読み物
第16回 失われた「食べる」を求めて
更新日:2023/02/01
仕事場で正月を迎えた。仕事場にはテレビを置いていないので、紅白歌合戦も見られない。静かに領収書を整理しながら(笑)、年を越した。気がつくと、元日生まれなので72歳になっていた。びっくりだ。72歳ということは「年男」ということである。卯年生まれなのだ。次の卯年には84歳。生きているのだろうか。この「読むダイエット」の中で披露させていただいている健康法のおかげで、次の卯年を迎えることができるなら嬉しい。ちなみに、新年1回目の体重計計測は60・9キロ。もう少し食べた方がいいかもしれない。気を抜くと、すぐに60キロ台になってしまう。ダイエットという目的に関しては、ほぼ達成したといっていいだろう。スクワットの回数に変化はなく、最近、「爪先立ち」という新しいテクニックを取り入れた。キッチンで料理を作っているとき、皿を洗っているとき、爪先立ちになるのである。15秒、爪先立ちになり、そのまま下げる、ただし、踵は地面につかずに浮かせておく。これを、信号機が赤で、交差点で待っているとき、踏み切りで遮断機が降りているときにも実行している。2カ月ほどやっているうちに、立ちどまると、無意識で「爪先立ち」をするようになった。下半身強化トレーニングの一つだが、苦にならない。
2日には、鶴岡八幡宮まで初詣に出かけた。去年も1日、2日と出かけたが、猛烈に混んでいて、階段を上がりお参りすることができなかった。今年もおそるおそる出かけたが、あっさり拝殿することができた。肩すかしだった。我々の家族が4人、義理の兄夫婦、義理の妹、そして義理の弟元夫婦の家族(離婚した妻と娘)の10人だ。不思議な集団である。
参拝が済むと、もちろん、夜店で食べる! 正直にいって、食べる方が主だ。神様、すいません。そういえば、『鎌倉殿の13人』、終わりましたね。一度も見たことなかったけど。
鶴岡八幡宮に行くと、本殿へ向かう広い道の両側に夜店、というか屋台が並んでいる。だが、メインはこちらではない。広い道に並んだお店は、お菓子系が多い。綿菓子にチョコバナナ、そして量り売りのコンペイトウである。この通りのものは、主食のお好み焼きやたこ焼きをいただいた後、デザートで食べるのがよろしい。お面も売っている。仮面ライダーやゴレンジャーたち。子どもたちが小さい頃にはよく買ったっけ。占い師もいる……はずだったが、今年は見かけなかった。
本殿に向かって真っ直ぐ歩いてゆくと左右にそれぞれ入る道がある。その脇道の両側が鶴岡八幡宮の真の「グルメ地帯」だ。左の道と右の道では、店の種類が少し違う。なので、鎌倉在住の人間は、どちらを選ぶかで「左派」と「右派」に分かれる(たぶん)。ちなみに、わたしは「左派」である。
カステラと焼き鳥は右の道にしかないが(1軒ずつ)、それでもけっこう。ああ、射的も「右派」である。やっぱりなあ。「左派」には、お好み焼きが何店か、たこ焼きも何店かある。もちろん、焼きそばも。お勧めは、四角く整形したステーキとカルビ焼きだ。これは鶴岡八幡宮「左派」にしかない。そして、(主観的だが)たいへん美味い。左手に、たこ焼きが入った「舟」を持ち、砂利が敷きつめられた道に立って食べる。熱い。だが、正月の寒さの中では、それもまた美味しさを増してくれる。
お好み焼きもたこ焼きも大阪のソウルフードだ(お好み焼きは広島のソウルフードでもある。広島県出身者としては引き裂かれた気分になる)。小さい頃からずっと食べてきた。というか、家でもよく作った。お好み焼きはもちろんたこ焼きも。だが、やはりどちらも、屋台で食べる方が美味いように思う。巨大な鉄板で焼かれたものを、冷たい風にさらされながら、立って食べる。むせ返るソースの匂いも、あっという間に、風でかき消される。それが、屋台で食べるということだ。
3日には、長男がひとりで八幡宮まで出かけた。屋台のお好み焼きとたこ焼きがすっかり気に入ったらしい。なんだかうれしい。
長男とわたしの年の差は54だ。次男とは56。長男が30歳のとき、わたしは84歳。当然、次男が30歳のとき、わたしは86歳になる。
どうやら財産は残せそうにない。となると、残せるのは記憶ぐらいだろうか。良い記憶を持たせてやりたい。そのことは、彼らが幼い頃からずっと考えてきた。といっても、うまくできた気はしない。自分が生きることに精一杯だったからだ。
