知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

馬の帝国 星野博美

第17回  「トルコ行(4)」

【後編】

更新日:2021/10/06

カッパドキアでお世話になった牧場の室内。壁には、馬の絵や様々な服飾品が。©星野博美

 トルコとギリシャの間で起きた壮絶な対立に心を暗くしながらも、出発だ。
 頭絡(とうらく ※1)を鎖から外し、鐙(あぶみ)に左足をかけ、一人で白毛の牡馬シャンにまたがる。台に乗らず、自分でまたがれる、とてもよいサイズ感だ。先導するインストラクターのジェリルと、馬のガゼルのサイズ感もぴったり。その土地に暮らす人と、馬のサイズが合っていることは、その地に馬文化が根づいている指標とも言える。
 サラブレッドがいかに巨大で、不自然に脚が長いかを思った。サラブレッドは体高が高すぎて、台なしではまたがれない。自分がふだん、いかに不自然極まりない形態で馬に乗っているかを痛感する。
 東京近郊の狭い馬場で、競走馬の血を引いたサラブレッドに乗る、それはもう、ありえないほど不自然なことだ。
 アラブ馬の血が入ったアナトリアの在来馬が私は気に入った。寒冷な気候に耐えるため、毛がもふもふしているところが、また愛らしい。
 ふだんから、シャンのような馬に乗れたらなあ。
 思わずそんな溜息をつくが、それもまたエゴだとわかっていた。
 シャンは、カッパドキアの仔だ。私がシャンのような仔にふだん乗りたいなら、それは日本の在来馬であるべきだし、しかもそんな暮らしが可能である場所へ移らなければならない。しかし日本がとうの昔に馬との暮らしを棄て去り、在来馬が絶滅の危機に瀕している現状では、それは不可能な夢に近かった。

走らないで

馬にまたがっていると、その体温で暖かいが冬のカッパドキアの冷え込みは厳しい。©星野博美

 そんなことを考えながら歩くと、ところどころに廃墟となった洞窟住居が見える。ここにもギリシャ系住民がいたのだろうかと、また暗い歴史に引き戻される。きのこのような形をした、通称「妖精の煙突岩」が見えてきた。その前の広場には、観光客用のヒトコブラクダが寂しそうに座っている。
「ここはパシャバー。夏だったら観光客がたくさん来るが、いまは誰もいないね。ここで昼食休憩をとるよ」
 もしかして今日は、ただ馬に乗るだけでなく、馬に乗って名所を回ってくれているのか。そこそこ広い範囲に名所や谷が点在するカッパドキアは、馬で回るのにちょうどよいサイズなのだ。
 見慣れた人が手を振っているのが見えた。イルファンだ。私たちが昼頃にここへ到達することを見越し、車で先回りしてくれたらしい。
「君たちが昼食をとる間、馬もごはんの時間だ」とイルファンは言って2頭の馬を木にくくりつけ、車で運んできたバケツに水を入れて飲ませ、やはり持ってきた牧草を食べさせた。人任せにせず、かいがいしく馬の世話をするその様子に、彼が自分の馬を本当に大切にしていることが伝わってきた。
「シャンはいい仔だったかい? 怖い思いはしなかったかい?」
「とてもいい仔。本当にかわいい」
「そう言うとわかっていたよ」とイルファンは言いながら、シャンに頬ずりをした。その関係性の深さに、私は軽く嫉妬した。
 簡単な昼食をとったあと、私たちはイルファンと別れて馬で出発した。
 冬のカッパドキアは夕暮れが早い。馬に乗っていると、馬の体温が下半身に伝わるため、歩いている時よりも暖かさを感じることができるが、気温はかなり下がっていることが自分の背中の冷たさから感じられた。
 昼まではとてもおとなしかった先導馬のガゼルが、イルファンと別れたあと、なぜだか荒れ始め、ジェリルが時折、制御するのに手こずっているのが見てとれた。突然横歩きを始めたり、走り出しそうになったりするのを、必死に手綱で止めている。一度は抑えきれずにガゼルが突然走り出し、少し行ったところでようやくUターンして戻ってきた。
 自動車の通らない、灯りも何もない山道なので、日が完全に落ちるまでに牧場に帰らなければならない。ガゼルは、そろそろ家に帰りたくてしょうがないのかもしれない。イルファンの顔を見たことで、里心がついてしまったようだ。
 自然の中で馬が何に驚き、脅えるか、予測がつかない。エンデュランス(※2)の試合に出ていたジェリルでさえ、ふだん乗り慣れない馬だと制御できないことがあるのだ。シャンが影響されて走り出さないよう、ガゼルと少し距離をおき、手綱を握る力を強めた。幸いシャンは非常におとなしく、巻きこまれることなく落ち着いて歩いてくれた。
 山から谷に降りると突然風景が開け、平らな並木道に出た。
「僕が暮らすトレーラーハウスはあのへんだよ」とジェリルが指さす。ということは、ギョレメの谷に戻ってきたということだ。一匹の黒い犬が走ってきて、馬にじゃれ始めたので緊張し、硬くなる。
「大丈夫、僕がお世話になっている牧場の犬だ。馬たちと友達だ。迎えに来てくれたんだね」
 ジェリルにそう言われて安心し、いつもの癖で「チッチッチ」と犬に向かって舌鼓(ぜっこ)をしてしまった。あ、舌鼓をしてはいけないんだった、と思い出すより早く、それを発進の合図と理解したシャンが、「承知しました!」とばかりに駆け出した。ヤバい、いまは疾走したい気分じゃない。それに体が冷えきり、相当硬くなっている。この硬さで落馬したら、絶対にケガをする。お願いだから止まってくれ、と祈りながら足を前に思いきり踏んばり、やっとのことで常歩(なみあし)に戻した。
「大事なのは馬を止めること」の意味がよくわかり、冷や汗が出た。
 かつて、あれほど走りたくてたまらなかった自分が、理性でそれを抑えるとは、少しは成長したものだ。
 ちょうど日が暮れかけた頃、私たちはイルファンの牧場に戻った。馬から下りるとタオルで馬の体を拭き、冷えないよう分厚い毛布をかける。ガゼルとシャンは、家に戻った嬉しさからか、毛布をまとったまま馬場の中をしばし走り回って喜びを爆発させた。

