『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』
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第3回
国境の小さな運び屋たち
更新日:2026/03/04
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時差ボケで寝つけず、やっとウトウトとしかけたら、
「アッラ―――フ アクバアアアアール(神は偉大なり)」
と、近くのモスクの尖塔から大音量で礼拝を呼びかけるアザーンが響きわたり、私はベッドから飛び起きた。枕元の目覚まし時計は6時を指していた。ペシャワールのユニバーシティタウンのゲストハウスの部屋は20平米ほどの広さだった。ビーチサンダルを突っかけ、板張りの床を歩いて洗面所に向かった。
白い洗面台に動かなくなった蚊がポツポツと落ちていた。
「ニッポンの蚊取り線香は効くなぁ」とつぶやいた。蚊はマラリアを媒介するので要注意だ。ビニールのカーテンをめくってシャワーの下に立ち、湯の赤い栓をひねったが、水しか出てこない。諦めて水を浴びると、身体がシャキッとした。
2023年3月30日朝8時30分、荷物をまとめ、身支度を整えて中庭に出た。まもなく、PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス)支援室長の藤田千代子さんがスーツケースを引きながら現れた。
今日は、標高350メートルのペシャワールから「GTロード(Grand Trunk Road=大幹道)」を西へ50キロ余り車で走り、標高1070メートルのカイバル峠を通って、トルハムの国境を越える。GTロードは、東はバングラデシュから西はアフガニスタンまでを結ぶ、全長2500キロメートルを超えるアジアで最古かつ最長の幹線道路だ。16世紀、アフガン系王朝のシェール・シャーが整備したことから別名、「王の道」ともいう。
ちなみにパキスタンは旧宗主国イギリスの影響で車は左側通行だが、アフガニスタンに入ると右側通行に変わる。
国境の検問所を抜ければ、PMSジャララバード事務所長で、中村哲さんの右腕だった医師、ジア・ウル・ラフマンさんが迎えに来てくれているはずだ。
ゲストハウスの鉄の門扉が開き、トヨタの白いハイエースが1台、ゆっくりと入ってきて、私たちの目の前で停まった。車の助手席から水色のシャルワルカミーズにこげ茶のベストを着た背の高いハンサムな男性が降りてきた。
「こちら案内人のワシンさん。危険な地域に地縁、血縁があるから、もしもトラブルに巻き込まれても解決に向けて動いてくれます。外国人だけで国境を越えるのは危険ですからね」
と藤田さんから紹介された。私はワシンさんと握手をして、ハイエースに乗った。
もともとアフガニスタンとパキスタンの国境地帯にはイラン系民族のパシュトゥン人が暮らしていた。しかし19世紀末、インドを植民地支配するイギリスがロシアの南下を防ごうと山脈伝いに国境(デュランド・ライン)を設けたためにパシュトゥン人は両国に分断された。パキスタン側の国境沿いのパシュトゥン人の居住地域は、中央政府の支配が及ばないトライバルエリア(連邦直轄部族地域)とされ、武装勢力の温床となった。つまり、この地域の紛争はイギリスによる国境の線引きに起因している。アフガニスタンの歴代政権は国境を正式には認めていない。
2018年にパキスタン政府は、トライバルエリアを、隣接するカイバル・パクトゥンクワ州(旧称・北西辺境州、2010年に改称)に統合したが、治安は悪く、テロが頻発していた。
ゲストハウスを発った車は、住宅街を抜け、GTロードに合流した。広い道路は、片側3車線の6車線で、分離帯を挟んだ中央2車線はバス専用のレーンになっている。車の流れに乗ってしばらく進むと、右手に見渡す限り石と砂の荒れ地が広がった。
「カチャガレイの難民キャンプの跡です。1990年代から2000年代の初めには、20万人ともいわれるアフガン難民が、ここの土の家やテントで暮らしていました。よくここに巡回診療に来ましたよ。2007年に閉鎖されて、難民はアフガンに帰されたり、ほかのキャンプに移されたりしたけど、あの人たち、どうなったのかなぁ……。こっち側も見てください」
