読み物
第16回 失われた「食べる」を求めて
更新日:2023/02/01
「悲しみ」を食べる
「友だちの家で初めて食べたものが、僕には多いような気がする。印象が強く残り、したがっていまでもよく覚えているものを三つだけあげると、寒天、芋粥、そしてカレーライスとなる」(「友だちの家で食べた」)
わたしも、友だちの家で「飲んだ」ものならよく覚えている。たぶん小学校4年のとき、女の子の友だちの家でファンタオレンジを飲んだ。生まれて初めてだった。びっくりした。この世にこんなに美味しい飲みものがあるなんて、と思った。ジュースなら飲んでいた。それからサイダーやラムネのような炭酸水も飲んだことがあった。しかし、そのファンタという飲料は、ジュースのような味がして、しかも炭酸水だったのだ! ファンタオレンジが毎日飲めるような生活がしたい。そう思った。だから、いつでもファンタオレンジが飲める友だちがうらやましかった。ちなみに、コーラというものを飲んだのは、その少し前だったように思う。母方の祖父母たちと箱根に行ったとき(たぶん、祖父母たちは旅行で出かけて来たのだろう)、どこかで飲んだ。「とてつもなく不味い、まるで薬だ!」というのが小学校1年か2年だったわたしの感想だ。だから、ファンタオレンジの美味さに衝撃を受けたのかもしれない。小学校4年なら昭和36年頃だろうか。昭和のまん中だった。東京オリンピックを目指して東京が大きく変わっていった頃だった。
「最初のカレーライスも友だちの家で食べた。遊んでいて夕食の時間となり、少し余計に作ったから食べていきなさいと言われて、友だちの家族といっしょに食べたのだ。天丼を食べるときのようなどんぶりに、ご飯が入っていることは見ればわかった。そのご飯を覆い隠すかのように、被せたような感触で盛ってある、柔らかそうな黄色い層がなになのかは、わからなかった。
ご飯に蓋をしたように被さっているその黄色い層は、その下に箸をくぐらせておだやかに持ち上げるなら、ぜんたいがひとつになって、ご飯から離れるのではないか、と思えた。この黄色い層を箸で少しずつ突き崩しては、ご飯にまぶしていっしょに口へ入れる、という食べかたを友だちはしていた。友だちは食べなれているようだった。だから僕は彼を真似た。
食べればすぐにわかるのだが、黄色い層をかたち作っている主たる材料は、当時の言葉で言うメリケン粉だった。水に溶いて煮たのだ。黄色さがカレーの粉だったのだろうけれど、カレーの粉というよりもそれは単なる色であり、ほのかにあったカレー粉の香りは、いったいどこに潜んでいたのか。玉葱や馬鈴薯などが黄色い層のなかにあり、グリーン・ピーズが散っていた。おかずは沢庵だった。沢庵の黄色さが、ご飯の上の黄色い層の黄色さと、張り合っていた。
食べるほどに理由もなく悲しくなっていくのを、どうすることも出来なかった。やがて食べ終え、ごちそうさまと言い、友だちと外へ出てしばらく過ごし、僕は自宅へと帰っていった。その帰り道が悲しさを増幅した。貧しい夕食であったことは、よくわかっていた。しかしそのときの僕が感じていた悲しさは、貧しさから来るものではなかった。ではその悲しさは、どこから来たのか。あの黄色から、と言っておこう」
ここにはひどく大切ななにかが書かれているように思う。それは、おそらく、この文章が「食べる」ということの本質に触れているからだろう。だが、そのことを考える前に、もう一つ、「食べる」ことの「悲しみ」について書かれた、著者の文章を読んでみたい。
