わたしの骨はどこへいく?

独身、一人っ子、親戚づきあいなし。
作家・安田依央は、還暦を目前にして、はたと考えた。
「自分は死後、無事に骨になれるのか?」
人は死んだら、自動的に骨になれるわけではない。
また骨になれたとして、誰かしらの手を煩わさずには
どこかに葬られることもない。
元司法書士として、人々の終末に深く関わってきた筆者が
ずっと後回しにしてきた自らの行く末。
孤独死、孤立死……年間2万人以上の人たちが
誰にも看取られず死にゆく長寿大国・日本。
長年ほったらかしにしておいた宿題にとりかかるかのごとく、
「終活のプロ」が、自分の「骨の行方」を考えるエッセイ。

第1回

序章 ~骨、尊くて時々やっかい~

更新日:2025/06/18

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 自分が死んだらどうなるかを考えたことがあるだろうか?
 私はある。
 時々、まずい、このままでは骨になれるかどうかも危ういぞと思いながらも、見て見ぬふりをしてここまできてしまった。
 そんなのまだまだ先の話だから関係ない?
 確かにまだまだ先かも知れない。
 ところが、ある日突然やってくる! かも知れないのが死というものなのだ。

 といっても普通の人の心配ごとは多分、骨ではないだろう。
 自分の死後について想像するとしたら、何となくお葬式があって、火葬されるのかな、ぐらいのイメージだろうか。
 祭壇にはきれいな花を飾ってもらって、大好きなバンドの音楽をかけてもらうよ、なんて感じで、ぼんやりと考えている人はいるかも知れない。
 でも、ちょっと待ってほしい。
 そのお葬式は誰が出してくれるのだろうか?
 祭壇にも花にも料金がかかるし、何よりも人が死ぬと、お葬式以外にも様々な手続きが必要になる。
 配偶者? パートナー? 若い人なら親? 当然、子どもがやってくれる?
 では、その配偶者やパートナーがいない人はどうしたらいいのだろうか。両親も子供もいない人は?

 実は私がまさにそれだ。
 両親はいちおう健在だけど、よほどのことがない限りは私より先に死ぬだろう。
 じゃあ、一人残った私はどうやって死ぬ?
 どうやっても何も、来る時が来れば、死にたくなくても死ぬに決まっているではないか。
 もちろんそれはそうなのだが、そこに至るまで、そして死んでからも、様々な問題が降りかかってくるのが現実だ。

 どう考えたって、自分のお葬式を自力で出すのは大変だ。何しろその時にはもうこの世にいないのだから(生前葬は別)。
 自動的に火葬されるわけでもない。
 誰かに丸投げできない私の骨への道はとてつもなく遠いのだ。

 でも、誰かに丸投げできる立場の人も、一度立ち止まって考えてみてほしい。
 その立場、いつ崩れるとも知れないですよといやなことを囁いてみる。
 そうならなかったとしても、自分のことなのだ。自分で考えてみて、できることをしておいても悪くないはずだ。

 年齢はあまり関係ないように思う。
 二十代、三十代でも親と疎遠だったり、孤独死をする人はいる。
 特に持病はなくても、突然一人暮らしの部屋で倒れてそのまま、なんてこともあるのだ。
 SNSの更新がとだえて、おかしいと思った誰かに発見されるまでに何日かかるだろう。
 その間に遺体の腐敗はどんどん進んでいくのだ。
 こわ。
 こんなことを考えだすと、夜、寝る時に、本当に明日の朝も目が覚めるだろうかと心配になってくる。

 日本中に散らばる、一人で過ごすあなた、そして、いずれ一人になるかも知れないあなたへ。

 これは、私はどうやって骨になるのか、その先どこへ行くのかを、大まじめに考えた記録だ。
 私の骨の話だけど、あなたの話になるかも知れないし、あなたの知る誰かの話になるかも知れない。


