対談連載 沖縄にとって「戦後」とは何か 目取真俊×木村元彦
夕凪/PIXTA

第二部 加害と戦争責任

第5回

加害と戦争責任

更新日:2026/01/28

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2025年8月、目取真俊は突如、沖縄県警による家宅捜索を受けた。翌月、東京へ赴いた目取真は靖国神社・遊就館と、川越市にある中帰連記念館を訪ねる。同じ頃、木村元彦は、天皇の戦争責任を独自に問うた帰還兵、奥崎謙三を主人公に据えた映画『ゆきゆきて、神軍』と向き合っていた。
異なる体験を通じて奇しくも同じ対象を捉えていた二人の対談から、今日の沖縄が置かれた状況、その起点とも言える先の戦争における加害、戦争責任を問い直す。

木村
読者も気になっていると思うので、今回目取真さんが受けた家宅捜索について、聞きたいと思います。8月に沖縄県警によっていきなり、キャンプ・シュワブのフェンスの一部を壊した「器物損壊」の疑いでパソコンや携帯を没収された事件。損壊と言っても工事現場を撮影しようとして経年劣化で壊れやすくなっているフェンスに手をかけたら壊れたことに過ぎず、作家にとって重要な執筆と外部への連絡がこれで絶たれた。明らかに国策に反対する市民を萎縮させる見せしめ捜査だった。
目取真
辺野古新基地建設の一環で、美謝(みじゃ)川の切り替え工事というのをやっています。河口が大浦湾の埋め立て予定地にあるので、外側に新たな河口を作るため川の流れを切り替える工事です。その工事の様子を防衛局は見られたくないわけです。それでフェンス作ってネットを張り目隠ししたけど、経年劣化でぼろぼろになっています。それを私が破損したと防衛局が訴えて、警察はそれを口実に家宅捜索を行ったわけです。パソコン、スマホ、Wi-Fiのルーター、カメラ、衣服、帽子、ポシェットが押収されました。電話やインターネット、メールが使えないから、人と連絡もできないし情報収集や発信もできない。新たに買うにはお金がかかります。多くの人が県警に行って抗議してくれたり、いくつかの団体が抗議声明を出してくれたこともあって、1週間ぐらいで返ってきました。これは例外的なことで、半年や1年返さないとかもあるみたいです。警察から2回事情聴取受けましたけど、完全黙秘をしたので1回目は1時間、2回目は10分で終わりました。


沖縄防衛局が設置したフェンス(目取真氏ブログ「海鳴りの島から」より)

木村
警察の判断は要するに、沖縄防衛局が持ち込んできたからというわけですね。
目取真
防衛局が訴えてきたからやらざるを得ないみたいなかたちで。現場に行って経年劣化のひどさを見れば、無理筋だというのは分かります。押収物にペンチやカッターなど工具類はありません。米軍基地や工事現場のフェンスは侵入防止のために設置されていますから、金属製の頑丈なものです。素手で壊せるわけがありません。
木村
警察自体は器物損壊と言ってもその実相は知っていた。しかし、それぐらいのことでやっぱり打ってくるんだなってのは、防衛局自体、もう、焦りなのか、危機感持って何でも仕掛けてくるわけですね。
目取真
辺野古の現状から言えば、抗議行動の参加者はコロナ以降少なくなっています。オール沖縄の運動も力が弱くなっています。高齢のため抗議行動に参加できなくなる人もいるし、労働組合や政党、市民団体の組織力も弱くなっています。一方で、沖縄防衛局にしても大浦湾の軟弱地盤の問題などがあって、工事は大幅に遅れています。軟弱地盤の改良工事が終わらないと大規模な埋め立てができない。しかし、軟弱地盤は最深部が90メートルもあって、海洋土木の専門家も工事の難しさを指摘しています。防衛局からすれば、工事の実態を知られるのが嫌なのだと思います。
現在は戦争のやり方が大きく変わってきています。ウクライナの戦争はドローンが主流になっていますし、これからはAIの導入によって無人兵器の使用が拡大します。辺野古新基地は滑走路が短く、輸送機が運用できない問題もあって、機能面から普天間基地の「代替施設」にはなり得ません。敗戦から80年が経っているのに、米国のために新たな基地を造ること自体が異常です。これ以上、時間と予算を浪費することはやめて、少子化対策や物価対策、教育、研究開発、産業育成に予算を回すべきです。
木村
本当に実戦を考えたら、現実的ではない基地のために予算をいつまでも突っ込むのではなくて、日本の実体経済の強化のために投資すべきであると。
目取真
辺野古新基地建設は利権の巣窟になっています。ゼネコンが大本の工事を受注し、沖縄の企業が下請け、孫請けとなる。辺野古新基地建設はヤマトゥのゼネコンと、その下にある沖縄の建設業者、そこと結びついた政治家、官僚、地域ボスらの金儲けの場と化している。そうやって予算と時間が浪費されているわけです。
木村
映画『沖縄狂想曲』にも描かれていましたが、実際には米軍は基地の縮小を拒んではおらず、日本人政治家が米軍を利権利用している。埋め立て工事で稼ぐのが安倍晋三元首相の地元である山口県宇部市のUBEで、そのクライアントが「麻生セメント」。軟弱地盤が分かって費用がいくらかかるのか分からないのにストップをかけない。


