読み物
最終回 世界の果てで食べる
更新日:2023/08/30
4月になって、長男が高校を卒業し、自宅に戻ってきた。彼は小学校2年の頃から、寮生活をおくってきたので、11年ぶりで自宅暮らしを開始したのである。びっくりだ。
長男が家にずっといると不思議な気分になる。なんだか家人が増えたという感じだろうか。まあ、中学までは週末には戻ってきたし、高校生になってからは、夏休みや冬休みにはずっといたわけなのだが。それだって、「学校が始まったら、すぐにいなくなる子ども」が、久しぶりに戻ってきた、という感じだった。あるいは「お客さま」が「家族」に進化したというか。もっとも、向こうだってそう思っているかもしれない。
わたしは仕事場から散歩のついでに家まで歩く。すると、長男がいる。
「おはよう」
「おはよう」
やっぱり妙な感じがする。わたしの父は、ほとんど家にいない人だったので、父と会話をした記憶がほとんどない。長男とも(実は、同じように寮生活をしている次男とも)、まともに会話をした覚えがない。いや、正確にいうと、趣味の話ならけっこうしている。アニメやマンガについて、教えを請うているので、「センセイ」のお話をうかがっているのである。わたしの側から話すことはあまりない。
「ねえ、レンちゃん(長男の愛称である)」
「なに、パパ」
「きみ、ちょっと太ったんじゃない」
「うーん、そうかも……」
「パパのダイエット、やってみる? まあ、18歳じゃ必要ないかな。運動すればいいんだからね」
「運動しないからなあ」
すぐ近くに住んでいる義母は、長男(義母にとっては孫)が戻ってきたので、喜んで夕食を作ってくださる。わたしもご相伴にあずかる。つい油断をして、長男(&妻)ともども食べていたら、なんと67キロを超えてしまった! ヤバい。ただちに朝食抜き(1日)+夕食自炊(2日)で、元の63キロに戻した。基礎代謝は確実に上がっているので、すぐに理想体重に戻すことができる。これからもこんなふうに日々は続くだろう。そう願っている。
新しいメニューが少しずつ加わり、身体を鍛え、よい状態に置くことができるトレーニングを付け加えるだろう。もちろん、老化を防ぐことは誰にもできない。しかし、わたしはそのことを悲しんではいない。
ダイエットをすることで、わたしは、自分の身体と「対話」をすることができるようになれた(気がする)。老いてゆく身体とも「対話」をつづけることができたらいいなと思う。そこで見ることができる風景はまた、わたしにとって「新しい」ものであるはずだ。どんな年齢でも、「新しい」経験をすることができる。「身体」においても、また「心」や「精神」においても。そのことを、最後の日までつづけてゆきたいと願っている。もちろん、どんなことも予定通りにはいかないはずである。しかし、「予定外」もまた、「予定」のうちなのだ。「ダイエット」以降の経験についても、また、お伝えすることができればいいなと思っている。
この連載は、途中から「ダイエット」から「食べる」ことが主なテーマになっていった。当然の成り行きだったろう。この先には「食べる」について無限に書くことが待っているはずである。だが、それは本来の目的ではない。最後に、「食べる」ことについて、ずっと気になっていて、それでもここまで書かずにいたことを書いてみたい。とっておきのテーマということになる。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」
あまりにも有名なブリア゠サヴァラン先生の名言である。もちろん、現実はサヴァラン先生のいうほどシンプルではない。しかし、このことばのうちに、幾ばくかの真実があることも間違いはないだろう。
誰がどんなものを食べるのか。いくつかの例をあげ、それぞれの例について、読者のみなさんと考えてみたい。できうるなら、もっとも極端な例を、である。そのことで、わたしたち自身の「食べる」を考え直してみるきっかけになるといいなと思っている。
1 天皇の食事
