読み物
第10回 食事はどこから来たのか、食事とはなにか、食事はどこへ行くのか
更新日:2021/07/21
流れゆく日々
人間ドックの結果が来た。特に問題はない。血管年齢が35歳の平均だそうだ。容貌は、そうじゃないんだが……。でも、それは仕方のないことだ。
でもって、最近、体調がめっぽういいのである。以前難しかった連続睡眠が可能になったことは、確か前回書いたような気がする。放っておくと、7時間でも8時間でも連続して眠れるのである。目覚めもさわやか。
実は、体調が良すぎて困ることもある。油断していると、体重が61キロ台に減ってしまうのだ。食事の量は、以前と変わらないのに、である。医者からは「基礎代謝が良くなったからじゃないですか」といわれた。これでは、食事の量を増やさないと、体重が減少に転じてしまう。こんなことで困るようになるとは、びっくりだ。心置きなく、体調の良さを味わっておきたい。いつかは、そうでなくなるときがやって来るのだから。
昨日、駅前の東急へ行って「レモン搾り器」を買った。さっそく、それを使って、今朝はネーブルオレンジを搾って飲み、朝昼兼用の一回目の食事は、「米化オートミール」の上に「冷凍ナムル」を解凍したものと、半熟ゆで卵(色の変化でゆで具合がわかる「ゆで卵器」が超便利、もちろん、卵の底に穴をあける「穴あけ器」も使っている)を載せて、ビビンバを作ってたべた。美味しい。ビビンバなのに米は不要だ。
せっかくなので、ひとこと申し上げておく。「米化オートミール」について、である。これはけっこうすごい。考え出した人が誰かは知らないが、ノーベル賞級の発見ではないだろうか。通常、オートミールを食べるときの割合は、オートミール30g+水180ccだ。ところが、「米化オートミール」の場合、水は50ccでかまわない。平たい皿に敷いたオートミールに水をかける(わたしは、最初からかきまぜることにしている)。そして、ここがポイントなのだか、薄く平たく延ばす。そして、ラップをせずに、500Wで1分チン。そして、出てきた熱々のやつを素早くかき回す……すると、どうだ、オートミールが米状になっているのである! おにぎりだってチャーハンだってできるんですよ。中には、「じゃあ、最初から米でいいじゃん」と言い出す人もいるかもしれないが、中身が違うんですってば。
そういうわけで、気がつくと、どんどん、調理器具も増えている。もちろん、料理のレパートリィも。冷蔵庫の中は、常に食材で満載だ。それから、調味料も。サイゼリヤで「やみつきスパイス」まで買ってしまった。もはや、ラム料理の必需品ではあるまいか。サイゼリヤの素晴らしさについては、いつか書いてみたい。とはいっても、「サイゼリヤ専門家」の妻に取材した方が早いかもしれないが。
ところで、わたしが(自分用の)料理を作るのは、仕事場だ。家での調理は、もっぱら妻にまかせている。なので、わたしは、仕事場専用シェフをやっている。
まさか、こんなに熱心にダイエットや食事に気をつかうようになるとは予想もしていなかったのだが、なんと、わたしが仕事場として使っている部屋は、もともと、レストランだったのである。
「えっ、信じれらない」って? ですよね、書いているわたしも信じられない。
鎌倉の「小さな秘密のレストラン」として知られた名店が、市内で引っ越すことになり、いきなり空き部屋が出来た。そこで、オーナーであった妻のお母様に「タカハシさん、仕事部屋にどうです?」といわれたのである。もっとも、いま、仕事部屋に入っても、そこが「元レストラン」であったとは誰も思うまい。どう見ても「書庫兼ガラクタ置場」である。ちなみに、十畳(~十二畳)程度で、窓はない。
「元レストラン」ではあるので、当然、調理場がある。そもそも、わたしの仕事にはなんの関係もないので、しばらくは放置していたのだ。だが、ダイエットのため自分で調理するようになって、突然、「これは便利!」と気づいたのだ。3連のガスコンロ、オーヴン、大きな冷蔵庫はもちろん、製氷機まである。それから、調理場の棚には、たくさんの調理道具も! 道具の多くは、当然、元レストランの方々が持っていったのだが、そのまま残していかれたものもある。わたしには、十分すぎる。
朝起きると、まず、調理場に行く。小さな鍋に水を1杯入れて湧かし、有機「柿の葉茶」のティーバッグを入れて5分。それが朝の1杯目だ。そして、冷蔵庫の扉を開けて、中身を確認し、「今日の献立」を考える。セロリとレッド玉ねぎとサラダほうれん草とキャベツがあるから、そいつはサラダにして、キヌアを入れ、ドレッシングには、バルサミコ酢と梅干しを使ってみるか。こんなことを呟く日が来るなんて、10年前の自分に教えてやりたいです。というか、一日の最初には、まず、自分の作品のことを考えろよ……。いや、そうではない。「献立」を考えることと「作品」について考えることは決して無縁ではないのだ。今回は、そのことについて考えてみたい。もはや、ダイエットという課題を超え、人はなぜ生きるのかという、もっとも根本的な問題について考えてみたいのである。じゃあ、まあ、その前に、「有機ルイボスティー」でもどうですか? 無印良品の食品売り場にあるやつです。無印良品の食品売り場のラインナップの素晴らしさについても書きたいことはたくさんあるのだが、それはまた、いつか!(そればっかり)。
人類はなにを食べてきたのか
ジャック・アタリの『食の歴史 人類はこれまで何を食べてきたのか』(林昌宏訳、プレジデント社)を読んだ。唸るしかない、と思った。ほんとにすごい。すごすぎる。
