いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人いろいろな人のいろいろな色 色覚多様性をめぐって 川端裕人

第1回

はじめに ~「色覚の違い」に橋を架ける~

更新日:2022/07/26

 この連載では、わたしたちヒトが持っている色覚の多様性について考えます。

 色の見え方は、人それぞれです。それらは長い進化の歴史の中で培われたもので、優劣ではありません。それぞれの色覚タイプに長所と短所があり、相補うものだと分かってきています。つまり「みんな違って、みんないい」のです。

 でも、お互いに違う見え方があるなら、それがどんなものか知りたいと思いませんか?
 
 まずはその素朴な疑問を追求しようと思います。

「正常」「異常」で語られてきた問題点をふまえる

 ただ、単に素朴な疑問だけでは済ませられない部分もあります。

 20世紀を通じて、また、21世紀になってもつい最近まで、ヒトの色覚の多様性を「正常な色覚」「異常な色覚」というふうに分けて考える時代が長く続いてきました。「色覚多様性」は生物学の概念ですが、医療の分野(眼科)で診断をつける場合には、今も「正常」に対して「先天色覚異常」という言葉が使われます。

 この場合、「正常」とは多数派のことで、「異常」とは少数派のことです。

「異常」とされた当事者は、かつてきびしい差別の対象になりました。20世紀中の保健体育の教科書には「結婚には慎重であるべき(「先天色覚異常」の遺伝を残すべきではない)」という主旨のことが書かれていて、当然、結婚を諦めたり、色覚を理由にして破談を経験する当事者や保因者(先天色覚異常の遺伝子を持っている女性)も多くいました。職業的にもあらゆる分野に制限があり、小学校の教員や銀行員など、今となっては首を傾げざるをえないような職種まで門戸が閉ざされていました。

 多数派にとって、「知らない」「分からない」ことが恐怖につながり、少数派(「色覚異常」と診断される数パーセントの人たち)を「異常者」「色間違いをする危険で劣った人たち」というふうに考えてしまったことがきっかけだと思います。とするなら、やはり、「理解し合う」ことはものすごく大事ではないでしょうか。

 というわけで、このような歴史をふまえた上で、「知る」ことを通じて理解し合い、互いに敬意を抱けるようになる、というのが、本連載の大きな目標です。

今も残る誤解と偏見を晴らす

 実は、「色覚と職業」については、今も、「思い込み」や「偏見」が残されています。

 例えば、色覚をめぐる話題をソーシャルメディアでウォッチしていると、「色覚異常」の人は、「医師になれない」、「消防士になれない」、「警察官になれない」といった、あきらかな「間違い」が今も語られています。中には、眼科でそう言われたという人もいます。

 実際には、現在では色覚を問わず医師になれますし、消防士も一部の自治体を除いてなれます。警察官も、「職務の遂行に支障がない」を目安にした独自基準で判断します。眼科で「不可」と言われたというのは、ひょっとするとそのお医者さんが「なっても苦労する(と自分は思う)」というようなニュアンスのことを言ったのが誤って伝わったのかもしれません。それでも、やはり誤解がまかり通っていることには間違いないわけです。他にも、デザイナー、芸術家、カメラマン、調理師、美容師、自衛官といった仕事もよく挙げられています。

 そこで思ったのですが、こういった誤解されがちな職業で、今実際に活躍している当事者は、いったいどんなふうに多数派の色覚に基づいた色世界に適応して、仕事をこなしているのでしょうか。大した苦労がない場合もあるでしょうし、逆に多くの工夫を重ねている場合もあるでしょう。

 そういったことを聞き取ることは、ひょっとすると本連載で目標とする「知ること」につながるかもしれません。多数派にとっては「違う見え方」の理解につながり、当事者にとっても自己理解が深まることになるでしょう。そして、少数派がよりよく暮らすための環境の工夫についても、きっかけを得られることでしょう。だから、本連載では、様々な分野の様々な当事者の話を聞きながら、考えを深めていきます。

「多様性」があるなら、どう理解し合えばいいだろう

 こういったことを企画した背景を少しだけ述べます。

 21世紀になってから色覚についての研究が進み、ヒトの色覚は従来思われていたよりもずっと「多様で連続的」だと分かってきました。また、様々な色覚の人たちがいる今の状態は、進化の歴史の中でむしろヒトという種の強みにつながってきた可能性があることも指摘されています。「色覚多様性」という言葉も、「色覚異常」を別の表現で言い換えようとしているのではなく、これまで正常とされてきたものも、異常とされてきたものも、ひっくるめてヒトの多様性の一部だということを主張しているわけで、むしろ、新しい概念の提案といった方が正確です。

 ぼくは様々な分野での色覚研究の進展について調べ、2020年に『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)として上梓しました。そこでは、多様な色覚の人たちが、互いに優劣ではない(「正常と異常」という枠組みではない)相互理解をしていくための基本となるような知見をかなり専門的なところまで立ち入って語りました。

 でも、そのとき、「実際にどのように見えるのか」「どのように理解し合えばいいのか」というところまでは、話を進めることができませんでした。だから、その穴を埋めたいというのが、今回の企画のひとつの動機になっています。