わたしは、もう何年も、「ヒロヒト=昭和天皇」を登場人物にすえた長篇小説を書いている。もしかしたら、わたしが生きているうちには完成しないかもしれない。付き合えば付き合うほど、「昭和天皇」という存在の不思議さがわかってくる。もちろん、調べたことの大半は小説に出てくることはない。たとえば、「食事」である。
天皇家の人たちはどんな「食事」をしているのか。豪華なのか、意外と質素なのか。どのようなものを食べていらっしゃるのか。インスタント食品を食べることはあるのか。好物は何で、それは自由に食べられるのか。そう考えてみると、我々は、ほとんど「天皇の食事」を知らないのである。
この国でもっとも「高貴」とされる方々は何を食べているのか。それを知ると、いったい何がわかってくるのか。そんな興味を持って、「天皇の食事」を考えてみたいと思う。
「天皇の料理番」として有名な、初代主厨長・秋山徳蔵は、半世紀以上にわたって昭和天皇の料理を担当した、伝説の調理人である。その秋山徳蔵が書いた『味 天皇の料理番が語る昭和』(中公文庫)は、わたしたちが見ることができない「菊のカーテン」の内側の食事についての本だ。そこには、わたしたちの知らない「食の世界」がある。
著者紹介によれば、「秋山徳蔵」は「一八八八(明治二一)年福井県武生生まれ。一九〇四(明治三七)年、華族会館料理部に入り、築地精養軒、三田東洋軒を経て、一九〇九(明治四二)年渡欧、フランスで料理を修業、一九一三(大正二)年帰国、同年宮内省大膳寮に就職、厨司長、初代主厨長となり、大正、昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大典の賜宴、宮中の調理を総括した」のである。日本のフランス料理の草分けでもある秋山は、その能力を「菊のカーテン」の内側で発揮することになったのだ。
興味深いのは、「天皇の食事」を作るとは、「日本の食」を作ることに繋がっていることだろう。
半年以上かけた身許調査の末、主厨長になった秋山には上司がいた。「大膳頭」の「農学博士・福羽逸人子爵」である。この「新宿御苑」の生みの親である福羽子爵は農学博士として、さまざまな果物を創り出した。彼の「福羽苺」は、当時世界一の品質であるといわれた。また「メロンも、日本では博士が最初につくられたものである。明治十七八年頃、内苑頭の時代にヨーロッパから種子を取寄せて、宮内省の御苑と、四谷角筈の自邸内の温室で栽培されたのだそうである。
(中略)
こういった飛び抜けたものを作り出すのは、頭や、学問だけではどうにもならぬもので、身体ごとぶつかってゆく愛情と熱がなければならない。その点、博士は典型的な人だった。
葡萄のできる頃、急に強い風が吹き出しでもすると、どんな夜中でもパッと飛び起きる。提灯を下げて、角筈のお宅から新宿御苑へ駈けつけ、葡萄の葉を丹念に糸で結えてあるくのだ。
葡萄の実の外側にうっすらと吹いている粉、あの粉が少しでも落ちたら値打ちがない、宮廷の食卓には乗せられない──というので、風で煽られた葉が実に触るのを防ぐわけである」
「天皇の食事」を作るとは、こういうことなのだ。まず「食材」を作ることから始まるのである。「天皇家」には「御料牧場」がある、そこからはミルクやチーズがやって来る。ここでも「最上」のものが献上される。というか「自家生産」されるのだ。
確かに、「天皇の食事」は、計算すれば高価なものになるだろう。だが、それは、世界中の珍品を取り寄せるからではない(昭和天皇、現上皇、現天皇の三代にわたり宮中料理番として仕えた渡辺誠の『殿下の料理番 皇太子ご夫妻にお仕えして』(小学館文庫)には、天皇家は高級ワインを所有していることが紹介されているが、すべて賓客向けであり、天皇家の方々はあまり飲まれないし、飲むとしても、主に国産ワインだと書かれている)。この国の土地と気候にかなった最上の材料を作ることから始まっているからだ。大量生産・大量消費の時代が来ても、「天皇の食事」の根本は変わらないように見える。そこだけが「特別な場所」からやって来る食材。それは、彼らだけが、通常の人間が持っているはずの「人権」を持てない「特別な人物」である「天皇家の人々」の象徴そのものであるようにも思えるのである。