 ところで、どうだろう。
 この作家、死が近づいてきたからこんなことを考えているのだろうと思われただろうか。
 残念ながらその逆だ。
 私の祖母は二人とも百歳超えの大往生だった。もしもそこまで生きるとしたら、まだ四十年以上ある(え、それはそれでこわいな)。
 私はこの先の人生をいかに生きるか、自分の人生を真の意味で自分のものにできるかを賭けてここにいるのだ。
 と、ドヤ顔でかっこいいことを言ってみたが、つまりは推進力だ。
 船の帆をいくら高く張っても風が吹かなければ進まない。
 私は骨を推進力に、人生をよりよい方向に進めようとしているのである。

時の流れの速さに震える
 年々、時間の流れが速くなっている気がする。恐ろしいスピードで日々が過ぎていくのだ。
 ある日、気がつくと、私は五十九歳になっていた。
 五十九!? 何かの間違いでは、と思うが現実だ。
 気分的には三十代後半ぐらいのつもりでいるし、体力的にもまだそんなに衰えは感じない。
 もしかすると、これは人生の力配分が関係しているのかも知れない、などと考えてみたりもする。
 若い頃から懸命に働き、子供を産み育てた人の五十九年間と、やる気のない子供時代、無気力な中高生、斜に構えた若者、へらへら漂う三十代フリーターとかいう、書いていて頭の痛くなりそうな人生を歩んできた自分のそれとでは時間の濃密さが違うのではないかと思うのだ。

 人生の大半を省エネモードで過ごした私は四十歳ぐらいで覚醒した。
 それから人の二倍ぐらい働いた気がするが、どう考えたって遅い。
 周回遅れどころか、何周も遅れた状態で今に至る。
 最近、まっとうに働いてきた同級生たちからは、そろそろ定年だなどという声が聞こえ始めて、震えた。
 今どきの定年って七十五歳ぐらいだと思っていたのだが、依然として六十歳の職場もあるのだそうだ。
 こっちはまだ道半ばなんだけどさあ、と焦りと困惑から、誰に対してなのかよく分からない文句を言っていると、私の省エネ人生を知る友人たちからは、安田はそれでええねんと、何ともなまあたたかいエールをもらってしまった。
 まあ全部自分の選択なので後悔はないのだが、それでも、五十九歳。
 どんな人生を歩んできても来年は六十、還暦だ(私は早生まれなので多くの同級生たちと還暦を迎える年が違う。彼らにとっては今年の話となる)。
還暦は祝いか呪いか
 一昔前までは、還暦というと赤いちゃんちゃんこに、布袋さんのような帽子(もこもこしたシャワーキャップみたいなヤツ。正しくは頭巾というらしい)を着せられ、子や孫に囲まれ、にこにこしているおじいちゃんやおばあちゃんのお祝いといったイメージだった。
 いや、今でもこのようなお祝いをする家庭もあるかも知れないし、赤いポロシャツやエプロンをプレゼントしたりと、現代風のアレンジがなされているのかも知れない。
 大切な人をお祝いする気持ちにケチをつけるつもりはないが、見方を変えれば、あれは周囲の人たちの悪気のない、むしろひたすらな善意によって、老いの自覚をつきつけられる儀式のようにも思える。
 もっとも私の場合、あんな格好、私の美意識に反する。絶対に着ねえぞと叫ぶまでもなく、誰も持ってこないので心配することはなかった。
 先にも書いたとおり、私には子も孫も、ついでに夫もパートナーも何もいないからだ。