「そんな七歳の頃のある日、その家で僕が友だちと遊んでいたら、彼のお母さんがいつものようにどこからともなく、その姿をあらわした。美しい磁器の壺を、彼女は小脇にかかえるように持っていた。『ヨシオちゃん、おやつをあげましょう』と言った彼女は、息子に蓋を持たせ、壺のなかにあった小さなスプーンに白い結晶のような粉を半分ほどすくい、『手をお出しなさい』と、僕に言った。差し出した僕の掌に、彼女はスプーンの白い結晶を置いてくれた。これは砂糖だ、と僕は思った。友だちもその掌に、おなじように砂糖をもらった。その砂糖を舌の先でなめる。それが、おやつだった」(「砂糖は悲しいものだった」)
これは1947年、戦後2年目の頃のことだと思う。わたしと片岡義男とはおよそ10年の年の差があるのだ。当時、砂糖は国家によって統制された食品で、統制が解除されるのは、この5年後、わたしが1歳の頃なのだった。
この砂糖の記憶について書いた後、砂糖を「遊び道具」として使った記憶を、片岡義男は召喚するのである。
「砂糖は蟻を呼ぶことを、どのようにして知ったか記憶にない。広い庭の隅に蟻のたくさんいるところがあり、そこに砂糖を三角の小さな山にしておくと、なんとも言いがたく興味深い光景を、何日か続けて観察することが出来た。黒山の人だかりと言うけれど、白い砂糖の小山はまっ黒な蟻だかりなのだ。ただ単にたくさんの蟻が集まっているのではなく、どの蟻も砂糖の結晶のひと粒を頭上にかかえ持ち、どこかへと運んでいるのだった。
砂糖の小さな山をいくつか作り、そのどれにも蟻が集まっている様子を俯瞰すると、感銘は奥行きを獲得した。山ではなく一直線に砂糖を置くと、感銘が獲得する奥行きは方向を微妙に変化させた。地面に腹ばいとなり、シャーロック・ホームズが使うような、把手のついた丸い凸レンズ、つまり天眼鏡で蟻を観察していると、やがて心の底に沈殿されていく悲しさのようなものを、いくら幼いとは言え、自覚しないわけにはいかなかった。友だちのお母さんが掌にくれたおやつの砂糖は、この悲しさのようなものを僕の心のなかに確定させる役を果たした」
「カレーライス」と「砂糖」が少年の片岡義男に「悲しみ」を与えた。「悲しみ」というものを教えたのである。
ここで、わたしたちは不思議なことを体験している。というか、不思議な文章を読んだのだ。
「食べる」ということが、とりわけ、少年時代、子ども時代の「食べる」経験が記憶に結びつく。美味しかったなにかについて、少年時代の出来事と共に回想する。そういった文章にはずいぶん出会った。そして、その度に、「これはいいな」とか「そうそう、自分にもそういう経験があった」と思う。それは、過去を回想する文章の定番の一つだ。だが、ここにとりあげた文章は、そういうものたちとはちがうのである。
いま、わたしたちが食べているカレーライスは美味しい。家でつくる場合も、カレー專門店で食べる場合も(「ココイチ」もけっこう!)。繁華街に出れば、インドやネパール出身者が経営するカレー店もある。しかし、わたしが子どもの頃のカレーライスは美味しいものではなかった。片岡義男は、わたしよりおよそ10歳年上なので、子ども時代といえば、戦後数年だ。この国はいまより遥かに貧しかった。戦争が終わって間もなくで、ただ食べるだけで精一杯の人たちが多かった。
片岡義男よりおよそ10年幼いわたしの実家でつくるカレーライスについては書いたことがある。そこのカレーは、片岡義男の友だちの家でつくるものと同じだった。ほとんどの材料がメリケン粉だった。カレー粉は微かに風味と色合いに残っているだけだった。それはカレーというより、粘性の強い不思議な「丼」風の食べものだった。そう、それは、もしかしたら「和食」の一種、もしくは鍋の一種なのかもしれなかった。オカズには福神漬けや沢庵やラッキョウがついていた。カレーは大量につくられて、翌日の朝や、ときには翌日の夜にも食べるものだった。そして、必ず鍋の底に焦げ目と共にこびりついた。大量のメリケン粉のせいである。その焦げたカレーを最後にご飯にかけて、わたしたちは食べた。
