わたしの骨はどこへいく?

独身、一人っ子、親戚づきあいなし。
作家・安田依央は、還暦を目前にして、はたと考えた。
「自分は死後、無事に骨になれるのか?」
人は死んだら、自動的に骨になれるわけではない。
また骨になれたとして、誰かしらの手を煩わさずには
どこかに葬られることもない。
元司法書士として、人々の終末に深く関わってきた筆者が
ずっと後回しにしてきた自らの行く末。
孤独死、孤立死……年間2万人以上の人たちが
誰にも看取られず死にゆく長寿大国・日本。
長年ほったらかしにしておいた宿題にとりかかるかのごとく、
「終活のプロ」が、自分の「骨の行方」を考えるエッセイ。

第2回

【ほねの前】
第一章 骨への遠き道のり①

更新日:2025/06/25

  • Twitter
  • Facebook
  • Line
 父方の祖父が亡くなったのは私が二十歳の時だ。
 お骨揚げのあとで、父がぽつりともらした言葉を覚えている。
「骨を見ると、諦めもつくもんだな」
 その時はそんなものだろうかと思っただけだったが、それからの三十年余、祖母やおばたちの骨を見る度に、その言葉が重みを増していく気がしている。
 きわめて高温で焼くと骨さえ残らないそうだが、先にも書いた通り、火葬場の職員さんはきちんと骨が残るように焼いてくれる。
 しかし、その骨はバラバラとまではいかなくても、あちこち砕けている。
 アニメの骨キャラや理科室の骨格標本みたいにはならないのだ。
 確かに、あの砕けた骨を見ると、どう考えても生き返るはずがない。
 ある意味で、日本の火葬はあっけらかんとした葬送の方法だと感じる。

 エンバーミングという遺体保存の方法がある。遺体から血液を抜き、代わりに防腐・殺菌効果のある薬剤を体内に注入することで、腐敗や細菌の繁殖を防ぐものだ。
 顔や手の色を生前に近い状態に整えたり、傷や損傷の修復がなされることもある。
 日本では日常的とはいえないが、アメリカなどではよく行われる。また、航空機による国際搬送時には求められることが多い。
 モスクワにある霊廟に安置されているレーニンの遺体がその例だ。
 あんな風にいつまでも眠っているかのような状態では、やはり諦めきれないというか、どこか心の整理がつかないままなのではないだろうか。

 というわけで、自分も死んだら当然、骨になるものだと思っていた。
 誰にも見せたことがない骨を白日の下にさらすのはちょっと恥ずかしいな、などと思ったわけではないが、脂肪が多すぎて職員さんを苦労させては申し訳ない、ぐらいのことは考えたことがある。
 ところが、である。
 今の時代、死ねば即、火葬とはいかないことがあるのだ。
 しかも、そう珍しい話でもない。

 火葬、そして無事骨になるまでには越えなければならない壁があるのだ。
一の壁・発見 
 警察庁の集計によると、二〇二四年、一年間に自宅で亡くなった一人暮らしの人は全国で七万六千二十人、そのうち亡くなってから発見までに八日以上かかった人は二万千八百五十六人。
 いわゆる孤独死をした人がこれだけの数いるわけだ。
 年間二万人というと、一日平均五十五人だ。
 私のすぐ隣でも、まさにこの瞬間にも、誰かが見つけてくれるのを待っている人がいるかも知れない。

 そもそも、現在の日本でもっとも多いのは一人暮らし世帯だ。
 厚生労働省の集計によれば、二〇二三年時点で三十四パーセント。
 当然、一人で死ぬ割合も高くなる。
 さらに核家族化によって、夫婦二人暮らしの世帯も多い。
 一人暮らしではないからといって安心はできない。
 介護をしていた夫婦のどちらかが突然亡くなり、残された方もなすすべもなく弱り、時には配偶者の死の意味にさえ気づかぬままに餓死してしまうような痛ましいケースも決して珍しいものではないのだ。
 急速な少子高齢化が進む我が国の、これが現実なのである。

 内閣府によれば、死後、発見までに八日以上かかったケースを孤立死と呼んで区別することになったそうだ。
 死に方を区分する。分類好きな国民性だ。
 でも、そのカテゴリー別の死に方の後ろにあるのはそれぞれの人生だ。

 確かに、私は孤独死そのものは悪いことではないと思っている。
 家族も恋人もいない私が自宅で死ぬとしたら、まず間違いなく一人だ。
 孤独ではあるかも知れないが、だからといって親しくもない人に看取られたいとも思わない。
 そもそも、私は誰かといると気をつかうので(もっとも、私も大抵空気を読まないので、多少気をつかったぐらいではあまり意味をなさないのだが)普段から一人で行動することが多い。
 そんな人間が、死ぬ時だけ誰かが傍にいてくれることを望むだろうか。
 そもそも誰だよそれは、という話である。