『沖縄狂想曲』(2024年)

目取真
沖縄防衛局員にしても、新基地建設が日本の平和と安全に貢献していると考え、高いモチベーションをもってやっている人はどれだけいるのでしょうか。自分のやっていることを真摯に見つめ直したら、造る意味があるのか?とまともな頭だった考えるはずです。基地利権温存のために10年、20年と工事が延びて、普天間基地はいつまでたっても返還されない。これが日本政府の言う「1日も早い返還」の実態です。そうこうしている間に、東アジアの状況が大きく変わっていくわけです。日本はその変化に対応できるんでしょうかね。
木村
目取真さんはこの夏、靖国神社と中帰連平和記念館を両方、視察に行かれたわけですね。
目取真
7月10日から9月14日にかけて靖国神社の遊就館で、終戦80年企画として「青少年に伝えたい 沖縄戦の学徒隊、特攻隊」というパネル展が開かれていたので見てきました。内容は皇国史観そのもので、沖縄の学徒や特攻隊員が自ら戦場におもむき、国のために命をささげた、というものです。それに対して中国帰還者連絡会(=中帰連)は、日本兵が中国で行った虐殺や強姦、略奪などの蛮行を、実行した日本兵自らが証言し、反省してきました。靖国神社のような日本の加害の歴史を隠蔽したい勢力が、一番触れられたくない事実を伝えています。


『三光』(光文社、1957年)


『私たちが中国でしたこと』(緑風出版、2002年)

中帰連平和記念館は、博物館というよりも証言記録や資料を保管し、公開している場所なのですが、館を運営している方からビデオを見せてもらい、丁寧な説明を受けました。資料もたくさんもらいました。事前に中帰連の会員の証言を集めた『三光』や『私たちが中国でしたこと』などを読み返したのですが、今回、同館を訪ねたいと思ったのは、沖縄戦とも関わりがあるからです。沖縄に来た第62師団は、中国の山西省で戦っていた部隊を再編成したものです。山西省で八路軍という中国の共産党軍と戦っていた日本兵たちは、ゲリラ兵掃討のために村に入り「三光作戦」を行っていました。三光とは、殺光、焼光、略光の三つで、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす、という意味です。それを行った兵士たちが第62師団にはいたわけです。彼らは自分たちが中国でやってきたことを、捕虜になったらこんな酷い目に遭う、と沖縄の住民に話して聞かせるわけです。そして、絶対に米軍の捕虜になるな、と指示する。そうやって吹き込まれた恐怖が、住民の「集団自決」につながります。それだけでなく、敗残兵となった彼らは、沖縄の住民にも同じことを行うわけです。第62師団に限らず、沖縄に来た日本兵は中国で戦っていた兵士たちで、現地調達という形で食料を強奪し、敵軍の協力者とみなせばスパイとして虐殺するという、中国でやってきたことを沖縄でもくり返したのです。
班忠義著『ガイサンシーとその姉妹たち』という本がありますけども、山西省で一番美しいといわれた女性を日本軍は現地で慰安婦にするわけです。彼女は自分が慰安婦になるから、ほかの女性たちには手を出さないでくれといって犠牲になった。慰安所のない地域で日本軍は、村の女性たちを拉致したり、暴力で脅して慰安婦として連れまわしていたのです。第62師団の一員で沖縄戦を生き延びた近藤一さんという方がいます。彼は中国山西省と沖縄の両方の戦場で体験したことを証言していて、90歳を過ぎても沖縄に来られて慰霊祭に参加していました。彼の証言には、部隊が赤ちゃんを連れた中国人女性を連れ歩いていて、ある時、泣いた赤ちゃんを日本兵が奪い取って谷間に投げ捨てた。するとお母さんもすぐにあとを追って身を投げたことや、自身の強姦、輪姦体験もあります。そういう中国戦線から沖縄戦へと連なってくる日本軍の蛮行がある。敗戦から80年の節目である今年、中帰連平和記念館はぜひ訪ねようと考えていました。


