わたしの骨はどこへいく?

独身、一人っ子、親戚づきあいなし。
作家・安田依央は、還暦を目前にして、はたと考えた。
「自分は死後、無事に骨になれるのか?」
人は死んだら、自動的に骨になれるわけではない。
また骨になれたとして、誰かしらの手を煩わさずには
どこかに葬られることもない。
元司法書士として、人々の終末に深く関わってきた筆者が
ずっと後回しにしてきた自らの行く末。
孤独死、孤立死……年間2万人以上の人たちが
誰にも看取られず死にゆく長寿大国・日本。
長年ほったらかしにしておいた宿題にとりかかるかのごとく、
「終活のプロ」が、自分の「骨の行方」を考えるエッセイ。

第12回

【ほねの後】
最終章 わたしの骨はどこへいく ①

更新日:2025/10/22

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 さまざまな骨の道を見てきたこの旅もいよいよ終わりが近い。
 で? 実際のところ、どうする?
 私の骨はどこへ行くのか?
 あなたの骨は?

 最後に私がどの道を選ぶのか。
 私が考えるプロセスを通して、あなたが選ぶ際の何かの参考になればと思う。

 骨の行く先を考えるうえで、四つの部屋を用意した。
 たとえばこれから開く第一の扉は「骨と家族」。
 ただし、これからご案内するのはすべて「私の」部屋だ。
 あなたにはあなたの部屋があるはずだけど、せっかくなので、私の冒険にお付き合いいただけると嬉しい。

 それでは順番に扉を開けて、中に入ってみよう。
一つ目の部屋 骨と家族
 家族の部屋。中に入ると、まず目に入るのは母の骨箱だ。
 母の骨を前にして、私が思うこと。
 これは時間の経過と共に少しずつ変わってきていると感じる。
 生前の、弱ってきてからの母は何度か転倒した。
 施設から連絡を受ける度に大腿骨骨折、寝たきりという最悪のシナリオが浮かび、青ざめたものだが、結局、転倒が原因で骨折することはなかった。
 意外と骨が丈夫だったようだ。
 そのせいだろう、火葬後の母は実にしっかりと骨の形を残していた。
 最期は食事もできず、文字通り骨と皮だけみたいにやせ細っていたのに、何だか感心してしまった。
 母を火葬した日は六月の下旬、異例の早い梅雨明け宣言が出される寸前で、大阪は朝から快晴、既に真夏のようだった。
 濃いブルーの空に、わんわんと鳴く蝉の声。
 生命の湧きたつ季節の中、炉から引き出され、横たわる存在感ある立派な骨。
 これはもう、あっぱれというほかないなと思った。

 そして、この原稿を書いている今はいわゆる四十九日を過ぎたところだ。
 前の章で、リビングに置いてある母の遺骨に時々話しかけていると書いたが、私も父も割とすぐにやらなくなった。
 だからといって、存在を忘れているかというとそんなわけもなく、大阪にしては大きな骨箱が目に入る度、母のことを思い出している。
 ただ、「やさしき母の思ひで」みたいなのとは、ちょっと違う。

 私は幼少期から、大人が思う子どもらしい姿からはかけ離れた変な子どもだったようだ。
 たとえばお遊戯の際に、先生が分かりやすいように子どもたちと同じ側の手をあげる。みなは当然のように先生に従うのだが、私は違った。
 向かい合う人の右手と自分の右手は逆になるのだから、これは左手のことだと、他の子どもたちとは反対の手をあげていたのだ。
 何度言っても反対側の手をあげる私を大人たちは、あらあらと微笑ましく見ていたが、私はなぜ笑われているのかまったく理解できなかった。
 どうにも解せぬ、という感じだ。
 あまり思い出したくないが、私の子ども時代はどこへ行ってもこんなことばかりだった。