アタリさんは、1943年旧フランス領アルジェリア生まれの……職業は何というべきなのだろう。元々はミッテラン大統領の特別顧問をしたり、欧州復興開発銀行初代総裁を歴任したりしたのだから、フランスの体制の中心にいた人といえるだろう。そして、とてつもなく博学な知識人でもある。つい先頃亡くなった立花隆さんをさらにバージョンアップして、哲学風味をつけた役人……って、フランスという国家の懐の深さを感じさせる人物である。
「3・11」の後、原発問題についてずいぶんたくさんのものを読んだ。わかったのは、体制側と反体制側、原発推進派と反原発派の間に、超えられない「溝」のようなものがあって、議論がかみ合わないということだ。その点でも、アタリさんの書いたものだけは別格で、強力に原発を推進しているフランスの国策に深く関与しているにもかかわらず、その施策のほころびについて厳しく批判しているところがカッコよかった。要するに、「自分の頭で考える」人なのである。
そんなアタリさん、あらゆる分野の本を出しているけれど、得意なのが歴史物。それも、半端じゃない。たとえば、『海の歴史』(林昌宏訳、プレジデント社)という本、「宇宙の誕生」から始まってるんですよ! 宇宙⇒太陽系⇒地球⇒水⇒海、って壮大すぎるでしょ。でもって、生命の誕生⇒人類の誕生⇒人類、海に乗り出す⇒「海の歴史」開始。そして、たどり着くのが「海の汚染と人類絶滅」って……まあ、いちばん最後に、そうならないためにはどうすればいいのかという結論になるわけですが。読んでいて驚くのは、あらゆるものを調べ尽くし、投入しているように思えること。だから、アタリさんの本を読んでいると、「5倍速」で本を読んでいる感じがする。
はい、そんなアタリさんが「食の歴史」を書いたのだから、ふつうじゃないだろう、と思っていたら、やっぱり! 今度は「10倍速」! 「食べる」ということに関して、考えうる資料にすべてあたる。それはわかる。そして、ふつうなら、3000頁以上になりそうな内容を、300頁ちょっとに圧縮して、こちらの脳に叩きこもうとしているのである。
では、みなさんと一緒にこの「10倍速」の本を読んでいくことにしよう。この連載は、食べることと食べるものについて考えてきた。アタリさんは、そのテーマについて、おそらく、誰よりも深く考えてきた哲人であろう。そんなアタリさんが教えてくれる膨大な知識とメッセージに触れながら、われわれはさらに前へ進んでゆきたいと思っている。
当然、こちらとしては、もともとすでに強烈に圧縮してあるアタリさんの思考を、さらに圧縮して紹介する必要があるので、結果として「100倍速」で読むことになると思いますが、そこんところよろしく。
食べること、食べもの、その前に、口!
「人間は母親の胎内にいるときからすでに食べ始めている。そして人間は自分自身の口を使ってあらゆることを行なう。食べ、飲み、話し、叫び、懇願し、笑い、接吻し、罵り、愛し、嘔吐するのだ。また、話すことと食べることは不可分であり、権力と性行為、生と死という、人間の本質に還元される。こうしたことも、われわれの間では忘れられてきた。
太古の時代から、食には生命を維持する以上の役割がある。食は、快楽の源泉、言葉の基盤、エロティシズムの不可欠な側面、主要な経済活動、交換の枠組み、社会組織の重要な要素でもある。他者、自然、動物との関係を定めるのは食である。食は男女の関係にも大きな影響をおよぼす。
食が欠乏すれば死ぬし、食べすぎても死ぬ。食が支える会話が途絶えると、われわれは生存できない。食は文化の創造と発展に不可欠なのだ。つまり、農業、料理法、食生活は、社会が持続するための基盤だったのだ」
最初に、アタリさんは宣言している。「食べる」ことは、ただ「食べもの」を「口」から入れて栄養にすること、だけではないのだと。そうなのかも。いや、絶対にそう。なんとなく、わたしもずっと、そんなことを考えていたような気がする。
そもそも、「ダイエット」の連載なのに、なぜ、「本」の話ばかり書いているのか、不思議に思われた読者も多いかもしれない。それは、「食べる」ということが、人間にとってもっとも本質的な行為だからだ。だとするなら、そのことについて、たくさんの人たちが考えてきたにちがいない。ヒントは、どこかにきっとある。おそらくは、「本」の中に。とりわけ、一見関係なさそうな本の中にも。そう思ったのである。わたしが、薄々感じていたことを、アタリさんは、ズバッと指摘している。
それにしても、確かに、赤ちゃんは、母親の胎内で「食べている」。もちろん、栄養は「へその緒」から吸収しているのだが、胎内の赤ちゃんを撮影した映像を見ていると、ちゃんと「パクパク」やっている。外から、「口」を通して何かを取りこむ練習を、生まれる前からやっているのだ。ケナゲだよね。それから、いうまでもなく、生まれ落ちた瞬間から、誰に教わるわけでもないのに、母親の乳房に吸いつき、懸命にお乳を吸う。羊水ならたらふく呑んだ、今度はお乳だ。そして、お乳こそ、人間という生きものに必要な栄養素をすべて備えた完全食なのである。まあ、そんなことは、みんな忘れてしまうのだが。
忘れているのは、赤ん坊の頃のことだけではない。大昔のことだって忘れてしまう。というか、そもそもなにも覚えてはいないのである。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。