『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』
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第2回
机のなか
更新日:2026/02/25
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ドバイを発ったパキスタン航空機は、2023年3月29日午前9時、予定より30分以上遅れてペシャワールのバシャ・カーン国際空港に着陸した。滑走路が少し濡れている。雨が降ったようだ。「地上の気温は摂氏30度です」と機内アナウンスで知らされた。
中村哲さんと出会って自らの生き方を変え、医療や灌漑の事業を受け継いだ現地の人びとに会うために、私は東京からドバイ経由でやってきた。取材の旅の始まりだ。パキスタンへの入国審査と通関を終えて進むと、到着ロビーはタクシーの客引きや出迎えの人たちでごった返していた。
その人混みをかき分けるようにして、頭に白い円筒形の帽子、トピを被った男性が近づいてきた。南アジアの民族衣装のシャルワルカミーズに濃いグレーのベストを着て、頬から顎、高い鼻の下まで真っ白な髭をびっしりと生やしている。
私の前を歩く、ペシャワール会のPMS支援室長・藤田千代子さんは、男性と向き合うと、
「アッサラーム アライクム(こんにちは:逐語訳で、『あなたがたの上に平安がありますように』)」と声をかけた。私も同じように挨拶をした。
「ワ アライクム アッサラーム(『あなたの上にも平和がありますように』)」と男性は答えた。彼の名はイクラムラ・カーン。藤田さんとのつきあいは、かれこれ四半世紀に及ぶ。 -
そもそも看護師だった藤田さんが、この地、ペシャワールでハンセン病の診療をしていた中村哲医師のもとにワーカーとして飛び込んだのは1990年。当時、中村さんは、キリスト教系のミッション病院のハンセン病棟で患者を診ていたが、のちに独立する。98年に福岡に事務局を置くペシャワール会と連携して、ミッション病院から6キロ離れたところに「PMS(ペシャワール会・メディカル・サービス)病院」(70床)を建設し、活動の拠点とした。
翌99年、PMS病院は新聞に事務職の求人広告を出す。それを見て応募し、事務長に就いたのが、当時、50歳だったイクラムラさんだ。
ペシャワールで生まれたイクラムラさんは、17歳でパキスタン陸軍に入隊した。42歳のときに腹部に銃弾を受けて負傷し、43歳で「少佐(major)」の階級で退役する。その後、さまざまな職を経て、PMS病院の事務長に収まり、日本人スタッフからは「メジャーさん」の愛称で親しまれたが、これがただの病院ではなかった。
院長の中村さんは、2000年に隣国アフガニスタンが大旱魃(だいかんばつ)に襲われると、井戸の掘削事業を始めた。01年、国際テロ組織のアルカイダが「9.11米国同時多発テロ」を起こし、アメリカが報復のアフガン空爆を開始すると、「アメリカが爆弾の雨を降らせるなら、われわれは食料を配ろう」と決死のプロジェクトを敢行する。
連日、ペシャワールからトラック隊に小麦粉と食料油を満載し、カイバル峠を越えてアフガンに送った。27万人が一冬を越せる量の食べ物を運んだ。さらに中村さんはクナール川から用水路に水を引き、沙漠を緑野に変える灌漑事業に乗りだす。
08年、中村さんは灌漑事業に注力し、事業の拠点をペシャワールからアフガニスタン東部の要衝、ジャララバードに移したため、PMS病院の施設はイクラムラさんに譲渡された。
イクラムラさんは施設を看護師や検査技師などを養成する「インターナショナル・カレッジ・オブ・ヘルス・サイエンス(ICHS)」に転換し、現在に至っている。
イクラムラさんに空港の外の駐車場に案内され、私たちは彼のグレーのセダンに乗った。
「では、アフガニスタン領事館に参りますか」
イクラムラさんが、ゆっくりと英語で話してくれた。英語が苦手な私にも聴き取れた。
領事館に行くのは、私のアフガニスタン入国のビザを取るためだった。日本では、外務省がアフガン全土に退避勧告を出しており、ビザの取得は事実上、不可能だった。
