わたしの骨はどこへいく?

独身、一人っ子、親戚づきあいなし。
作家・安田依央は、還暦を目前にして、はたと考えた。
「自分は死後、無事に骨になれるのか?」
人は死んだら、自動的に骨になれるわけではない。
また骨になれたとして、誰かしらの手を煩わさずには
どこかに葬られることもない。
元司法書士として、人々の終末に深く関わってきた筆者が
ずっと後回しにしてきた自らの行く末。
孤独死、孤立死……年間2万人以上の人たちが
誰にも看取られず死にゆく長寿大国・日本。
長年ほったらかしにしておいた宿題にとりかかるかのごとく、
「終活のプロ」が、自分の「骨の行方」を考えるエッセイ。

第11回

【ほねの後】
第四章 ほねの道 ③

更新日:2025/10/08

  • Twitter
  • Facebook
  • Line
(承前)
骨紀行⑤ 散骨
 うちの両親の希望がこれだ。
 散骨といっても、骨の形そのままで撒くのはどう考えてもまずい。
 事件性が疑われそうだし、見た人がキャー骨! とショックを受けたり、不快になってはいけないので、粉末状にすることが求められる。
 実際に細かい運用が定められているわけではなく、業界のガイドラインとして、二ミリ以下の粉末状にするものとされ、事実上のルールとなっている。
 骨というのは、身内や愛する人の骨は大切であっても、他人にとっては畏怖や嫌悪の対象であったりする。
 要は一目見て「骨」と分からないようにする配慮が求められるということだ。

 というわけで、目指せ、粉末である。
 自分でやるとしたら骨を金槌で叩くか、コーヒーミルで粉砕するか。すり鉢で擂るか。いずれにしてもあまり嬉しくない作業だ。
 ましてや全部収骨の地域やうちのように骨が沢山あると大変だ。
 その作業を引き受けてくれる業者もあるので依頼するのもいいだろう。

 さて、それでは無事粉末と化したこの骨、どこに撒く?
 散骨先としてイメージされるのは山や海だろう。
 街中での散骨は避けるべきとされている。
 たとえば梅田や渋谷の繁華街で粉末とはいえ骨を撒くのは、どう考えたって周囲の人に迷惑だし、故人だってどうせ撒くなら、美しい自然に還る方がいいだろう……というわけで山か海に散骨するのが一般的だ。
 ただし、一口に自然と言っても場所選びが重要だ。
 まずは山。
 自分の山なら自由にすればいいが、山を持っている人などそうそういないだろう。
 当たり前だがよそさまの山に勝手に撒いてはいけない。
 これについては散骨を受け付けている山などもあるので、検討するのもいいだろう。

 海に撒く場合も、その辺のビーチや漁港などではダメだ。
 沖合何キロ以上と条例で定められている市町村もあるし、漁場や養殖場があってもいけない。
 できるだけ、生きている人たちの営みから離れた場所に撒く。
 このルールさえ守れば、自分で撒くこともできるし、もちろん業者に依頼してもいい。
 ただ、散骨先としてどこを選ぶかにもよるが、それなりに費用はかかる。
 チャーター船で自ら海に散骨に出かけると数十万円はかかる。
 費用を抑えるのならば、業者に完全委託(同行はできない)すれば数万円で済むケースもある。
 私はこの先、暇ができたら小型船舶免許を取得して船を借り、自分で沖に出て、釣りでもしながら両親の骨を散骨するのもいいかなと考えている。
 もっとも自動車免許すら持っていない私だ。船ごと転覆して散骨どころか、自分の水葬になってしまわないように気をつけなければ。

 そのほか、飛行機やヘリコプターで散骨してくれるもの、気球に乗せて成層圏へ届ける宇宙葬、ロケットで宇宙へ送り出すものなどもある。
 これらの費用はやはり数十万円とのことだ。

 【散骨ガイド】
 ・文字通り自然と一体となれる
  海が主流だが、場所によっては山や森なども可能
 ・業者委託が一般的だが、自分でできないこともない
 ・骨を粉末状にする必要がある
 ・手許に残るものがないため、あとで参る場所がない