『ガイサンシーとその姉妹たち』(梨の木舎、2011年)

木村
そうですか。
目取真
靖国神社の遊就館の展示方法は、日本軍がやった犯罪行為の事実を排除した上に成り立っているわけですよ。本当にものの見事にないですからね。日本軍が中国でやったことはもとより、太平洋戦線のガダルカナル、ニューギニア、ビルマ戦線のインパールなどで兵士たちが体験した地獄の戦場に目を向けないで、戦争の何が分かるのか。靖国神社側はそういう日本軍が行った戦争の否定面を隠蔽して、皇軍として美化していくことに力を入れている。そうやって戦争の美化が進められるとき、私がとても危険に思うのが生成AIを使った写真の加工です。


靖国神社 遊就館 Buuchi / PIXTA

木村
AIね。
目取真
AIを駆使したインターネット上での戦争美化が広がっていくと思います。すでに特攻隊やひめゆり学徒隊などの写真をカラー化、動画にして音楽をつけたものが投稿されています。そこに「私たちは美しい日本を守るために戦いました」という音声をつけて、学徒に語らせることも可能です。遊就館のパネル展は、学徒の証言や遺書から都合のいい部分を切り取って、文字と写真、マンガで構成しています。これをAIで動画にすることも可能になっています。こういう状況だからこそ、日本が中国でしたこと、下級兵士たちが戦場でどのように死んでいったか、その事実に目を向けることが大事だと思います。
木村
中帰連は帰国した兵士、当事者の人たちが、「日中友好」と「不戦」をテーマに戦争証言を続けてこられた。そこで平和への遺志を受け継ぐ場として資料を収集し整理し閲覧に供された。何か印象に残る資料はありましたか。
目取真
時間があまりなかったので、中の細かい資料まで逐一当たることはできませんでしたが、山住正己(元東京都立大名誉教授)さんが寄贈した本が保管されていました。中国から寄贈された撫順(ぶじゅん)の戦犯収容所の資料や会員たちの証言資料、映像資料など貴重なものがありますから、メディアがもっと活用してほしいですね。
木村
遼寧省にあった撫順戦犯管理所ですね。戦後にソ連から引き渡された1000人近い日本人戦犯が収容されていたという。
目取真
ただ、情報の発信力になると靖国神社とは比較にならないのが現実です。都心にある靖国神社に比べて、記念館は埼玉県にあって行きづらいし、日本政府や世論も加害の歴史には関心が低い。中帰連の存在をどう伝えていくか、大きな課題だと思います。


中帰連平和記念館(同館HPより)