 赤いちゃんちゃんこを着るまでもなく、子供の成長、入学や卒業、就職、結婚、そして孫の誕生などという人生節目のイベントを迎える度に、ああ、あの小さかった赤ちゃんがこんなに大きくなって、立派になったねえという感慨を抱くことだろう。
 同時に、その度、自分の老いを自覚させられるのではないか。
 それがないため、私はいつまで経っても自分の年齢というか老いに対する自覚のない、どこか浮ついた存在なのである。
老いの波状攻撃
 それでも、生まれてから六十年近く経つのは事実だ。
 子や孫といった下の世代はいなくても上の世代はいる。
 四十代後半ぐらいからだっただろうか、祖父母の死、両親やおじおばたちの老い、そして死を目の当たりにする機会が増えてきた。
 老いというのは恐ろしいもので、波みたいに世代を飲みこんでいくのだ。
 もちろん例外的に若さを保っている人、百歳近くてなお頭もキレキレの方などもいらっしゃる。自分もそうありたいが、なかなかに難しいことだろう。
 そして、その波は確実に近づいて来ていて、すぐ上の両親世代は完全に飲みこまれてしまっている。
 八十代なので当然だ。
 ここで老いなきゃいつ老いるんだという年齢である。
 同時に、自分自身も、さて、健康でいられる時間はあと何年だろうかなどと考えてしまう。

 やはり四十代後半ぐらいから、同世代の訃報もぽつりぽつりと耳にするようになった。
 気持ちの上では三十代でも、実年齢に応じるかたちで、老いだけではなく、死というものがだんだん身近なものになってきたのだ。
省エネ人間の責任感
 私はひとりっ子なので両親を何とかしないといけない。
 現在、母は施設でお世話になっているが、父は元気だ。
 頭もしっかりしており、若い頃に比べればずいぶん丸くなったものの、皮肉な物言いは健在で、いまだに私と大喧嘩をする。
父は私と三十違うので今年の秋、九十歳になる。
 これといって悪いところがないので、百歳まで生きるかも知れない。
 あれだけ頭がしっかりしていれば自分一人でも何とかするのではないかとも思うが、耳が遠く、補聴器を使っても聞こえが悪いのと、緑内障があるので目も悪い。
 ついでにこの父、いい意味でも悪い意味でも空気を読まない。
 かつては日本社会特有のことなかれ主義に大なたを振るって、会社組織をぶっ壊しまくったカリスマ的経営コンサルタントだった。
 その元カリスマ、空気を読まないのは変わらないうえに、耳と目がいまいちなので、多分、色々とひとさまにご迷惑をおかけすることだろう。
 というか、既にかけている。
 私が多忙なのと、できることは自分でしてもらう方針なので、よほどの場合を除き、外出に付き添うこともしない。
 きっとあちこちで色んな方に助けていただいているに違いないのだ。
 大変、申し訳ない。この場を借りてお礼申し上げます。

 とりあえず、この父と母を何とか無事あの世に送り届けるまでは死ねない。
 そうは思うのだが、四十代、五十代で突然亡くなった方の訃報などを聞くと、うわあとなる。
 親を送るどころか、自分の死後の始末を老親にさせるなどという事態は絶対に避けなければならない。
 第一、元カリスマの父はデジタルがあまり得意ではないので、色々困るだろう。というか、私が契約している大半のサービスを解約できないはずだ。そもそも何の契約をしているのかも知らない。
 これはまずい。
 私が突然死んだらえらいことである。
終活と携帯トイレ
 実は、私は元司法書士で、かなり早い段階から、いわゆる終活の必要性を説いていた。遺言や成年後見、死後事務委任などの制度や仕組みを駆使し、老いに備えるお手伝いをしてきたのだ。
 関連する著作もある。
 が、今にして思えば、どこか他人事だった。
 専門職のおごりなのかも知れない。
 あくまでも仕事として、依頼人のためにやっていたのだ。
 必要だ、備えておけよと言いながら、自分のことは後回しになっていたわけだ。
 そして、いまだに何もしていない。
 いい加減な話である。

 終活と聞くと、あー必要だよね。やらなきゃいけないのは分かってるんだけどさ、などと言いつつ、つい後回しにしてしまう人が多い。
 それはそうだろう。自分もそうだ。
 いつ来るとも知れない「その日」に備えて準備をしなければいけないのだ。
 何から手をつければいいかも分からないし、何より気が重い。
 災害に備えて備蓄のレトルト食品や携帯トイレを用意するのとはわけが違う。
 つい明日でいっかとか、まあもうちょっと先で考えようとなってしまうのだ。
 あー分かる。現役時代には「いやあ、紺屋の白袴でね、自分のことはなかなか手が回らなくて」などとそれらしいことを言っていたが、実は私もまさにそれ。

