失踪願望。失踪願望。

第26回

芦ノ湖、コロッケ、誕生日

更新日:2024/03/27

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6月3日(土)

 2月に85歳で亡くなった松本零士さんのお別れの会が開催された、と仕事仲間が教えてくれた。「銀河鉄道」といえばぼくの世代は「の夜」だが、若い人は「999(スリーナイン)」なのだなあ。

6月6日(火)

 夕方から映画関係者と新宿の居酒屋で会う。
 なんと「怪しいオジイ」の役で、ある映画に参加してほしいという出演オファーだった。78歳にして初の銀幕デビューの話に面食らったのち、生ビールを飲みながらしばし悩む。結論はまだ出ないが、受けるかどうかは別として、最近の撮影現場の話を聞けて明るい気分になった。

6月9日(金)

 ニューヨークに住む娘から電話が入り、カナダの山火事が深刻で市民の生活に大きな影響を与えていると教えてもらう。
 カナダの都市の話かと思っていたら彼女の住むニューヨークの話であり、煙が大量に流れ込んで空が橙(だいだい)色に染まり、「世界の終わりのような景色だよ」と声のトーンも低かった。
 いくら大規模とはいえ、山火事の煙が数百キロも飛散して国境を越えるなんてちょっと想像がつかない。地球温暖化が原因のひとつだと考えられているようだ。森が燃え、氷河が溶ける今日、戦争なんかしている場合ではないんだがなあ。

6月12日(月)

 新宿から小田急線で箱根へ向かう。
 ハタチそこそこの頃、偽名を使って芦ノ湖で働いていたことがある。ほんの短期間の話だ。家を出るとき、なぜだか幼馴染みの高橋コロッケ君を誘い、その晩は二人で温泉宿に泊まり、二人で女湯をのぞいた。
 その話を編集Tにしたら「なんと! では、50数年ぶりに箱根に失踪してみるのはいかがですか? 私たちは後ろからついていきます。温泉も入りたいし」と、この連載のいつものチームに誘われた。最後の一言が本音っぽいのだが、それには気づかないフリをしてロマンスカー「スーパーはこね7号」に乗り込む。この人たちと一緒だと集団失踪になってしまうのだが、仲間と一緒のビールはうまいのでまずはそれでいい。
 小田原駅に着くと竹田がレンタカーを借りて、北条早雲像の下で待っていてくれた。高校時代を小田原で過ごしたという彼は、いろいろと段取りが良い。
「おそらく椎名さんは東京駅から東海道線で小田原までガタゴト来たはずです。箱根湯本や強羅、宮ノ下あたりなら小田急か登山鉄道に乗り換えですが、芦ノ湖に行くならおそらくローカルバスでしょうね。つまり国道1号線の山登り。箱根駅伝の5区ですわ。区間賞狙いまっせ」
 えっちらおっちらと山を登る(ぼくは後部座席に座っているだけだが)間にいろいろと当時のことを聞かれて、それに答えていると幽かな記憶が呼び起こされる。
 確か途中で履歴書用の印鑑を買ったはずだ。「いわゆる三文判でしょうね。シヤチハタのインク入りハンコの誕生は1968年ですから。とはいえ印鑑が都合良く芦ノ湖に売っているとは思えないので、おそらくシーナ&コロッケは小田原で降りてますね」と竹田が分析する。
 それを受けて「ひょっとして『椎名』のハンコがなくて、間違いなく売っている『高橋』を選んで、そこから偽名をはじめとしたデタラメ履歴書をでっちあげたのでは」とTさんが追随する。
 なるほど。それらの考察が合っているかどうかはもう思い出せないし、今はもうどうでもいいのだが、そういう気もしてきた。
 車は霧雨けぶる芦ノ湖に到着した。観光客、特に外国人が多く、洒落たカフェやレストランが増えたと竹田。遊覧船乗り場など、昔はもっと質素だったけれど、立派な建物になっていた。それでも、「ああ、休みの日はここから人々の往来を見てたな。あの時はもっと晴れていたな」などと、呼び起こされる記憶もあった。なぜか21歳の箱根失踪での空は、快晴のイメージが強い。
 続けて箱根峠や駒ヶ岳のロープウェイ、箱根神社などを巡ったが、どれも覚えているようないないような曖昧な感じだ。ただ、箱根関所のそばの杉並木のあたりを流していると、鮮明に思い出すことがあった。
「あ、ここでエンジンブレーキを教えてもらったんだ」
 無意識に声に出ていた。キヨさんの「箱根は坂が多いから、うまくエンジンブレーキを使わないとブレーキがすぐダメになっちまう」という声も思い出す。
 そうか、ぼくは東海道でエンジンブレーキを覚えたのか。箱根の関所のそばで運転の練習をしたのか。たいしたことではないけれど、少し誇らしくなった。
 ここで運転を覚えて、それから会社勤めをして国内外でキャンプ旅などをさんざんしてきた。いわゆる車好きではないから、どの車に乗るかというのはあまり興味はなかったが、それでも何台かは乗り替えて何百万キロかは運転したと思う。しかし、自分の動体視力や判断力を信じられなくなって70歳を前に、最後に乗っていた、そしていちばん気に入っていたべんがら色のピックアップトラックを手放した。2年前には免許も返納した。長い時間が経っているんだなと感じた。
 天気も荒れてきたし、撮影もしたので少し早めに宿に入る。風呂に入ったら宴会だ。ただ、箱根はホテルがどこも高いようで、「豪華絢爛の宿はちょっと経費の問題がありまして、今夜のお宿はひょっとして夕食も質素かもしれません。失踪旅なのでそれもやむなし味わい深しと考えていただければ」と編集Tは謝罪なのか謙遜なのか開き直りなのか分からないことを言っていたが、夕飯はちゃんと個室で、刺身、天ぷら、焼き物、豆乳鍋などが並ぶ。しっかり美味しいし、文句ない。酒がすすむ。
 ビールからはじめて、ぼくの〝古巣〟である尾張屋で買ってきた赤ワインに切り替える。話題は今日の取材の首尾にはじまって、コロッケ君の実家の肉屋の思い出、腰痛のつらさ、最近読んだ面白い本。例によってどんどん飛ぶ。目黒の話が出るとまだ少し辛い。

