中村哲を求めて 取材旅4万2000キロ

第1回

哲の仁、ペシャワールへ

更新日:2026/02/18

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 それは新型コロナウイルスが猛威をふるっていた2021年5月のことだった。

 大阪市では、感染者が急増して病床が足りず、多くの患者が入院を拒まれ、自宅待機を強いられていた。市は感染者の自宅療養の実態をつかもうと調査をした。

 愛知県から調査に参加した40代の男性救急医は、担当した木造住宅の玄関扉を開け、息をのんだ。高齢の女性が、ベッドに寝たわり、「痛い、痛い」とうめいていた。「医者に見捨てられた。うちら人間と思われてないんや」と涙を流す。救急医が脈をとると、心拍数は一分間に130回を超えた。のちに救急医は私の取材にこう語った。

「患者さんは、三日三晩、水も飲めていないと言うんです。脱水で、身体がカラカラ。心臓が拍動を増やして血流を保っているけど、筋肉の痛みが激しく、放置したら急性腎不全を発症して、命が危なくなる。一刻も早く、細胞外液の点滴をしなくてはなりませんでした」

 しかし、調査で訪れた救急医は、大阪市から規則を盾に診察を認められていなかった。必要な薬も医療器具もなく、丸腰だった。そこから「点滴」を求めて近隣の医療機関に電話をかけまくるが、「コロナ感染者は診ません」とけんもほろろに断られる。21世紀の日本の大阪に出現した“医療砂漠”で、点滴という「生命の水」を求めて走りまわった。伝手をたどって、やっと点滴を手に入れ、女性は間一髪で助かったという。

 コロナ禍の取材中、このような医師に見放された“医療難民”に、私はたびたび出会った。

 開業医が中心の医師会は、自らの診療体制を守ろうと発熱患者を遠ざけていた。当時の日本医師会会長は「感染拡大を抑える基本は各人の意識と行動だ」と国民に自粛を強く呼びかけながら自分は政治家のパーティに出席し、混みあう高級すし店で親しい女性と会食している姿を報じられ、世間の顰蹙を買った。

 病院は病院で、コロナ患者を入院させると約束して、多額の補助金を受け取りながら、患者を診ず、病床は空いたまま。いわゆる「幽霊病床」が問題視された。感染症ムラと呼ばれた専門家と厚生労働省の医系・薬系技官たちのグループは、政策を左右する会議の議事録もつくらず、データを独占した。閉鎖的なムラは既得権のかたまりだった。

 その一方で、埼玉県羽生市の羽生総合病院のように敷地内に80床のコロナ専用病棟を自前で建て、軽症者から人工呼吸器やエクモ(体外式膜型人工肺)が必要な重症の患者まで受け入れて、「救急患者を断らない」体制を必死に維持した病院もある。

 医は仁術といい、医療者には高い職業倫理が求められる。仁とは、人が二人で会い、親しく心を通わせ、慈しみ、思いやる心だという。だが、コロナの大流行のさなか、この国で露呈したのは医療界の中枢のモラルハザードだった。

 いったい医師とは何者か。生命を救う医療とは何か……くり返し、心のなかで問うていると、ずっと気になっていた一人の医師の顔が浮かんだ。中村哲さんだ。

 中村さんは、1946年9月15日、福岡市で生まれた。父は元共産党の活動家で、母は若松(現・福岡県北九州市若松区)で沖仲仕を束ねた組の親方、玉井金五郎の娘。伯父は、ベストセラー作家の火野葦平である。火野は戦中に『麦と兵隊』で国民的人気を博し、戦後は父・金五郎と母・マンを主人公に『花と龍』を書いた。


高塔山から眺めた北九州市若松区。中村哲さんは幼いころ、この街で育った。当時、巨大な運河のような洞海湾には石炭船がひしめき合い、「若松港にゃ 帆柱立つよ 主の情けの 帆が上がる」と沖仲仕たちの労働歌が響いていた。中村さんの原風景だ。(2024年2月15日 筆者撮影)