再び、馬とともに山道へ

インストラクターのメーメットは幼少の頃からこの地で馬に乗ってきたという。©星野博美

 この日の乗馬に味をしめ、翌日もまた馬に乗せてもらいたいと、イルファンには依頼していた。しかし翌朝早くに連絡があり、寒空の下で一日外乗したジェリルが風邪をひき、寝こんでしまったという。野外を馬で疾走することには慣れているジェリルだが、6時間近く常歩で歩くことには慣れておらず、体が冷えきったのだろう。申し訳ないことをした。
 しかし私も諦めきれない。結局イルファンが近くの大きな牧場に頼み、そこの馬に乗せてもらうことになった。歩くルートは、イルファンが急遽考え、午前中に下見をしてくれた。人にガイドを頼むにせよ、下見をして安全を確認しない限りは馬に乗せないのが、イルファンの職業倫理だった。そのあたりの入念さと責任感の強さが、彼が信頼される所以(ゆえん)なのだろう。
 この日先導してくれた若いインストラクター、メーメットは、ギョレメ生まれの、しかも牧場育ちで、歩けるようになった頃から馬に乗っていたそうだ。始終観光客を馬に乗せる、専業の乗馬ガイド。英語はあまり話せないので寡黙だが、馬の扱いにはさすが慣れている。私が乗せてもらったのはスルタンという立派な名前の、金色のたてがみを持った茶毛の馬だった。昨日の夕方、私たちを迎えてくれた黒い犬がついてきて、道中私たちのお供をしてくれた。メーメットの犬だったのだ。

きつい傾斜を登りそこね、少し落ち込み気味のスルタン。©星野博美

 この日は前日とうって変わってよく晴れ、青空が広がっていた。ギョレメの谷からいきなり山道を登り始め、道なき道を歩く。ギョレメの谷では雪はさほど積もっていなかったが、標高が上がるにつれ雪が深くなっていった。これが平原ならさほど怖くないのだが、勾配のキツイ雪の山道は滑りやすく、怖いことこのうえない。スタスタと登っていくメーメットと愛馬に必死でくらいついていくものの、次第に2頭の距離があいていった。
 すごい勾配が目の前に出現した。メーメットは愛馬にまたがったまま難なくひとっ飛びし、黒犬もそれに続いて登っていく。そして上から、同じようにジャンプしてこい、と私に手招きする。「Impossible!」と叫んで助けを求めるが、「You can do it!」と言ってほほえむばかり。腹をくくって登るしかない。スルタンの腹を圧迫して推進の扶助(指示)を出したものの、私の前傾姿勢が足りずに重心が後ろに残っていたため、スルタンは足を滑らせて登りきれず、坂を滑り落ちた。もちろん私も落馬。しかし雪がクッションとなり、どこも痛くはない。むしろ、スルタンにケガをさせたのではないかと心配になった。またがったまま登るのは不可能と判断して、スルタンを先に単独で登らせ、私は雪の道に這いつくばって登り、再びまたがった。けっこう無理させるよ!