 家族を持つというのは、もちろんいいことだ。
 楽しい時間を共有するとか、支え合う、成長を見守る、そんな過程を通して自分自身も成長するだろう。
 だが、家族が愛しければ愛しいほど、失うこと、残していくことが辛い。
 愛しさは喪失の悲しみと背中合わせだ。
 残される側だけではない。
 残していく方も心残りに胸を掻きむしられることだろう。

 そういったものから解放されて、というか、最初から持たず、一人で死ぬべき時に死ぬ。
 別に強がりでも何でもなく、私にとって、人生の終わりは、「そんなもの」なのだ。

 では、ああ、自分の人生、こんなもんだったなあ、と思いながら死んだとしよう。
 ここで問題になるのは、私が死んだことに誰が気づいてくれるのか、ということだ。
 これから先、人生のどこで死ぬのか分からないが、社会との接点が一切なくなっていると、事態は深刻だ。
 仕事をしていなければ、安田、来ないなと心配してくれる職場の人もおらず、原稿はまだかと催促する編集者もいない。
 さらに人間嫌いが加速していたり、家が汚くて人を招くわけにはいかないなんて状態が当たり前になると、訪ねて来る人もいないだろう。
 最近、あの憎たらしいばあさん見かけないな、入院でもしているのかななどと思われている間にも、遺体は着々と腐っていくのである。
 これは大変まずい。
 現在のところ、私は身長百六十二センチ、体重も人に比べて多い。骨も頑丈だし、筋肉量も多いうえ、それ以上に脂肪もたっぷりついている。
 こんなのが腐ったら大変なことになる。
 マンションならば全棟に臭いが漂い、室内はハエや蛆、Gのつくあの虫などで地獄絵図と化すのだ。
 私は虫が大嫌いである。おばけと虫ならおばけの方を選ぶというぐらいだ。
 死んだからといって、天国のお花畑で色とりどりの花々に囲まれて遊ぶのよなんておめでたい希望は抱いていないが、だからといって、虫に囲まれ、ヤツらが我が物顔で部屋中を遊び回るなんて冗談ではない。
 それだけではない。
 人に迷惑をかけないように生きてきたはずの自分が、メガトン級のにおい爆弾となって、さらには液状化して建物にシミを作り、浸透し、不特定多数の人に最大最悪の迷惑をかけることになるなんて、考えるだけで倒れそうだ。
 発見、急務である。STOP腐敗!
 一刻も早く発見してもらわないと困る。

 つまり孤独に死ぬのは構わないが、その先の孤立は避けなければいけないということだ。
 死体の孤立は即、腐敗につながる。
 まあ、内閣府の分類を待つまでもなく、生きていても孤立はよくないだろう。
 ましてや、望まずに孤立してしまうなんてことは悲しすぎる。絶対にダメだ。
 かといって、今の世の中、なかなか近所づきあいも難しい。
 何か別のつながりを持つしかないのだろう。それもSNSなどではなく、リアルな人間同士の結びつきだ。
 というのは理想論。
 私にとって、一番いい解決策は、死んだ瞬間に、ウエアラブル端末が、こいつ死んだぞと、しかるべきところに連絡してくれることだ。
 だが、認知症になったりしていたら、使い方も分からず、装着を忘れて放置してしまうかも知れない。
 まったく。
 生きている間はやれ個人情報が、プライバシーが、と騒ぐくせに、死んだら通知してくれとは、やっかいなもんだな人間は、などとつぶやいてみる。
 じゃあどうしたらいいんだ。解決策はないのか、というとあるにはある。
 あるにはあるが、制度化されているものは何もなく、色んな仕組みをつなぎ合わせてどうにか備えられようかというレベルだ。
 手作り感満載のパッチワークみたいなものなのだ。あたたかみがあるといえば聞こえはいいが、なんでそんな苦労をしなければいかんのかという話である。

 基本的に法制度というのは現実からはるか遅れて追いついてくるもので、特に民法なんて今の家族のあり方や多様な価値観なんてものを見たら卒倒しそうな人が生きていた明治時代に作られたものだ(少しずつ改正されてはいるがそれでもめちゃくちゃ遅い)。
 民法を作った昔のえらい人が今の私を見たら、こやつ宇宙人かあやかしか、と言うに違いない。
 見た目も考え方も、生き方も、その時代の「おなご」とはかけ離れているからだ。

 実は、世の中のあり方を変えたくない番人のような人たちは今でもいて、がんばって昔の法律を死守していたりするのかも知れない。
 だが、こうしているうちにも、誰にも見つけられず、腐敗していく死者がどんどん増えていくだろう。
 手をこまねいている場合ではないのだ。
 何とかしなければいけないので、何とかしようと思う。
 今ある解決策、今後、望まれる仕組み、自分でできること、しておかないといけないことについては第二章でご紹介する。