木村
靖国はいわば、政治家が右派にアピールしていくうえでのアイコンにされていますからね。小泉純一郎は首相になるまで靖国についてはほとんど無頓着であったのに党員票を確保するために公式参拝を公約にした。違憲判決まで受けながら、最後は8月15日に参拝した。読売新聞の渡邉恒雄元会長は、本来保守の論客でありながら、総理の靖国参拝を強く批判し続けてきました。「A級戦犯が分祀されない限り、政治的権力者は公式参拝すべきではない」と述べていたし、さらには特攻や玉砕という美辞で若者の命を奪った日本軍幹部を「加害者」と弾劾していた。これなどは19歳で徴兵されて意味もなく上官に殴られ続けた戦争体験者としてのナベツネの揺るぎのない主張でした。中帰連平和記念館については埼玉県民でもなかなか知ってる人が少ないので、そこは何か、この対談も含めてですけど発信していきたいですね。
目取真
はい。やった側は忘れても、やられた側は忘れません。日本軍がかつて中国で何をしたか。目を背けたい歴史であっても、それを学ぶことは、これからの日中関係を築くうえでも重要だと思います。
木村
私の方は戦後80年企画で、講談師の神田香織さんによる「はだしのゲン」の公演を岐阜市で行う企画に協力したんですが、その際に2024年にノーベル平和賞を受賞した日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の木戸季市前事務局長が岐阜に住んでいるのを思い出して、アフタートークに出演を依頼する手紙を出したんですよ。木戸さんは5歳のときに長崎で爆心地から2キロの自宅前で被爆しているんですね。木戸さんは突然の手紙にもかかわらず、広沢虎造などの話芸が好きだというのと、はだしのゲンの弟の進次とほぼ同じ世代ということで、快諾して話してくれました。そこでいきなり聴衆に向かって「皆さん、原爆を落とさせたのは誰か知っていますか?」と問うたんです。正解は米国大統領トルーマンというのかと思っていたんですが、木戸さんは「天皇です」と言われた。加害は国際法を明らかに違反した米国の責任はもちろんですが、天皇の名の下で戦争を始め、国体護持(天皇制の維持)にこだわったことでポツダム宣言の受諾が遅れて原爆投下を招いた事実をしっかりと指摘された。自分はノルウエーのオスロでのノーベル賞授賞式に出席した木戸さんを報道でしか知らなかったのですが、日本国内の講演では、その毅然とした態度でまさに被爆者としての切実な思いを聴衆にぶつけられたわけです。
目取真
沖縄戦の時、私の父親は中学生で鉄血勤皇隊に参加しています。日本が戦争に負けた時、天皇は自決するものと思っていたそうです。ところが自決しなかった。そのことに非常に腹を立てていました。天皇が新年の一般参賀でテレビに出て、国民に「ありがとう」と言ったら、「ございますと言え!」と怒っていました。天皇は国民に対して敬語を使わない。しかし、みんな天皇のために命を捧げて死んだ。若い仲間も天皇のために死んでいった。それなのに天皇はのうのうと、戦後も沖縄を犠牲にして生き延びたと。そのことへの怒りですよ。元日本兵で父と同じ感情を抱いた人は多いと思います。父は沖縄戦のとき14歳で、皇民化教育で純粋培養された世代でした。天皇に対する心酔の仕方は年代や経験によって違うと思いますけど、深くのめり込んだ人ほど、裏切られたという怒りが強いと思います。昭和天皇は東京裁判で裁かれることもなく、戦争責任を追及されることもなかった。早期降伏を提案した近衛上奏文を受け入れていれば、沖縄戦も広島、長崎への原爆投下もなかった。しかし、昭和天皇にとっては国体護持がすべてで、自らに有利な条件を作り出すために勝ち目のない戦争を長引かせたわけです。さらには天皇メッセージで沖縄を米国に差し出して、象徴天皇として生き延びたわけです。昭和天皇の戦争責任を問う声は日本の中に底流としてあったと思います。しかし、右翼の暴力で「菊のタブー」が作られ、抑圧されたまま昭和天皇の死を迎えた。そのあと、明仁天皇はリベラルだということで、天皇制への否定感も薄まっていった。しばらく前に沖縄タイムスで、靖国神社の沖縄の学徒展について書く機会がありました。文章の中で現天皇の娘のことを「愛子さん」と書いたら、「様」にできないかと意見が付いて、数回やり取りがありました。
木村
沖縄のメディアもそうですか。
目取真
私は「様」にはしないと主張して、最終的には「さん」という表記になりましたが、私から見たら過剰反応なわけです。マスコミの方が人を門地で差別化している。かつて昭和天皇が亡くなったとき、沖縄の新聞は逝去と書いて、崩御と書かなかった。今でもその姿勢を貫けるのか疑問です。
木村
今だったら二紙とも天皇崩御と書く。
目取真
敗戦から80年が経ち、沖縄のメディアも変わってきています。特に天皇制に関しては。ネットで叩かれることを恐れて萎縮しているわけです。沖縄戦の研究者も世代交代が進んでいます。自らの沖縄戦体験をもとに研究を進めた大田昌秀さんは亡くなっているし、そのあとの石原昌家さんや安仁屋政昭さん、大城将保さんなどの研究者も高齢となっている。そのあとはヤマトゥンチューの研究者が増えていて、沖縄戦研究の質も変わっていくと思います。
木村
映画の『宝島』はご覧になられましたか。
目取真
いえ、今帰仁から宜野湾や那覇の映画館まで行くのは大変ですから、見ていないです。あまり興味もありませんので。ヤマトゥの作家や研究者にとって沖縄はネタとして「宝島」だと思いますよ。これまでいろんなヤマトゥンチューの沖縄へのかかわりを見てきましたけど、辺野古や高江とか地域で長いあいだ頑張っている人は別にして、知識人といわれる人たちは沖縄を創作や研究の素材として利用しているだけで、人生をかけてかかわっている人はいないと思いますよ。


『ゆきゆきて、神軍』(1987年)

