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読むダイエット 高橋源一郎

第17回  食べる本

更新日:2023/03/29

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もう一皿を

 わたしたちを養い、育ててくれるものは、みんな「料理」のようなものだ。「料理」には、それを作るシェフがいて、それを食べる者がいる。
 ここでは、わたしは、みなさんに「現実の」料理をご披露することが、つまりみなさんにふるまうことはできない。けれども、みなさんには、味わってもらいたいといつも思っている。

『ひと皿の小説案内 主人公たちが食べた50の食事』(ダイナ・フリード著、阿部公彦監修・訳、マール社)は、小説の中に描かれた食事を、著者が実際に作ってみせたものだ。ちゃんと写真も撮ってある。『白鯨』(ハーマン・メルヴィル)風「クラムチャウダー」、『秘密の花園』(フランシス・ホジソン・バーネット)の「ジャガバターと蒸し焼き玉子」、『ライ麦畑でつかまえて』(J・D・サリンジャー)の「スイス・チーズのサンドイッチ」、『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス)の「羊の腎臓のグリル」等々。原作の文章と向かい合う頁に並べられた料理の写真を眺めていると不思議な気持ちになってくる。そうか、あれは実際に食べることができるものだったのか。
 ユニークなところでは『変身』(フランツ・カフカ、高橋義孝訳、新潮社)のこんな部分。

「妹は兄の嗜好を試験するためにさまざまなものをかき集めて持ってきた。それも古新聞紙の上にならべたてて。半分くさった古野菜、まわりに白ソースのこわばりついた夕食の残りの骨、乾ぶどうに巴旦杏(はたんきょう)が少々、グレーゴルが二日まえにこんなものが食べられるかといったチーズ、なにもつけてないパン、バターをぬったパン、同じくバターをぬって塩をかけたパン。……それから急いで部屋を出て行き、あまつさえ外から部屋に鍵をかけた。これはグレーゴルが妹の前では恥ずかしがって食べられないだろうと察しての思いやりからであり、鍵をかけたのは、人に見られずに気楽に食事できるということをグレーゴルにぜひわかってもらいたいからのことであった。食事にとりかかると足どもがもぞもぞと動いた。……チーズ、野菜、ソースとすばやく順ぐりに平らげた。満足のあまり目には涙が出てきた。ところが新鮮な食品のほうはうまくなかった。だいいち匂いからしてたまらなかった。それどころか、食べようとするものをわざわざずっとわきのほうへ引きずったほどであった」

ダイナ・フリード『ひと皿の小説案内 主人公たちが食べた50の食事』
阿部公彦(監修・訳)
マール社

 妹が、虫になった兄に食事を与える、『変身』でも印象的なシーンだ。というか、『変身』には食事のシーンがけっこうある。そもそも、事件はすべて家の中で起こる。そして、家の中で食事はもっとも重要な儀式だとするなら、それが何度も繰り返されても不思議ではない。とはいえ、これほど奇妙な食事、あるいは料理は他に例を見ない(強いていうなら、ガルシア゠マルケスの『百年の孤独』で、登場人物のひとりが「土」を食べるシーンだが、もちろん、このシーンも『ひと皿の小説案内』には収録されている)。なにしろ、虫にとっての食物は、人間にとってゴミなのだから。
 しかし、その内容が実際に「調理」され、写真に撮られたものを見ると、最初に想像したものとはずいぶん異なっているのにも気づく。なんだかひどくカラフルで、美味そうに(!)見えてくるのである。この「料理」には、ある種の蠱惑的な感覚がある。いや、もし自分が「虫」になったとしたら、涎を垂らしてしまうのではないか。そんな気がしてくるのだ。
 もう一つ、アーネスト・ヘミングウェイの「二つの心臓の大きな川」(高見浩訳、新潮社)からスパゲッティを調理し、食べるシーンを紹介しておこう。ここで使われているのは、キャンベル・ビーンズの缶詰だ、と注には書かれている。

「あらためて空腹を覚えた。こんなに腹をすかしたことは、いままでにないくらいだ。最初にポークと豆の缶詰、次にスパゲッティの缶詰をあけて、中身をそれぞれフライパンにあけた。
 ……豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくかきまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が、じわじわと浮かびあがってくる。いい匂いがしてきた。トマト・ケチャップの壜をとりだし、パンを四枚切った。小さな泡がどんどん浮きあがってくる。焚き火のそばにすわり込んでフライパンをもちあげると、ニックは中身の半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿に広がった。まだ熱すぎることはわかっている。その上にトマト・ケチャップをすこしかけた。豆とスパゲッティはまだ熱いはずだ。焚き火を見てから、テントを見た。舌を火傷したりして、せっかくの幸福な気分をぶち壊しにしたくない。……それでも、腹がすごくへっている。真っ暗闇に近い対岸の湿地に、靄がたちこめているのが見えた。もう一度テントを見た。もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって、口に運んだ」

