失踪願望。失踪願望。

第16回

下駄ばき、ケトばし、広い空

更新日:2022/12/21

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8月5日(金)

 小伝馬町にあるギャラリー「ルーニィ」が2回目の味のある写真展を開いてくれたので行ってみた。20人くらいのお客さん相手にごく小規模なトークイベントをして、写真についてすこしだけ話をした。
 写真も何枚も売れてくれたようで。やはり個人が購入するのは風景の写真のようだ。ぼくは枚数的には風景より人をよく撮るのだが……。”意識”をもつヒトの写真は難しいだろう。部屋に飾ってもそのヒトとしょっちゅう目が合ったりするのはどうだろうなあ……となるのかもしれない。
 終わって近所の蕎麦屋で瓶ビールと卵焼き。このあたりを歩くと馬喰町の金属問屋街とか浅草橋のガード下の質屋とかの存在を思い出す。
 若い頃、国鉄の総武線にいちばん乗っていた。自分の住んでいたところと、後に仲間たちと共同生活をするところと、アルバイトに通っていたところと、よく飲むところがみんなこの線路沿いに一直線に並んでいたからだ。とりわけ浅草橋駅周辺がなじみが深い。ここに中尾金属株式会社の事務所と大きな倉庫があった。その会社は一言でいうと伸銅品(しんどうひん)を中心にアルミニウム、ジュラルミン、そしてそれらを細く丸く伸ばしたものなどをたくさん扱っている問屋さんで、常に十人位の人手が必要なことからアルバイトの学生が沢山いた。飛び飛びながらそこにほぼ一年くらい通っていた。全国からやってきた若者、とりわけ新鮮だったのは東北から集団就職してきた中学を卒業したばかりの少年が必ず数人いたことだ。倉庫の仕事は多忙とヒマが入り混じっていたが、どっちにしても力仕事なので働き甲斐があった。
 楽しみは昼飯で、これは近くの総菜屋のアルミニウムのデカい箱弁が毎日届けられた。食べると小一時間の休憩だ。人生のシアワセ時間である。疲れているので平らに置かれた伸銅品の上に横たわって昼寝することができた。長さ2メートル、幅40センチぐらい、思えばカンオケに似たサイズだ。人が横たわるのにちょうどよく、夏などは金属はスッパリ冷えているからそれがクーラーがわりになったのだ。この倉庫の中では安全靴と呼ぶ、足の甲部分を銅板で覆いガードしてある靴を履くキマリになっていた。これが夏は蒸れて暑い。だからぼくはほかにさしさわりがない予定の日は下駄をはいてそこに通勤した。ちょうど通りの真ん中を浅草と銀座をつなぐ都電が走っていて、下駄でカラコロ都電の線路まわりの敷石の上を歩くと気持ちが良かった。
 この倉庫労働体験は後に作家になったとき「倉庫作業員」という短編小説に書いた。それはやがてフーテンの寅さんの山田洋次監督の目に触れ、映画化され『息子』という邦題になってなんだかたくさんの映画賞を受賞していた。もうひとつ、このときの体験をSF『武装島田倉庫』に書いた。なんだかヘンテコな、よその国のわけのわからない話としてけっこうのめりこんで書いて楽しかった。一つの体験が二つの小説になったのだから、職業体験はいろいろしておくもんだ、と思った。
 そこでの楽しみのもう一つは、バイト料をもらったときの週末だ。中尾金属は小伝馬町にあったから浅草橋駅まで歩いて10分もかからない。浅草橋駅周辺には飲み屋がガード下に何軒かあって、そのうちの「むつみ屋」(けとばし屋、つまり馬肉専門店だった)に行って、ビールと馬肉を食べるのが楽しみだった。馬肉は安くて力がついてうまい。たくさんの労働者でにぎわっていた。店の真ん中へんにちょっと高い厨房があって、そのまわりにハチマキをした威勢のいいあんちゃんが大きな声で客の注文をさばいていた。ここに来た人がみんな注文していたのが、「くりから」という一品だった。豚肉と野菜が混じった突き出しのようなものだった。この店は相当遅くまでやっていて、中尾金属をやめてからもこの店に行くために時々浅草橋に降りたことがあった。
 そんなことを思い出しながら、最後にもりそばをカミしめ帰宅。いい時間だった。

8月8日(月)