 一度散骨してしまうと、当然のことながら手許には残らないし、墓標となるものもない。
 山ならば一見墓標を残せそうだが、実際にこれをやると、墓地を設置したとみなされ、墓地埋葬法に引っかかる可能性がある(散骨が認められている山については、管理者によって記念プレートなどの設置がされることもあるようだ)。
 山や海、または自然そのものを祈りの対象とできるならばいいが、あとから後悔しても回収は絶対に不可能だ。
 親戚に文句を言われても困るので、できるだけ周囲の理解も得ておきたい。
骨紀行⑥ 合祀墓
 寺院や霊園などで、他人の遺骨と合同で埋葬されるタイプのものがある。
 こちらは費用が比較的安価で高くとも三十万円程度、手の届きやすい数万円程度のプランを用意しているところも多くある。
 乱暴な言い方をすれば、仏像にならない一心寺といったところだろうか。
 前回紹介した都市型霊廟や樹木葬霊園について、管理費が納められなくなって数年で合祀されると紹介したが、最初からこの合祀塚や合祀塔に入るという選択肢も存在するのだ。
 私の住む大阪市では、喜連瓜破(きれうりわり)に市営の霊園があり、合葬式墓地が用意されている。
 ここでは、大阪市民が直接合葬される場合は五万円だ。
 いきなり合葬されるのはイヤだという人のためのプランもあり、十年間保管ののち合葬が十万円、二十年間保管ののち合葬が十五万円とのことだ。
 これまた合葬、合祀されてしまうと、遺骨を取り出すことはできない(他の骨と混ざってしまう)ため注意が必要だ。
骨紀行⑦ 手許供養
 骨を小さな骨壺に納めて自宅に置いたり、ペンダントや指輪などアクセサリーにして身につけるもの。
 アクセサリーでは中に遺骨の一部を入れることができるものや、遺骨そのものを使ったダイヤモンドなどを作るサービスもある。
 持ち運びもでき、色んな場所にもいっしょに行ける。
 故人を身近に置き、共に過ごすことができるイメージだ。墓に納めたり散骨したりしつつ、一部を手許に残している人も実際多い。

 これについて、私は母の遺骨を身につけていたいだろうかと考えてみた。
 たとえば海に散骨するほかに、一部を残し、アクセサリーにしておけば、その、骨紀行⑤(散骨)のラストに書いた、どこに向けて祈るのか分からなくなるという問題からは解放されるだろう。
 で、いろいろ考えて出た結論は、うーん。やっぱり、いらないな、だった。
 それは別に母が大事じゃないとかではなくて、四六時中いっしょにいる必要もないかと思ったからだ。
 元々、私たちはそれぞれが独立心の強い家族だった。
 亡くなったからといって、急に片時も離れずにいたいかと言えば、やはり違う。
 祈るといったって、わざわざアクセサリーにしなくても、海を見ればそれでいい気がする。

 もっとも、これはあくまでも私の感想で、こういった感覚は人それぞれだろう。
 これから自分が目にする景色を故人にも見せてあげたいとか、ずっと傍で見守っていてほしいとか、そういう思いもよく分かる。
 ただ、将来的に、たとえば自分が死んだあとで、手許に残した遺骨がどうなるかは考えておいた方がいいかも知れない。
 誰かが引き継ぐのか、それとも自分と共に葬ってもらうのか。
 事情を知る家族がいればいいが、うっかり何の策も講じず、周囲に存在が伝わっていない場合、ただのゴミになったり、アクセサリーならリサイクルに回らないとも限らないので注意が必要だ。

骨紀行・番外1 送骨サービス
 遺骨を箱に入れ、お寺や納骨堂へ送ったり、改葬や墓じまいの際に利用できるサービスだ。
 現在のところ、遺骨を扱えるのは郵便局のゆうパックのみということだ(他の宅配便では受け付けられない。また郵便局でも海外への発送は受け付けていない)。
 ここで問題となるのは骨の送り先で、当然のことだが、どこにでも送ればいいというわけではない。
 送骨による納骨を受け付けている寺院や霊園が全国にあるので、そこに送ることになるが、きちんと先方に連絡を取って申し込みを済ませてから。
 送骨を専門に扱う会社もあるので、利用を考えるのも一つだろう。
 送骨キットと銘打ったセットをアマゾンや楽天などで買うことも可能だし、納骨先のお寺から送られてくることもある。
 水濡れや破損に注意しさえすれば、自分で梱包することも可能だ。
 遺骨を物流に乗せ、どこかのお寺まで運ぶことに抵抗を感じる人もいるかも知れないが、高齢などでなかなか出向くことが難しい人や、合祀、合葬を望んでも、近くに適当な寺院や施設がない人にとっては心強い仕組みなのではないだろうか。
骨紀行・番外2 デジタルの世界で眠る
 ここから先は、直接骨とは関係ないが、骨の行き先を考えるうえで参考になりそうなデジタル世界の流れをいくつか紹介しておきたい。

 まず、オンライン墓参りなるものがある。
 ネット墓やバーチャル霊園などとも呼ぶ。
 サイトやアプリ上にお墓を作り、遺族や友人がログインしてお参りする。
 どんなに遠くても、様々な事情があっても簡単に墓参りができるし、リアル世界で墓を持つための様々な障壁(立地、費用、管理など)とは無縁だ。
 遺影はもちろん、故人の好きだった音楽や在りし日の映像、思い出を共有することもできるし、互いにコミュニケーションを取ることも可能。
 いつでもどこでもアクセスできる、故人を偲ぶための空間なのだ。