イクラムラさんと藤田さんを私用につきあわせるのは心苦しかったが、入国ビザが取れるかどうかは、私にとって、のるかそるかの問題だった。藤田さんはすでにビザを持っており、明日、カイバル峠を越え、国境を通ってアフガンに入る。彼女に同行するには、今日中にビザを取得しなくてはならない。もしも取れなかったら日本へUターン。いったい、おまえは何をしに来たのか、ということになる。相手はタリバン暫定政府の領事館員だ。何かでトラブったときのために現地の言葉が話せる藤田さんにもご一緒いただいた。
道路は混んでいた。極彩色に飾り立てたバスや、乗用車、バイクが入り乱れて走る。建設中の高速道路が、まるで巨大なナイフで切り落とされたかのように断面をさらしていた。
ペシャワールの街を行き交う極彩色に飾り立てたバス。パキスタンのバスやトラックの運転手は車両を「動く芸術」ととらえ、新婦に見立てて華やかに彩り、愛情を示しているのだそうだ。(2023年3月29日 著者撮影) -
「アメリカが2021年8月にアフガニスタンから撤退すると、戦争景気で潤っていたパキスタンは、あっという間に不況に陥りました。高速道路の建設も中止です。インフレが凄いんです。この1年でナンの原料の全粒粉の小麦粉は、20キロ袋入りで900ルピー(1ルピー=0.5円/450円)から2800ルピー(1400円)に上がった。失業者が街にあふれています。あの店先のトマト、2週間ぐらい前は1キロ40ルピーでしたが、いまは160ルビーですよ」
と、ハンドルを握るイクラムラさんがこぼした。
閑静な官庁街に入り、車の量が減った。ブロックごとに高い塀をめぐらせた敷地に政府機関が入っているらしい。路肩に車を停め、藤田さんと私は車外に出て、アフガニスタン領事館へ歩いて行った。
小さな遮断機が下りている入り口で、いかつい門衛に来意を告げると、遮断機が手で上げられ、どうぞと招き入れられた。女性の入り口は別だという。藤田さんは100メートルほど離れた、もう一つの入り口に回った。
私は、警備員の詰め所の前を通り、順路に沿って赤い花を咲かせたブーゲンビリアや、小さな白い花をつけたオレンジの木が植えられた庭園の横を歩く。季節は春から夏へと移ろうとしている。ビザを発給する建物の前で靴を脱ぎ、なかに入った。天井は高く、20畳ほどの広さはある。真っ黒な髭を顔じゅうに生やして黒いターバンを巻いたタリバンの職員が、紫檀の机に向かい、机上に並べたパスポートに音を立ててスタンプを押している。正面の壁には、白地に黒のアラビア文字で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と描いた旗が掲げてあった。
壁際の長椅子に私は腰を下ろした。「これに記入してください」と職員がビザの申請フォームを持ってくる。名前、国籍、出生地、誕生年月……とボールペンで記入していると、頭からすっぽりと濃緑色のブルカを被った女性が部屋に入ってきて、私の横に座った。
「入口でこれを着るようにって」女性は小声で言った。藤田さんだった。
「前は見えますか?」思わず、私は訊ねた。
「網目になっているので、視界はちょっと狭いけど、前はよく見えますよ。ただ……」
と藤田さんは鼻先あたりの生地を指でつまんで、そっと顔から引き離し、「臭いの」と洩らした。領事館に訪れた何人もの女性が、そのブルカを着用したのだろう。
書き終えた申請フォームを、自分のパスポートと一緒に職員に手渡した。15分ほど待たっただろうか、とくに問題もなく、パスポートに滞在期限30日の短期ビザが添付されて戻ってきた。ビザの取得料は、100米ドル(1ドル=132円)。
これでアフガニスタンに入れる! 私は心のなかで手を叩いた。
領事館を辞去し、イクラムラさんの車に戻り、インターナショナル・カレッジ・オブ・ヘルス・スサイエンス(ICHS)へと向かった。そこは中村哲の片影を探す旅のなかで、なにがあっても立ち寄りたい場所の一つだった。濁った水が流れる運河の横を走っていた車は、ゆっくり右に曲がり、ICHSの敷地に滑り込んで停まった。かつて中村さんが本拠地にしていたPMS病院はここだったのか、と思わずアーチが連なる壁面を見上げた。
