだ……。


映画『スープとイデオロギー』より

決して口にできなかった過去

――映画の中でヨンヒ監督のお母さんが済州島から来た「四・三研究所」の方々に、四・三事件の体験を語り始める場面があります。この場面を、時鐘さんはどう感じましたか?

 あそこは、お母さんが覚えている限りの記憶のすべてを語っている場面だと思うね。四・三のときに済州島で何が起こっていたのか……。これを語ったら死ぬなということを生理的に感じたまま、日本に来ているからね。

ヤン 私がオモニ(母)にむかしのことを聞いても、オモニは「アボジは済州島の生まれだけど、オモニは日本生まれや」といっていた。そういう割には、済州島の料理作ってくれたりした。「オモニ、済州島行ったことあるの?」と聞くと「いや、ちょっとな」とか、ごまかしているような感じで……。

 お母さんは絶対話せないんだよ。四・三の話題については触れないという訓練が、できあがっているんだ。僕には、その言えないお母さんの気持ちが痛いほどわかる。

ヤン 私は大学まで朝鮮学校を出ましたけど、「四・三事件」という言葉すら聞いたことがなかった。これは恥ずかしい話なんですけど、四・三のことを知ったのは、私がニューヨークに留学したときでした。いい英語の先生がいて、よく生徒を自分の家に招いてくれたんです。彼女のパートナーが歴史学者を目指して勉強していた人だったんです。彼女の家に行くと彼がいて、歴史の話になる。それで、あるとき彼が私に「きみは在日コリアンなんだろ、それなら済州島を知っているだろ?」と聞いてきた。私は「ええ、父が済州島の出身です」と答えると「大変な虐殺があった場所だろ」と言ってきたんです。私は「いや、先生、それは光州で場所が違いますよ」と言い返したら、「いや、光州じゃない。違う、もっとむかしの話だ」と。私のほうが光州事件のことだと勘違いしていたくらいです。それが四・三事件を知るきっかけでした。

 四・三事件に関する最初の研究書はアメリカで出版されたんだよ。

ヤン そうなんですね。今回の映画でも出てきますが、オモニは四・三のことを話したあと、アルツハイマーが進行するんです。そのあと、済州島に私と一緒に行くことになったのですが、済州島で方言を聞いたりしたら、記憶が戻るんじゃないかなとか期待したんです……。

 それは逆だろうね。お母さんは、済州島での無意識の恐怖が蘇ったんじゃないかな。

ヤン 済州島にある「四・三研究所」の事務室で話しているときに所長が方言で、オモニに「むかしつらいことがたくさんあった場所ですけど、いまどう思われていますか?」と質問したんです。そしたらオモニが朝鮮語で「タ アンコシプスニダ(全部抱きしめたいです)」と言った。そこは映画に入れられなかったけど、所長も私もびっくりですよ。

 それは本当にいい言葉だね。映画に入れられなかったのは残念だな。
 映画の中でのお母さんの証言に出てくるけど、虐殺から逃れるために幼い兄弟を連れ30キロもの道を歩いていく。しかし、よく済州島から脱出するための密航船に乗れたと思うんです。四・三の人民蜂起と言われる側に立っていた連中がおったら、もうその場で誰であろうと撃ち殺された。だから、密航船の船頭も四・三事件に関わりのあると思った人は絶対乗せようとしない。

ヤン 当時、オモニのオモニ、ウエハルモニ(祖母)は大阪にいたんですね。行商のような仕事をしていたようです。彼女が必死にお金を貯めて、娘たちを日本に来させるために済州島にお金を送っていた。それで密航船に乗ることができたようなんです。

 ああいう密航船は、前金制度だからね。


映画『スープとイデオロギー』より

無視された四・三事件

――ほかに時鐘さんが印象に残っている場面はありますか?

