失踪願望。失踪願望。

第21回

初夢、訃報、オムマニペメフム

更新日:2023/06/28

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1月1日(日)

 あけましておめでとうございます。そうやって妻と娘と言い合えるのは嬉しいことだ。娘はニューヨークに住んでいるので日本のお正月はめずらしい。一枝さんがささやかなおせち料理を用意してくれたのでみんなで囲む。栗きんとん、黒豆、エビという伝統的な具材は華やかでうまい。お屠蘇としてシャンパンを飲みお雑煮も食べた。

1月2日(月)

 初夢はゴーカ3本立てだったのだが、その真ん中の1本は何かよく分からない生き物と対峙する戦闘ものだった。興奮して手足を振り回したのだろう。ベッドから落下し、顔面を強打してしまう。バカだなあ。額と鼻の下の2カ所から出血していたが、そのまま初夢の3本目に突入してしまった。朝、血塗(ちまみ)れで起きてくるぼくに家族は驚いていた。
 幸い傷は浅く、血は既に止まっていたが、なんだか大変な一年になりそうだ。天気はよく上々の元日だったのだが、好事魔多し。

1月4日(水)

 葉がいるあいだ、昼間は原稿を書き夕方からワインで晩酌という幸せなリズムがうまれつつある。昨夜はレタスしゃぶしゃぶ。今日はコロッケ。明日はネギグラタンと牛肉のすき煮だという。葉が買ってきてくれたバローロという名前の赤ワインを「うまいじゃねえかバーロー」と言いながら飲む。
 毎晩、夕飯後には「明日はなにを食べたいか」という会議が厳かに開かれ、一枝さんと葉は楽しそうだ。なんだか食べることばっかり話している気がする。時々、映画も観る。

1月7日(土)

 天気のいい中、千葉へ向かう。新年明けて初めての外界だ。「ぼくの幕張物語」というテーマの講演だったので、「幕張メッセは嫌いだ」とか「千葉の護岸工事はアホだ」とか、好き勝手に話していたけれど大丈夫だったろうか。
 せっかくなので帰りに懐かしの小岩で新年会をやりましょう、ということになりこの「失踪願望。」の連載チームも来てくれた。かつて仲間たちと暮らしていた中川放水路のあたりをグルグル歩く。
 五〇年ほど前に仲間ら4人と共同生活していた。江戸川区のくたびれたアパートの一室である。その跡地を探しに行った。激しく変転している東京の下町である。見つかるかどうか見当もつかなかった。結局わからなかった。当然ながら風景がまるっきり変わってしまったのと、住んでいた当時のその痕跡を示すメモや写真などがまったくなかったからだろう、と思った。
 町は変わってしまったけれど川は残っていた。新中川放水路である。
 夕暮れちかい川の風景は土手にコンクリートの護岸がほどこされていて様相を変えていたけれど、川幅や流れのイキオイはむかしと変わらなかった。
 当時一緒に暮らしていた木村晋介、沢野ひとし、高橋コロッケ君などと一緒によく来た川はちゃんと同じところを流れていた。
 川をわたる鉄道の引き込み線は五〇年の時をへても、まったく変わらなかったのが泣きたくなるくらいやるせない「むかしのまんまの風景」だった。
 世の中を何もかも暴力的に変えていってしまった昭和も令和も流れる川面を変えることはできなかったのだ。もう使っていないらしい鉄橋の「ナナメぐあい」もまったく変わりなかった。
 ぼくたちはそのむかし、夜中にその鉄橋の橋脚の上で安酒を飲み、茶碗を叩いて歌をうたっていたものだ。
 その頃住んでいた安アパート。克美荘の部屋で酒なしの夕食が終わって、なんだかひどくむなしかったので、
「酒飲むなー酒飲むなーのーご意見なれどおー、さのヨイヨイ!」
 などと4人で合唱していたらやっぱり飲みたくなってしまって、みんなでなけなしの金を出しあってその頃もっぱら飲んでいた合成酒を買い、夜中の宴会のためにその橋にやってきたのだった。線路を伝っていって枕木のあいだから川のうえの橋桁(げた)の上に降りていき橋脚上のちょっとした〝宴会場〟を目座す、という乱暴な作戦だった。
 わざわざそこまでやってきたのは、アパートの部屋で宴会をしているとトナリ近所の部屋から「しずかにしちょれ!」などと怒られることがよくあったからだ。
 橋脚の上でクルマ座になって茶碗叩いて歌っても聞いているのはナマズぐらいのものだったからもう怒られはしなかったけれど、あるとき夜間パトロールの警官に見つかってしまった。でもその警官はイキな奴だったのか、あるいは臆病だったのか、懐中電灯をふりまわすだけで、ぼくたちが宴会をしている橋の上にまではやってこなかった。
 なぜ橋までは進入してこなかったのか、管轄が国鉄の所有する土地や施設だからかもしれないなと、ジワジワと記憶を取り戻しながら考えた。正確には中川放水路橋梁という、総武線の貨物支線らしい。「ああ、あの景色だな。間違いなくここにいたんだ」と思いながら、写真をパチリと撮る。
 この橋脚上の宴会風景は、ぼくのあたまのなかでは、いしいひさいちと、つげ義春のマンガを合わせたような情景になっている。