 夏バテしないようにと一枝さんが続けて肉料理を食べさせてくれる。先週はデパートで買ってきたステーキ肉を食べた。昨日はトンカツだったが、油がきつくて食べられなかった。今朝、それをカツ丼にしてもらったら一転してえらく美味しかった。卵でとじるとだいたいの問題は解決するのだ。

8月10日(水)

 一枝さんに『おとうさんとぼく』(e.o.プラウエン著/岩波少年文庫)というドイツの本(というかセリフのないコマ漫画)を紹介されて読む。
 戦前のドイツの話だけれど、父親と息子の楽しい日々がくるくる描かれていて、全体にぼくが好きなフランス映画、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』の気配をたくさん感じ、読んでいるとときどき泣けてくる。泣ける――じゃなくて笑う――はずなのにちがうのだなあ。

8月11日(木)

 最近は原稿書きながら高校野球をみている。アルプススタンドのブラスバンドがちょうどいいBGMなのだ。令和になってもどうやら山本リンダは甲子園では健在らしく、ウララウララ聞こえてくるのがおかしかった。他にも聞いたことあるメロディーだなとテレビに目を向けると沖縄の高校が試合をしていた。「ハイサイおじさん」だった。指笛も聞こえた。
 新潟の魚沼から枝豆が届いたのでそれを茹でてもらって食べた。うまい。

8月12日(金)

 神保町でこの連載の打ち合わせ。特にコロナの世界に突入してからは「ちょっと誰かに話したいことがある」とか「ここらで生ビールをいっちょう飲みたいな」というタイミングでこの打ち合わせを入れてくれるので、うまく生活の句読点として機能してくれている実感だ。
 会議室でカフェラテを飲みながら90分くらい話をして、そのあとは中華料理屋かビアホールという黄金コースだ。今日は中華。シュウマイがうまかった。
 20代前半だろうか、人生最初の失踪先は箱根で、それが『ハマボウフウの花や風』の原風景だったという話をしたら、取材チームで箱根のそのあたりに行こうという話になる。現代の箱根で失踪ができるとは考えにくいが秋の温泉麦酒旅となれば何も反論はない。

8月13日(土)

 台風8号(メアリー)が上陸してきて、気流が悪い。

8月16日(火)

 テレビをつけていたらアニメを見かけることが多くなったと思う。『鬼滅の刃』なんてぼくのようなじいさんでも知っているから、コンテンツとしてはどれも漫画からアニメという本流を通っている最近だ。
 それでもぼくはSFについて考えたり書いたりするのは好きなので、ある意味では別の世界と割り切るほかない。まだSFでも時間をテーマにするものは書けていないので、それを死ぬまでに書けるかどうか。でも難しいんだなあ、時間をまたぐのは。

8月20日(土)

 雑魚釣り隊のカメラマン内海くんが自宅にピンポンといきなりやってきた。彼の地元は松戸で、名産の梨を届けてくれたのだ。しばらく会わないうちに精悍な顔つきになった気がする。「筋トレやってるんです」と言っていた。

8月23日(火)

 神山恭昭(こうやまやすあき)さんという面白い天才ゲージュツ家がいる。松山在住の絵日記作家で、身の回りのことを描いた『わしの新聞』『わしの研究』(ともに創風社出版)といった全編手描きの著書がある。全容は分からないが他にも絵を描いたり粘土をこねたり木工したりとなんだか松山を中心に怪しい動きをしているみたいだ。
 その人の密着ドキュメンタリー取材の一環らしく、ぼくに会いたいとテレビカメラを2台引き連れて新宿までやってきた。改めて会ってみると、情報化社会だSNSだと自己主張が氾濫している現代で、あれだけ謙虚で自意識が破綻している人もいないだろうと感じた。自分がいかにダメな人間か、無駄な活動をしているかをこんこんと話していた。
 しかし彼の観察眼と切り口はとことん鋭くオリジナルだった。生ビールを飲みながら1時間くらい話をするつもりだったが、気づけば3時間が経っていた。ビールとハイボールだけ。つまみもほとんどとらなかったが、いい酒だった。
 神山さんの作品に最初に触れたのは、オール手書きの『わしの新聞』という一冊だった。うまいんだかへたなんだかわからない手書きの文字と絵。でも果てしなく味がある。その味はなんとも言えないペーソスというものだろうか。もともと絵心のある達者な書き手であるということがよくわかる。
 そういえばぼくも若い頃「月刊おれの足」というガリ版刷りのオール手書きの小冊子を作ったことがある。なにか果てしない共感を神山さんに感じるのだった。神山さんの『わしの新聞』の絵がなんだかどこかで見た感じがあるなあと思っていたが、それがなんだかわからないでいたが、今回神山さんに初めてお目にかかってそのことを聞いた。すると、あれはわしじゃあなく、実はアラン・ドロンなんですよ、と思いがけないことを言った。そういえば小舟の操舵輪に手をかけてこちらを見ている所作が、映画『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを確かにほうふつとさせる。まあ顔はアラン・ドロンではなく神山さんなのだけれど、映画のポスターでひときわ目立っていた胸のロザリオが、神山さんの絵の神山さん本人になると成田山のお守りになっていた。そのあたりのセンスあるおとぼけ具合がたまらなくうれしい。
 この神山さんの作品をなんとか世間にもっと見せたい、広めたいという思いがあって、近頃独立し、出版プロデューサーの道を歩み始めた宍戸健司さんに紹介することにした。