 特に父方の親戚との関係が最悪だった。
 聞き分けがよく、祖父母の質問に素直に答える年下のいとこたちと比べられ、自分が納得できないことには是が非でも頷かず、いつまでも一人で左手をあげ続けているような私はどうしようもなくダメな子どもという烙印を押されていた。
 私の特性は親からも理解されず、とにかく怒られてばかりだった。
 今から思うと、うちの父親が一番単純で、自分の思い描く子ども像を私に押しつけようとしていたところがあった。
 父には十三歳年の離れた妹がいて、彼女はとても素直で可愛い子どもだったらしい。
 父の中にはその残像があり、私もそんな風に育っていくと思いこんでいたようだ。
 私がもっとも理不尽だと思ったのは私の声の低さを子どもらしくないと怒られ続けたことだ。
 可愛くない、憎たらしい、というのだ。
 めまいがしそうな話だ。
 正直な話、私はこのくだりを書くにあたり、なかなか筆が進まなかった。
 思い出すと腹が立つというか、悔しく、悲しくなるのであまり考えないようにしていた記憶だからだろう。
 父方の親戚はほぼ全員、この単純思考の持ち主だったような気がする。
 私が親や親戚に反抗するために、わざと低い声を出したり、大人を揶揄するような言葉を口にしていると思っていたようなのだ。
 今なら、そんなもん知るか、生まれつき声が低いんじゃとか、疑問に思ったことを口にして何が悪い、と言い返すこともできるが、当時はなぜそんなことを言われるのか理解できなかった。
 謝れと言われても、何を謝るのか納得も理解もできず(あたりまえだ)、黙りこむばかりの私は反省の色なしと、余計に親の怒りと親戚のひんしゅくを買った。
 最悪なことに、この当時、父方の親戚間では子育ての出来不出来を競っていた感がある。
 私の評価が低いということは、すなわち母の子育てを責められるという図式だったのだ。
 そんなわけで母も私の味方にはなってくれず、父方の祖父母宅に行く度に(しかもほぼ毎週だ)私は両親から叱責された。

 学校でも同様だった。
 周囲と同調できない性質は教師にも理解はされず、時には疎まれ、自分自身、友人たちと何かが決定的に違うように感じていた。
 常に空気の外側にいた気がする。
 幸いなことに母方の祖母が無条件に優しく、おかげでグレたりはしなかったが、祖母の家以外で安心できる居場所といえば本の世界だけだった。

 本来の自分を否定され続けた結果、いつしか私は自分が何者なのか分からなくなっていたのだと思う。
 何もかもがちぐはぐで、自分でもどうしていいのか分からず、暗闇の中で膝を抱え、じっと時が過ぎるのを待っていた。

 大人になっても、それは続き、私は他人の前で、自分がどのように振る舞うべきなのか迷い続けていた。
 序章で私が社会人としてちゃんと働きだしたのは四十過ぎと書いたが、その頃になって、ようやく私は、社会でうまくたちまわる術を身につけ始めたのかも知れない。

 子ども時代の不遇は、家族の中ではやがて終わりを告げた。
 父としては子どもらしい子どもが理想であっただけなので、私が子どもの年齢でなくなってしまうと、今度は人格を尊重するという方針に変わった。
 社会に出ることで広い視野を得た母も、父方の親戚間における不毛な子育て競争からいち早く離脱していた。
 ようやく状況が好転したのだ。
 もっとも、孤独であったのは確かだが、子ども時代にいい思い出が何もないのかというとそうでもなく、人並みに楽しい記憶もある。
 それがなければ、私はとっくに家族と縁を切っていただろうし、そんな背景があるので、私と親の関係はかなり特殊だ。
 大学入学以降、私が知識や表現方法を身につけ、発言力を増すにつれ、我が家は妙な方向に進化し、気がつくと戦国武将の集まりみたいになっていた。
 特に(元)司法書士で作家の私と元カリスマコンサルタントの父親との関係はまさに隣国の城主同士。意見の対立でどれほど衝突したかも分からないが、利害が合えば手を結ぶ。
 母は仲裁する係の武将だった。

 ところが、この和平を取り持ってくれる武将が病に倒れた。
 ここへ来て、ようやく我が家は武将の集まりから、家族らしい集団へと変わっていったのかも知れない。

 十年ほど前からだろうか。
 母は頻繁に道に迷うようになり、私が娘であることも分からなくなった。攻撃性が強くなり、トイレがどこかも、やがては食べるという行為さえ忘れていった。


 母の死に際し、悲しみはあまり感じなかったと書いた。
 それはつまり、私や父にとって母という人間を「失った」のはこれが初めての経験ではなかったからだろう。
 目の前で少しずつ母本来の人格が損なわれ、蝕まれていくのを見てきた。
 焦り、何とかそれを食い止めようとしてもがき、でも止められず、母が壊れていく姿から目を背けることもできない。
 そんな残酷な日々の中、私たちはもう悲しみ尽くしてしまっていたのだ。