と前のシートに座る藤田さんは語り、左の車窓を指さした。
すらりと伸びたユーカリの街路樹が並び、木々の間から塀をめぐらせた大きなお屋敷が見え隠れする。「高級住宅街です」と藤田さん。道一本挟んで、天国と地獄が隣り合わせになっている。
進むにつれて道路は、片側1車線の2車線に狭まり、車は大きな石組みのゲートをくぐった。雑貨やナンを売る小さな露店が道路の両側にびっしりと並ぶ。あちこちに黒い自動小銃を肩から下げた男が立っている。藤田さんが、「ここはジャン・バザール。この先から旧トライバルエリアに入ります」と教えてくれた。
車が川を越えて山懐に入ると道は上り坂に変わる。つづら折れの道路を、身体を右に左に揺られて上っていく。右手の丘の上に赤みを帯びた石積みの城壁が長く、まっすぐ延びていた。車窓にへばりついてビデオを回していると、助手席のカシンさんが後ろを向いて、
「シャゲーカラ(シャゲー要塞)」と言い、軍事施設だからカメラを伏せろと身振りで示した。
シャゲーカラは、イギリス軍が1927年にアフガン軍の侵攻や、トライバルエリアのパシュトゥン人の反乱を抑えるために築いた砦だ。シャゲーは、パシュトゥ語で「荒れ地」の意だという。現在はパキスタン陸軍が指揮するハイバル・ライフル隊が駐屯している。
谷が狭まるにつれて、左右に褐色のゴツゴツした岩山が迫ってきた。右の断崖の下に錆びた線路が延びている。イギリスが建設したカイバル峠鉄道の残址(ざんし)だ。1925年に開通した鉄道は、1980年代の初めまで、ペシャワールとカイバル峠の頂を結んでいたが、治安と採算の悪化で運行は止まった。その後、蒸気機関車の観光列車が走り、世界じゅうの鉄道ファンの人気を集めたが、近年は洪水で線路が流され、廃線になったという。
突然、右手の高台に丸い椀をふせたような仏塔、ソファラ・ストゥーパが出現し、私は目を見開いた。これは紀元2~5世紀に築造されたガンダーラの遺跡だ。
いまは、世界遺産級のストゥーパの横にパキスタン軍の施設が立ち、高台の直下には、盛り土を大雨で流された線路が、ぶらんと空中に垂れ下がっている。カイバル峠への道の両側には、英国統治期の砦や鉄道、現代の軍事施設、古いモスクなどが入れ代わり立ち代わり現れる。時代が幾層にも重なり、シャッフルされているようだ。
高台の紀元2~5世紀に建立されたストゥーパ。その横にパキスタン軍の施設が立ち、高台の真下には、20世紀前半にイギリスが敷いたカイバル峠鉄道の線路が垂れ下がる。(2023年3月30日 著者撮影)
あまりにシュールな眺めなので、思わず写真に撮った。
カイバル峠の最高地点にもっとも近い街、ランディ・コタルを通過すると、道路は下りに転じ、道幅が広がった。左の路肩の待機スペースに大型トラックが連なったまま、ほとんど動いていない。その横を、鶏を積んだ軽トラが軽業師のようにすり抜けていく。
渋滞が生じているのは、トルハムの国境検問所に近づいたからだ。通関手続きに時間がかかるので渋滞が起きる。ボディに簡体字が描かれたトラックがやたらと多い。中国の「一帯一路」政策の影響だろうか。中国から陸路、あるいは海路でパキスタンに届いた建設資材などをアフガニスタン方面に運んでいるようだ。
坂道を一気に下り、国境の町、トルハムに着いた。
道路の脇の地面がむきだしの広場は、雨上がりで泥濘(ぬかるみ)が広がっていた。車が広場のまんなかで停まると、台車を押すポーターが一斉に群がってきた。私たちは車を降り、後ろのハッチバックを開けた。瞬く間にポーターたちはスーツケースを台車に載せ、勝手にイミグレーションへと歩きだす。ワシンさんは止めようともしない。ここでの荷物運びは黙認されているのだろう。
平屋のイミグレーションには海水浴場の監視台に似た「見晴台」が付設されている。人と荷物の山が、雲霞(うんか)のごとくイミグレーションに押し寄せていて、どこが入り口かわからない。ガタイのいいワシンさんに導かれ、人だかりをかき分けて、鉄柵の端っこの幅1メートルぐらいのすき間から身をよじらせてなかに入った。
泥だらけの通路を歩き、出国審査所にたどり着く。胸の高さに受付の窓口が並んでいる。その一つで、若い男の係官にパスポートを見せた。係官は忙しそうな素振りで、席を外した。いつまでたっても戻ってこない。