8月28日(日)

 瀬戸内海の大三島(おおみしま)へ。島の図書館が開館20周年ということで「海や島」にまつわる話をするという依頼だった。早朝の飛行機で松山へ。
 飛行場に向かう間や機内ではまだ頭が働いていなかったが、松山空港から島へ向かう途中、今治の市街を抜けたあたりからいたるところが海という景色になると徐々に覚醒してきた。空が広い。90分くらい話をして、会場の向かいにある食堂でひるめし。
 ビールを飲むがぼくが頼んだ魚の定食より、事務所スタッフのWさんが頼んだ海老フライのほうが明らかに美味しそうだった。日帰りで帰るが東京はもう涼しかった。

8月29日(月)

 新宿「池林房」で生ビールを飲もうと出かけたら定休日だった。何十年も通っているのに定休日を知らなかった。急遽、系列店の「犀門」へ。
 その途中、週刊誌から国葬についてコメントをしてくれという依頼があったがお断りしてやっと冷え冷えの生ビールにありつけた。
 雑魚釣り隊の竹田もやってきて「人間ドッグを受けたんですが、表現に気を使わないといけない昨今、医者は『太ってますね。肥満ですね』と言わず『ふくよか』って繰り返すんです。何回も言われてなんか傷つきました」とよく分からない逆上の仕方をしていた。まあ飲めよと乾杯する。

8月30日(火)

 また池林房へ。大手出版社を退職して自身で編集プロダクションのようなものをやりたいという旧知の編集者、つまり宍戸君と生ビールを飲む。ツマミは刺身類を中心にあれこれつまんだ。世の中では出版不況というけれど、宍戸のような人がいれば面白い物語や読み物や記事はまだまだたくさん出現するのだろうなと期待がふくらんだ。

●この月の主な出来事

8月1日
◆北海道厚沢部(あっさぶ)町で町民が作った重さ279キロの巨大コロッケがギネス世界記録認定。じゃがいものメークイン発祥の地で。材料はメークイン250キロ、ひき肉と玉ねぎ各40キロ、卵200個など。
◆厚労省小委員会が最低賃金(時給)を961円とする目安を決定。急激な物価高を重視して過去最大の31円引き上げ。
◆核不拡散条約(NPT)再検討会議が米ニューヨークで開幕。岸田文雄首相は日本の首相として初めて出席して演説し、「核兵器のない世界」に向けた5つの行動指針「ヒロシマ・アクション・プラン」を打ち出した。

8月2日
◆政府系の「全ロシア世論調査センター」が発表した18歳以上1600人のロシア人の電話調査によると、35%が「太陽が地球のまわりを回っている」、21%が「初期の人類は恐竜と同時代に生きていた」と回答したという。

8月3日
◆東北・北陸地方で大雨特別警報。最上川は氾濫危険水域を超える。

8月5日
◆プロ野球ヤクルトの球団マスコット「つば九郎」が5日、「主催2000試合出場公式記者会見」を開いた。初披露から29年目。
◆米アマゾンがロボット掃除機「ルンバ」で知られるアイロボット社を17億ドル(約2300億円)で買収すると発表。

8月6日
◆広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式が開催。被爆者や遺族、岸田首相ら2854人が出席。9日には、長崎市の平和公園で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開かれ、約1600人が出席した。
◆第104回全国高校野球選手権大会が、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕。3年ぶりに一般の観客を入れて開催した。