 だが、ここまで何もなく生きてこられたのはたまたま、幸運だったからだ。
 あなたも、そして、もちろん私も。
明日生きてる保証はない
 今のところ人間の死亡率は百パーセントだ。
 地球上にいる全員が、いずれ必ず死ぬし、骨になる。
 それはまちがいのない事実である(多分)。
 問題はそれがいつなのか、誰にも分からないことだ。

 正直なところ、自分が死ぬ際には、余命の分かる病気の方がいいな、と思わなくもない。
 もちろんショックだろうし、その時期にもよるだろうが、受け入れられなくて暴れたりもするのかも知れない。
 それでも、やらなければいけないことをやるだけの時間があるのはありがたいのだ。

 だが、現実はそう甘くはない。
 突然、車にはねられることだってないとはいえないし、事件や災害に巻きこまれて命を落とすかも知れない。
 お風呂で事故死することだってあるのだ。
 どれだけ健康に気をつけていても、ある日突然、死んでしまう可能性をゼロにすることはできない。

 あえて言おう。自分も含めた、すべての人に。
 年齢なんか関係ないからね。
 誰もが明日、生きている保証はないのだ。
骨という名の相棒
 というわけで、私は今回、骨について考えてみることにした。
 その暇に終活やれよというつっこみが入りそうだが、別に横道に逸れて先送りしようとしているわけではない。
 まず、骨。

 なぜ骨なのか。
 骨は身近な存在だけど、骨折でもしない限り、あまり意識はしないかも知れない。
 誰よりも傍にいるのに、当たり前すぎてその大切さに気づかない。少女漫画の幼なじみポジションみたいなものだ。
 けれど、実際には、骨がなければ立つことも座っていることもできない。
 肉体を形作る基本だ。
 文字通りのバックボーンである。

 生きている間もそっと私たちを支えてくれているこの骨が、がぜん輝くのは人の死後だ。
 人間、誰しも死ねば骨になる。
 日本はほぼ火葬なので、勝負は早い。
 ある程度の年齢の方なら、一度はどなたかのお骨揚げに参加したことがあるのではないだろうか。
 火葬場の職員さんは、うまく骨が残るように火力を調節しながら焼いてくれるそうだ。強火すぎると骨の形が残らないのだとか。

 まあ、その辺に放っておいても死体はいずれ骨になるだろうが、そこに至るまでには恐ろしい過程がある。
 孤独死のあげくに異臭を放ち、腐乱死体となって発見されたという話をよく耳にするが、これは近隣の人たちに大変な迷惑をかけることになる。
 臭いもすさまじいし、部屋のみならず床や柱などにも体液が染みこんで――となると特殊清掃とよばれる大々的な後始末が必要になってくる。
 人間、死んだら終わりではないのだ。
 後は野となれ山となれ、では誰かにとんでもない迷惑をかけることになる、可能性もある。

 今の時代、死後に残るのは遺体だけではない。
 SNSのアカウント、サブスクの請求、鍵のかかったフォルダ。これらも私たち現代人の生活を支える骨といえるだろう。
 こちらの相棒の行き先も考えておかないと、デジタルの亡霊たちが成仏できずに、ウェブの海を永久に漂い続けるかも知れない。
 漂うだけならまだしも、死後もずっと課金され続けていたなんてシャレにならない事例もたくさんある。

迷惑をかけずに死ねるのか
 私は省力モードの人生を送ってはきたが、人に迷惑をかけることだけはしないできたつもりだ。
 ついでにいうと、人に頼るのも苦手だ。
 人にはいくらでも親切にできるが、逆に親切にされると居心地が悪いのである。

 では人間、誰にも迷惑をかけずに思い通りに生ききり、死ねるものだろうか?