1月9日(月)

 毎日新聞の夕刊に載ったインタビュー記事を読んだ。
 インタビューを受けるのはあまり好きではない。新聞や雑誌など媒体の知名度や大きさとは関係なく、不勉強な人が来ることもあるし、最初から結論ありきで質問してくる記者も多いからなあ。
 昔はそういうことがあるといちいち怒ったりしていたし、逆にカッコつけた回答をしていたこともあった。やはり年齢的なものなのだろうか、いつの間にか取り繕ったり感情を出したりするのも面倒になってきた。だから最近は聞かれたことに簡潔に答えるだけだ。
 しかし、この日の上東麻子さんという記者は最初に挨拶をしただけで「頭のいい人なんだろうな」と分かる物腰と雰囲気の人で、インタビューを受けているというより黒ビールを飲みながら雑談を重ねて意見交換をしているうちに時間が経っていつの間にやら記事が出ているという稀なケースだった。

1月12日(木)

 朝から机に向かう。集中して原稿を書きたい時に「オムマニペメフム」(Om Mani Padme Hum)という宗教歌を繰り返し聴く。これは簡単にいうとチベット仏教による祈りの定番フレーズで、日本でいう「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」みたいなものだ。チベットを旅する時にずっと聴いていた。宗教的なメッセージもいろいろあるのだろうけれど、今はもう忘れてしまった。単純にリズムと音階が好きでこれを聞いていると原稿がすすむような気がする。気がするだけだが。
 その「オムマニペメフム」のCDが見当たらないので捜索隊(といってもぼく1人)が果敢に家中を這いまわっていると、葉が「YouTubeにあるんじゃない?」と即座に検索してくれてすぐ見つけてくれた。
 しかしぼくにはそんなものは使いこなせない。すると今度は孫の風太がやってきて「ワンタッチで聴けるようにするよ」とぼくのスマホをいじって、あっという間にトップ画面(というらしい)にオムマニペメフムが登場した。風太はすごいタイミングと早技(ハヤワザ)だった。風車の弥七のようだ。
 オムマニペメフムを聞き、時々、口ずさみながら「世界のくしゃみについて」という新聞用の新年最初のエッセイを書いた。

1月14日(土)

 なかなか原稿が捗らなかったが、夕飯に見るからにうまそうなマグロの中トロ刺身が出たのでいい日だった。

1月15日(日)