 骨になるのも一苦労な時代の話はまだまだ続く。
 お次の壁は、おたく、どなた? のこわい話である。
 さあ、いっしょに震えよう。

二の壁・行旅(こうりょ)死亡人
 私はしょっちゅう財布を忘れる。どこかに置き忘れるのではなく、家に置きっ放しで出かけてしまうのだ。
 認知機能に問題があるせいではない(多分)。
 財布をあまり使わないからだ。
 コード払いもクレジットカードもすべてスマホで事足りるので、わざわざ財布を出すことがない。
 ついでに交通系カードもすべて入っているし、最近では映画や舞台のチケットもスマホだ。これがないと一歩も動けないので、スマホとスマートウォッチは絶対に忘れないが、財布のことは完全に頭から抜け落ちていたりする。
 以前、東京に出かけた際、夜まで自分が財布を持っていないことに気づかなかったことがある。
 朝から財布なしで新幹線に乗り、一人ごきげんで東海道を旅していたのだ。
 現金が必要な場面で初めて、え、お財布どこ? となったが、ないものはない。銀行のキャッシュカードも財布の中だ。
 まだまだ現金のみの店も多い。知らない街で知らない店にぶらりとノー現金で入るのはちょっとはばかられる。結局おいしそうな料理サンプルを横目に、夕食はコンビニで調達した。無念である。
 夕食はともかく、これはよく考えると恐ろしいことで、私は健康保険証も持たずにふらふら歩いていることになる。
 突然、そこらで転倒して病院に運ばれたとしたら十割負担の支払いをしなければいけない。
 私はめったに病院に行かないので、こういうところに危機感が薄いのだ。

 さて、では、起こるかも知れない未来をシミュレートしてみよう。
 ある日、私が道ばたで突然倒れ、そのまま死んだ。
 何が起こるだろうか。

 まず、救急隊、または警察の人が持ち物を調べ、この死体が誰なのか調べる。
 スマホには顔認証のロックがかかっているので他人には解除できない。
 持ち物はモバイルバッテリーだのエコバッグだの、イヤホン、家の鍵、電子書籍端末、お茶のペットボトルと、やたら荷物は多いのに、身許を示すものが何もない。
 例によって財布を忘れたし、普段は名刺も持っていない。
 いちおう、警察でも手は尽くしてくれると思うが、人口の多い大阪市内だとなかなか難しそうだし、旅先ではなおのこと。
 あとは、帰ってこないことを心配した家族からの捜索願や問い合わせだが、先にも書いたとおり、父が先に亡くなっていたら、私の不在に気づく人さえいないのだ。
「おたく、どなた?」「なんというお名前なのかしら」
 病院の担当者が気の毒そうに訊ねてくれるが、当然、私には答えることができない。
「しょうがない。行旅死亡人の扱いだな」
 誰かが言ったのをきっかけに、私は名前を失い、一人の「行旅死亡人」となった。

 行旅死亡人、もともとは旅の途中で亡くなった身許の分からない人のことだ。行き倒れた人をその地の市町村長が火葬にすると定めてある。
 根拠になっているのが「行旅病人及行旅死亡人取扱法」という、例によって明治時代に制定された法律なので、このような聞き慣れない言葉が使われているのだ。

 私はこの言葉を聞く度に、四国霊場を巡るお遍路さんのことを思い浮かべる。
 お遍路さんが着る白装束は清めの意味もあるが、本来、死に装束だった。
 旅の途上で亡くなった時、そのまま葬ってもらえるようあらかじめ着ていたのだ。

 その行旅死亡人が今、増えている。
 旅行中とは限らない。
 どこかでひっそり命を終えたまま、身許が確認できない人を含むからだ。

 大阪市内の各区役所の掲示板に「行旅死亡人」という掲示がされている。
 何枚もの紙が貼られているのだ。
 一枚一枚に書かれているのは誰かの死の情報だ。
 同じ内容は官報にも掲載されている。

 大阪市○○区××のコンビニ店内にて
 大阪市○○区△△某公園内のトイレ個室内にて
 発見場所と推定年齢、性別、身長、体重、着衣、死亡理由、所持品、所持金。
 たとえばスポーツバッグの中に文庫本二冊、薬、所持金千八百二十三円などと書かれている。
 行旅死亡人は行政の手によって荼毘に付される。
 名前のない骨は、行政の委託した葬祭業者の倉庫やどこかのお寺で、親族が名乗り出るのを待っているのだ。