そして、友だちの家で、その(おそらくものすごく粘っこかったはずの)カレーライスを食べた片岡義男は「悲しみ」を感じる。
いったいなぜだろうか。その理由は、書かれていないのである。
あるいは、「友だちのお母さんが掌にくれたおやつの砂糖」もまた、片岡に「悲しみ」を感じさせる。けれども、その理由もまた書かれてはいないのだ。
わたしたちの感情はどこからやって来るのだろう。そんなことをまともに考えたことはなかった。
記憶というものが生まれ始めた頃、おそらくは、3歳か4歳の頃、覚えているのは、断片的な光景だ。誰かにおんぶされて塀の横を歩いていること。どこかの広い庭にいて、その庭にある燈籠を眺めていること(あれは、祖父母が住んでいた豊中のお屋敷の中だったろう)。ヒメジョオンが咲き乱れているお花畑を興奮して走り回っていること、抜けるような青空をいつまでも眺めていること、これは間違いなく幼稚園に通っていた頃で、なにかで怒られて下を向いて泣いていたので、足元のコンクリートに涙が落ち、その滲みがどんどん広がってゆくのを眺めていたこと。悲しかったのだろうか? いや、悲しいというよりは、その広がってゆく滲みが面白かったのだ。
いま思うなら、「悲しみ」の感情を、幼いわたしも持っていた。だが、それを「悲しみ」と呼ぶことは知らなかった。「怒り」も「憎しみ」も「不安」も知っていたが、それがどのような名前で呼ばれるのかは知らなかった。だからこそ、大人よりもずっと繊細に、その感情そのものを知っていたのかもしれない。
いや、もしかしたら、大人たちは、やがてそれらの感情を「悲しみ」や「不安」や「苦しみ」と名づけて分類することを知るのだが、子どもたちはそんなことを知らずに、ただ自分の胸の中で生まれてはすぐ消える「それ」と共に生きていただけなのだ。
そして、そんな無垢な感情、あるいは感情というより、やがて様々な「感情」の「素」になるそれを、好奇心でいっぱいになりながら、見つめていたのかもしれないのだ。
1日中走り回り(子どもというものは疲れを知らないから)、草原に仰向けに倒れた。目の前には青空。けれども、見上げているというより、自分の身体が天空にあって、下の方にある空を見下ろしているような不思議な感覚があった。そのとき、確かにわたしは世界の中心にいた。そして、わたしはある感情に満たされていた。それは、「悲しみ」でも「喜び」でもなかった。自分がいる、という感覚だ。生まれてからずっと歩き、走りつづけていた子どもが、初めて立ちどまり、自分の掌を眺め、これはなんだと不思議に思う。そんな感覚だった。風が吹いていることを肌が感じていた。ぼくはいま世界の中にいる、そして、生きている。ことばにすれば、そうなったかもしれない。けれども、まだそれを知らせることばはなく、少年だったわたしは、ただ無言で空を「見下ろして」いた。
そのとき、わたしが感じていたもの、それはやがて、はっきりした「悲しみ」や「喜び」に分化してゆく感情の原器のようなものだったのかもしれない。
片岡義男が書いているのは、いつか子どもに訪れる、「悲しみ」が分化してゆく瞬間なのだと思う。それを引き起こしたのは、たとえば「カレーライス」だったのだ。「カレーライス」の味、匂い、その周りにあった友だちと家族、その貧しさ。そして、社会というものが突然姿を現した。それらがまとまって、子どもの中にあった感情の素が結晶化して、「悲しみ」になった。「悲しい」という感情そのものではなく、そこから派生して生まれてきたもの、それが「悲しみ」と呼ぶべきものであることを、少年の片岡は知ったのである。
どうして、それを知ったのか。