長男は、あの鶴岡八幡宮「左派」のお好み焼きやたこ焼きを、ずっと覚えているだろうか。何十年か後、「あの初詣の日、みんなで話しながら八幡宮まで行ったっけ。でもそれよりも屋台で食べたことの方を覚えているなあ。ぼくが食べたたこ焼きはめっちゃタコが大きくて、屋台のおじさんが『うちのタコはデカいよ!』っていいながら、カツオ節を山盛り、溢れるほどかけてくれたんだ。そういえば、あのとき、パパもいたような気がするな」と手に持ったたこ焼きの舟の向こうにぼんやり浮かんだぼくを思い出してくれるだろうか……なんてことも考える。「食べる」ことの記憶の端っこに微かにくっついたものとして自分がいる。そういうのも悪くはない。
長男は小学校3年のときから、夏休みになると、(休暇中の子どもたち)専門の旅行会社がやっているキャンプにひとりで行かせた。巨大なリュックを背負った彼をひとりで旅に出したのである。リュックと身体が同じくらいの大きさだった。あとで聞くと、海辺のキャンプでは、夜の食事の主な材料は、みんなで引いた地引き網の中身ということだったので、いったい何を食べることになるのかわからなかった、といっていた。それはきっといい思い出になったろう。「食べる」思い出だ。
長男が小学校2年から高校3年まで通った学校は、ふつうの学校と異なったカリキュラムを組んでいたので、自分で畑を耕し、ブタやニワトリを飼った(次男も同じ学校だ)。野菜も果物も自分で作り、飼っていたブタは、最後にはベーコンになって、彼の胃袋に入った。それらもまた、彼にとって大切な記憶になったろう。だが、彼が「記憶」を収穫するのはずっと先だ。彼がもっとずっと大きくなり、経験を積んで、時が流れ、ふと立ちどまったとき、その「記憶」を収穫する瞬間がやって来る。それまでじっくりと熟成させなければならない。最高のワインがそうであるように、太陽と水とその土壌に含まれる豊かな何かが混ぜ合わされ、樽に詰められる。そして、樽は日の差さぬ倉庫の奥深く格納されて、いつか出荷されるのを待つのである。「記憶」もそうだ。遥か未来に、グラスに注がれた記憶のワインが、その人を揺り動かす。そうだといいな。
トースターの「ポン!」という音と「朝の匂い」
「食べる」ことに関して、たくさんの本を紹介してきた。とりわけ、栄養や健康に関する本を。しかし、それではなんだか、「栄養」が足りないような気がする。いうまでもなく、「身体」ではなく「精神」の「栄養」だ。
わたしたちは、「身体」と「精神」が分かれて存在しているわけではない。どちらも必要であり、また、両者は分かちがたく一体になって存在している。そのことにもっとも深く気づいていたのは、作家たちだった。たとえば、第14回で紹介した『失われた時を求めて』の作者、マルセル・プルーストのように、である。
彼らはわたしたちに教えてくれる。「食べる」のは、「身体」だけではない。「精神」もまた「食べる」のだ。それも抽象的ななにかを、ではなく、具体的な食物を「食べる」ことができるのだ、ということを。
片岡義男の『白いプラスティックのフォーク ~食は自分を作ったか』(NHK出版)を読んだ。それは不思議な経験だった。片岡義男は、そこで、彼がいままで食べてきたものの記憶を、丹念に、精密に、そしてゆっくりとたどっている。驚くべきことは、彼の記憶の鮮明さだ。まるで、写真のように正確に、彼は、かつて食べたもの、いや、「食べる」という行為の周りで起こったことを覚えている。そして、片岡義男のことばを読んでいると、なぜか、わたし自身の「食べる」ことにまつわる記憶が蘇ってくるのである。
「一九五十年代のなかばに自宅で使っていたトースターを、解けないままに残ったひとつの小さな謎として、いま僕は思い出している」(「あのトースターの謎を解く」前掲書所収。以下同)
片岡義男は1940年に生まれた。片岡の名前を世に広げたのは1975年の小説「スローなブギにしてくれ」だろう。たちまち、片岡の小説は一世を風靡した。映画化もされた。片岡の日系2世の父は英語しか話さず、片岡は家庭内でバイリンガルで育った。英語が深く内面化された片岡の小説、エッセイを、わたしは前人未到のものだと思っている。彼の真の評価が定まるのは、まだ先のことだろう。
そんな片岡が「食べる」ことについて書いたのが『白いプラスティックのフォーク』だ。そして、まずトースターだった。
「このトースターに二枚のパンを差し込んで手を放すと、一拍の間を置いて、二枚のパンは静かにまったくの無音のままに、本体の内部へ入っていった。そのような作動が無音でおこなわれる様子に調和した言いかたをするなら、入っていった、という言いかたよりも、沈んでいった、と言いたいような気がする。パンを差し入れ、しかるのち、ボディ側面に突き出ているレヴァーを押し下げる、という方式のトースターを、それ以前に使っていた。しかしこのトースターには、そのようなレヴァーはなかった。パンを差し入れると、あ、パンが入って来たぞ、それではこれをボディの内部に引き受けなければならないな、という判断がトースターの意思となり、意思は作動へと転換されて、二枚のパンは音もなくトースターの内部へと沈んでいった」