 高橋幸宏さんの訃報が届く。単純にとても悲しくて寂しい。
 彼はぼくの映画の音楽をずっと担当してくれていた。映画は音楽で良し悪しが決まってしまうようなところもあり、名作にはセットで名曲がある。幸宏さんもそのあたりを良く分かっていたように思う。『ガクの冒険』で犬のガクが走るシーンなどは、音楽が重なると躍動感が倍増するような素晴らしい作品を作ってくれた。彼の代名詞的な音のひとつであるシンセサイザーを知ったのもこの時だ。
 どの場面でも全体のトーンだけ簡潔に伝えると、当意即妙であっという間に脚本の邪魔をしない効果的な音楽をつけてくれた。だからぼくらの打ち合わせはいつも周囲が驚くくらい短かった。
『あひるのうたがきこえてくるよ。』では福島の山間のロケ地に「打ち合わせがある」と来てもらって、祭りのシーンの露天商のエキストラをしてもらったのは傑作な思い出だ。彼はずっと「絶対に嫌だ」と不機嫌そうにしていて、その態度がとても面白かったので「そのままでいいから」と伝えたら、機嫌の悪い妙なお面屋としてそのまま銀幕デビューを果たしてしまった。「椎名さん、ひでえよ」と言いながらも最後は笑っていた。
 彼は繊細な純文学のような人だった。いつもモノ静かで、じっとうつむいて喋っているようなところがあった。ぼくの映画にいつもいい音楽を作ってくれた。その音楽を聞くと映画の映像にユキヒロさんのおもかげが脳裏にはしり、つくづくやるせなくなる。
 いろんなコトがぼくと彼は対照的だったけれどひとつだけ一致していたのは当時互いに乗っているクルマだった。スウェーデン製のサーブだった。さしたる高級車ではなかったが、ドアを閉めるときの重厚な音がいい、このクルマ以外、世界のどこにもない! と我々の意見は激しく一致していた。

1月16日(月)

 小雨模様。午後から調布に向かい「マンガ家・つげ義春と調布」展を見学する。
 原画はもちろん、縁の深い調布の地図などが興味深く、じっくりと時間をかけて見て回った。改めて展示を見ると、つげさん描く貧しさと日常、そして漫画だと「コマ間」というのだろうか、そこに潜む狂気や侘しさというのが感じられて、やはり唯一無二の作家だなあと感じる。
 つげ義春さんの作品を「ジャンル」として的確にいいあらわす語句はないのだろうか。
「マンガ」としてくくってしまうのはあまりに軽すぎるし、劇画というのでは通俗的すぎてちょっと違うような気がする。
 絵物語、というのもなあ。私小説というジャンルの絵画版というのはありきたりだろう。やはりキメ手が見つからない。
 つげ作品を見ていると、自分にもこうした奥のある、でも映画みたいにどこかが常に効果的に動いているような「話」を絵に描ければなあ、と羨ましく思うことがある。望む光景を撮れない映画の監督のようなもどかしい気分だ。
 つげさんのエッセイに一時期中古カメラの買い取りや販売をしていた話があった。その日の展示にもつげさんのコレクションのカメラが少し出ていた。本当はもっと沢山の種類があったんだろうと思ったが残念。
 ぼくの自宅の近所に小さな中古カメラ屋ができた。日曜日などゲタをカラコロさせて散歩がてら覗きにいくのにちょうどいい。
 四十代ぐらいのいかにも「カメラ小僧」っぽい人がレンズを磨きながら店番していた。昼から夕刻ぐらいまでの営業らしい。キヤノン、ニコン、ライカのむかしの人気カメラが並んでいた。ぼくの持っているものでいちばんカネメのものはライカマウントのレンズ「ノクチルクス」だった。1本で100万円はするらしい。まったく文無しになったら売りにだす候補が決まった。
 とてもいい展覧会だった。素朴な構成だが無料というのもえらいですな調布市などと皆で言い合いながら新宿へ向かい、犀門でハマチの刺身を肴に黒ビールを飲む。

1月19日(木)

 目黒考二が死んでしまった。とてつもないショックで呆然とするだけでなにもできない。
 夕方からの新潮社との打ち合わせは中止にしてもらった。何か本を読もうとしたが、うまく読めない。

1月20日(金)

 いきなり微熱が出た。世が世だし、小伝馬町のギャラリー「ルーニィ」で予定されていたハービー・山口さんとのトークイベントを欠席させてもらう。先方には迷惑をかけてしまったので、電話を会場とつないで少しだけ話をした。何を話したか覚えていない。身体にうまく力が入らない。

1月22日(日)