 今、母の骨と対峙する時、私の心は凪いでいる。
 豪華な刺繍を施された白い布で覆われた骨箱を見ていると、すっかり忘れていた母との色んな場面が甦ってくる。
 そこにはかつての母がいる。
 幼い時、成人後、母の終焉。
 その時々の母の姿をなぞる時、同時に立ち上がってくるのは自分自身の形だ。
 母と共有した時間。
 その時、自分が何をし、何を喋り、何を感じたのかを思い出す。
 過去の私に対する不理解を恨む気持ちがないではないが、自分自身もまた幼く、至らず、欠けた部分が多かったことも事実だ。
 今となってはただただ、母の存在の大きさ、深い愛情に感謝するしかなく、そうしているうちに、母という、近すぎる存在ゆえに見えていなかったもの、あいまいだった輪郭が像を結び始める。それは母の姿を形作るだけではなく、私自身の本質をも浮かび上がらせていく。
 どうやら私は母の骨と向き合うことで、自分自身のあるべき形、なすべきことをも改めて構築しなおしているようなのだ。

 そう、これが私の、誰かの骨との対話、向き合い方であり、私なりの死者への祈りなのだ。
 私はこれからも母を思い出し、骨と対話し続け、いずれ父が私より先に骨になる日がくるのなら、同じように向き合うことだろう。

 あなたにとって家族の骨は、どんな声を響かせる存在だろうか。
二つ目の部屋 骨と社会
 次の扉を開けると、空を飛ぶ船が行き交っていた。

 家族って、船の乗組員みたいだと思うことがある。
 結婚やパートナーを得、新しい船に乗り、そこで小さな社会を作っていくのだ。
 核家族ならば数人の社会。昔ながらの大家族ならばそれなりの人数がいて、秩序と規律が守られることだろう。
 家族を失い、一人きりになった船もあれば、生を受けた家族から離れて一人漕ぎ出した船もある。近くを併走する親戚や近所の船と物資を交換したりして、密なコミュニケーションをとりあう船たちもあるだろう。
 連隊にはカラーがある。
 地域や血縁、そしてなりわい。それぞれ属するコミュニティによって、価値観が染め上げられていくのだ。

 隣国の武将同士が乗り合わせた船だった我が家はひたすら独自色を強めていった。
 親戚はいるのだが、その多くは会社に忠誠を誓う夫に専業主婦の妻という家庭、もしくは商売人気質で成り立つ一家だった。
 我が家は基本的に士業寄りの専門家集団なので、保守的なサラリーマン家庭とも見栄を重んじる商売人家庭とも価値観が異なった。
 父方の祖父母はどちらかというとリベラルだと書いたが、それは宗教についてであって、職業や男女の役割分担については、まだまだ昔ながらの考えだった。
 明治生まれなのだ。当然だっただろう。
 若い頃の母は普通の主婦だったが、外に働きに出るようになり、気がつくと老舗会計事務所の責任者に躍り出て、事務所を切り盛りしていた。
 母のキャリア志向は義理の両親には理解されず、当然ながらそういう祖父母には、若き日の私の自由奔放な(実際には暗闇の中でもがいていた)生き方も不興を買っていた。
 堅実なサラリーマン家庭の叔父夫妻の覚えがめでたかったわけである。
 次第に祖父母や叔父らの目指す方向と、武将の船の軌跡はずれていった。
 それでも、祖父母が健在の間は正月に集まる程度の付き合いをしていたが、やがて彼らが世を去り、なおかつ叔父が認知症を発症したこと、ついで叔母が亡くなったことで、ほぼ没交渉となった。

 司法書士をやっていた時、いやというほど家族のもめごとを見てきたが、一つ実感として感じていたことがある。
 同じ家に生まれたきょうだいであっても、配偶者を得て年月が経過するにつれ、大きく価値観が異なることは珍しくない。
 これはまさにうちの両親とそのきょうだい家族にも当てはまる。

 ところで、うちの父はなぜ散骨を希望しているのか?
 自然に還るのがよいということらしい。
 骨になって海を漂い、何百年か何千年かの未来に、どこかで再会できるかも知れないというのがロマンチストの父の発想だ。

 ただ、そこには元々墓がないこと、親戚との関係が希薄であること、私が最終ランナーであることも影響しているだろう。
 大家族の乗る巨大船とまではいかなくとも、親戚との関係が密であれば、彼らの意向を全く無視することはなかなかできない。
 彼らのための祈りの場を用意する必要があるかも知れず、場合によっては親戚の誰かが墓を守ると名乗り出るかも知れないからだ。