 また新規にお墓を作らず、故人のSNSアカウントを追悼のために残すケースもある。
 ただ、これは本人が不在であるため、誰かが管理をしなければならない点に注意が必要だ。

 最後に、AIの可能性について触れておきたい。
 AIによって、故人の声や話し方を再現し、生前のように会話できる。
 それだけではなく、質問にも答えてくれるのだ。
 既にアメリカでは商業的に提供されているし、日本でもいくつかの企業によりサービスが開始された。
 生前に書き込んだものや音声、動画記録をAIが学習することで、故人ならばこう答えるだろうと予測し、擬似的に応答するものだ。
 私も仕事にAIを使っているので大体想像がつくが、恐らく故人本人が語っているかのように、その人らしい答えを返してくるのだと思われる。
 ふーん、それなら母や祖母と話してみたいなと思ったが、残念ながらその二人に関してはAIに学習させるためのデータが存在しない。
 これは故人が生前デジタルに触れ、色々と残していってもらわないことには叶わぬ願いなのだ。
 これから先の時代には、様々な書きこみや映像を使い、失われた人をバーチャル空間に甦らせることもたやすくなるだろう。
 最近では自分自身の終活として記録を残す人もいるぐらいだ。

 しかし、これ、果たして残された家族の救いとなるのか、それとも呪いとなってしまうのだろうか。
 あなたはどうお思いだろうか?
 もう一度、あの人の声を聞きたい?
 非常に興味深い気がする。
骨紀行 結び――「骨の行く場所・三つの視点」
 さて、自分自身の骨はどこへ行くのかという疑問に端を発したこのエッセイだが、執筆の途中で母が亡くなったことで切実さを増した感がある。
 あれこれ見てきたこの章の最後に、骨の行く先を考えるための視点として、三つの軸を想定してみた。
 一つ目は、〝個〟としての存在を保つか、あるいは名前や形を持たない状態となるのかということ。
 墓標に名を刻み、特定の空間に安置され続けるか、あるいは他と混じり合い合祀されるのかという違いだ。

 二つ目は物理的な「かたち」の違いだ。
 骨のまま存在を継続するか、自然に溶け込むことを望むのか。
 骨壺のまま保管するか、粉末状にして散骨、または土に還すのかということだ。

 この二つは骨を骨の形のまま所有(預ける場合も含む)するか、手放してしまうかの違いでもあるのかも知れない。

 そして三つ目、これは前二つとも関連するのだが、魂の在り処をどこに据えるかという問いだ。
 といっても魂なんて存在しないと考える人もいるだろうし、祈る対象をどこに定めるかと言い換えてもいいかと思う。
 仏像の中に魂を見出すのか、あるいは山や海、空や星、大自然に宿ると考えるのか。
 それとも墓の中、手許の骨に留まっているのか。はたまた、デジタル世界に遊ぶのか。
 いっそ骨なんかではなくて、思い出の中にこそ生き続けると捉える人もいるだろう。

 これらの視点は結局のところ、残された者、生きている我々がどこに向かって手を合わせるのか、祈るのかという問いかけと深く関わってくる。
 正解は一つではない。
 いや、そもそも正解なんてないのかも知れない。
 けれど、正解がないからこそ、私たちは自分の言葉で考え、選ぶことができる。
 母の骨、そしてわたしの骨がどこへいくのか。
 難しい問いだと思う。
 思索の旅はまだまだ続くのだ。
まとめ――あなたにとって骨とは何か
 お墓の選択肢が以前と比べて多様になったが、自分は、そして家族はどこに入るのか、考えるために。

  ①名前が残ることが大切か、無名の存在でいいのか
  ②骨の形をとどめることに意味を感じるか、それとも自然に還ることを望むのか
  ③祈る対象はどこにあるのか
  墓、仏像、自然、心の中……


 これは骨の行き先を選ぶための問いではあるけれど、同時に生きている自分が何を信じているのかを考える作業でもあるのだ。
 それぞれの場所にそれぞれの物語と願いがある。
 自分たちに合った「骨の居場所」はどこなのか。
 終わりを意識するからこそ、なにげない今日の一歩がかけがえのないものに思えてくるのだ。

題字・イラスト:タニグチコウイチ

著者プロフィール

安田 依央(やすだ いお)

1966年生まれ、大阪府堺市出身。関西大学法学部政治学科卒業。ミュージシャン、女優、司法書士などさまざまな職業を経て2010年、第23回小説すばる新人賞を受賞して小説家デビュー。著書は『たぶらかし』、『四号警備新人ボディーガード』シリーズ(いずれも集英社)、『出張料亭おりおり堂』シリーズ、『深海のスノードーム』(いずれも中央公論新社)など多数。
『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』(いずれも集英社)は司法書士として依頼人の終末に関わってきた経験をベースにした小説。

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.