 植村賞の選考会で九段会館へ。
 この「植村直己冒険賞」は27回目を数えて、知名度も上がってきたようだ。それ自体はいいことなのだが弊害のようなものもある。情報ばかりが溢れる現代において未知や未踏というものが減っていき、あるいはそこに辿りつく手段や目的が商業的だったりするのだ。
 わかりやすくいうと金の出どころだ。いくら8000m級の登頂であっても道具が発達しルートも研究され何十人ものアシスト隊がいる環境下で、果たしてそれを冒険と捉えていいのだろうか。どんな冒険でも費用はかかるが過剰な場合は、審査が難しい。コロンブスやマゼランだって王室がスポンサーだったわけだしなあ。
 そういう意味では今回、受賞した野村良太さんの「北海道分水嶺積雪期単独縦断」は着眼点からして、うまく意表をついた。北海道という身近で偉大な土地の掘り起こしにも一役買うだろう。
 冒険賞の構造を見直す時期かもしれない。野村さんの受賞が良いきっかけになるかもしれない。

1月25日(水)

 目黒の訃報を本の雑誌が発表して大きなニュースになったらしい。ぼくは本の雑誌と自分の事務所に「取材やコメントは受けたくない」と連絡していたので、静かだった。追悼原稿なんて書きたくない。

1月27日(金)

 明日から1泊で伊豆方面に行くのでテレビで天気予報を確認する。23区内を含め首都圏に降雪の可能性があるらしく、新橋や新宿から中継していた。もっともアホらしいのはわざわざ八王子まで行って「まだ雨ですが、夜中から雪に変わるかもしれません!」と悪天ほど嬉しそうに騒ぐTVの人々だ。誰に対する情報なのだバカめと言いながらビールを飲んで寝る。

1月28日(土)

 東京駅から「こだま」に乗って三島へ。車内に偶然、舞の海秀平さんがいた。
「いつも青汁、飲んでますよ」とか言いたかったが、飲んでないので話しかけなかった。1時間もしないで三島に到着。舞の海さんも降りていた。
 明日、井上靖さんの命日にあわせて「あすなろ忌」という会が伊豆市で行われるのでそれに招かれたわけだが、なぜかこの連載を担当する編集武田とライター竹田のダブルタケダがついてきた。
「富士の名水で育ったうなぎを食べましょう」と武田。「伊豆の玄関口、沼津にはいいビアパブがあるのです」と竹田。それぞれ好き勝手言っている。
 このダブルタケダの失踪チーム(この連載の取材班)はこうして何かにつけて東西南北に帯同してくれる。基本的にはありがたいのだが、作家(ぼくのこと)をとっとと失踪させたいのか、本格的に失踪されると困るので見張っているのか、あるいはただ酒が飲みたいだけなのか、まだ判然としないから油断できない。
 きっぱりと晴れた空と太平洋。風が強い。海辺の千本浜公園というところで海を少し見てから、墓参りに行った。東海道線の線路近くに菩提寺があり、けっこうな名刹らしい。昔は近くに来た時に寄っていたのだが、車を手放してから足が遠のいていた。
 久しぶりなのでちと迷ったが無事に墓前までたどりつき手を合わせた。
 たいしたことはしてないのだが、なにか晴れやかな気持ちになるので墓参りは不思議だ。「ともかくマグロとビール!」と沼津港に移動する。なんせ朝から何も食べてない。
 丸天という有名店でまぐろ三昧という素晴らしいメニューを食べた。ビールもガシガシ飲む。竹田はマグロの卵を醤油や砂糖などで煮付けた珍味「こす煮」というものを気に入って「これは日本酒ですなあ」と嬉しそうだ。
 マグロをたいらげて、ビールも2杯空けたところで編集のタケダさんが「もうちょっと何か食べましょうか」と聞く。ライタータケダは「おれはサケ、切り替えます」と地酒を選んでいる。ぼくは「まぐろ三昧がいいな」と宣言した。
「え、またマグロ食うんすか」とライタータケダ。
「本当に好きですねえ」と編集タケダ。
「じいちゃん、マグロはさっき食べたでしょ」の世界だ。しかしぼくは食べた。うまかった。マグロの血合いステーキといういかにもうまそうなものは品切れだったので、また来ますと言って出てきた。
 三島駅そばのホテルに荷物を置いてからもうちょっと打合せましょうとホテルのビル内に入っている居酒屋へ。またマグロを食べたかったが、驚かれそうだったので最近、三島の名物だというコロッケをつまみながら焼酎の梅干し割りをちびちび。うまかったのだが、なぜかいまひとつ酔えないし、部屋に入っても眠れない気がしたのでそれをダブルタケダに伝えると、即座に3軒目に行こうと意見が一致した。
 店構えだけで決めた「大しま」という居酒屋に飛び込む。地域に愛されていそうないい店だった。閉店間際で簡単なものを肴にしておのおの好きなものを飲んだ。3軒ハシゴなんて何年ぶりだろう。

