読み物
第7回 肉か、野菜か、それが問題だ……
更新日:2020/12/23
戦いの日々
今回、わたしは、ベジ派、反ベジ派を代表する本を探し、読んでみることにした。感想は……まあ、後にすることにして、その前に、読んだ本のタイトルを並べてみよう。
『わたしが肉食をやめた理由』(ジョン・ティルストン 日本教文社)
『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(マルタ・ザラスカ インターシフト)
『完全菜食があなたと地球を救う ヴィーガン』(垣本充・大谷ゆみこ KKロングセラーズ)
『肉食の哲学』(ドミニク・レステル 左右社)
『長生きしたけりゃ肉は食べるな』(若杉友子 幻冬舎)
『50歳からは肉を食べ始めなさい』(藤田紘一郎 フォレスト出版)
『もう肉も卵も牛乳もいらない!』(エリック・マーカス 早川書房)
『ビーガンという生き方』(マーク・ホーソーン 緑風出版)
『肉食という性の政治学 フェミニズム-ベジタリアニズム批評』(キャロル・J・アダムズ 新宿書房)
『動物の解放』(ピーター・シンガー 人文書院)
どうだろうか。出るのは、苦笑だろうか、それとも、ため息だろうか。はたまた、悲しみの涙なのか。世界は、ベジ派と反ベジ派(というか肉食派)に分かれて、和解不能な戦いが進行中なのかもしれない。わたしのように、「いまは基本野菜だけど、肉を食べたいときには肉を食べるし、お菓子もお酒もオッケー」などというような、中間派、いや、日和見主義者は、どちらからも唾棄されるのかもしれない。
しかし、不思議なのは、出版関係では優勢に見える「ベジ(もくしはヴィーガン)派」が、現実には、それほど圧倒的な力を持っているわけではないように見えることだ。
牛丼チェーンやハンバーガーチェーンはよく見かけるが、なかなか、「ベジ派」のチェーン店は見かけないのである。
いや、それだけではない。この「ベジ派」と「反ベジ派」の抗争は、もはや、「食べる」というようなところでは収まらないのではないか。「生き方」や「真理」を巡る、一種の「宗教戦争」あるいは「思想戦争」の色合いも濃いように見えるのである。たかが食事、されど食事なのだ。
わたしは「これ」で肉食をやめました
では、肉食をやめてベジタリアンになった方の体験談を聞いてみよう。『わたしが肉食をやめた理由』(小川昭子訳、日本教文社)のジョン・ティルストンさんである。
「一〇年前、妻がベジタリアンになると宣言した。家族に強制はしないというが、料理はもっぱら妻が作っていたから、わたしたちにいくらか影響がおよぶのは避けられない。
しかし、わたしや子供たちはあまり気にはしなかった。もっとも、当時一〇歳だった末っ子のジャレドは、それよりずっと以前から食事のときに料理の原材料について知りたがり、『ねえママ、これは牛さんのどこのお肉?』といった質問を繰り返していた。答を聞いても彼の気は休まらず、ジャレドは自然にベジタリアンになってしまっていた」
わたしの知る限り、この短い文章の中に、人がベジタリアンになる、典型的なきっかけが二つ書かれている。一つは、(食事を作ってくれる)妻が先にベジタリアンになるから。もう一つは、「これは牛さんのどこのお肉?」問題である。
一つめの「妻が先」問題は、そもそも、妻にのみ食事を作らせてしまう家庭が多い上に、妻がベジタリアンになったら、まあそれでいいかもと従ってしまう、夫の(食事に関する)主体性のなさを浮きぼりにするだろう。そして夫婦とは何か、家事とは何か、という深刻な問題に行き着くので、今回はパスである。
二つめの「牛さんのどこのお肉?」問題も、きわめて深刻だ。わたしの知人は、幼い頃、ニワトリ(名前を「××ちゃん」とつけて可愛がっていた)を飼っていたが、クリスマスにニワトリの丸焼きがでてきたので、「これは?」とお母さんに訊いたら、「××ちゃんよ」といわれたのが、生涯最大のショックだったと述懐している。
ちなみに、以前も書いたかもしれないが、長男と次男の通っている学校では、育てたブタさんの肉でソーセージを作ったが、ふたりとも平気で食べ「美味しかった」といっている。もちろん、ふたりは、「ベジ派」でも「反ベジ派」でもない。
さて、ジョン・ティルストンさんの本を読んでいると、だんだん憂鬱な気分になってくる。
ジョン・ティルストン『わたしが肉食をやめた理由』 小川昭子(訳) 日本教文社
「肉を食べることについての懸念は、大きく分けて三つある。ほとんどの人は動物の苦しみを心配する。どのように飼育され、どのように殺されるかといったことだ。菜食は健康にいいと売り込む人たちもいる。そしてここ一〇年ほどの間に、世界の六〇億人が肉を食べると環境にどんな影響がおよぶのか心配する人々が登場した。わたしは最初、この環境問題にいちばん興味を持った」
では、環境問題と「ベジ」の関係とは?