落ち武者か、蛮族か

道中、ずっと随伴してくれたメーメットの飼い犬。馬たちも慣れた様子。©星野博美

 山に登ったら、下らなければならないのは自明の理で、峠を越えた私たちは、今度は谷へ通じる道を下っていった。これがまた馬でなければ通れない、細い、細い谷の道だった。
 青い空にギザギザ切り立った峰々。昨日までのカッパドキアとはまた異なる美しい風景に心が躍ったが、足元のぬかるみを見たら一瞬でそんな喜びは霧散した。他のことに気をとられる余裕はない。馬が雪で足を滑らせたら、馬もろとも谷底へまっさかさま。そのダメージはさきほどの落馬のレベルではない。お尻の穴がひくひくするような緊張感に襲われ、背中に冷や汗が噴き出した。
 なんで私、こんなところを馬で通ってるのだ? ここを通って逃げなければ命がない、落ち武者か何かなのか? 助けて、イルファン!
 しかし骨折して手綱を握れないイルファンは馬で助けには来られない。馬に乗って出発してしまった以上、自分で切り抜けるしかない。人間の緊張を、必要以上に馬に伝えてはいけない。これはもう馬を信じ、できるだけ馬の集中力を邪魔しないよう、静かに揺られるしかない。足を前に出して踏んばり気味にし、上体は力を抜きながら、とにかく無心で揺られることにした。
 そんなアップダウンを何度か繰り返して、いくつかの峠を越え、開けた高台に出た。眼下にギョレメの谷を見渡せる絶好のポイントだった。
 遠くかなたに、雪をかぶったエルジェス山(3916m)が見えた。この山が噴火してカッパドキアの奇観をつくり上げたのだから、この土地の父親みたいな存在である。
 住宅地の向こうに見える山という、東京から見える富士山に目が慣れている私には、いまいる場所から山まで、民家がほとんど見えず、ずっと奇岩だけが続いているのは、信じられない風景だった。人々が死に絶えてしまったあとのようだ。
 降り積もった火山灰が風雨に侵食され、この景観が出来上がるまでに一体どれだけの時間を要したのか。その途方に暮れる時間の長さを考えれば、ここに人が暮らし始めてから現在に至るまで、一瞬の出来事のようなものかもしれない。
 いけない、いけない、創造主目線である。
 さらに私は奇妙な感覚に見舞われた。峠をいくつも越えて遠路はるばる旅をし、ようやく人々の暮らす集落にたどり着いた、蛮族のような気分だった。
 馬にまたがり、行けるところまで行ってしまったところ、そこには宗教も風俗習慣も異なる人々が住んでいる。そこを先遣隊が偵察したあと、頃合いを見計らって大軍がやって来るかもしれない。蹂躙された人々の側も黙ってはいない。危機が伝わると、中央から援軍がやってきて、蛮族の前線を押し戻す。押し戻せなければ、半永久的にその地は失われる。こうして長い時間の間に、アナトリアでは様々な人々が入り乱れ、覇権を争ってきた。そんな感覚を、一瞬だが味わうことができた。
 この感覚は、徒歩でたどりついたら多分味わえない。
 馬上にいて、高みから下界を見下ろすからこそ感じる、征服感のようなものだった。
「いい風景でしょ。これが見せたかったんだ」
 メーメットがそう言って、にやりと笑った。さっきまでは「ずいぶん無理させるなあ」と、恨み言の一つも投げたかった彼が、この風景を見せるために多少の無理をさせたのかと思ったら、それはそれで嬉しくなった。

他の牧場で飼われる馬にも愛情深く接するイルファン。本当に馬が好きなのだ。©星野博美

 イルファンは、メーメットの働く牧場で私たちの帰りを待っていた。
「今日はどうだった? 怖くなかったかい?」
「少し怖かったけど、素晴らしい風景を見られて満足。カッパドキアで馬に乗って、本当によかった」
「今度来る時は夏においで。カッパドキアには、無数の道がある。馬で1週間キャンプをしながら、谷めぐりをする経路を考えてあげるから」
 興奮気味でホテルに戻り、ミズ・キムに今日の報告をした。
「そんなに馬が好きだったら、馬を飼えばいい。イルファンの牧場でお世話してもらって、年に何回か遊びに来ればいいのよ」
「言うのは簡単ですが、そんな贅沢はできませんよ」と笑ってごまかしながら、一瞬だけ目が輝いた。
「忘れないで。あなたの夢を実現させるのが私の仕事」
 二人とも、私がカッパドキアに戻ってくることを疑わない。そして私も、多分また戻ってくるだろう。
 旅人を離さないカッパドキア……恐ろしい。さすがは「美しい馬の地」だ。

※1 馬の頭から顎、頬、鼻の上、そしてうなじにわたって細い幅の革でできた馬具で、馬銜(はみ)を吊って馬の口の内に入れ、適当な位置を保たせるために使用する。また同時に、馬を取り扱う場合の補助の役目もする。(JRA日本中央競馬会ウェブサイト 競馬用語辞典より)

※2 長距離を走ることでタイムを競う競技。獣医によるホース・インスペクション(馬体検査)があり、馬の健康状態に十分配慮した走り方をしないと失格になる

著者情報

星野博美(ほしの・ひろみ)

ノンフィクション作家、写真家。1966年、東京生まれ。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著者に『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)、 『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『みんな彗星を見ていた─私的キリシタン探訪記』『謝々! チャイニーズ』『銭湯の女神』『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)などがある。最新刊は『旅ごころはリュートに乗って――歌がみちびく中世巡礼』(平凡社)。

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