 私たちの乗る船はどことも連携せずに浮かんでいるので、周囲と歩調を合わせるとか、他の船がどう思うだろうかなどと気づかうことなくきた。
 それがいいか悪いかは別として、骨の行き先に影響してくるのは間違いない。
三つ目の部屋 骨と別れ
 三つ目の部屋は「別れ」だ。
 この室内には、色んな死の現場が映画のように映し出されている。

 骨の行き先を決める重要な要素のひとつに、故人と残された人との別れ方があるのではないかと思っている。
 つまりは故人の死に方や、死に際しての関わり方、もしくは、少し遡った生前の関係性についての話だ。

 私と父は母の死に際し、もう後悔はなかった。
 ただ、十年より前に戻れるのならば、一緒に行きたかった場所、したかったこと、話したかったことが山のようにある。
 特に父はかつて、安定した会社員を辞め、独立して経営コンサルタントになった経緯がある。専業主婦だった母が働きに出たのはそのためだ。結果的に母は埋もれていた才能を開花させキャリアウーマンになったわけだが、父は自分の我を通しすぎたせいで、母に苦労を強いたのではないかとずっと後悔していた。
 その贖罪の意味をこめて、父は親身に母の介護をしていたし、施設に入れることに最後まで抵抗したのも父だ。
 ただ、その選択は母にとっては決してよいものではなかった。実際、思い通りにならない母に父が声を荒らげていることもあったし、何よりも母自身が居心地悪いらしく、しばしば不安と苛立ちが入り混じったような様子を見せていたのだ。
 ケアマネたちも家で見続ける方針は反対で、誰もが、父が音を上げ、納得するのを待っていた。
 母が母でなくなっていくのを見守る日々。私も父も次第にあきらめの境地に達していった。

 けれど、当然のことながら、母のように老いて、機能を失い、ある意味、生をまっとうして亡くなる人ばかりではない。
 突然の死や理不尽な死はいくらでもあり、そんな骨たちは多くの役割を担うことになるはずだ。
 なぜなら残された人たちはもう生前の彼らには何もしてあげられない。
 目の前には骨しかないのだ。
 つまり、骨は家族や友人たちの心の慰めであり、記憶のよすが、時に狂おしいまでの痛みを引き出すトリガーともなり得る。
 あるいは大切に祭壇に安置され、沢山の供物を並べられ、少しでもいい墓所をと望まれ、または誰かの手に抱かれ続ける。
 それらの骨は骨になったその瞬間から、大きな重圧を背負っているのだ。

 また、時には、いさかいがあったまま生前に謝罪できなかった、関係を修復できなかった、あるいは十分な看護や介護ができなかった、などという後悔を背負った生者からの、許しや和解を求める対象になる骨もあるかも知れない。

 生者にとって満足いく別れができた場合の骨は残されたものに安らぎを与え、不満足な別れとなった骨は生き続ける者たちに負の感情の宿題を残すだろう。

 このように骨の果たす役割は骨それぞれに異なるし、さらにいうと、骨を取り巻く人たち次第でその役割はどうとでも変わるのだ。
 残された人それぞれに骨との向き合い方がある。
 宗教の枠組みを借りて祈る人もあれば、日々のできごとを報告するかたちで、これからの人生を見守ってほしいと願う人もいるだろう。
 私のように、骨との直接の対話を通して何かを得る人もいるかも知れない。

 同時に誰からも顧みられない、いわば役割を持つこともない骨が存在するのも残念ながら事実だ。
 骨にだって格差があるのだ。
(最終章、第13回につづく)

題字・イラスト:タニグチコウイチ

著者プロフィール

安田 依央(やすだ いお)

1966年生まれ、大阪府堺市出身。関西大学法学部政治学科卒業。ミュージシャン、女優、司法書士などさまざまな職業を経て2010年、第23回小説すばる新人賞を受賞して小説家デビュー。著書は『たぶらかし』、『四号警備新人ボディーガード』シリーズ(いずれも集英社)、『出張料亭おりおり堂』シリーズ、『深海のスノードーム』(いずれも中央公論新社)など多数。
『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』(いずれも集英社)は司法書士として依頼人の終末に関わってきた経験をベースにした小説。

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