6月13日(火)

 朝風呂に入り、味噌汁と干物と白飯と納豆の正しすぎる朝食を食べたのち、晴れたのでまた少し箱根を散策する。
 途中、竹田が思い立って「椎名さんが配達したであろう別荘エリアに入りましょう」と適当な路地に入ると、急坂や厳しい幅員が続く一帯があった。そうだ、こういう道には軽トラが入れないので、ケースを肩に担いで配達をしていたんだった。芦ノ湖が一望できる場所に出たので、車を停めてしばらくそんな話をしていた。
 編集Tに昭和の失踪と令和の失踪に関して感想を求められたが、ぼくとしてはそのふたつの失踪は地続きだとは考えてなかった。来てみたら思ったよりはるかに収穫があった。何よりも57年前の自分の足取りなんて誰も興味ないと思っていたが、それをしっかりと編集者が辿ってくれて心強かった。そう言おうとしたのだが、彼女は言う。
「しかし、ひとりで温泉地に失踪するならブンガク的ですが、友人を連れていくと途端に『東海道中膝栗毛』になっちゃう。弥次喜多ですもん。21歳のシーナ青年は、へなちょこですねえ」
 竹田も追随する。
「コロッケさんも不思議な人ですよね。粗暴で言葉足らずな友人に、理由を聞かずに箱根くんだりまで付き合ってくれるんだもん。俺だったら絶対に嫌です」
 感謝の言葉はとりあえず飲み込みつつ、まあともかく良い取材ができたので、山を下りる。途中、目黒と木村と沢野で二カ月に一度くらいのペースでやっていた発作的座談会で泊まっていた旅館の前を通った。
 当時、目黒は「椎名が率先してやってくれればみんな動く。だから車を出してくれ」と言い、ぼくは深く考えずに「分かった」と3人の送り迎えをしていた。でも、帰りの車では3人ともいつもすぐに寝てしまっていたので、ひょっとしてあれはうまく使われていただけではないか。この日、初めて気づいた。
 小田原に着いて駅そばの寿司「天史朗寿司」で地魚とビール。寿司も少しつまんだ。ロマンスカーに乗って東京に戻った。

6月14日(水)

 午後から慶應病院に行って帰宅すると、一枝さんがマグロをひとサク用意してくれていた。食後には、塾だ部活だアルバイトだ勉強だと忙しい3人の孫も集まってくれて、ケーキでお祝いしてくれた。八丈島のカズも電話をくれた。お互い照れ臭く、ぎこちない会話ながら「おめでとう」を言ってくれた。「シーナさん、また島に遊びに来てくれよう」「分かったー」と電話を切った。ぼくは79歳になった。