木村
先ほどの「日本の中の底流としてあったはずの天皇の戦争責任を問う声」について言えば、先日、奥崎謙三について『ゆきゆきて、神軍』を撮った原一男監督と、奥崎が大阪刑務所に収監されていたときに、父親の跡を継いで刑務官としての公務をはじめた坂本敏夫さんという方の対談を企画して書きました。
https://shueisha.online/articles/-/41708#goog_rewarded
目取真
インターネットで木村さんがレポートしているのを読みました。
木村
あれは3年前で、戦後80年の今年、改めて天皇制に対する奥崎の考えと行動実践に絞って話してもらいました。そこにも書いたのですが、奥崎は原監督に、それこそ自分はドスを持って靖国に殴り込むからそこを撮って下さいとか、天皇の人形にもう一度パチンコを撃つところを撮ってほしいとか、依頼してきたと。対して坂本さんは、坂本さんのお父さんと奥崎の関係性について深く言及していました。お父さんが職業軍人でやはり中国戦線にいた方でそこから沖縄の守備隊として1944年の3月に那覇へ来た。そのときに第9、第24、第62の師団の受け入れをされたらしいんですね。沖縄戦に入って摩文仁(まぶに)の丘での激戦を経て自身も重傷を負って1946年にようやく病院から退院して復員してくるんですけど、「父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」と坂本さんは言うんですね。お父さんが大阪刑務所に管理部長として赴任してきたときに奥崎がいて、そのときに服役者との面談をする時間が設けられるんですが、普通は長くても一人20~30分なんだけども、それが奥崎とは4時間にわたったというんです。そのときに奥崎が地獄のニューギニア戦線のことを話して、父はそこで沖縄戦のことがフラッシュバックして自死に至ったと語っていました。だからニューギニア戦と沖縄戦、中国戦線と沖縄戦、その関係性というものはそこでもつながった気がしたんですね。奥崎が子どもの頃によく母親に言われていた言葉があって「おまえは自分に良くしてくれた人に対してはすごくよく尽くすけど、自分に悪くした人間を徹底的にやり込めるところがある」と。戦後、獄中で独房の中で沈思黙考した奥崎謙三が「ニューギニアに送られ、多くの仲間を殺された自分に最も悪くしたのは誰か」と考えたときに天皇だったと思い当たるわけです。だから出獄してから、「無知、無理、無責任のシンボルであるヒロヒトを許せない」と言って、皇居での一般参賀で「ヤマザキ、天皇を撃て!」と戦友の名を叫んで昭和天皇にパチンコを撃つ。で、これは映画の最後に出てくる山田吉太郎さんという、同じくニューギニアで生き延びたかつての戦友との論争のシーン。山田さんは戦後、日本に戻ってから、戦争体験を書き記しつつ、穏健な平和運動にいくんですけど、奥崎はそこで容赦がないんですね。体を病んだ山田さんに対して、あなたが今そういう病気になったのは戦後の責任の取り方、追及の仕方が手ぬるいからだと弾劾して暴力を振るう。ふつう病人に対しては、そういうことは言わないじゃないですか。
目取真
今回、改めて、『ゆきゆきて、神軍』を見て、編集がとても丁寧だと感心しました。ミステリー小説を読むみたいな謎解きの構成にまとめられているわけですよね。兵站が途絶えたニューギニアのジャングルで飢餓に苦しんだ日本兵が、白人の肉を白ブタ、黒人の肉を黒ブタと言って食べていた。最後は部隊の若い兵隊を、戦争は終わっているのに処刑して口にしていたのではないかということが明らかになってくる。人間にとって一番のタブーですよね、人を食べるっていうのは。だけど、そこまでせざるを得なかった戦場の悲惨さが、ニューギニアではあった。それを隠して戦後を生きてきた。真正面から向かい合ったらPTSDになるから避けていた。だけど、奥崎は神がかり的なところがあって、力ずくでも踏み越えて暴き出していった。最後は証言を引き出していくんですね。
木村
そうです。あのニューギニアを抜群の運動神経とサバイバル能力で生き延びた山田さんを奥崎はとても信頼していて、彼だけには天皇にパチンコを撃つ前日にこの決行について告げていた。その山田さんに対しても一切の躊躇をすることなく、入院して臥せっているにもかかわらず、病室にまで押しかけて戦後の生き方がそれではダメだと責めていく。
目取真