 四・三事件の70周年追悼式で、荒井さんがヨンヒさんのお父さんが勲章をいっぱい付けている写真をかかえて、立っておられたね。僕にはすこぶる異様な光景やった。

ヤン はい。実は、私も勲章は引っかかってはいたんです。北朝鮮政府からもらった勲章ですから。

 言ったら悪いけど、総連の活動家で勲章もらってない人は、日本で2人しかいないって聞いたよ。そのうちの1人が僕や(笑)。僕は感謝状1枚もらったことない。
 北からの勲章は、お父さんにとって自分の生きてきた証明だったんだろうね。だけど、北朝鮮の実情をもう全部知っておられるご両親が、どうして新興宗教の徹底した信者のように北を信奉するんだろうとは思うんだよ。
 北の共和国は、総連幹部だと知るともう大臣のような扱いをする。ヨンヒさんのお兄さんは、率直に言えば北朝鮮に帰国して無念な死を迎えたじゃないですか。祖国建設の夢いっぱいで北に渡り、その夢が叶わなかったどころか、北に相手にされない状態で、精神に異常をきたしたんだよね。それは、あなたのお兄さんだけではないんだ。僕が知っているだけでも、何人もいた。ヨンヒさんは、直接的ではないにしても、そういう事象を映画で見せることで、遠回しに、北朝鮮のありように批判をぶつけている気はした。

――ヨンヒ監督は、朝鮮大学校で「ヂンダレ」(金時鐘、梁石日らが中心になって作っていた文藝同人誌。当初は民戦の要請で作られたが、のちに朝鮮総連から批判を受けた)をなぜ私たちに読ませないのだと言って教授に抗議したそうです。

 あのお父さんの娘にしては上出来や(笑)。

ヤン 平壌にいる3人の兄たちが、あのアボジとオモニのもとで、私のことをえらいまともに育ったなって言っていました(笑)。本当に、総連しか知らない妹になったらどうしようと心配したそうです。

 お母さんが北を支持する理由が僕にはよくわかる。四・三が起こった当時は李承晩の臨時政府の時代でした。その臨時政府を作り上げて押し上げたのはアメリカ占領軍です。アメリカの軍政が李承晩に作らせた。李承晩は48年から韓国の初代大統領になるけど、あの血しぶく嵐のような、無慈悲きわまる四・三の実情を目の当りにした者は、この政治家を絶対に許さないし、その政権には絶対与(くみ)しないと思うんだ。四・三事件もそのような心情に絡んでいるわけだ。
 四・三事件はね、韓国政府はもちろんだけど、北もまた一切無視していたんだ。それはなぜか。朝鮮戦争は1953年10月27日に休戦協定が成り立った。その直後、金日成〝元帥さま〟は、南朝鮮労働党(南労党)(注3)の書記長であった朴憲永(パク ホニョン)をアメリカのスパイとして処刑した。金日成がソ連の後押しによって作り上げたのが臨時人民委員会。つまりその委員会が臨時の政府の役目を果たして、やがて北朝鮮政府になっていく。朴憲永は戦前から抗日闘争をしていた人物でね。抗日闘争の人たちはほとんどが亡命するんだけど、彼は亡命することなく、10数回の逮捕、収監に耐えながらも国内で抵抗を続けてきた。だから、人望もあって彼のつながりは非常に広いのよ。ソ連にいた金日成よりも全国的につながりがあるんです。朴憲永は46年暮れに南朝鮮労働党を作り上げて書記長に就いていた。そのあと、50年に四・三による弾圧もあり党の主要メンバーが北に渡ったので、南労党は北の労働党と合体して朝鮮労働党ができた。それで彼が副委員長に就きます。ところが、朝鮮戦争が休戦協定になると、金日成によって即刻処刑された。それ以降、彼が所属していた南労党も、四・三事件も、一切無視され、その存在すら認められないままいまに至ります。

――政治、権力者の都合によって北朝鮮も韓国も済州島四・三事件の悲劇をずっと無視してきた。

 そうです。韓国は2003年にようやく盧武鉉大統領が、四・三は国家的な罪であったことを公式に認めたわけだけど、北はまったく無視です。当時は南労党にかかわりがありそうな人をみんな殺したんだからね……。四・三を否認するのは、南労党の同志を殺したこととつながっているわけなんだ。