「友だち」の家で食べたからだ。「友だち」とは、もうひとりの自分だった。ひとりでいるだけでは自分のことなどわからない。目の前にいる「友だち」を見て、自分と同じ格好で、自分と同じ経験をして、自分と同じ世界を生きている、その人間を見て、自分を知ったのだ。同じ世界に生きている、同じ年齢の、ほとんど同じ人間といっていいのに、そこには分断があった。「カレーライス」が、彼と「友だち」を「分断」したのだ。そのことによって、片岡義男は、「悲しみ」の意味を知ったのである。
「砂糖」もそうだ。
いま、「砂糖」にそんな力があるだろうか。少年から、深く激しい「悲しみ」の感情を分化させてゆくほどの力が。
片岡義男よりおよそ10歳年下のわたしも、「砂糖」の底知れぬ魅力を知っていたように思う。確かに、わたしも、「砂糖」を直接舐めたことがあった。いま、「砂糖」を直接舐める子どもは、ほとんどいないだろう。「砂糖」は、いつの間にか何かに入っているものだ。
喫茶店に入り、コーヒーを注文する。すると、ミルクと「砂糖」が一緒に届けられる。小さなプラスチック製のカップに入ったミルクと細長い紙の筒に入った「砂糖」である。かつては、テーブルの上に「砂糖」が入ったガラス製の容器が置かれ、そこからスプーンで、「砂糖」をすくったのだ。だが、もう、わたしたちは直接「砂糖」を見ることなど、ほとんどなくなっていったのである。
「砂糖」で覚えているのは、その白さだった。人工的といってもいいほどの白さに、幼いわたしはうっとりしていた。そして、それはひどく甘かった。わたしたち子どもは、「砂糖」から「甘さ」を直接摂取していたのだ。
わたしが好きだったのは、食パンを千切り、それを「砂糖壺」の中の「砂糖」につけて食べることだった。少し湿った食パンのカケラを「砂糖壺」に押し入れる。すると、層をなした「砂糖」が食パンにへばりつく。その白く盛り上がった部分のある食パンのカケラを食べるのだ。舌の上にも、口の中にも、いや、こぼれ落ちた「砂糖」は唇にも、唇の両端にもこびりついた。そして、そのこびりついた「砂糖」を、わたしは、舌で舐めとった。それが「砂糖」だった。それより美味しい「お菓子」はなかったのである。
わたしの「甘さ」への嗜好も、「お菓子」への偏愛も、そこからやって来たような気がする。あのときの、「砂糖」の甘さからである。
だが、「砂糖」は、ただ食べるだけのものではなかった。「砂糖」を求めて、いつも蟻がやって来た。確かに、いまも、キッチンには「砂糖」が置いてある。けれども、それを求めて、蟻の長い行列ができることはほとんどない。家は密閉されて、外界との接触を失ったし、コンクリートや舗装で整備された街中で、蟻の出番は少ないからである。
長く、長く続く、蟻たちの列。それは、わたしたち「昭和の子ども」にとって、もっとも興味深い光景の一つだった。蟻の行列を眺めていて、気がついたら夕方になっていた。そんなことがよくあった。いくら見ても飽きなかった。そして、あるとき、子どものわたしたちは気づくのだ。この蟻たち、何かに見られていることにも気づかず、ただひたすら「砂糖」をむさぼることしか知らない生きものたち、懸命に生きているこの小さな黒いものたちは、わたしたち自身の似姿ではないのかと。
もちろん、幼いわたしたちには、そんなふうにことばにする能力はなかっただろう。だが、ある日、突然、子どもは気づくのだ。永遠に遊びつづけるわけにはいかないことを。ただ夢中で「砂糖」を舐めつづける、運びつづける蟻たちの正体がなになのかを。
「砂糖」はただ甘いだけの食物ではなかった。アダムとイヴが知ったように、それを齧ることによって「智恵」を得ることができるものだった。そして、なにかを知るということは、ひどく悲しいことだったのだ。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。