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第10回 食事はどこから来たのか、食事とはなにか、食事はどこへ行くのか
更新日:2021/07/21
世界の食の中心で、愛を叫ぶ
「一七世紀中ごろ、世界の人口は五億五〇〇〇万人に達した。このころから、フランスがヨーロッパの美食の規律を決めるようになった……(その代表である)……『太陽王』ルイ一四世は、一六四三年にフランス国王に即位して以来、とくに一六六〇年以降、食事を儀式化した。食事に関する儀式をこれほどたくさんつくった君主は、彼をおいて他にいないだろう……ルイ一四世の一日の食事は次の通りだ。朝九時にハーブティーと野菜スープという軽めの朝食、一三時に独りで、あるいは側近(弟のフィリップなど)と『小膳』、一六時くらいに間食、そして二二時に『大膳』である……(食べすぎだよ、ルイ一四世)……(その頃、「レストラン」というものが誕生していた)……それまでのヨーロッパの食堂では、客は主人の食卓につき、あてがわれる料理を食べていた。ところが、客がメニューから自分の食べたいものを選んで注文する方式が登場すると、こうした食事の場に……裕福な者たちが足を運ぶようになった……社会が自由になるにつれて食堂が繁盛した……食堂は民主主義が熟成する表れだったのだ」
この部分に関しては、『悪食大全』(ロミ著・高遠弘美訳、作品社)が詳しい。世界の食事の歴史を書いた本だが、なんと、フランス19世紀分だけで220頁近く(!)ある。しかも、ただただ、フランスの(当時の)有名人たちが、宮殿か、どこかの有名人の家か、レストランに行って、死ぬほど食べる(同時に死ぬほどしゃべる)風景が延々と続くのである。ルイ14世を筆頭に、みなさん、どう考えても、そりゃ食べすぎだろう、というほど食べる。なにかに取りつかれたように食べる。そして、ほんとに食べすぎて死ぬ。ほとんどビョーキである。
ここで一つだけ、その『悪食大全』から引用することにしよう。美食が消えつつあると嘆く、ルイ18世のことばである。ちみなに、ルイ18世は大食漢&美食家として知られているが、パリ凱旋の後、諸侯を招いた宴席のメニューが『悪食大全』に載っているが、なんと、40行! 正直にいって、メニューを見ただけで吐き気がするほどだ。感じを掴んでもらうために、少しだけ紹介しておこう。
ロミ『悪食大全』
高遠弘美(訳) 作品社
「魚のスープ、プロヴァンサル風[トマト、大蒜、オリーブ油を基調にしたもの]。根菜のエキス味の麺。鮟鱇のフィレ、蝲蛄(ざりがに)添え。川梭魚(かわかます)のクロケット、ベシャメル・ソース[白ソースの基本。牛乳を入れる。ベシャメルとはルイ十四世の給仕頭だった人物]。ブランダードとトリュフを詰めたヴォロ・ヴァン。舌平目のフィレ、ドーフィーヌ風[一種のジャガ芋のコロッケ添え]。テュルボ[平目の一種]、アンチョビ・バター和え。太い鰻、レジャンス風[トリュフ、茸、フォワ・グラなどが添えられる。レジャンスとは『摂政時代』のこと]。鱸、ヴェネチア風[香草に蝶鮫のピュレや酢を混ぜた白ソース]。鮭、牡蠣ソース。川梭魚のクロケット。鱏(えい)のブクレ、オランダ風。舌平目のバイヨンヌ風[不明。生ハムと舌平目の料理か]。魚のクネル、イタリア風……」
これで、「魚」のパートの三分の一ほどである。こんな料理を年中食べていたルイ18世はなんといったのか。美食が消えつつある、といった後、こう続けるのである。
「美食とともに、古い文明の最後の残り香もね。医者のように、社会の変質を防ぐべく努めるのは人間の有機体なんだ。フランスはかつて美食の習慣がそこかしこにあった。それはいたるところに志をおなじくする者たちがいたからなんだが、それもいなくなったか、ちりぢりになってしまった」
ルイ18世がこう嘆いてから少したったころ、こんなことが起こった。予言は的中したのである。それでは、『食の歴史』にもどろう。
「一七八九年六月、小麦の価格が最高値を更新すると、農民の怒りに火がついた。フランスの人口の三分の二を占める農民は、体制の権力者に反発する中産階級と結託した。フランス革命の始まりである」
フランス革命は「小麦価格の暴騰」がきっかけだった。「食」は怖い。農民たちにとって、ルイ18世のメニューは許しがたかったのだろう。「美食」も「古い文明」もくそったれ! そして、現代が始まった。それは、驚くべき世界だったのだ。
実は、わたしが紹介したかったのは、わたしたちが生きている「現代」の「食」に直接繋がる歴史である。いままでの部分は、そのための、長いプロローグだった。
ルイ18世が嘆いた「文明の残り香」はなくなり、ついに、食の平等が実現した?
