わたしの骨はどこへいく?

独身、一人っ子、親戚づきあいなし。
作家・安田依央は、還暦を目前にして、はたと考えた。
「自分は死後、無事に骨になれるのか?」
人は死んだら、自動的に骨になれるわけではない。
また骨になれたとして、誰かしらの手を煩わさずには
どこかに葬られることもない。
元司法書士として、人々の終末に深く関わってきた筆者が
ずっと後回しにしてきた自らの行く末。
孤独死、孤立死……年間2万人以上の人たちが
誰にも看取られず死にゆく長寿大国・日本。
長年ほったらかしにしておいた宿題にとりかかるかのごとく、
「終活のプロ」が、自分の「骨の行方」を考えるエッセイ。

第4回

【ほねの前】
第二章 腐らず骨になれ ①

更新日:2025/07/16

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 あんな壁、こんな壁、色々あるよと書いて不安を煽ってしまった。自分でも気が重くなる一方だ。
 しかし、事態は待ったなし。
 日本ではこれから「身寄りのない人」がどんどん増殖していく。

 身寄りのない人というと、何だかとても気の毒なイメージだ。
 けれど、特別な境遇の人の話ではもはやない。
 私の場合はもうすぐそこだ。
 親族の数が減る。親戚がいない。いても疎遠。我らみな、ノー(NO)身寄り予備軍なのだ。

 いっそ身寄りのない人同士が同盟を結び、互いを支え合えばいいのではないかという気がしてきた。
 身寄りのない人マッチングアプリなんていいんじゃないのかね。とマッチングアプリなんて見たこともない人間が言ってみる。
 私は恋愛に興味がないし、結婚する気もまったくないので、手を出す必要がなかったのだ。おまけにオタクなので、そんな暇があればピクシブの二次創作を読むのである。

 あとこれ、別に身寄りのない人間だけの話というわけでもない。
 最近、子どものいる友人たちと話していて思うのだが、特に女友達は子どもに迷惑をかけない方法を強く求めている。
 私のような単身者で子どもがいない、いわば「そうせざるを得ない」人間だけの話ではないのだ。
 子どもには子どもの人生があるので、自分のことで迷惑をかけたくない――。
 OK、さあ、君たちも今日から仲間だ。一緒に考えようぜ。
 といっても、実際には、こっちが迷惑をかけたくないと考えていても、いざという時には向こうからやって来るような気もする。もちろん、関係性がいい場合の話だが。

 考えてみてほしい。
 親の介護、葬儀や死後の始末で様々な苦労を経験した人、大変だったと思う。
 私も大変だった。特に母を在宅でみていた時は半ば鬱状態になっていた。
 この私が? 強靱な精神力を誇る(と自分では思っていた)私が鬱? ありえない。
 ところが、ありえたのだ。
 それぐらい心を抉られるものだ。
 でも、その期間がまったくなかったとしたら、それはそれで納得できなかったのかなとも考えている。
 もし、親が事前に用意した代理人とか制度とかがうまく働いて、つつがなく施設入所まで進んでしまったとする。そうなると子どもは何も手を出せず、遠ざけられた印象だ。
 たしかに楽でよかったのかも知れないし、うちの親はすごいなと尊敬と感謝の念を覚えたことだろう。
 しかし、その場合、もしかすると、ぽかーんと何か大事なものが抜け落ちてしまったような感覚に陥るかも知れないとも考える。
 いや、実際難しい問題ではある。
 特に介護はきれいごとでは済まないし、親の方だって子どもに迷惑をかけたくないと思う以上に、そんな姿を見せたくはないだろう。
 けれど、老いていく、壊れていく、死にゆく親の姿を見ることで深い学びがあるのもまた事実なのだ。
 どちらが正解なのか私には分からないが、子どもや大切な誰かがいる人はあまり一人で突っ走りすぎないようにした方がいいかも知れない。