インターナショナル・カレッジ・オブ・ヘルス・サイエンス(ICHS)の中庭。ここで毎朝、中村院長は朝礼を開いていた。五角形の星は、イスラム教徒が守るべき5行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)を象徴している。(2023年3月29日 著者撮影)
中村さんは、ここから四輪駆動車で何日もかけてパキスタン最北端の氷河が迫る村に出かけて野天で診療をし、何万人ものアフガン難民が集まるキャンプに巡回診療に出かけた。そして、カイバル峠を越えて、ジャララバードへ頻繁に出向き、井戸の掘削や、用水路建設の指揮を執った。
私は、二階建ての建物の西側の玄関に回り、なかに歩み入った。
広い廊下の床と左右の壁の胸の高さまで、大理石のタイルが張り詰められている。空気はひんやりと冷たい。廊下を進んで右に折れると、手術室があった。
茶色の手術台が置かれ、天井から円形の大きな無影灯がぶら下がっている。中村さんが診たハンセン病の症例では、知覚が麻痺したために手や足に負った傷から細菌が入っても気づかず、骨髄炎に至るケースもあった。傷の手術は日常茶飯で、ときには骨髄炎が悪化して手や足の切断をせざるを得なかった。藤田さんが、手術室を見渡しながら言った。
「中村先生は、小さな傷の手術なら1日に5例ぐらい執刀していました。切断や、皮膚の移植などの大きな手術は1日1例でしたね。患者さんの太ももやお腹の皮膚をとって、手や足に移植する手術も多かった。2003年からアフガンで用水路の建設が始まりましたが、工事と並行して、月に何度か往復して、ここで手術をされていましたよ」
手術室を出て、イクラムラさんに導かれ、中村さんが使っていた部屋に案内された。壁に漆喰が塗られ、窓には紅のブラインドが下ろされている。
イクラムラさんは、中村さんの机は往時のままだと言い、引き出しを開けた。
写真のスライドや、フィルムのケース、名刺、タコの目カッターの替え刃、なぜか生け花に使う小さな剣山も入っていた。
「こらこら。人の引き出しのなかを、無断で覗いたらいかんよ」
扉を開けて、働き盛りの中村さんが笑みを浮かべながら部屋に入ってくるような気がした。イクラムラさんは語る。
「ドクター・ナカムラは、ボスではなく、友人、兄弟のように接してくれました。彼はキリスト教徒で、わたしがイスラム教徒でも何の問題もなかった。重要な会議中も、必ず、そろそろお祈りの時間ではありませんか、と気を使ってくれた。5分ほど中座して、わたしは祈り、また会議をつづけたものです」
中村さんの部屋を出て、階段を上ると「Dr.TETSU NAKAMURA MEMORIAL LIBRARY」とプレートがかかった部屋で、数人の若い男女が本を読みふけっていた。(次回につづく)
中村さんが使っていた机の引き出しのなか。20年ちかい歳月が過ぎても、イクラムラさんは中村さんの机を往時のまま保存していた。(2023年3月29日 著者撮影)
- 著者プロフィール
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山岡淳一郎(やまおか・じゅんいちろう)
1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。愛媛県立松山東高卒、早稲田大学第二文学部中退。出版関連会社、ライター集団を経て独立。沖縄のボクサーの世界制覇を、興行権の争奪に密着して描いた『ボクサー回流』(文藝春秋)を皮切りに「人と時代」を共通テーマに政治、医療、建築、近現代史と分野を超えて旺盛に執筆。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(以上、草思社文庫)、『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)、『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、『コロナ戦記 医療現場と政治の700日』(岩波書店)ほか多数。一般社団法人デモクラシータイムス同人。