当事者の一人として間を取り持ちたい

 さらに述べますと、ぼく自身、「先天色覚異常」の当事者です。それも、世間のイメージとはかなりずれた当事者です。

 眼科では「異常3色覚」、古い名前では「赤緑色弱」と診断されてきました。しかし、非常に微妙な症例で、検査の方法や医師によっては「正常」とされることもあるのです。また、取材の中で受けた最近の検査(イギリスで開発されたCAD検査など。これについては後の回で述べます)を受けてみると、自分よりもはるかにスコアが高い(つまり「色覚異常」の度合いが高い)人たちが、日本で使われてきた従来検査(数字を色付きのドットで示したものを読む石原検査表)ではごく普通に「正常」と診断されていることも知りました。実はこのような「ねじれ」の現象は、きちんと調べるとかなりあるというのが最近の知見です。

 だから、ぼくの前著では、現在の科学で分かっている色覚の多様性と連続性を様々な面から示して、従来検査をそのまま使い続けるのは様々な意味で無理があることを強調しました。と当時に、多様性の両端、つまり、「正常」とされてきた人も、「強度の色覚異常」とされてきた人も、実は優劣ではなく、それぞれにメリット・デメリットがあることも示しました。つまり、色覚を「正常か異常か」で語るのは、いろんな意味で間違っているのではないか、ということです。

 本はかなり分厚くなりましたが、内容はそれなりに受け入れてもらえたと思っています。本を出した後で、様々な当事者団体・支援団体の勉強会、あるいは研究者が集う学会(日本視覚学会、日本色彩学会、日本健康学会、日本学校保健学会の皆さんありがとうございます)やインフォーマルな研究会などにいくつも呼んでもらい、前向きな意見交換をすることもできました。

 当然、多くの当事者や研究者と出会うことになり、自分が「先天色覚異常」とされる人の中でも、独特の位置にいることを痛感しました。ぼくは「異常」と診断はされても、その違いを日常生活の中でも職業生活の中でも自覚できません。これまで、テレビ局員として番組の編集作業や、フリーになってからは野生動物についてのかなり本格的な写真撮影をするなど、「色」に気を遣う仕事をしていた時期もあるのに、人生の中で、自分の色覚が多数派と違うと認識できたのは色覚検査の時だけでした。

 家族、知人、友人などと、「どこが違うのか」確認しようとしても、お互いの頭の中にある像を交換することはできませんし、言語レベルでやりとりするかぎり、違いは分かりません。また、「こういった色の組み合わせが区別しにくい」というような例が出ている専門的な本やサイトを見ても、ぼくにはすべて自明に色が違うと感じられるものばかりです。ネットで時々流行る色覚検査では、何を調べているのかよく分かりませんけれど、たいてい最高点かそれに準ずる得点を取ります。結局、「色覚異常というのは検査で見つかると特別に感じられるけれど、自分も含めて多くの場合は大して問題ないのでは」と思いながらずっと暮らしてきました。実際、このような人もかなりいるのです。

 しかし、取材を通して出会った当事者の中には、はっきりと見え方が違う人たちがたくさんいました。「あの色とあの色が区別しにくいんです」とか、「あの建物の屋根の色と、周りの木々の葉の色が似て見えます(多数派の見え方としては茶と緑)」といったように、自分の見え方を自覚した上で深く考察していて、その違いを言語化して表現できるのです。

「先天色覚異常」と同じ言葉で括られる人たちの中にも本当に大きなばらつきがあって、日々体験することも、困りごとの種類も、持っている意見も、まったく一様ではないことが分かってきました。

 ぼくは「知りたい」と願いました。また、「正常と異常」の狭間にいるような自分であるがゆえの貢献もできるのではないかとも考えるようになりました。つまり、本当に多様な色覚がある中で、自分のような者だからこそ、間を取り持つことができるのではないか。相互理解の橋を架けることができるのではないか、と。

これから、本連載で目指してゆくこととは

 というわけで、あらためて大きな目標を掲げます。

 わたしたちヒトが持っている色覚多様性というのがどういうものなのか、違う見え方をしている人たちが実際のところどんなふうに見えているのか、できるだけ理解したい。そして、それぞれの見え方に敬意を持ち合える社会を創る一助となりたい。

 どこまで行けるか分からないけれど、こういった大きな目標をしっかりと胸に刻んだ上で、連載をスタートしたいと思います。

 まずは、次回、連載第2回から「準備の章」として、現代において多様な色覚について考えるために必要な最低限の知識をまとめます。ぼく自身は前掲書の取材の中でこういったことを知り、その本の中ではかなり詳しく書き込みました。しかし、この連載ではできるだけ簡潔に要点を絞ってお話ししようと思います。

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Ⓒ ATSUKO ITO ( Studio LASP )

著者プロフィール

川端 裕人(かわばた ひろと)

1964年生まれ。小説家・ノンフィクション作家。東京大学教養学部卒業。日本テレビ勤務を経て作家活動に入る。小説作品として『銀河のワールドカップ』『空よりも遠く、のびやかに』(いずれも集英社文庫)ほか、ノンフィクション作品として科学ジャーナリスト賞2018・第34回講談社科学出版賞受賞作品『我々はなぜ我々だけなのか』(海部陽介監修、講談社ブルーバックス)、『「色のふしぎ」と不思議な社会 2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)、『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)ほか多くの著作がある。また、共著作として科学ジャーナリスト賞2021受賞作品『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(西浦博との共著、中央公論新社)など。近刊は『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)。ツイッターhttps://twitter.com/rsider /メールマガジン『秘密基地からハッシン!』(初月無料)https://yakan-hiko.com/kawabata.html

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