 この文章を読んでいると、極度に単純だけれども同時になんだかものすごい、そんなことが起こっているような気がする。ただ、簡単に食事を作り、食べているだけだというのに。ここでは調理する手間さえ省かれている。なにしろ缶詰を開け、その中身をフライパンでかきまぜるだけなのだから。
 写真に写っているのは、地面に置かれた金属の皿、その上にざっと盛られた豆入りのスパゲッティ。コーヒーの入ったカップ。そして、スキットル。そこに入っているのは、おそらく水ではなく、ウィスキーだろう。ナプキンが敷かれて(もちろん地面に直接)、その上にパンとスプーン。食べものが置かれた地面は枯葉でびっしりおおわれて、木の根っこらしきものも見える。キャンプをしているのだろうか。
 そう、ここにあるのは、ある種の「直接性」だ。缶詰。粗末な金属製の皿。大地の上で燃やされるのは、そこらに落ちていた枯枝だろう。おそらく、マッチでまず枯葉に火をつけ、その上に枯枝を載せたのだろう。「小さな泡」が、この調理の現実感を増しているように思う。
 この写真を見ながら思い出した光景がある。60年以上も前、わたしがまだ小学生になったばかりの頃、テレビがようやく茶の間の中心にまで進出し始めていた。そのとき、わたしたちが主に見ていたのは、アメリカ製のドラマだった。日本製のドラマは、まだ主役たりえなかったのだ。『ルーシー・ショー』、『うちのママは世界一』、『パパは何でも知っている』。幸せな家族、大きなリヴィングルームと大きな冷蔵庫、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ。子どもたちにとって、それは娯楽であり、また目指すべき理想でもあったのだ。
 けれども、いちばん覚えているのは、その頃、全盛をきわめていた西部劇だった。『ララミー牧場』や『ブロンコ』や『ローハイド』には、たくさんのカウボーイや流れ者たちが出ていた。そして、彼らは、原野のどこかで、いつも焚き火をしながらそこで食事を作るのだった。豆と少しの肉、そしてパンとコーヒーの粗末な食事を。カウボーイたちは、自分の分を自分の皿によそってもらうと、その皿を持って地べたに座る。そしてスプーンですくって食べる。生きていくためには食べなきゃならない。だから食べる。そんな感じがした。カウボーイたちは、ときにそれを作ってくれた「シェフ」に(草原をさまようカウボーイの群にも「シェフ」役はいるのである)「まずいな」という。「こんなもの、コーヒーで流しこまなきゃ食べられない」と。すると「シェフ」役の男(たいていは、そのグループの年長者だ)がこう答えるのだ。「だったら食うな!」そこには、「食べる」ことについての本質的な会話が成立している。まだ小さかったわたしにはそんな気がした。寒そうなアメリカの平原。そこだけに生命があるように見える焚き火。その周りに、皿を持って集まるカウボーイ。すべてが広く、荒々しく、新鮮だった。そこには、自分のまったく知らない世界の食事の光景があった。知らない世界では、そうやって、生命を維持しているのだ。知らない世界では、そうやってなにかを食べるのだ。アメリカというものを、わたしは、テレビの中の白黒画面に映っている、カウボーイが食べる豆料理と熱いコーヒーで知ったのだ。

 ヘミングウェイの文章には、あのテレビの西部劇の香りがする。ヘミングウェイも、アメリカというものを深く体現した作家だったのだ。血の通わない、単なることばではなく、触れば火傷しそうなほど熱い料理の形をしたものがあった。それは、一つの精神だったが、同時に食べることができるものだったのである。
 もっと食べたい。身体にいいものを。みなさんも、どうか、たくさん食べてください。美味しいもの、滋養に富んだものを。それが、実際に口に入るものでなくてもかまわないことは、すでに繰り返し書いた通りである。

 こうやって、料理について、食べるものについて書かれた文章を読んでいると、そこに、なにかを付け加えたくなる。美味しいものだけを集めたレシピ集に、もう一頁を加えてみたい。そんな気がしてくる。『ひと皿の小説案内』に、わたしが付け加えるとしたら、どんな文章だろう。「主人公たちが食べた50の食事」というのでよければ、もっとささやかなものだっていい。レシピですらなくても。そんなものを食べたい。そういうものを味わいたいと思えるものならなんでも。そんな自分だけの「ひと皿の小説案内」を、いつか作ってみたいな。この本を読みながら、わたしはそう思った。いや、この本の読者は、みんなそう思うだろう。