映画『スープとイデオロギー』より

母の一番純粋な時期

 ヨンヒさんのお父さん、お母さんは実生活の中で常に国家の歴史的なしがらみに翻弄され、苦悩、苦悶をかかえて生きなくてはならなかったんですよね。映画の中で、お母さんが過去の記憶を失ってもなお、金日成主席を称える歌をきちっと唄われるシーンは本当に胸にこみ上げるものがあったよ。人間であるとはどういうことか? 主義とはどういうことか? を考えさせられた。あそこは、詩をやる者として、思いが溢れてくるような場面だったね。
 僕は歌の怖さをよく知っている。歌は多感なときに身についてしまうと一生忘れない。それは、帝国主義時代の日本国民もみんなそうだったんだから。子どもたちが歌を唄わされて、万歳三唱で兵隊を戦争に送ったんだからね。この映画で一番やりきれないシーンだったな。お母さん純粋なんだ。

ヤン オモニはカメラの前とカメラがないときと、ちょっと言うことが違ったりしました。

 ヨンヒさんのお母さんは、もう何十年も総連の女性同盟の委員長をやっていて、自分がどう見られるかが身についているんだよ。

ヤン ある時期、オモニはさっきの先生の言葉で言えば〝北の新興宗教の信者〟として、北にいる兄たちのためだけに生きていこうと決めたように見えたときがあったんです。北朝鮮が話題になる国際ニュースも見ない、批判的なことが書かれた本も読まない。いまとなっては、私もオモニはそうとしか生きられなかったんだなと理解しますけど、若いときはオモニのことをとてもずるいと思っていました。「自分の子どもだけよければいいのか」とか、「日本で暮らしながら北朝鮮を支持するって、えらい楽やな」とかね。そう言うと、オモニはいつも私に「うるさいな」とか言い返してくるんです。
 でも、アボジが亡くなったあとに私が「これはオモニが決めたらいいことやけど、もし私がいるからしょうがなく日本にいるんやったら、無理しないで、家を売って、そのお金を持って平壌で最期は孫と息子らと暮らしたらどう?」って聞いたんです。そしたら、何て言ったと思います?

 北で暮らせないと言った?

ヤン そうです。「あの国では暮らせない」とはっきり言いました、ビックリしました。
 オモニが唄うシーンは、娘としては、言わば洗脳された母親を世にさらす残酷なシーンだという自覚をしながら入れているんですけれども……。

 でも、歌を唄うシーンでお母さんの隣にヨンヒさんがいるでしょう。この映画のいいところは、監督自身が自分をさらしているところです。自分の身をカメラの前にさらさないで、お母さんだけを撮っていたら、観る人によっては、「このお母さんは心を病んでいるのかな」とか感じてしまうかもしれんけど、それをカバーしているね。
 お母さんの一番純粋な時期に、自分のすべてを出したというのが総連の活動なんだ。その純粋さを、まみれさせたくないって気持ちがあった。ただ単に北を批判したくないという気持ちだけじゃないんだ。僕は、お母さんの生き方からクロポトキンの言葉を思い出すな。
 クロポトキンは、旧帝ロシアでは公爵という一番位の高い貴族です。にもかかわらず、無政府主義を唱え、投獄された。そのあと、脱出してヨーロッパ各地を40年近く転々として、無政府主義活動を続けた。やがて、自分の祖国のロシアに革命が起こる。1917年の十月社会主義革命になって帰国したんだけど、革命政府からはアナーキストとして受け入れられなかった。自分の願った国になったはずなのに、その願った国から外された。そのことをクロポトキンは書いているんだよね。彼の日記の一節だったと記憶しているけれど「いいじゃないか。そこには私の至純な歳月があったのだから」とあった。
 僕は長らく組織から批判を受けて行き場もなく、大変な難渋を経たけど、いつも耐えられたのはこの言葉のおかげでした。お母さんの気持ちも、この言葉に近いんじゃないかな。だからお母さんを恨まないでほしい。