 それが無理なのである。
 入院するにも一人では難しいし、意識でも失ってしまったら最後、自分の意思を伝えるのも困難だ。
 家族がいれば、この人は延命治療を望まなかっただろうから、と意思を酌んで、代わりに伝えてくれることもあるかも知れないが、私にはその役割を果たす人はいない。
 ではどうするかというと、事前にありとあらゆる策を講じておく必要がある。
 やっておかなければならないことは山のようにあるのだ。
 考えただけで頭が痛くなる。
 人知れず死んで、腐っては困るので、その対策も考えておかなければいけないし、認知症になったとしても、親身になって生活を考えてくれる人はまずいない。
 徘徊のあげく、警察のご厄介になって、このばあさんどうしようとなった時、誰が行く先を決めるかというと、行政や地域包括支援センターの方だろう。
 どこの施設へ? 費用は? いや、そもそもこの態度の悪いばあさんはどこの誰なんだから始まるのだ。
 どれだけの人に、どれだけの迷惑をかけることになるのか想像もつかないではないか。

 できる限り誰の手も煩わせず、最後まで自分の足で歩き、自分の頭で物を考え、決定する。
 そう望む人は多いことだろう。
 私自身、そんな生き方ができれば理想だし、そのためにできる努力は惜しまないつもりだ。
 しかし、この先何が起こるかなんて誰にも分からない。
 常に最悪の事態を想定して備えておく必要があるのだ。
火葬場まで何マイル?
 とりあえず、これから心を入れ替えた私がまじめに準備をして、無事死んだと仮定しよう。
 ところが、最後にどうにもならない難関が立ちはだかっている。

 そう、骨だ。
 死んだ後にどうやって骨になるのか。

 どうがんばっても、死後に自分で火葬場まで歩いていくことはできない。
 中国の道士ならば呪術で遺体をどうかして、火葬場まで一人で歩けるようにしてくれるかも知れない。
 が、街中を死体がうろうろしていてはみんな困るだろう。
ほね、尊くて時々やっかい
 問題はまだある。
 その骨をどうするのか、だ。
 骨の組成はただのカルシウムなのだけど、それだけではすまない。この世に生きた人間が残した、命の証でもある。
 尊いものだ。
 決して粗末に扱うことなどできない。
 だから日本人は墓を作り、手を合わせ、故人に思いをはせることで供養とし、敬ってきた。

 一方で、電車の網棚に忘れられる骨、、、、、、がある。
 尊いがゆえに、それは時に何より厄介なものでもあるのだ。

 そもそも、骨を尊いと思うのはなぜか。
 ご先祖さまのものだから?
 大切な人の一部だから?
 では、子孫もいない、大切な人だったと偲んでくれる誰かを持たない私のような人間の骨は、ただただ厄介な存在にしかならないのではないか。

 こうした問いは、還暦を前に、ちょっとヤバいのではないかと焦り始めた私だけのものではないはずだ。

 あなたはどう考えるだろうか?
ほねの道
 だから私は歩き始める。
 目の前に延びているのは、先人から脈々と続く骨の道だ。
 道の途中で私は、時代の変遷とともに移り変わる骨にふれ、様々な価値観を持つ先達(の骨)たちと出会うだろう。
 この先のいつか、私はどうやって骨になるのか。
 何とか無事、骨になったとして、その後どこへ行くのか。
 これから出会う骨たちから、何かを学び取ることができるといいと思う。


 ――では、旅をはじめようか。

題字・イラスト/タニグチコウイチ
本文中ドクロイラスト/安田依央

著者プロフィール

安田 依央(やすだ いお)

1966年生まれ、大阪府堺市出身。関西大学法学部政治学科卒業。ミュージシャン、女優、司法書士などさまざまな職業を経て2010年、第23回小説すばる新人賞を受賞して小説家デビュー。著書は『たぶらかし』、『四号警備新人ボディーガード』シリーズ(いずれも集英社)、『出張料亭おりおり堂』シリーズ、『深海のスノードーム』(いずれも中央公論新社)など多数。
『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』(いずれも集英社)は司法書士として依頼人の終末に関わってきた経験をベースにした小説。

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