 幼少期を玉井一族が暮らす若松で過ごした哲少年は、15歳でキリスト教バプテスト派の洗礼を受ける。福岡県立福岡高校から九州大学医学部に進み、学園紛争の嵐のなかで反戦運動にのめり込んで検挙されるも完全黙秘を貫いた。

 1973年に九大医学部を卒業し、国立肥前療養所(現・国立病院機構肥前精神医療センター)で精神科の研修を受けた。その後、大牟田労災病院(現・大牟田天領病院)に移る。戦後最大の労働災害といわれる三井三池炭鉱事故に巻き込まれ、一酸化炭素中毒の重い後遺症に苦しむ患者たちを診た。

 人生の転機は、1978年、パキスタンのヒンズークシュ山脈の最高峰、ティリチミールへの遠征隊に医師として帯同したことだった。これを機に中村さんはパキスタンの北西辺境の無医地域で診療に携わる機会を求め、84年、妻子を連れてペシャワールの病院に赴いた。ハンセン病の患者を診ながら、戦乱がつづく隣国のアフガニスタンから大量の難民が流れ込む現実に直面すると、戦火をくぐってアフガニスタンに越境。山岳部に診療所を開いた。その行動は、医療の根源へとさかのぼっているようだった。

 2000年、アフガニスタンを未曽有の旱魃(かんばつ)が襲う。飲み水がなくなり、大勢の子どもたちが命を落とした。「病気は後で治せる。ともかく生きのびておれ!」(『医者 井戸を掘る』)と中村さんは井戸を掘った。1000本以上の井戸を掘削したが、井戸は次々と涸れる。

 白衣を脱ぎ捨てた中村さんは、日本人のワーカーや、現地のエンジニア、農民らと用水路を建設し、クナール川から荒地に水を引いた。岩と砂ばかりの沙漠を緑野に変え、農場を開く。用水路の建設で、じつに90万人以上の人びとの生命が救われたという。

 こうした事実を、中村さんの著書やドキュメンタリー映画、さまざまな報道や資料をとおして知っていた。こんな傑物は他にいない。医師のスケールを超えた医師だ。いつか本人に会って、何があなたを突き動かしているのか、とインタビューをしようと思っていた。

 じつは、二度、会えそうなチャンスがあった。最初は、2002年7月26日、長野県のJA長野厚生連佐久総合病院が設けた地域医療の功績者を讃える賞を中村さんが受賞し、表彰式に出席したときだった。当時、私は、別件で佐久病院を取材しており、式典後に知人の医師に中村さんを紹介してもらうつもりだった。しかし、私が佐久病院に着いたときには講演を終えた中村さんはアフガニスタンの現地のことを気にかけてか早々に辞去していた。一分、一秒を惜しんで動いておられた。

 その次は、2019年6月26日、雑誌の人物ルポの関連取材で、新潟県の国立病院機構さいがた医療センターの院長特任補佐(当時)村上優医師を訪ねたときだった。同センターは、精神疾患や神経難病、依存症の治療機関として知られており、村上医師には主に薬物依存にかかわる話を聞いた。2時間ちかい取材が済んだ後、村上医師から「こんな活動もしています」とペシャワール会の会長の名刺をもらった。

 私は驚き、「あ、あのペシャワール会の……」と思わず、口走った。

 ペシャワール会は、中村さんのパキスタン赴任以来、一貫して彼の活動を支えてきたNGOである。「次は、ぜひ、中村先生とペシャワール会について取材をさせてください」と図々しく頼むと、「彼は、かなり忙しいですからね。事務局にご連絡を」と村上医師は答えた。

 中村さんとの距離がぐっと縮まった気がした。

 だが、しかし……その5か月余り後の19年12月4日の朝、アフガニスタンで、中村さんは車で移動中に何者かに襲撃され、亡くなった。享年73。もう二度と会えないのか、と私は深い喪失感を抱え込んだ。