「食肉用に飼育される家畜は世界の穀物生産の約三分の一を消費するが、アメリカではこれが約七〇パーセントまで上昇している」……。
要するに、世界で生産される穀物の三分の一を家畜が食べているために、その一方で、穀物そのものを食べられない人々が増えているのである。
「それなら魚に切り替えればいいではないか」
……いや、だが……。
「世界の漁獲量がピークに達したのは一九八八年で、その後は一年ごとに平均三〇万トン程度ずつ減少していると言われている。
一九八八年(または一九九六年)までの着実で目覚ましい漁獲量の増加は、高い代償をともなっていた。われわれは主な魚種の資源を涸渇させたのだ」
とまあ、こんな具合である。このような地球環境の激変と食料資源の枯渇を防ぐためには、畜産を廃止して、穀類の生産に全力を集中しなければならない、というのは、すべての「ベジ派」の共通意見といっていいだろう。とはいえ、ティルストンさんは、「一切肉を食うな」という原理主義的ベジタリアン(すなわち「ヴィーガン」である)ではない。
「今日、肉をたくさん食べるのがよいと言う栄養士や研究者はいないが、肉や魚をほんの少し食生活に取り込むことは支持されている。ハーヴァード大学公衆衛生学部による研究では、たっぷりの野菜や果物にほんの少し肉を加えた食生活がいちばん健康的であることが判明した。(中略)
調査の対象となったのは、肉も魚も卵も乳製品も食べないビーガン、肉や魚は食べないが卵と乳製品は食べるベジタリアン、そしてときどき肉を食べる人だった。
三つのグループを合わせると、同時期の同じ年齢帯の一般人の死亡一〇〇人に対して平均五九人が死亡した。しかし、肉をまったく食べないのがいちばん健康的な食生活ではないことを、研究者は発見した。ビーガンの死亡一〇〇に対してベジタリアンは六六、ときどき肉を食べる人は六〇だったのだ」
というわけで、ティルストンさんは、「ときどき肉を食べる」ベジタリアンになっていく。いや、それなら、わたしとだって話が合いそうだし、このコラムを読んでいるみなさんとだって、意見が合うかもしれない。けれども、この柔軟性のあるベジタリアンの道は、ティルストンさんにとって、不幸な結果を招いたのである。えっ、ガンになった? 糖尿病? 心筋梗塞?
「ところで、二年ほど前、まったく思いがけず、わたしはこの空想(高橋注、妻がいなかったら、食事が貧しいものになっていただろうという空想である)を試されることになった。シーラが去っていったのだ。インターネットを通じて好きになった男性をベジタリアンにするためということだったが、ほかの理由も挙げていた覚えがある」
さすがに、わたしも、この箇所を読んだ瞬間、「マジかよ!」と叫んだ。ダイエットの本を読んでいて、叫ぶことがあるとは思いもよらなかったのだ。どうも、奥さまは、夫の想像を超えて成長していったのである。もしかしたら、この精神の成長こそ「ベジタリアン」であることの意味なのかもしれない。「ときどき肉を食べる」などという、中途半端な夫を捨て、共に戦う同志を求めて、シーラさんは旅立ったのだ。すごいねベジタリアン、そんな力があるなんて。ただ食べて健康であればいいと思っているわたしたちとは違うのである。
実は、この本が、わたしが読んだ最初の「ベジタブルな」本であった。というか、「ベジタブルな」本としては初級にすぎない。こんな態度がふらついたベジタリアンの本は、実は少ない。シーラさんが呆れて、出てゆくわけである。
では、どんな本が、あるのか。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。