 それでも誰も名乗り出なかったらどうなるだろうか?
 行政によって対応が異なるものの、基本的に無縁仏として寺や納骨堂に納められることになる。
 たとえ生前に立派な墓を用意していても、樹木葬を希望していても、それはもう叶わない。
 名前のないこの骨が誰のものなのか、分からないからだ。
 帰るべき場所へ帰ることができないまま、見知らぬ誰かの骨たちとともに過ごすことになる。

 私は区役所で働いていたことがあるので、昼休みに行旅死亡人の掲示をよく眺めていた。
 名前のないこの人はどんな人生を歩み、何故こんなところで亡くなってしまったのか。
 もし自分がその場に居合わせたとしたら、少しだけ買い物に出て、そのまま突然亡くなり、家に帰れなくなってしまったこの人に、何かしてあげることはできただろうか、なんてことを考えていた。
 だが、ふと気づく。
 次にあそこに貼り出されるのは私かも知れないのだ。

 ある日の私のifの話の続きだ。
 行旅死亡人となった私は火葬された。
 腐ることなく無事骨になれたのだ。その意味では喜ぶべきかも知れない。
 しかし、私は名前を失ったままだ。

 区役所前の掲示板に新しく一枚の紙が貼り出される。
 発見場所、四十代から(?)八十代の女性、上下黒の着衣、ロングスカート、サイズはXL。所持品は――。
 個人情報やめてもろて、と言いたいところだが行旅死亡人にプライバシーはない。
 何しろこれらは身許を特定するための貴重な情報なのだ。
 それにしても某ミュージカルの行き帰りならば所持品にペンライト(紋入り)、双眼鏡などと書かれ、官報や掲示を見た人に、あ、この人おたくだとバレてしまう。
 今の世の中、おたくでも行旅死亡人になり得るのだ。心したい。

 では、私の場合、財布を持ってさえいればそれでいいのかというと、そうとも言い切れない。
 確かに保険証やクレジットカードで名前と住所は分かる。
 ところが、それでも行旅死亡人になってしまうケースがあるのだ。
 先ほどの区役所前の掲示だが、時々住所と名前が書かれているものがある。
 ただし、そこには必ず「推定」の二文字がくっついているのだ。

 実際、名前も住所も分かりながら、結局、「推定」のまま、その存在が宙に浮いてしまった人の事例がある。
 二〇二三年六月、京都市内のファストフード店で倒れ、亡くなった四十代の男性のケースだ。
 スマホにキャッシュカード、家の鍵まで所持していて、自宅が特定できたのに、結局身許を確認できず、行旅死亡人として火葬された。
 この人をAさんとしよう。
 Aさんは顔写真付きの身分証を持っておらず、また親族による遺体の確認ができなかったためだ。
 官報には住所も名前も掲載されているのに、それはあくまでも「推定」に過ぎない。
 こんなの近所の人が「ああ、この人、間違いなくAさんです」と証言すればいいだけではないかと思うだろう。
 私もそう思った。
 だが、それではダメだったのだ。
 そこに住み、Aと名乗っていた男性が、本当に戸籍上のAさんと同一人物であるかどうか分からないためだ。
 つまり、私も顔写真付き証明書を持っていないと、同じことになるかも知れない。

 よく人から珍しがられたが、私は長年、住民基本台帳カード、通称・住基カードを携帯してきた。
 顔写真が気に入っていたので、国がくれるというマイナポイントにも背を向け、使い続けてきたのだ。
 ところが、住基カードはマイナンバーカードにとって代わられ、十年の期限とともにその効力を失った。
 結果、どうなったか。免許証も現在有効なパスポートも持たない私は、顔写真付きの証明書を持たない人になったのである。
 しょうがないのでマイナンバーカードの手続きをしたが、できあがるまで一ヶ月半もかかるというではないか。
 もし、今、私が突然どこかで倒れて死んだとして、父がふと旅にでも出ようと思い立ち、電波の届かない洞窟を探検していたとしたら(どんな趣味だ)、私は行旅死亡人になってしまうのだ。

 私は一体誰なのか。
 私は私なのに、それを証明することができない。
 私が私であるためには、社会にそれを認めてもらう必要があるのだ。
(第一章つづく)

題字・イラスト/タニグチコウイチ
本文中ドクロイラスト/安田依央

著者プロフィール

安田 依央(やすだ いお)

1966年生まれ、大阪府堺市出身。関西大学法学部政治学科卒業。ミュージシャン、女優、司法書士などさまざまな職業を経て2010年、第23回小説すばる新人賞を受賞して小説家デビュー。著書は『たぶらかし』、『四号警備新人ボディーガード』シリーズ(いずれも集英社)、『出張料亭おりおり堂』シリーズ、『深海のスノードーム』(いずれも中央公論新社)など多数。
『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』(いずれも集英社)は司法書士として依頼人の終末に関わってきた経験をベースにした小説。

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.