いや、そうではなかった。
では、ここから現代まで一気に進みます。振り落とされないように、どうぞ。
我々はいま、なにを食べているのか? そして、食べることとは何か?
「一八世紀末……大衆層は工場で働き始めたため、故郷を離れて暮らす人々が増え……(もともと知らない人ばかりの中で)……食事は次第に会話の場ではなくなった……(それどころか)……増え続ける消費者のために、農産物だけでなく食品も工業生産されるようになった……(それは知ってる)……世界経済の中心地になりつつあったアメリカは、大衆層が賃金の大半を食費以外の消費財に費やすように仕向けるために、食の工業化を進めながら食品のコスト削減に励んだ。その結果、食事および食事中の会話の内容は根本的に変化した。このようにして、会話によって構築される社会そのものが一変したのである……(なんとなくそう思っていたんだよね、でも詳しくも恐ろしい説明は、ここから)……(まずは、都市部労働者のために)……調理済みの食糧を貯蔵するための手段を開発する必要が生じた……(では、その一覧表を)……一八〇二年……ドイツの化学者ツァケウス・ヴィンツェラーは、ガスレンジの原型を開発……一八〇四年……ニコラ・アペールは……食品を瓶詰めにして熱し、密閉することにより、酸素と微生物が入らないようにした……(そればかりか)……ブリキ製の保存缶を発案し、今度は特許を取得した……(瓶詰めも缶詰も同じ人が発明したのかよ!)……一八二六年、イギリスのジェームズ・シャープは、ガスレンジの特許を取得……次に、工業的に製造された最初の食品が登場した。一八三六年……アントワーヌ・メニエという人物が……初の固形のチョコレートを……製造した……一八四七年……ジャン=ロマン・ルフェーヴルと彼の妻ポリーヌ=イザベル・ユティルは……ビスケットを製造した……一八四八年……森林作業員のジョン・カーティスが……トウヒの樹脂からチューインガムをつくった……(そんな、工業製品的食品が一斉に作られるようになった頃、出現したのが、これだった)……一八五八年〔一八三五年とも〕、数学者、統計学者であり、近代統計学ならびに差異心理学……の創始者の一人であるベルギーのアドルフ・ケトレーは、体重と身長の関係から算出される、ヒトの肥満度を表すボディマス指数(BMI)の基礎を考案した……(こうなると、BMIも信じられない)……このころから、油、砂糖、バター、コーヒー、茶、チーズは、工業生産されるようになった……(我々が食べているものの大半が「工業製品」になったのは、僅か一世紀半ほど前なのだ)……(ぜんぜん関係ないけど、これもなんだか気になる記述)……一八八六年、ペンバートンはコカ飲料の調合法を少し変え、これを『コカ・コーラ』という名前で商品化した……一九〇四年、成分表示からコカインの名前が消えた。コカ・コーラの成分は、今日でも公表されていない……(って、コカ・コーラって昔はコカイン入ってたのかい! しかも、成分、いまも不明って、それはともかく、こうやって、様々な工業的発明は、我々が食べる物を、工業製品としていった。もちろん、その中心は、アメリカである)……アメリカは食物そのものだけでなく、食べるという行為、つまり、食事中の話題を含め、人々の食べ方に大きな影響をおよぼし、世界の文化、社会、政治を一変させた。人々は、食事にかける時間を短縮し、体に悪い(工業化の進んだ)食品を食べ、可処分所得に占める食費の割合を削減した……(なんだか、悪い予感がする)……食べることは会話のテーマではなくなった。押し黙って食べるには、うんざりするようなモノを食べなければならない……アメリカの資本主義は、大衆を納得させるために婉曲な方法をとった。『アメリカには新鮮で、多様で、豊富な食品がある。だが、それらは健康によくない。より質素で人工的な食品が必要なのだ』と大衆に吹聴したのである。こうしてアメリカの大衆は、工業的な管理に基づく食品のほうが健康によいと信じた……食に対する大衆層の欲求を減らすために怪しげな栄養学をもち出し、味のことは二の次にするために健康上の理由を掲げ、衛生的だとされる安価な工業製品の食品を購入するように仕向けたのである……(「味」より「栄養」という信念、これこそが、我々がかかっている重い病なのかもしれない)……アメリカの国益のために、粗食が提供されるようになっていった……一八六〇年ごろ……フィラデルフィアの牧師シルヴェスター・グラハムも、アルコール、肉、香辛料、性行為は健康によくないと説いた……グラハムにとって、食の質の基準は味ではなかった。