そしてちゃんと当事者に語らせているわけですよ。そこがこの映画のすごいところで、殺した人、食べた人がじかに語ったっていうのは、おそらく他にはない。もうこういう作品は二度と作れない。でも、こういう作品こそ今の時代に必要ですよ。ドキュメンタリー作家や研究者が長い時間をかけて元兵士と信頼関係を作り、心に秘めていた証言を引き出していく例もあります。撫順や太原の戦犯収容所で職員が長い時間をかけて兵士たちに証言を促した中帰連の記録もそれです。周恩来の指示を受けて、職員たちは元日本兵たちを手厚く扱い、長い反省の機会を与えて自ら語らせています。奥崎とは全く違う手法ですが、当事者が自ら語った戦場の実態こそ、今の日本人が知らなくてはいけないことです。戦地に行った兵隊以外に地上戦を体験したのは、南洋群島や満州などにいた人たち、それと沖縄の住民です。大多数の日本人の戦争体験は空襲体験なわけです。原爆というのは、もちろん大変に悲惨な体験ですけど、あくまでも、敵は空から爆弾を落としていて、敵、味方の軍隊や住民が入り乱れた状態で、目の前で戦闘が行われたわけじゃない。地上戦の体験と空襲体験では、戦争に対する認識が根本的に違うわけです。坂本敏夫さんのお父さんが亡くなったのも、沖縄でどんな体験をしたかわかりませんが、心に深い傷を残す体験は地上戦だから生じるわけです。友軍と呼んでいた日本兵に食料を奪われたり、殺されたり、強姦されたりする。空襲体験にそのようなことはありません。沖縄人と多くの日本人の戦争体験の違いはとても大きい。中国で、ニューギニアで、沖縄で何が起こったか。その実態を伝える体験者の証言が封じ込められ、忘却の彼方に追いやられる。日本が経済発展し、戦後は終わったと言われ、バブル経済に浮かれる。そういう社会の中で、忘れられようとしている戦場の事実、多くの人が目を背けようとしている戦争の醜さ、悲惨さ、犯罪性を突きつけ、忘却に抗ってきたのが中帰連であり、奥崎さんなんだと思います。その意義を私はいま強く感じています。
木村
ニューギニアで何があったのかということは、山田さんも墓場まで持って行こうとしていた。私は私なりのやり方で平和運動をして来たし、家族にも言えないようなことがあるから、知らない方が良いのだと、沈黙しようとするのを、奥崎は暴力的に追及していった。「お前がそんな身体になったのは、戦後に戦争責任を追及してこなかったからだ」とまで言って口を割らせようと病床にある山田さんに蹴りまで入れる。試写会で見たときは、かなりの日本人記者も「いくら何でも奥崎さんはやりすぎじゃないか」という意見を出していた。ところが、映画が封切られた翌年の1988年に私が台湾に行ったら、台湾テレビの陳純真ディレクターや「人間雑誌」、これは台湾の「アサヒグラフ」のような硬派の写真雑誌なのですが、陳映真編集長から『ゆきゆきて、神軍』という凄い映画があるそうじゃないか。台北に原監督を呼んで上映会ができないかという相談を受けたんです。それで原監督と小林佐智子プロデューサーに連絡をとって、台湾ではまだ日本映画は解禁になる前だったのでフィルムでなくビデオ版の上映会が台北で催されました。すると当時の台湾の文化人たちは、それこそスタンディングオベイションで奥崎を讃えたんですね。よく日本の台湾統治は50年にわたっていて非常に親日的な国だといわれています。確かに戦後中国本土から来た外省人の支配による汚職や二・二八事件、蔣介石の軍隊が行った虐殺などから、「日本の時代のほうが良かった」という本省人(戦前から台湾に定住していた人々)にはたくさん会いました。しかし、そういう相対的な感慨とは別に、実際に日本帝国主義に支配されていた経験を通して見た台湾の人々の奥崎謙三の見方というのは、圧倒的に日本人のそれとは違うというのを目の当たりにしましたね。「なぜ日本人はこういう追及をして来なかったのか? それをしているのは奥崎、彼一人なのか?」と。実際、沢木耕太郎が書いた「不敬列伝」(『人の砂漠』新潮社、1977年所収)に登場する「プラカード不敬事件」(1946年)の松島松太郎、「京大天皇事件」(1951年)の中岡哲郎、「パレード投石事件」(1959年)の中山建設、皇居発煙筒事件(1969年)の金井康信、天皇面会未遂事件の徳丸修(1970年)などは、全員、戦後30年の段階で自らがおこした事件についてもう触れてほしくないという反応を示すのですが、奥崎謙三だけがただ一人、天皇および天皇的なものと亡くなるまで戦い続けてきました。