ヤン 自分の人生を否定しては生きていけないですよね。オモニは、息子たちを北朝鮮に行かせる前までは商売をしていたんですよ。最初は、洋裁で生計を立てるためにミシンを踏んでいたんですが、そのあと食堂の仕事に就きました。大阪の肥後橋のビルの下で、人に任されてですけれども日本人のホワイトカラーのお客さんばっかりのレストランをやっていました。

 そのお母さんが仕事をしていた店の「レストラン・サガ」、実は私が作ったんだ。

ヤン えっ! 時鐘先生が! とてもいいお店でした。子どもの頃、オモニと一緒にその店に行くとオモニが「ここではオモニじゃなくて〝お母さん〟と呼びや」って言うんです。私のこともヨンヒじゃなくて、エイコ。お店のお客さんが、日本のサラリーマンばっかりだったからでしょうね。なぜか、〝エイちゃん〟って呼ばれて(笑)。とても懐かしいです。あのときまでが、うちの家族が一番幸せだったときです。


映画『スープとイデオロギー』より

「帰国事業」で起こったこと

 ヨンヒさんは大阪の朝鮮高校出身でしたね?

ヤン ええ、そうです。

 当時の校長は韓鶴洙(ハン ハクス)だった? そのあとか?

ヤン そのあとです。

 韓鶴洙先生は朝鮮高校の初代校長だったんだけど、民族教育にも熱心で本当に生徒に慕われたいい先生だった。その先生に60年代の末に、北朝鮮から「指名帰国」(名指しで帰国させられること)が来た。帰国船に乗るため新潟へ向かうまで、夫婦で僕の家の2階にいたんだ。僕は必死に、帰るなと止めたんだよ。でも、韓先生は「私は祖国を信じる」と言って行っちゃった。帰国当初は特別扱い受けたようだけど、そのあと韓夫妻は強制収容所送り。向こうの政治闘争に敗れて粛清されたんだ……。先に北に渡っていたこども2人、娘1人、息子1人がいたんだけど、娘のほうは、日中に路上から連れていかれたまま、行方不明。息子から「日本の金で20万あったら結婚ができそうです。住まいもなんとかできそうです。姉さんがどこか遠いとこへ行かれまして、いま連絡がすぐは取れません。お父さんお母さんも行方がわからないままです」という手紙が僕のところへ来た。僕はすぐにお金を送ったんだけど、それがスパイから金をもらったということになって彼まで……。結婚式を控えていたのにね。あとから、彼が死んだことは克明にわかった。

ヤン 実は母の妹、私のイモ(叔母さん)も帰国しまして、そのあと結婚した相手が収容所に送られたんですね。少しでも気を緩めると、北に家族が引っ張っていかれるという状況から、うちのアボジとオモニが親戚中の要(かなめ)のようになった時期がありました。アボジの兄弟、アボジの男兄弟の子どもたち、みんな北に行っていますし、それは大変だったと思います。

 ヨンヒさんも私もつまるところ、大変なテーマを預かったままだよ、本当に。
 在日同胞の体面にかかわることは、日本語では表に出せないと思ってきたんだけどね。もう時代も変わったから、事実は事実で残そうと思って、僕のいま出ているコレクション(『金時鐘コレクション』藤原書店)の巻末のインタビューなんかでは話しているんだけどね。
 映画に話を戻せば、今後の宿題として、ヨンヒさんに注文したいのは、できれば朝鮮総連の批判一つぐらいは映画の中でやってほしい。