 さて、一章で書いていた「腐らないために」、「行旅死亡人にならないために」、「火葬待ち遺体にならないために」という壁をどうするのかという問いに対する答えをここで披露しようと思ったのだが、一番簡単なのはこれだ。
 親族がいればいい。
 この一言に尽きる。
 現在のところ、この国の法制度は親族がいない、ノー(NO)親族状態をまったく想定していない。
 病気になって入院しても、死に際しても、死後のもろもろも、あらゆる局面すべてにおいて親族の登場が期待されているのだ。

 しかし、ないものはないのだ。
 私たち身寄りなき者たちはどうすればいいのか。
 また、親族はいても、疎遠だとか、二度と会いたくないようなケースもある。
 この章では私の知る限りの制度や仕組みを駆使して、何とかする方法を紹介していく。
 ただ、こんなことを話しはじめる前に言うのもなんだが、どの方法でも必ず、詰む。
 どこかの場面で立ちゆかなくなってしまうのだ。

 だからといって絶望してはいられない。
 できる限り手を尽くす方法を考えている。
 その結論はこうだ。

 今のままではこの先、どうにもならなくなる。

 ちょっと恐ろしい予言みたいになってしまった。
 これ、私自身がどうにもならないというより、近い将来、国として立ちゆかなくなる日が来るのではないかと考えている。
 では、どうすればいいのか。こんな仕組みがあればいいよねという提言みたいなものにも言及している。

 元が専門職だったこともあり、制度や仕組みの説明につい力が入ってしまった部分もあるので、なんだこれは読みにくい、面倒くさいと思ったあなたは読み飛ばしてくれて構わない。
 ただ、身寄りがない、頼れる人がいない、頼りたくない、迷惑かけたくないという人は流し読みでもいいので読んでみてほしい。
 いつか何かの形で役に立つ、かも知れない。

 いや待って、そもそもこれって骨の話だったんじゃ? と疑問に思ったあなた、その通りだ。
 骨の行く先を考えるのが主眼なのだが、まずは骨になれないことにはどうにもならない。
 美しい(かどうかは知らないが)骨になるためには孤独死からの腐敗を絶対に避けなければならないし、ちゃんと火葬してもらう必要もある。
 そのために何をどう備えるのかを考えるきっかけの一つになればと、あえて書くことにした。


 さて、ではどうやって発見されればいいのか、から始めようか。
 これに関しては親族がいても、同居していない限りは誰もが必要になる情報なので、身寄りなき者でなくても、ぜひ読んでほしい。

STOP腐敗! ――助けを呼ぶ・発見されるための仕組み

if・ペンライトを握りしめ
 まず私の未来のifの話を考えてみよう。
 一人で暮らす私が突然、倒れた。助けを呼ばねばと焦るが、スマホはリビングに置いたままだ。動けない。苦しい。
 どうする? 考えるうちにも目の前が暗くなってきた。手を伸ばした先にあったのは某ミュージカルのペンライト。
 カラフルな灯りを見ながら、走馬灯のようにあの公演やこの公演、富士山麓まで行った野外公演の灼熱サバイバルなどが思い出される。
 そのまま動けず、苦痛に呻きながらも、意識は消えず、なかなか死なない。
 助けがくれば助かる可能性があるかも知れない。
 だが、かつてカラオケで窓ガラスを震わせ、人々を爆笑させた大声はしぼみ、蚊の鳴くような小さな声しか出せない。そもそもマンションの部屋は気密性が高いので悲鳴も届かない。
 モールス信号で床を叩いても、解読できる人が近くにいなければただの騒音だ。
 そして、三日後、私はペンライトを握りしめたまま死んでいた。
 おたくとしてはある意味、幸せな死に際だが、問題はこの先だ。
 ここですぐに見つかればいいが、気づかれないまま時が過ぎるとえらいことになるのは既に述べた通り。
 では、何をどうしておけば助かったのか。あるいは死後すぐに発見されるのか。順番に考えてみたい。
「見守り契約」 ――異常を検知して誰かに知らせる仕組み
 まず、「見守り」というサービスがある。
 いろんな企業や団体などが提供している。
 一定期間、灯りがつかない、人感センサーで人の動きが感知されない、電気ポットの使用がないなどの場合、事前に登録した誰かのところに連絡がいくシステムだ。中には、様子を見に来てくれるものもある。
 あるいは、毎日スマホに送られて来る安否確認に返事をする。その返事がとだえた時、電話での確認があったり、事前に登録した誰かに連絡をしてくれるものなど。
 こちらのサービスは当初想定していなかった二十代、三十代の利用が多いことで話題になっていた。
 どれも料金はそんなに高くない。
 こういったものの利用を考えるのもひとつだろう。