『人の砂漠』(新潮社、1977年)

目取真
昭和天皇は植民地支配や侵略を受けた側からすれば、ヒトラーやムッソリーニと同じなわけです。処刑されないで生き延びたことに不満を感じる人は、台湾以外の地域にも数多くいると思います。奥崎みたいなことは誰もができることではない。昭和天皇の戦争責任の追及は、右翼の攻撃もあってタブー扱いされ、学者や物書きたちの多くは無難なところからアプローチしていくわけです。非暴力や政治的な中立性が強調され、生々しく、毒々しい問題は排除されていく。
木村
ましてや、科研費で脅しをかけられ、日本学術会議会員の任命問題なんかで露骨に学者に対する圧力がきてますから、まず研究材料として沖縄戦を取り上げる学者も少なくなってきている。だから危なくないところから入っていって、キャリアアップを考えているような人たち──これは前回の対談でも話しましたけど、学者だけでなく外交官でさえ、もうかつてのような広い視野を持たない。外交官の仕事というのは、第一に戦争を止めることだと思うんですけれども元駐ドイツ日本大使などは、官邸に対するアピールなのか、自ら「歴史戦」でネトウヨのような論文をデュッセルドルフの日本総領事館のHPに掲載してドイツ人学生から抗議を受けて論破されている。あるいはキャリアを1回終えると、右派系のシンクタンクに行って、御用論文で台湾有事をあおるようなものを書いている。奥崎さんに関して言うと、科研費どころか、バッテリー商で食い扶持を稼ぎながら、「神軍平等兵」と自ら称して自費で動いて加害者の証言を引き出したり、戦争犯罪の追及をやっていたんですね。
目取真
奥崎さんのすごいところは、最後は当事者に語らせているところです。暴力的な行動や発言に目が行きがちですが、あそこまでいろんな手を使って、徹底して話を聞こうとした人がいたのか。話した人たちは、奥崎さんの暴力が怖かったから話したのではなく、あそこまで徹底して聞こうとするから話したのではないかと思います。研究者や作家、記者が取材のために聞くのとは、根本的に違うわけです。個々の場面では奥崎さんなりの計算や打算もあったかもしれませんが、根本のところで自分の人生をかけて話を聞こうとしている。
木村
実は似たようなドキュメンタリーがテレビでもあったんです。
テレビ朝日で2009年に放送された番組(「報道発ドキュメンタリ宣言『僕の父はB級戦犯・うじきつよし戦争を語る父子の旅』」)で、ミュージシャンで俳優のうじきつよし氏が、終戦後B級戦犯としてベトナムの収容所と巣鴨プリズンに計8年間収監された経験をもつ元陸軍大尉の父と、戦後64年経ってかつて行軍したアジア各地を再び辿る番組で、うじき氏がインドネシアやミャンマーなどの現場ごとに「ここで何があったのか」と父に問い続けるんです。そこには慣れ合いも予定調和もなく「戦争とは何か?」を世代間で突き詰める真剣勝負でした。うじき氏はいわば父に対して奥崎になっていた。ところが、途中でディレクターがうじき氏に対して怒りだして、「お父さんを責めるのは、うじきさんがおかしい」と言い出して画面に入って来て止めるんです。そこからグダグダになるんですが、スタッフが見切れるシーンまで放送されて凄く中途半端な作品になってしまった。原さんがディレクターだったら、普遍的な親子の葛藤や戦犯としての相克などを可視化させて平成の「ゆきゆきて、神軍」となったと思いましたが、ある意味で日本のメディアの戦争責任に対する象徴的なスタンスのドキュメンタリーになっていました。
後日談があって、この番組の放送後、うじき氏に物凄いバッシングが襲い掛かった。「第二次世界大戦でご苦労なさって、日本のために戦って8年間も収監されていたお父様に対してあの態度はなんだ」と、彼の事務所にまで抗議に来る人もいたそうで、それにも直接会って対応していたそうです。
目取真
今のインターネットでも一緒ですが、バッシングしている連中にとってはしょせん他人事で、自分は安全地帯にいてきれいごとを言っているだけです。うじきさんからすれば、肉親だからこそ真剣に聞けるわけです。父親の人生は自分の人生の大本にあるわけですから。それにとやかく言うディレクターは、そういう真剣さ、本気さに耐える心の強さがなかったわけです。世間のきれいごとに慣れ過ぎて、父親に同情しているようでいて、親子が真剣にやり取りしていることを見続ける覚悟がなかったわけです。日本の社会の中では、奥崎のように行動できる人は稀な存在で、多くの人は昭和天皇の戦争責任の重さを感じていながら、何もできずに亡くなっていったのでしょうね。
木村
実は沖縄における『ゆきゆきて、神軍』の初上映は1987年9月16日。これは海邦国体が開催された年で浩宮(現天皇)が病気療養中だった昭和天皇の名代として沖縄を初訪問するということで、ものものしい警備体制の中、筑紫哲也編集長時代の朝日ジャーナルライブで、港に横づけした船の中で行ったわけです。このときのシンポジウムで鎌田慧さんが、「奥崎は、加害の側にあった末端兵士の死者を靖国神社の中に安置することで、彼ら兵士たちが戦争中に行ったことを人々の目から隠すのではなく、むしろ反対に彼らをそこからまた引きずりだして事実を語らせることで、天皇制の無責任性を追及している」と評価していたのを覚えています。
あの年は、知花昌一氏の日の丸焼却事件(国体が行われた読谷村(よみたんそん)のソフトボール会場で掲揚された日の丸旗をスーパーマーケット経営者の知花昌一が引き降ろして燃やした事件)があった。皇族の沖縄訪問で言えば、その前の1975年7月に日本復帰後の最初の大きなイベント「海洋博」の名誉総裁となった明仁皇太子(現上皇)がひめゆりの塔を訪れた際に青年が火炎瓶を投げつけるという事件があった。目取真さんに勧められたこの本『ひめゆりの怨念火(いにんび)』(インパクト出版会、1995年)はその火炎瓶を投げた青年、知念功の手記です。これを読んで改めて思ったんですが、1975年の知念さんについては、実行した本人だけが法によって罰せられて、彼の親族などはその責任を問われたり、迫害されることはなかった。ところが、12年後の日の丸焼却事件では知花さんの一族のみならずスーパーの店員や読谷の村長が脅迫されて、読谷村の保育園の補助金までが保留されるという圧力までかけられた。無関係な他人には、ましてや子どもには何の罪もありません。皇族に何かを直接したわけではなく、旗を燃やしただけで(それはもちろん器物損壊という罪ではあるが)、村自体が標的にされるという事態になっていた。「国旗損壊罪」など出来たら、もっと厳しい管理と処罰が市民に向けられるのは明らかです。まず「ひめゆりの塔事件」のあったこの海洋博の頃の沖縄の状況を教えてもらえますか。