トルハムのイミグレーションの周りには人と荷物が群れ集まり、「ENTRY」の表示はあるが、どこが入り口か判然としない。案内人に導かれ、鉄柵のわずかのすき間から身をよじってなかに入った。(2023年3月30日 著者撮影)
「中村先生がここを通って、ペシャワールとジャララバードを行き来していたころは、イミグレものんびりしていました。建物はコンクリートの箱みたいで、机に向かう係官が、ノートに出国者の旅券番号や必要事項を書いて、パスポートにスタンプを押してOK。係官の背後には、ノートがうずたかく積まれていました。審査所からアフガニスタン側の迎えの人の顔が見えましてね。おーいと手を振って合図できた。数年前、中国の支援でイミグレの建物が増築されて、昔の面影はなくなりましたね」と藤田さん。
1時間ちかく待たされて、やっと係官が席についた。私の顔を見るや否や、ここを見ろとカウンターに置かれた小さなスタンドの先のレンズを指さした。
何だろうとぼんやりレンズを眺めていると、ヨシ、と出国書類とパスポートを返された。顔認証だったのだ。ローテク台車のポーター集団とのギャップに頭がくらくらする。
カシンさんと別れ、出国者でごった返す通路を、アフガン側へと歩いていく。
何度もエックス線検査機に荷物を通される。パソコンを入れたリュックが検査機を通ると、担当員はそれを前へ放り投げた。勘弁してくれよ、とブツブツ言って、リュックを拾う。
そんな私の脇を、6、7歳の少女が、体の半分ぐらいありそうな白い袋を担ぎ、重さに負けまいと懸命に体を前に倒して通路をどんどん先へ進んでいった。大丈夫か……。その子だけではなかった。汚れた服を着た子どもたちが、歪んだ鉄柵のすき間や、鉄の網の下に掘った穴を通って侵入し、袋に詰まった肉や粉をせっせと運ぶ。国境の管理者も見て見ぬふりだ。ときどき「早くいけ」と尻を蹴とばす。トルハム名物の小さな密輸者たち。わずかな日銭を稼ぐために運び屋をしなくては生きていけない子どもたちである。
仰々しい出入国審査がなかったころから小さな運び屋は生きるために荷を担いでいた。
トルハムの国境を、食べ物や雑貨が詰まった袋を担いで行き来する子どもたち。小さな運び屋が手にする日銭は、日本円でせいぜい数百円だという。(2023年3月30日 著者撮影)
「以前は、パキスタン側から戦乱がつづくアフガン側への荷運びがほとんどでした。でも、アメリカ軍が撤退し、タリバン政権が治安を回復してからは、アフガン側からパキスタン側へ運ぶ量がどっと増えました。国境の向こうはナンガルハル州、中村先生が用水路を建設した州です。農地が回復して、小麦やレモン、玉ねぎ、トマト……いろんな作物ができるようになったでしょ。それも運ばれているのではないかと、ドクター・ジアは言っています」
と藤田さんが語る。国境の長い通路を抜け、私たちはアフガン側のトルハムに出た。
そこには中村さんの最側近だったジアさんが、笑みをたたえて待っていた。
- 著者プロフィール
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山岡淳一郎(やまおか・じゅんいちろう)
1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。愛媛県立松山東高卒、早稲田大学第二文学部中退。出版関連会社、ライター集団を経て独立。沖縄のボクサーの世界制覇を、興行権の争奪に密着して描いた『ボクサー回流』(文藝春秋)を皮切りに「人と時代」を共通テーマに政治、医療、建築、近現代史と分野を超えて旺盛に執筆。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(以上、草思社文庫)、『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)、『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、『コロナ戦記 医療現場と政治の700日』(岩波書店)ほか多数。一般社団法人デモクラシータイムス同人。