『人間喜劇』(小島信夫訳、晶文社)はウィリアム・サロイヤンの傑作として知られている。主人公の14歳の少年の名前はホーマー。その弟の名前がユリシーズ。舞台となる架空の町の名前はイサカで、その語源はもちろんギリシアのイタケー島。ギリシア神話の雰囲気が全編をおおっている不思議な小説だ。ホメロスの『オデュッセイア』は、トロイヤ戦争から「イタケー島」へと帰還するオデュッセウスの物語だが、この小説では、ホーマー少年の兄マーカスが戦争から戻ることなく亡くなるのである。その中のエピソードの一つが、こういうものだ。
 ホーマーは電報配達の仕事をしている、ぶかぶかの制服を着て。貧しい家計を助けるためにだ。でも、この仕事はつらい。そのいちばんの理由は、イサカの町の誰かのところに「戦死」の報せを持っていかなきゃならないことだ。

ウィリアム・サロイヤン『人間喜劇』(ベスト版)
小島信夫(訳)
晶文社

「『いいえ』とホーマーはいった。『陸軍省からの電報です』
『陸軍省?』とメキシコ人の女の人はいった。
『サンドヴァルさん』とホーマーはせきこんでいった。『息子さんはなくなられたんです。たぶんまちがいですよ。だれだってまちがいはします。サンドヴァルさん。たぶんあなたの息子さんじゃないです。たぶんだれかほかの人です。電報にはファン・ドミンゴと書いて(3字傍点)あります。でも、たぶん電報がまちがってるんです』
 メキシコ人の女の人は、まるでそれがきこえないようなようすだった。
『まあ、こわがらないで』と彼女はいった。『中にお入りなさい。さあ、中へ。キャンディを持ってきてあげよう』彼女は少年の腕をとって部屋のまん中にあるテーブルのところにつれていき、そしてそこに座らせた。
『男の子はみんなキャンディが好きだから』と彼女はいった。『あんたにもキャンディを持ってきてあげよう』彼女は部屋に入っていくと、古ぼけたチョコレート・キャンディの箱を持って、すぐ引きかえしてきた。彼女はテーブルの上で箱をあけた。箱の中には、ホーマーには見なれないめずらしいキャンディが入っていた。
『さあ』と彼女はいった。『キャンディをおあがり。男の子はみんなキャンディが好きだから』
 ホーマーは箱からキャンディを一つとって、口の中へ入れ、かもうと努力した。
『いやな電報を持ってきたくはなかったろうに』と彼女はいった。『いい子だもの──あたしのかわいいファニトがちいさい坊やだった時のように。もう一つおあがり』
 そして彼女は電報配達にもう一つキャンディを食べさせた。
 ホーマーが腰かけて、キャンディをかんでいる間、メキシコ人の女の人はしゃべっていた。『うちのキャンディでね』と彼女はいった。『さぼてんから作ったんだよ。ファニトがうちに帰ってきた時のために、わたしが作ったんだけど、あんたがおあがり。あんたもわたしの息子だもの』
 そして、急に、すすり泣きはじめた。泣くのが恥ずかしいことのように、一所懸命こらえながら。ホーマーは立ちあがって、走って逃げだしたかった。しかしこのままじっとしているだろう、と自分でわかっていた。これから一生ずっとここにいるかもしれない、とさえ思った。このほかに、この女の不幸をかるくするにはどうしたらいいか、知らなかったからである」

 わたしもキャンディが好きだ。チョコレートより抹茶味のものとか。あるいはオレンジ味のものとか。サボテンから作ったキャンディはどんな味がするのだろう。わからない。一度食べてみたいと思う。キャンディのことを考えるとき、いつもこの文章が思い浮かぶ。きっとたくさんの人が、たくさんのキャンディを、たくさんの場所で食べただろう。たくさんの思い出や出来事と共に。
 キャンディは食べると消え失せるが、キャンディについて書かれたものは、繰り返し読むことができる。そして、そのたびに、わたしたちは「キャンディ」を食べることになる。年齢によって、場所によって、そのとき置かれた状況によって、その「キャンディ」の味わいは異なるだろう。
「食べる」ことで、わたしたちは、栄養を得ることができる。「食べる」ことで、わたしたちは豊かになる。現実の食べものでも、書かれた、紙の上に印刷された食べものにおいても、また。
 だから、わたしたちは、本も食べることができるのである。

撮影/中野義樹

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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