 だが、ちょっと待とうか。
 電話確認はいいとして、「事前登録した誰かに連絡」?
 誰かって誰? というのが身寄りなき者が抱く疑問である。

 これは多分、離れて暮らす家族とかを想定しているんだろうなと思う。
 一番、分かりやすいのは一人で暮らす老親を案じて子どもが契約するパターン。連絡を受けた子どもが動けばいいわけだ。
 では、我ら身寄りなき者どもはどうする?
 近くの友人?
ミツコさんのif
 四十代独身、子どもなしのミツコさんの例で考えてみよう。
 両親は既に他界、親の介護をミツコさんに任せきりでお金も出さず口だけだしてきた、きょうだいとは疎遠になっている。
 友人はいるにはいるけど、彼女たちとはどこかうわべだけの関係だ。
 集まって食事をしながら、子どもの話とか、趣味の話とか、一見楽しい時間を過ごしている。
 そこで深い話はできない。というか、自分の弱さをさらけ出すことができない。場の空気を壊したくないからだ。
 そんな友人たちに、何かあった時の緊急連絡先になってもらう?
 ミツコさんはいやだと思う。
 かわいそうだと同情されたくない。寂しいわねと決めつけられたくないのだ。

 このミツコさんのケースは、それ本当に友人か? と言いたくなるが、SNSでつながる若き者たちも似た感じなのかも知れない。切り取られた情報はどこかショーケースみたいだ。画面の中で楽しく暮らす自分の姿しか知らない相手に、本当の自分をさらけ出すことができなかったりするのではないか。

 では誰を登録する?
 離れて暮らす親がいるなら、それもいい。
 ただ、親族がいるからといって、関係がいいとは限らない。
 毒親だったり、虐待やDVがあるケースだってある。
 そんな時、どうする?

 もちろんうわべだけでない友人を持つのが一番だろうが、そううまくはいかないだろう。
 見守り契約をサービスとして行う事業者や弁護士や司法書士などの専門職も存在するが、これはこの契約単体ではなく、あとで解説する任意後見や死後事務委任契約などとセットにしているケースが多い。

 もう一つ、行政の手を借りる方法がある。
 いざという時、様子を見に来てくれる組織は実際にある。
 社会福祉協議会やNPOなどだ。ただ、この仕組みは多くの場合、対象が独居高齢者に限られているし、市町村によっても積極的なところと、そうでないところの差が大きい。
 とりあえず、自分の居住地にどのようなサービスがあるのかを調べてみるのもいいだろう。

 ただ、比較的若い層には手は差し伸べられないのが現実だ。
 ここはやはり「身寄りなき者同盟」の出番だ。同じ境遇の人同士が相互に助け合うという仕組みにしておけば、こういう時、お互いに見に行ける。
 普段は別に親しくしなくていい。
 ただ、何かあった時、さっとやってきて、やるべき手配を終えて、また一人の市民に戻るのだ。
 お互いさまとしておけば、変に気がねすることもないだろう。
 とはいえ、現実にはそんなものはまだ存在しないので、早急に作る必要がある。
 犯罪に利用されては困るので、その仕組みづくりも重要だ。
昭和時代をふりかえる――社会の変化と孤独の現在地
 「昔、そうさなあ。わしがまだ未成年だった頃じゃから、昭和時代の話かのう」と古老ムーブをかましてみるが、かつて、それこそ昭和の頃は都市部でも、一人暮らしの高齢者がいたら、周囲が気にかけていたような気がする。
 といっても、令和の現代人が別に薄情になったわけでもないだろう。
 いや、多少はあるか。
 特に都市部では、個人主義だとか個人情報を重視しすぎて、隣人の事情や、そもそも隣人が誰なのかも知らないような事態が当たり前になっているのは確かだ。
 それは私のような人間にとっては快適だが、同時に自分の老いや病、死に際しても自己責任が求められるようになってしまった。
 そもそもの話、気にかける方も気にかけられる方もみな老人という世界が現実になりつつあるのだ。