健康によい食品、つまり、味気のない食品を食べるのが正しい食生活だったのだ……当時のアメリカの栄養学者は、炭水化物、脂質、タンパク質の重要な役割を強調し、グラハムの見解と同様に、充分な栄養を安価にとるには、味に関係なくある程度のタンパク質を飲み下せばよいと説いたのである……一八八〇年ごろ、グラハムの弟子で化学者のウィルバー・オリン・アトウォーターは……『カロリー』という概念を食物に当てはめた……この概念によって、食の価値は、味、香り、食感、素材、調理法、また食卓を囲む会話の質などではなく、抽象的に表現されるカロリーという数字だけになった……味は二の次になったのである……(ごめん、「カロリー」、超気にしてます!)……(ヘンリー・ジョン・ハインツが作った)……ケチャップの成分は、トマト、塩、コショウ……そして防腐剤である……(出た、防腐剤!)……ケチャップはどのような料理であっても味を消すために使われるようになり、とくにまずい料理にはうってつけのソースになった……(辛辣すぎる)……アメリカの料理本は、料理の味でなくエネルギー量を明記する点で、ヨーロッパの料理本と異なっていた……カロリー表示とともにビタミンという新たな概念も登場した。このビタミンによっても、味は二の次になった……(ちなみに、ヘンリー・フォードの自動車組み立てラインの元祖は、シカゴの豚肉解体の流れ作業だそうだ、これもびっくり)……(さらに時代は進んだ)……注文してからすぐに食べられる手軽な料理を提供するファストフード店が登場する……顧客を待たせるのは論外だった。そこは会話の場ではなかった……ファストフード店で提供される食物は……脂肪分、塩分、糖分が高い。顧客が安い値段で食欲を満たせるように、冴えない食材を利用する……ファストフード店では、もち帰りもできるようになった……(そして)……食事を介しての社交は終わりを告げた……一九四六年、アメリカのファストフード店は一般家庭とともに、新たに登場した大型イノベーションの恩恵を受けた。それは電子レンジである……この新たな家庭用機器が登場した台所は、調理済みの料理を温める場でしかなくなった……」
そして、いま、我々の食事の風景、それから、未来へ
「今日、世界各地の中間層は、アメリカ型の暮らしぶりを模倣している。多くの場合……居間と食堂が一体化したリビングルームという構造の集合住宅で暮らしている……食事や会話のための場は消え失せた……最近の狭いアパートには台所さえない……最貧層は……昼食を社員食堂あるいは仕事場で素早く済ます……夕食も姿を消す傾向にある……家族が食卓についても、各自が別々の食物を、テレビを見ながら食べるようになった。食事の消滅と家族の崩壊は相関しているのだ……食生活は、他の活動や娯楽の付属的な行為になり、食事という形式は風化しつつある。スマートフォンの画面を常時眺めながら、だらだら少しずつ食べるようになったのである……西側諸国では、日曜日の家族揃っての昼食という伝統も消滅しつつある……しかしながら、料理本の売れ行きは好調である……(SNS)では、食が新たなテーマになった。料理の写真を共有し、コメントや評価を書きこめば、食を分かち合ったような気分を味わえ、社会的な満足感を得られる……二〇一七年一〇月、イギリス人の五人に一人が、自分が食べたものの写真をインターネット上で共有した……現代の若者にとって、食事は二の次である……フランスの若年層……の六一%は、少なくとも二食に一食はパソコンの前で食べる……(せっかくだから、未来を予測しているところも読んでみよう、悪い予感しかないのだが)……最初になくなるのは朝食だろう……次に、昼食がなくなるだろう……そして、家族で食べる夕食がなくなる。これと同時に、家族は崩壊するだろう。独り暮らしなら、少なくとも夜は個食……人々は決まった時間や場所で食べなくなり、これまで以上に早食いするようになるだろう……(孤独になった人間は糖分や脂肪分をたくさんとるようになるだろう、孤独な人間がいままでアルコールや薬物に手を出したように、それで健康でいたいと思うなら、どうなる? 社会が、個人の健康状態を監視してくれるだろう。いや、もっと先がある)……超監視型の次は、各自が自分自身で自己を監視する自己監視型社会に移行しそうだ……ノマド・グッズと家庭用機器が自己監視の道具になるだろう。たとえば、インターネットに接続された腕時計が血糖値と血圧を常時計測し、『この時間にそのような食物を食べてはいけない』などのアドバイスを発するという具合だ。医師や保険会社は、インターネットに接続された冷蔵庫を利用して在庫状況を把握し、自分たちが課す食餌療法に見合う食物を摂取するように指導するだろう……その結果、われわれは死という恐怖に怯えて人工物を食らうロボットのような存在になるだろう……われわれは沈黙の監視型社会で暮らすことになるだろう。長寿を約束する独裁者に身を委ねるのである」