片岡義男『白いプラスティックのフォーク ~食は自分を作ったか』
NHK出版
わたしの家に「トースター」がやって来たのは、大阪から夜逃げをして上京した直後のことだった。おそらく、1957年頃だと思う。そして、その「トースター」は、「パンを差し入れ、しかるのち、ボディ側面に突き出ているレヴァーを押し下げる、という方式」のものだった。さて、片岡はさらにこう続けている。
「パンが焼き上がってトーストになってから、さらにふたつ、謎があらわになった。二枚のトーストが、静かに、まったくの無音で、差し入れ口から顔を出し、そこで静止したのだ」
「さらにもうひとつの謎は、どのようなパンを差し入れても、常に最適にトーストされる事実だった。片側の持ち手の下に小さなつまみがあり、左へまわすほどに深くトーストされ、右へまわせばトースト加減は浅くなった。まんなかがその中間で、浅くも深くもする必要がないときには、つまみの位置はまんなかでよかった。白くてふわふわに柔らかいパンでも、あるいは固いライ麦パンでも、常に正しく最適な加減にトーストされた。電源のスイッチが入ってから四十秒で電源がオフになってトーストがポップ・アップするというような、最大公約数でどのパンも一律に処理する、という焼きかたではなかった」
片岡義男の文章を読んで、わたしは、わたしの家のトースターは「電源のスイッチが入ってから四十秒で電源がオフになってトーストがポップ・アップするというような、最大公約数でどのパンも一律に処理する、という焼きかた」のトースターだったことを思い出した。
いま思えば、わたしの家にあったトースターは、単にパンを焼くためにだけある機械ではなかった。いや、片岡義男だけではなく、あの頃、1950年代に家庭に置かれたトースターは、「新しい何か」の象徴だった。おそらく、何百万もの、とりわけ「新しい家庭」を築きたいと思った人たちが作る家の台所にはトースターたちがあったにちがいない。それは、戦前から続く食生活を体現している炊飯器とは一線を画した、新しい食生活を提示してくれる夢の機械だった。
以前書いたかもしれないが、わたしたち家族は、わたしが小学校1年のとき、夜逃げをして東京に出た。1957年のことである。そこで、父は大泉学園に一軒家を借りた。関西に住んでいたときの「和風」な暮らしから、一転、モダンで洋風な生活に切り替えた。おそらく、心機一転のつもりもあったのだろう。わたしが6歳。弟は3歳。父が36歳で母が30歳。まだ若い夫婦と幼い子どもたちだった。
日が差しこんでくるところが思い浮かばない、関西に住んでいたときの家とちがい(ただ記憶にないだけかもしれないが)、その大泉の家には溢れるほど日が差していた。不思議なのは、その家では夜の記憶がないことだった。
覚えているのは朝食の風景で、長いテーブルの上にはビニールのテーブル掛け、そしてその上には真っ白な皿。新聞を読んでいる父親、キッチンで何かを作っている母親の後ろ姿。コーヒーを淹れるためのパーコレーター。そして、表面が鏡のようにつるつると反射するトースター。トースターにパンを入れるのは、わたしの役割だった。2カ所の細長く開いた個所にパンを入れ、レヴァーを押し下げると、同時にパンたちも下がってゆく。母親が焼く目玉焼きの匂い、コーヒーの匂い、そして焼き上がってゆくパンの匂い。「ポン!」という音を立てて、パンがトースターから姿を現す。そして、わたしは、そのパンに1枚ずつバターを塗っていった。バターは固くて、なかなか溶けない。まだバターが残ったままのパンの表面に、さらにジャムを塗った。そのバターとジャムの匂い。それらが、すべて混ざり合った「朝の匂い」。新しい家庭の形がそこにあり、それを象徴する匂いが、朝の食卓の上に漂っていた。もしかしたら、それこそが「戦後民主主義の匂い」だったのかもしれない。
覚えているのは、幸せだ、という感覚だった。それからすぐに、我が家は没落し、年中引っ越しをするような生活がやって来る。それ以来、わたしはいつも、いまいるここは自分の居場所ではない、と感じてきた。その感覚は、いまでもある。わたしの記憶の中で、数少ない、いまいるここが自分の場所で、そして幸せだという感覚は、あのトースターの「ポン!」という音と、「朝の匂い」にまで遡らなければ見つからないのである。
いま、台所に、そんな機械が、深く幸せの感覚と結びつく機械はあるのだろうか。そんなことを、わたしは思った。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。