6月15日(木)

 小学館から出る雑魚釣り隊の最終巻のタイトルを決めるために神保町の寿司屋「ひげ勘」へ。
 ぼくとしては担当のケンタロウとふたりでゆっくり相談したかったのだが、「椎名さんばっかり寿司を食べてずるい」と太田トクヤがついてきた。竹田は「椎名さんもトクさんもご高齢になりたくさん食べられないでしょう。寿司を残すのは仁義にもとる。ぼくに任せてください」と割り込んできた。
 ケンタロウというのは少し騒がしいが、そのぶん腹蔵ない人物で「なんであんたたちまで来るんだ」と文句を言いながらもしっかり受け入れて、なんだかんだ楽しい夜だった。麒麟山はいい酒だ。

6月18日(日)

 北海道南部の八雲町でトラックが高速バスと正面衝突する事故があった。
 テレビは被害者の数やその原因などを報じていたが、バスの横っ腹に大穴が空いていたり、トラックのフロントガラスが粉々になっている映像を見ると、落ち込んでしまう。今は携帯で誰もがカメラを持っている時代だし、ドライブレコーダーの映像などもある。あらゆる写真や映像がすぐに世の中に出回っていき、生々しすぎる。

6月20日(火)

 少し体調が悪く、ビールも美味くない。梅雨のせいにしたいところだが、雨だと静かで原稿は進む。

6月23日(金)

 調子が悪いので病院でCTスキャンを受けることになった。
 MRIもそうだが、閉所恐怖症のぼくにとってはただの拷問装置だ。一応、医者や看護師から毎回、説明を受けるが、どういう仕組みになっているのか実はよく分からない。ガンガンゴンゴン鳴るのはどっちだっけ。SF映画などで似た装置が良く出てくるのも「よく分からないけれど、最新鋭のもの」というイメージからだろう。
 異常はなかった。
 拷問によく耐えたので帰ってビール。家族に電磁と電子というのがなんとかして、細胞の向きを揃えて……と説明しようかと試みたが、諦めて2本目を飲んだ。

6月24日(土)

 名古屋の朝日カルチャーセンターで「旅先のオバケ」というタイトルの講演。同名の書籍を出しているのでこの内容になったのだが、別にぼくはオバケの専門家ではないので、伊達メガネをかけて思いつくままに話をした。
 話しながら、情報がなんでも整頓、解析されてしまう現代では物の怪(け)や魑魅(ちみ)は生きにくいのだろうな、と思った。不可思議な説明できない部分が世の中でいちばん面白いし、恐怖が残っていないと想像力が育たないというのに。
 名古屋で仕事をすると、駅の中にある名古屋コーチン焼き鳥を食べて帰るのが黄金コースだ。この日はレア気味のレバーと親子丼がうまかった。ビールとハイボール。新幹線でよく眠れた。

6月28日(水)

 連日、ジャニーズ事務所の性加害問題が、テレビで取り上げられている。報じられているわけではない。ただ、ショウとして取り上げてタレントがコメントしているだけの問題提起も方向性もない垂れ流しだ。
 まあそんなものは見ないのでどうでもいいのだが、芸能界だけではなく、もっとも汚い政界をはじめ、あらゆる芸術や、角界にもタブーや悪習は存在するのだろうなと思った。映画は大好きだが、いざその業界に足を踏み入れると嫌なことはたくさんあった。膿はどこにでもあるのだ。

●この月の主なできごと

6月1日
◇藤井聡太竜王が、名人戦七番勝負第5局で渡辺明名人と対戦して名人位を奪得。七冠達成は、羽生善治九段以来、27年ぶり史上2人目、史上最年少(20歳10カ月)で。
◇山形大学がAI技術を使用してナスカの地上絵を新たに確定したと発表。

6月2日
◇「改正マイナンバー法」が参院本会議で可決・成立。2024年秋に現行の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードと保険証を一体化することを盛り込んだ。
◇厚生労働省は2022年の人口動態統計を公表。1人の女性が生涯に産む見込みの子どもの数を示す「合計特殊出生率」は1.26で、05年と並び過去最低に。
◇インド東部オリッサ州で列車同士の衝突事故が発生。複数の地元メディアは3日、死者が280人に、負傷者は900人以上と報道。近年では最大規模の列車事故になった。