秋山徳蔵『味 天皇の料理番が語る昭和』
中公文庫
もう一つ、「日本産デリシャス第一号」に関するエピソードも忘れ難い。
秋山によれば「昭和の初め頃までは、りんごは酸っぱい果物とされていた」。「以前は酸っぱい一方で、品種名というシャれたものもなく、番号で呼んでいた」というのも、りんごは、明治になって初めて、ヨーロッパやアメリカから苗木を輸入し、日本各地にばら撒いたもので、日本に「着いた苗木を一列にならべて、片端から番号をつけた。それが果実の品種を分ける番号にもなったのである」。
つまり、「りんご」には、単に西洋由来の新しい果物以上の意味はなかった。すべてを無秩序に西洋から輸入していたこの国にとって、その中の一つに過ぎなかったのである。「甘いりんご」などというものは、日本人の脳裏に浮かばなかったのだ。
その頃、アメリカに研究に渡っていた(記述を見る限り、「果実商」の)齊藤義政が、現地で「甘いりんご」を発見した。「デリシャス」という品種である。そして、齊藤は青森の自家農園にその苗木を送り栽培したのである。それから数年の月日がたった。
「或る日齊藤君が大膳寮へやってきて、たいそう昂奮した口調で、秋山さんデリシャスの実が生りましたよ──と、一個のりんごを取り出した。赤い美しい実である。
『たった、二つ生ったのです。一つは、研究のため産地におきました。これが世の中に出る最初の一つです。試食してみてください』
これは、たいへんなものだ。あだやおろそかにはできないぞ、と私は思った。
『われわれが試食するのは、もったいない。初生りのうちの初生りだ。まず先帝陛下の御霊前にお供えしようじゃないか。そして、皇太后陛下に召しあがって頂こう』」
かくして、秋山は日本最初のデリシャスを大宮御所に届け、私も少々でも味わいたいので、お召し上がりの後、皮をお下げ渡しくださいとお願いする。翌日、お言葉とともに残りのりんごを下げ渡された秋山は、その足で、銀座の齊藤の店を訪ねるのである。
「齊藤君は、嘆声を発した。そして、感に堪えた面持で、もう切口が赤くなったりんごをみつめている。
『さ、いただこう』
『はア』
まるでとおとい珠玉のように手にのせて、赤ちゃけた切口をそぎとるのも、薄く、薄く──そして二つに切って口に入れた。
『うまい』
私は思わず、唸った。
『いいですね──うむ、うむ』
と齊藤君。
そして、お互いしばらくは無言で、日本の土に初めてできたデリシャスの味を噛みしめた。わずかな酸味を含んだ甘い汁、品のいい香り、肉のほどよい柔かさ。これはいい、絶対にいける──と私は確信した」
日本における「甘いリンゴ」誕生の瞬間である。
「天皇の料理番」秋山徳蔵の記述に出現するのは、単なる料理ではない。あるいは、彼が目指しているのは豪華な料理ではない。それは「天皇」が目指すものではないからだ。
この地にふさわしい何かを作ること。あるいは、それを守り育てること。そして、そこで生まれ育ったものを食べる。それが「天皇の料理」なのである。わたしは、この本を読みながら、どこか「神話」の香りがするのを感じた。別に「りんご」が出てくるからではない。彼らが食べるものは、すべて大地の営みからやって来る。彼らの仕事の第一は、日々祈ることだ。皇居の中に水田があってそこで米を育てるのは食べるためではない。この国の人びとがつつがなく生きていくことを祈り、育てた米を「神」に供えるためだ。
神々は生まれたばかりの大地に新しい植物や動物を誕生させる。「天皇」はそれを地上で繰り返すために産み出された人間なのである。
典礼や祝賀の席にはもちろん豪華な料理が出る。けれども、ふだん「天皇」の食事はきわめて質素であった。戦後しばらくして、どんな食事を召し上がっていたのかを秋山徳蔵はこんなふうに書いている。
「陛下は、現在配給の七分づきの米に、丸麦を混ぜたものを召しあがっておられる。それも、一日に一食だけで、あとはパンを召しあがるのである。戦後の食糧難時代は、他の二回は、うどん、そば、そばかき、すいとん、代用パン、さつまいも、馬鈴薯などであった。
(中略)