ふう。700万年を一気に過ぎ、ついでに未来にまで侵入してしまった気分は如何であろうか。呆然とされたのではないだろうか。
AIは急激に進化して、アップルのSiriさんや、アマゾンのアレクサちゃんは、もしかしたら、人間以上(?)と思えるほど、ユーモアを交えてしゃべってくれる。そりゃもう、間違いなく、「ねえ、アレクサ、ぼく、朝食には何を食べたらいい?」と訊くと、懇切丁寧に教えてくれた上に、必要な食材を、(もちろん)アマゾン上で購入してくれるだろう。自分で料理をするのが面倒くさいなら、それらの食材を簡単に調理してくれる業者が生まれ、それをあっという間に「ウーバー・イーツ」的ななにかが、運んでくれるようになるだろう。そこで、我々がやっているのは、「食事」というより「燃料補給」の一種なのかもしれない。そういえば、そんなCMもあったが。「××チャージ!」とか。いや、もしかしたら、我々の方こそすでに、サイボーグの一種になりつつあるのかもしれないのだ。
では、レストランはどうなのか。
これもまた、みなさんよくご存じのように、誰もがみんな、出てくる料理をスマホで撮影する。一つ一つをだ。いや、料理だけではなく、こんなものまで撮るのかよ! というものまで撮影し、SNSにアップする。食事はその後だ。もう何年も前のこと、ある有名なレストランが、このような食事中の撮影で、平均食事時間が倍近くなったので、撮影禁止にしたところ、客が、大幅に減ったという記事を読んだ。「撮影させてくれないなら、行かない」のである。
もっと恐ろしいのは、相手ではなく、スマホを見ながら食事するカップルだ。彼らは、ふたりで一緒に「個食」をしているのである。そして、さらに恐ろしいのは、わたし自身である。最初のうち、彼らのようなカップルを見てショックを受けたのに、いまやもう、そんなカップルを見ても、なにも感じなくなってしまったのだ。
アタリさんは、わたしたちはみんな、「監視された沈黙のなかでの個食」に移行しようとしていると警告している。いや、実際には、沈黙ではなく、Siriさんかアレクサちゃんが、「美味しいですか」と話してくれると思うのだが。そして、その一方で、世界の「最貧層」は、栄養失調で大量に亡くなるか、「最貧層」向けの、「保存料、着色料、甘味料、風味強化剤」を大量に添加した「超加工」食品を食べるしかなくなっている。「最貧層」たちが住む地域の食品の多くは輸出に回されて、自分たちの口には入らないか、あるいは開墾が進み過ぎて土地が荒れてしまうからである。
わたしは持っていないが、アップルウォッチには、心電図機能もついているし、血中酸素濃度を測定してくれて妊娠可能期間まで教えてくれるそうだ。当然のことながら、からだのすべての状態を把握し、「なにを食べればいいのか」を教えてくれる時期が来るのも遠くはないだろう。この点でも、家族単位ではなく、個人単位でこそ、これらのAIちゃんたちは、力を発揮してくれるのである。
アタリさんの指摘は、ときに過剰にも見えるが、実際には、どれもどこかで見た光景であることだけは間違いない。
わたしも、ダイエットの始めは、「カロリー」と「栄養」しか考えなかった。わたしは、わたし自身を、「栄養」という「燃料」や「材料」を投入して、長く、その「運動機能」を維持するための「身体」という「もの」と見なしていたのかもしれない。
「ダイエット本」や「健康のための食事ガイド」に、「会話」や「監視社会」のことは出てこないのである。
では、どうすればいいのか。『食の歴史』の終章のタイトルは「食べることは重要なのか」だ。それが、アタリさんの最後の問いである。
我々は「食」の危機に直面している。しかし、よく考えてみれば、「食」だけが危機なのではない。ある意味で、「食」は、我々が直面しているまったく新しい、巨大な「危機」のシンボルなのかもしれない。アタリさんは、こう書いている。
「個人、人類全員、そして地球にとって、食を、健康、社会の安定、楽しみ、分かち合い、創造、喜び、自己超越、他者との出会いの源泉にする必要がある。食は、人生と自然を分かち合う一つの方法であり、体と心を最善の状態にするための手段であり、自然との触れ合いを見直し、これを失わないようにするための貴重な機会なのだ」
我々の「食」の旅はまだ続くのである。
撮影/中野義樹
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。