1月29日(日)

 レンタカーで伊豆半島を南下し、伊豆市へ。快晴。
 あすなろ忌講演会「井上靖と椎名誠のあやしいつながり」は14時からだが、渋滞が怖いので早めに出発したら昼前に着いてしまった。あまった時間で浄蓮の滝に行く。「天城越え」では何度も聞いている耳馴染みのある場所だが、実際に行くのは初めてだ。
 竹田が「どうにも爛(ただ)れた歌詞ですが、その秘密は滝壺にありそうだ。ちょっと行って確かめてきます」とフットワーク良く滝壺までの階段を降りていった。ぼくはバカめとレンタカーの中で昼寝していた。爛れた夢を見るかなと思ったが見なかった。しかし、あのようなフテイな男女関係の話は恥ずかしくってぼくには書けないだろうな。
 昼寝から起きて目の前の蕎麦屋で昼飯。生ビールも飲んで準備万端で会場の天城会館へ。
 ぼくの講演の前に井上先生の曾孫さんによるピアノ演奏などがあり、会場は終始なごやかな空気だった。いきなり謎のオババが控え室まで突入して来て、餅をくれたりした。また違う男性には初島周辺で獲れたという大ぶりのサザエを沢山差し入れてもらった。
 今は多くても月に1~2回程度になっているが、かつては講演やサイン会などがたくさんあって、ぼくはわりあい気軽に引き受けていた。以前は一人でじゃんじゃん行動していたが、いまはこのウェブサイトの連載チームができているので単独行動ということはなく、いつもさしたる問題はない。
 日本はセキュリティが甘い、とよく言われるが呑気にかまえていた。でも状況によっては楽屋とか控え室までやってくる熱心なヒトもいる。ありがたいことではあるけれど困ることもある。
 伊豆では講演直前まで沢山の人が来ていたのでつい準備し忘れてしまい、講演の途中でトイレ(小のほう)にいきたくなり、ことわって中座して用足しにいってきた。我慢していると何を話しているかわからなくなりそうだったのだ。
 たった2~3分だったけれど戻ってきたら沢山の拍手。トイレが終わっての拍手なんて人生初めてのことだった。少しトクイになった。バカですね。歳も歳だし、これからはもっと自己管理に気をつけないと。
 帰りの道中でサザエをなじみの新宿の居酒屋に送り、三島の街でうなぎを食べビールを空け、ハイボールを片手に新幹線で東京に戻る。心地よく疲れた。

●この月の主なできごと

1月ニュース

1月1日
◇北朝鮮が日本海に向けて短距離弾道ミサイルを発射。

1月3日
◇渋谷区のサイトに障害。国際的ハッカー集団「アノニマス」によるサイバー攻撃とみられると区が発表。公園再開発をめぐるホームレス排除問題等に抗議か。
◇第99回箱根駅伝で駒澤大学が2年ぶり8度目の総合優勝。大学駅伝3冠は史上5校目。
◇映画監督の龍村仁さんが死去。ドキュメンタリー映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』シリーズで知られる。享年82。

1月5日
◇大阪・道頓堀に関西弁で話す「IoTゴミ箱」が設置され、実証実験がスタート。インターネットに接続しソーラーパネルを搭載。ごみを入れると「協力おおきに」と音声が流れる。