 時々、こわくなる。
 街を歩いていても年齢が高めな人たちの姿ばかり目立つ。
 何かで昼間のバスに乗ると、ほぼ高齢者で埋め尽くされており、高齢者同士で席を譲り合う姿も珍しくはなかったりする。
 今、日本国内を胸を張って楽しそうに歩いている若いのは外国人ばかりだ。
 日本人の若者は数も少ないし、どこか影が薄いように感じる。
 彼らは生まれた時から一人で何人もの老人を支える運命を背負わされているのだ。
 少子高齢化とはそういうものなのだろうが、あまりにも気の毒だ。
 財政的なものはどうしようもないが、せめて自分の老後や死後のことは自分で何とかしておくべきだろう。
 自分の始末は自分でつける。ただし、できる限り。
 それはなかなかかっこよくていいんじゃないかいと思うが、頭も身体も弱ってからでは何もできないので、なるべく早めに準備しておきたい。
 これからの日本は老人だから、高齢だから、誰か何とかしておくんなはれという甘えが通用しないフェーズに入る。
 わしはもう年じゃからのぅ、という甘えが許されるのは多分九十か百を過ぎてからだ。
人が頼れないなら機械に頼る? ――技術を使ってできること
 最近、スマートウォッチに切り替えた。
 エクササイズの記録や通信機能ももちろん便利だが、それだけなら手を出さなかった。

 一番の理由はこれ。
「まだ死ぬわけにいかない」
 これに尽きる。

 既に書いたが、ひとりっ子の私は両親をあの世に送るまでは死ねない。
 私自身は今のところこれといって悪いところはないが、何しろ心臓は六十年近く休みなく働いているのだ。ある日、もうすべてがいやになりましたと動きを止めても不思議はない。
 二十四時間、呼吸や心拍などを計測してもらえれば異常を発見しやすくなるのではないかと考えたのだ。

 そしてこのスマートウォッチ、先ほどのifの場面で効果がある。
 転倒を検知すると振動して大きな音が鳴り、反応がない場合は自動で救急車を呼んでくれる機能があるのだ。
 私が一人倒れて、近くにスマホがなくとも時計さえ身につけておけば、ペンライトで一人走馬灯をやる必要はなくなりそうだ。
 ただし、就寝中に心臓が止まっても通報する機能はさすがにないようなので、自力で緊急通報しなければいけないし、充電中や入浴中は手首から離れている。
 ましてや、認知症で使い方が分からなくなっていたら用をなさないだろう。

 そのうち人体に何か(何かは知らない。私は絵に描いたような文系である)を埋め込んで、異常事態を自動通報してくれるシステムが開発されることを期待しているが、私のXデーと果たしてどちらが先だろうか。
(第2章、連載第5回につづきます)

題字・イラスト/タニグチコウイチ

著者プロフィール

安田 依央(やすだ いお)

1966年生まれ、大阪府堺市出身。関西大学法学部政治学科卒業。ミュージシャン、女優、司法書士などさまざまな職業を経て2010年、第23回小説すばる新人賞を受賞して小説家デビュー。著書は『たぶらかし』、『四号警備新人ボディーガード』シリーズ(いずれも集英社)、『出張料亭おりおり堂』シリーズ、『深海のスノードーム』(いずれも中央公論新社)など多数。
『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』(いずれも集英社)は司法書士として依頼人の終末に関わってきた経験をベースにした小説。

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