8月7日
◆第20回「世界コスプレサミット2022」最終日、名古屋市の大須観音商店街を10カ国以上から集まったコスプレイヤーたちがパレード。気温33.9度のなか、「鬼滅の刃」や「ONE PIECE」などのコスプレ姿の参加者は汗だく。
◆南米チリ北部の銅山近くに、巨大な穴が出現。1週間で直径50メートル、深さ200メートルに広がり続けているが詳しい原因は不明。フランスの凱旋門を4つ積み上げてもすっぽり入る大きさ、とロイター通信が発表。

8月8日
◆アニメ「ルパン三世」次元大介役などで知られる声優の小林清志(きよし)さんが7月30日に死去と発表。享年89。
◆北海道長万部町の神社の敷地内の山林で突然、温泉が噴出。一時は高さ30~40メートルに及ぶ。「コロナ禍を洗い流してほしい」と宮司。

8月9日
◆米大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平が、1シーズンで「2桁勝利、2桁本塁打」を達成。ベーブ・ルース以来104年ぶりの快挙となった。
◆総務省は、住民基本台帳に基づく2022年1月1日現在の日本人の総人口を公表した。前年比61万9140人(0.50%)減の1億2322万3561人で、13年連続の減少。減少幅は過去最大。
◆ファッションデザイナーの三宅一生さんが、5日に死去したと発表。文化勲章受章者で世界的に活躍した。享年84。

8月10日
◆北九州市旦過市場で大規模火災発生。4月に続き2度目。
◆第2次岸田改造内閣が発足。松野博一官房長官、鈴木俊一財務相、林芳正外務相らの重要閣僚を留任させたほか、高市早苗氏を経済安全保障相に、河野太郎氏をデジタル相で入閣させた。

8月12日
◆「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の友好団体「天宙平和連合」(UPF)が、韓国で開催した「世界の平和」などをテーマにするイベントで安倍元首相を追悼。

8月15日
◆全国戦没者追悼式に天皇、皇后両陛下や岸田首相、遺族ら約1000人が参列。新型コロナウイルス感染拡大を受けて、3年連続で規模を縮小しての開催。

8月17日
◆東京五輪・パラリンピック大会のスポンサーだった紳士服大手AOKIホールディングス側から5100万円の賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部は、大会組織委員会の元理事・高橋治之容疑者を受託収賄容疑で逮捕。AOKI側からは、前会長の青木拡憲容疑者ら3人を贈賄容疑で逮捕した。

8月18日
◆ファッションデザイナーの森英恵さんが11日に死去と発表。享年96。日本人として初めてパリ・オートクチュール組合の会員となり、1996年に文化勲章を受章するなど世界で活躍した。

8月21日
◆岸田首相が新型コロナに感染。27日からチュニジアで開催されるアフリカ開発会議に出席するための外遊は中止へ。

8月22日
◆愛知県内の名古屋高速道路小牧線で、大型バスが分離帯に衝突、横転して炎上した。運転手1人を含む2人が死亡したほか、男性7人が軽傷で病院に搬送された。
◆夏の全国高校野球で、宮城の仙台育英高校が山口の下関国際高校を8対1でくだし、東北勢としては、春夏通して初となる優勝を決めた。

8月23日
◆新型コロナの国内死者が新たに343人確認され、過去最多を更新した。

8月24日
◆岸田首相がオンライン記者会見で新型コロナウイルス感染者の全数把握見直しを発表。リモートワークの準備は1カ月前ほどから進めていたというが、機密情報漏洩防止などの観点から暗号化した回線を22日に新たに設置するなどのドタバタや、大型ディスプレイに映る首相を番記者が取り囲むというとぼけた光景がSNS上で話題に。

8月26日
◆政府は、故安倍晋三元首相の国葬を行う費用として、今年度予算の一般予備費から2億4940万円を支出することを閣議決定した。国葬は9月27日に日本武道館(東京都千代田区)で行う。

8月30日
◆2011年3月の東京電力福島第1原発事故で全住民の避難が続いていた福島県双葉町で、帰還困難区域のうち特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示が解除された。11年5カ月ぶりに居住が可能となり、居住人ゼロの被災自治体が解消された。
◆京セラとKDDIを創業し、経営破綻した日本航空の再建にも尽力した実業家の稲盛和夫さんが、24日に死去と発表。享年90歳。
◆ロシアのゴルバチョフ元大統領が死去。東西冷戦を終結に導きノーベル平和賞受賞。享年91。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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