ヤン それは実は前の作品、(『ディア・ピョンヤン』(2005年)、『愛しきソナ』(2009年)、『かぞくのくに』(2012年))でやっているんです。

 そうか。失礼した。前作とのつながりもあるわけやな。それは観ないとあかんな。
 北も北だけど、在日朝鮮人の権益を守る組織といわれた朝鮮総連が「帰国事業」の旗振りをしたんだよね。北は〝地上の楽園〟だといってね。北に行ってすぐ実情がみなわかって、行方不明者がだんだん出てくるのに、総連は北に問い合わせひとつしなかった。日本で生きている私が生涯根に持つのは、そういうことなんだ。1959年12月に帰国第1船が出るんだが、(朝鮮戦争の)休戦協定が成り立つのが53年7月。丸5年経ったかどうかの国が、〝地上の楽園〟たるはずがないだろうが。一望千里焼け野原だしね。そんな旗振りをした朝鮮総連をヨンヒさんも許しちゃならんよ。

ヤン 今回の映画では、金日成と金正日の肖像画を外したシーンに少し込めているかもしれません。何であのシーンを入れたんやって言う人もいたんですよ。

 あれはいいシーンだったね。監督の意志がよく出ている場面だった。
 いま日本で生きる在日の世代は、第5世代の人たちが子を育てる時代に入った。それでいてなお、私たちはいまもって〝自前の〟朝鮮人になりきれてないところがあってね。民団(在日本大韓民国民団)(注4)と総連の関係に見るような、対立する相手と関係性を切るんじゃなくて、普段、密接なごく習慣的つながりのなかで漫然とすごしてきている状態から切れていかないと、新しい関係性が作れない。切れて、またつながる必要がある。ヨンヒさんは、創作をする立場だからこれからもそういう判断を迫られるときがくるだろうね。まぁ、難しい作品を4つも作って、大変ご苦労やった。

その地の災いはその地の神が鎮める

 ヨンヒさん、いつかまた済州島の風景を撮ることがあったら、無縁塚の「ホッミョ」を撮ってほしい。漢字で書くと「虚墓」。それを「ホッミョ」という。「ホッ」といったら中身のないもの、「ミョ」というのは墓のことなんだ。遺体が探せんので、虐殺された場所の石を遺体の代わりに埋めた墓があるんで、そこを撮ってほしかった。

ヤン 次に済州島行くときは撮ろうと思います。

 僕は唯物史観を世界観としていたから、済州島の迷信じみた巫女(みこ)、神房(シンバン)がずっと嫌いだった。でも、考えが変わった出来事があった。
 四・三に絡んで逃げて隔離病棟や米軍基地に隠れていたことがあってね。それから、親父のツテの家に移って、防空壕だった石垣の物置に隠れていたときに、鳴り物の音が聞こえてきたんだよ。4、500メートルくらい離れたところから、ジン(銅鑼)の音が風に乗って響いてくる。もう、その音が心臓の奥底に響いたね。原色の赤青黄色の服を着て踊っている神房も見えたんだ。匿(かくま)ってくれている家の叔母さんに聞いたら、「魂よ、帰ってこいと呼んでいる儀式や」と教えてくれた。水葬虐殺された犠牲者の家族たちが、神房にお願いをして、遺体と魂が帰ってくるように祈ってるんだな。せめて遺体でも戻ってほしいという遺族の痛切な祈りなんだ。
 そのとき、手首を数珠つなぎにされた4、5人の遺体が砂利浜に打ちあがっているのを2度も見た。日本みたいに砂浜じゃなく砂利浜だから、肉体がオカラのようにずり剥(む)けて骨が見えてるんだ。僕はそれを見たとき、その地の災いは、その地の神でないと鎮められないんだと思ったね。だから、これまで無神論を決め込んでいたんだけど、僕の両親と、僕を匿ったせいで山部隊に殺された叔父貴の霊を慰めたいと考えが変わった。
 それで、2007年に済州島を訪ねたときに、供養をしたんだよ。NHKのドキュメンタリー(『海鳴りのなかを―詩人・金時鐘の60年』)でその様子が映っているけどね。その儀式の費用にNHKの出演料50万円全部取られた(笑)。儀式には殺された叔父貴の長男一家も来てくれてね。その長男が儀式が終わったときに声をかけてくれたんや。僕の手を握って、土着の済州弁で「時鐘のせいじゃないんだから」「親父の運命だったんだから」って言って涙ぐんでくれたんや……。もう、この言葉でね、長らくあった胸のしこりが取れたようだった。神房のおかげや。日本の各地域に産土神(うぶすながみ)がいるのと同じように、済州には神房がいる。
 現代日本の不幸はね、闇を持っていないことだ。暗いところがなさ過ぎる。闇があるところ、必ず産土神が祭られてあるのよ。さらに、われわれ在日の悲劇性というのは、その土着神を祭るところがないことだね。
 総連の体制、社会主義、東欧諸国が崩れ去ることは予知ができた。なぜなら人間が地声で語ることができない体制は、やっぱり本当の社会主義じゃないからですよ。それより何より、人間の理性や、それとは別にある人間の本性的な恐れ、神への恐れを遠ざけてしまう。人間の知力では到底及ばないことを言い表せないから、人類みなそれを〝神〟と呼ぶんだろうと思うけど、そういう人間が心の奥底で、恐れを抱くものを見失っている。つまり、それを無視した唯物的な世界観は保(も)たないですよ。