6月4日
◇警視庁は、元参院議員のガーシー(本名・東谷義和)容疑者を暴力行為等処罰法違反容疑などで逮捕。動画投稿サイトで著名人らを繰り返し脅迫した疑い。

6月5日
◇吉野ヶ里遺跡で4月に発見された石棺墓のふたが開けられる。邪馬台国の謎解明へ期待が高まる。

6月6日
◇ウクライナ南部ヘルソン州にあるカホウカ水力発電所のダムが決壊。周辺集落が水没の危機に。ウクライナとロシアは互いに相手側の責任によるものだと主張。

6月7日
◇マイナンバーとひもづけられた公的給付金などの受取口座で、本人以外の家族名義の口座が少なくとも約13万件登録されているのを確認したと河野太郎デジタル相が発表。

6月8日
◇同性婚を認めないのは憲法違反だとして、九州の同性カップルが国に損害賠償を求めた訴訟の判決で、福岡地裁は「違憲状態」との判断を示した。賠償請求は棄却した。

6月9日
◇難民認定を申請中であっても外国人を母国に送り返せるように変更した「改正入管難民法」が参院本会議で賛成多数で可決、成立した。

6月10日
◇テニスの全仏オープン・車いすの部男子シングルスで、17歳の小田凱人(ときと)選手が世界ランキング1位のアルフィー・ヒューエット(英)を破り、4大大会史上最年少制覇を達成。

6月11日
◇1978年から95年にかけて米国各地の大学などに小包爆弾を送りつけ、「ユナボマー」と恐れられた元大学助教授のセオドア・カジンスキー受刑者が10日、81歳で死亡と米メディアが一斉に報道。

6月14日
◇岐阜市の陸上自衛隊射撃場で、18歳の自衛官候補生の男が訓練中に隊員に向けて自動小銃を発砲し、3人が死傷。男は殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。
◇シーナ、79歳の誕生日。

6月16日
◇元プロ野球選手の杉下茂さんが肺炎のため、12日に死去していたことが分かった。享年97。「フォークボールの神様」と呼ばれ、通算215勝を挙げて中日のリーグ初優勝と日本一に貢献した。
◇元プロ野球選手の北別府学さんが死去。享年65。「精密機械」と称された制球力を武器に通算213勝を挙げ、1979年、80年と広島の2年連続日本一の立役者に。

6月17日
◇天皇皇后両陛下は国賓としてインドネシアを訪問。国際親善のための外国訪問は即位後初めて。ジョコ大統領夫妻と会見し、「残留日本兵」が埋葬されているカリバタ英雄墓地などを訪問。

6月23日
◇太平洋戦争沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎え、沖縄県糸満市で追悼式。

6月24日
◇米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手がロッキーズ戦で今季25号を放ち、日米通算200号本塁打を達成。

6月26日
◇洋画家の野見山暁治さんが22日に死去と発表。戦没画学生の遺作を収集、保存のための美術館「無言館」を設立するなどの活動も現代美術界に大きな影響を与えた。享年102。
◇東京電力は、福島第1原発にたまる処理水の海洋放出設備が完成したと発表。

6月27日
◇1月に、奈良市・富雄丸山古墳で出土した国内最大とされる2メートル37センチの蛇行剣が片面のクリーニングを終了、奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所(橿考研)で報道陣に初めて公開された。
◇24日に米国ロサンゼルス近郊の山で発見された白骨化した遺体が、1月13日にハイキングに出かけたきり連絡がとだえていた英国人俳優のジュリアン・サンズさんであることを確認したと、米カリフォルニア州の警察当局が発表。代表作に『眺めのいい部屋』(1986)など。
◇警視庁は、母親の自殺を手助けしたとして、自殺ほう助の容疑で歌舞伎役者の市川猿之助容疑者を逮捕。猿之助容疑者は5月18日、自宅で同居する両親とともに倒れており救急搬送、父親で歌舞伎役者の市川段四郎さんと母親はともに死亡が確認された。猿之助容疑者が睡眠薬を両親に服用させた疑いが持たれている。

6月28日
◇財務省は、2024年7月前半をめどに紙幣のデザインを変更し発行すると発表。新1万円札は実業家・渋沢栄一、新5千円札は教育者の津田梅子、新千円札は医師の北里柴三郎の肖像が描かれる。

6月29日
◇広島市の平和記念公園と、旧日本軍の真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊施設などがある米ハワイ州のパールハーバー国立記念公園が姉妹公園協定を結ぶ協定調印式が行われた。東京の米国大使館で。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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