こんな話がある。
昭和の初め頃──二年か三年か──に、静岡の牧野ケ原の茶園にお成りになった際、関係の高官たちに御陪食を賜わった。雨が降っていて、天幕の中でのお食事であった。
汽車弁ほどの大きさの折三段で、一番上にはバナナが一本、次の折には魚の照り焼と、玉子焼、百合根二個、その他のつけ合せ少々、一番下の折には、小さな握り飯が四つずつ四列に、合計十六個。ところが陛下のは、黒い握り飯だけである。
或る高官は、それをチラと拝見して、──ハハア、黒い握り飯は上等のもので、鰹節か何かの御飯だろう。白いのが普通の白米飯だろう──そう考えて、先ず黒い方から頂いた。すると実にまずいのである。よくよく見ると、七分づき程度の飯に、麦が半分はいっているので、驚いてしまったということである。
一同も、同じような気持であったろうが、もちろん黙ってモソモソと頂いていた。すると、お傍にいた宮内大臣の一木喜徳郎さんが、
『皆さん。この黒い御飯は如何ですか。これが陛下の御常食です』
と、紹介した。みんな唖然としてしまった。
陛下は、こう説明をおつけ加えになった。
『侍医から聞いたのであるが、米の七分づきに麦を混ぜた御飯は、衛生上たいへんよろしいそうである。食べつけてみると、味も白米飯よりもよろしいので、私はこれを常食にしている。しかし、私の好物だからといって、諸子に強制する気持はない。それで、半分だけ白米飯を加えて、これは参考までに添えたものである』
一同は、しんそこから恐れ入り、かつ感激したということである」
天皇家の方々はみな長命でかつ肥満の方はあまり見受けられない。というのも、このような徹底した食生活のあり方のせいなのかもしれない。
秋山徳蔵の記述を見ても、「公」には、当然のごとく最高の食事が提供されるが、「私」の場面で、「天皇の料理」は質素そのものである。当代随一の料理人が腕をふるうものとしては。しかし、その部分にこそ、「天皇の料理」の本質がある。いや、もしかしたら、通常の「天皇の料理」こそ、最高のダイエット食なのかもしれない。わたしは、そう感じるのである。さらに重要なのは、「天皇」はとりたてて「ダイエット」を目指しているのではないことだ。ここにも大切なヒントがあるような気がする。
すでに書いたように、「天皇」にとって、「食」もまた「仕事」である。「仕事」ということばが適当ではないというのなら、この国にとって特別な存在である「天皇」の「責務」とは、この国が平穏であるよう祈ることだ。しかし、「天皇」にとっての「祈り」は抽象的なものではない。もっとも重要なのは「五穀豊穣」ということばが示しているように、豊かな大地に、そこに根づいた植物が繁茂することである。そのことを祈りつつ、「天皇」はそれを食べる。
ここでとりあげている「天皇」は、主として「昭和天皇=ヒロヒト」だが、彼は若い頃には植物(粘菌)の専門家であった。あの碩学・南方熊楠との邂逅と戦艦の上でのレッスンは有名だ。その後、ヒロヒトが選んだのは魚類の研究であった。抽象的な生命の研究ではなく、人が生きるために必要なものの研究に「天皇」は励んだのである。
秋山徳蔵の手になる「ある一日の献立」をここに記しておく。「健康」で「長生き」のためのレシピである。野菜と乳製品(そして米の一部)はすべて自家生産だ。
「朝
一、オートミール 牛乳 砂糖
一、トースト ジャム バター
一、小蕪クリーム煮
一、サラド レチユース(高橋注。たぶんレタス)
一、果物
一、煮冷水(湯ざましのこと)
一、お茶
一、牛乳
昼
一、御汁 汐仕立 雪の上こんぶ
一、丸麦 人造米入 御飯
一、矢柄魚 作り身 わさび
一、味煮八つ頭
一、バター煎めさやえんどう
一、御漬物 奈良漬瓜 つくだ煮 海苔
一、果物 柿
一、お茶
一、牛乳
夜
一、スープ
一、犢(こうし)肉潰包焼 人参 カリフラワー
一、玉蜀黍(とうもろこし)バター煎め
一、パン
一、果物
一、カルグルト
一、お茶
一、牛乳」
もちろん、パンも白くはないのである。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。