映画『スープとイデオロギー』より

――最後に、時鐘さんがこれから映画館に行こうとしている人たちに、この映画の見どころを伝えるとしたらどこでしょうか。

 よく日本人の朝鮮人に対する差別と言われるけど、差別じゃない。あれは蔑視、蔑(さげす)みですよ。戦前、朝鮮人を「センジン」と言った。「センジン」って朝鮮の鮮じゃなくて、賤(いや)しいというあの賤を重ねて「センジン」と言ったんです。それが戦後も続いている。そういう日本人のおしなべた朝鮮人蔑視観がある中で、ヨンヒさんと荒井さんの2人の夫婦の関係がクローズアップして描かれていることは、いまの状況を打ち返すきっかけになるんじゃないかな。
 ところで、ヨンヒさんと荒井さんが、朝鮮の晴れ着を着て結婚の記念写真撮る場面があるけど、これはうちの奥さんの映画の感想だけど、荒井さんのお母さんはどう思っているの?

ヤン とても喜んでました(笑)。

 荒井さんのお母さんの言葉も、映画で使ったらよかったのに(笑)。
 僕は四・三事件の只中で、もう10万分の1みたいな確率で命を長らえた者ですからね。この映画を平静に眺めてはいられんけど……。映画を観る日本のみなさんはまずは、四・三事件とは何だろうというところからでしょうかね。

ヤン そうですね。この映画を観て「四・三事件」という言葉だけでも覚えてもらえればと思います。

(注1)済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。

(注2)金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。

(注3)南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)

(注4)民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)

金時鐘(詩人)
ヤン ヨンヒ(映画監督)

(構成・文/木村元彦)

著者プロフィール

金時鐘(キム・シジョン)

詩人
 1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。現在、藤原書店より『金時鐘コレクション』(全12巻)刊行中。金石範氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。

著者プロフィール

ヤン ヨンヒ(Yang Yonghi)

映画監督
 大阪出身のコリアン2世。父親を主人公に自身の家族を描いたドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』(05)は、ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭・審査員特別賞ほか、各国の映画祭で多数受賞し、日本と韓国で劇場公開。自身の姪の成長を描いた『愛しきソナ』(09)は、ベルリン国際映画祭、Hot Docs カナディアン国際ドキュメンタリー映画祭ほか多くの招待を受け、日本と韓国で劇場公開。脚本・監督した初の劇映画『かぞくのくに』(2012)はベルリン国際映画祭・国際アートシアター連盟賞(CICAE賞)ほか海外映画祭で多数受賞。さらに、読売文学賞戯曲・シナリオ賞等、国内でも多くの賞に輝いた。著書にノンフィクション『兄 かぞくのくに』(12/小学館)、小説『朝鮮大学校物語』(18/KADOKAWA)ほか。

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