1月10日
◇在日中国大使館が日本人と韓国人へのビザ発給を停止。日韓による新型コロナウイルスの水際対策強化への対抗策とみられる。
◇第81期将棋名人戦・C級1組順位戦の9回戦で、日浦市郎八段がマスク着用をめぐり反則負け。日浦八段はいわゆる「鼻マスク」への再三の注意に応じず。
◇ギタリストのジェフ・ベックさんが死去。享年78。

1月13日
◇9日から欧米5カ国外遊に出ていた岸田首相がワシントンで米・バイデン大統領と会談。

1月15日
◇ミュージシャンの高橋幸宏さんが1月11日に誤嚥性肺炎で死去と発表。享年70。

1月16日
◇30年にわたり逃亡を続けていたイタリア・マフィアの〝大物〟マッテオ・メッシーナ・デナーロ容疑者を逮捕と発表。60歳。
◇イタリアの俳優ジーナ・ロロブリジーダさんが死去。代表作に『夜ごとの美女』など。享年95。

1月17日
◇阪神・淡路大震災から28年。各地で追悼行事が執り行われた。
◇中国の2022年末時点の総人口は14億1175万人で、21年末から85万人減ったことが明らかになった。人口減は1961年以来、61年ぶり。
◇作家で精神科医の加賀乙彦さんが1月12日に死去と発表。享年93。

1月18日
◇福島第1原発事故で強制起訴された東京電力の旧経営陣3人に対して、二審の東京高裁も無罪判決。

1月19日
◇第168回芥川賞に井戸川射子さん「この世の喜びよ」(「群像」7月号)と佐藤厚志さん「荒地の家族」(「新潮」12月号)の2作、直木賞に小川哲さんの『地図と拳』(集英社)、千早茜さん『しろがねの葉』(新潮社)が選ばれ、両賞ともにダブル受賞となった。

1月21日
◇米カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のダンススタジオで銃乱射事件があり10人(のちに11人)が死亡。72歳容疑者は自殺したとみられる。現場はアジア系住民の多いエリアで春節で賑わっていた。

1月22日
◇車いすテニス選手の国枝慎吾が自身のツイッターで引退を発表。昨年7月、ウィンブルドン選手権シングルスで初優勝し四大大会すべてとパラリンピックを制する「生涯ゴールデンスラム」を達成し、世界ランク1位のままの引退となる。21年のパラリンピックでは日本選手団主将を担い、通算4つめの金メダルを獲得している。
◇相続人不在により国庫に入った遺産総額は647億459万円、過去最高を記録した前年度比から7.8%増とわかった。「おひとり様」の増加や不動産価格上昇に伴い。

1月25日
◇日本列島は、この冬一番の強い寒気に見舞われ、積雪のため各地で車や列車が立ち往生するなど、混乱が続いた。
◇カナダ出身のミュージシャン、ジャスティン・ビーバーさんが自身の楽曲の権利を英国のベンチャー企業に売却。売却額は2億ドル(約260億円相当)超と推察されている。

1月27日
◇岸田首相は新型コロナウイルスの感染症法上の分類を季節性インフルエンザと同等の「5類」に引き下げることを決定。5月8日実施予定。

1月31日
◇長野県小谷村のスキー場のゲレンデ外で発生した雪崩事故で、死亡した2人のうちの1人は、米出身の元世界選手権(ハーフパイプ)王者のカイル・スメインさん(31)と分かった。

Ⓒ 撮影/内海裕之

著者プロフィール

椎名 誠(しいな まこと)

1944年東京生まれ、千葉育ち。東京写真大学中退。流通業界誌編集長時代のビジネス書を皮切りに、本格デビュー作となったエッセイ『さらば国分寺書店のオババ』(’79)、『岳物語』(’85)『犬の系譜』(’88/吉川英治文学新人賞)といった私小説、『アド・バード』(’90/日本SF大賞)を核としたSF作品、『わしらは怪しい探険隊』(’80)を起点とする釣りキャンプ焚き火エッセイまでジャンル無用の執筆生活を続けている。著書多数。小社近著に『遺言未満、』。

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