 しかし、コロナ禍で医療界の指導者たちのモラルの崩壊を目の当たりにして、あらためて中村哲を描きたいと思った。22年2月18日、ペシャワール会の村上優会長(当時)に宛てて、正式に取材を申し込む手紙と、自己紹介を兼ねて3冊の拙著(『ゴッドドクター 徳田虎雄』『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『ドキュメント 感染症利権』)同封して送った。

 ひと月後の3月16日、私は、初めて福岡市中央区のペシャワール会事務局を訪ね、村上会長らと面談し、取材がスタートした。中村さんとゆかりのあった人を訪ねて、東京-福岡間を8回往復し、大牟田や朝倉、古賀、北九州の若松、糸島、鹿児島と足を延ばす。中村さんと行動をともにした人たちは、全国に散っている。高知、岡山、京都、西宮、静岡……取材は国内にとどまらず、全土に渡航禁止と退避勧告が出ているアフガニスタンにも私は赴いた。会った人の数は100人に達し、取材で移動した距離は4万2000キロ以上に及んだ。

 そうして、書き上げた『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』が、2月26日に発刊される運びとなった。このコラム連載では、長かった取材行を思い返しつつ、自分で撮った写真を添えて心に残った場面を書きとめていきたい。


UAE(アラブ首長国連邦)の多国籍都市ドバイ。ダウンタウンには東南アジアやインド、中東諸国から働きに来た人たちが行き交う。服装は洋装が中心で、南アジアで親しまれているシャルワルカミーズを着た人は少なかった。(2023年3月28日 筆者撮影)

 取材の旅は、ラマダン(断食月)への戸惑いとともにはじまった。

 2023年3月29日午前4時40分、ドバイ空港を飛び立ったパキスタン国際航空機は、超高層ビル群を見下ろしながら、北東の暗い空へと機首を向けた。146人乗りの機内は、座席が半分ほどしか埋まっていなかった。

 1時間余り飛んで、東の空にオレンジ色の光がさすと、通路を挟んで私の隣に座っていた体格のいい男性がシートに正座し、やや後方に向き直り、両手を耳のあたりまで挙げて何やら唱えだした。聖地メッカに向かって祈りを捧げている。しばらくして上体を前に倒した。

 ちょうどラマダンの時期だった。

 女性のキャビンクルーがカートを押して通路を進んできた。紫のユニフォームに緑のスカーフを巻いた彼女は、隣の男性には目もくれず、コーラと堅いパン、ヨーグルトとオレンジが載ったトレーを私に差しだした。隣の男性は、これから日が沈むまで一切の飲食を断つ。

 異教徒の私は、朝食を味わう余裕もなく、急いで胃袋に入れた。

 雲は厚く、どこでパキスタンの領空に入ったのか、わからなかった。いきなり機体が降下し、灰色の雲を突き抜けると、茶褐色の大地が窓いっぱいに広がった。土を固めた家が岩山に点々とへばりつき、その麓に並木の緑と乾いた砂地が入り組んだ街が横たわっている。

 ペシャワールだ。機はゆっくりと旋回し、高度を下げていった。


パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)の州都ペシャワール。旧市街の自動車修理工場が並ぶ通りを車とバイクが入り乱れて走る。スズキの看板が目立つ。ドバイから飛行機でわずか3時間ほどの近さだが、ほとんどの人がシャルワルカミーズを着ている。(2023年3月29日 筆者撮影)

 

著者プロフィール

山岡淳一郎(やまおか・じゅんいちろう)

1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。愛媛県立松山東高卒、早稲田大学第二文学部中退。出版関連会社、ライター集団を経て独立。沖縄のボクサーの世界制覇を、興行権の争奪に密着して描いた『ボクサー回流』(文藝春秋)を皮切りに「人と時代」を共通テーマに政治、医療、建築、近現代史と分野を超えて旺盛に執筆。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(以上、草思社文庫)、『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)、『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、『コロナ戦記 医療現場と政治の700日』(岩波書店)ほか多数。一般社団法人デモクラシータイムス同人。

『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』
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