『ひめゆりの怨念火』(インパクト出版会、1995年)

目取真
1975年当時、私は中学校3年生でした。私が生まれ育った今帰仁村は、海洋博が開かれた本部町の隣にあります。小学校6年生の遠足は、海洋博会場の建設予定地の海岸でした。当時の担任教師たちは、これから海洋博に向けた工事が行われ、この海岸の自然も失われる。その前に海岸の姿を子どもたちに見せておきたくて遠足の場所に選んだ、と話していました。実際、本部町を中心に北部地域は海洋博に向けて大規模な開発が行われ、海岸線の自然は破壊されていきます。いま国道58号線を通って名護市街地に入ると、海側に名護警察署やA&Wというファーストフード店があります。その付近からプロ野球の日本ハムがキャンプを行う名護市営球場まで埋め立て地です。国道58号線の下がかつての海岸線で、白い砂浜が続いていました。海洋博に向けて大規模な工事が行われ、砂浜は消えたわけです。海洋博は「沖縄経済の起爆剤」と宣伝され、大規模公共工事を狙ってヤマトゥのゼネコンや不動産業者が入り込み、沖縄県とともに開発を進めたわけです。宣伝にのせられて幻想を持った住民もいます。観光客が押し寄せるだろうとホテルや民宿、飲食店をつくったけど、客が来なくて倒産が相次いだ。不動産会社に土地を売った人は、転売によって地価が上がるのを見て、だまされた、と怒る。ヤマトゥから来た土木作業員による強姦事件もありました。72年に沖縄の施政権が返還されて、ドルショックや石油ショックで経済混乱が続くなか、3年後の海洋博不況が拍車をかけて、「沖縄経済の起爆剤ではなく自爆剤だ」とさえ言われた。日本復帰後の世替わりで急激に沖縄が変わっていき、北部の自然破壊が進み、社会が混乱する。そういう中で明仁皇太子が来て、ひめゆりの塔を訪れたわけです。このときに知念さんともう一人の男性が、ひめゆり学徒たちが犠牲になったガマ(洞窟)に潜んでいて、皇太子夫妻に火炎瓶を投げたわけです。ただ、皇太子来沖に反対していたのは彼らだけでなく、労組員や学生、市民団体が大規模な集会やデモを行っていて、「反復帰論」を唱えていた沖縄の知識人たちも反対していたわけです。住民の中にも沖縄戦の体験から自衛隊や天皇への反発、拒否感が強く残っていて、大きな反対運動があったんですよ。
木村
ヤマトから来た側は、それだけの怒りが沖縄にあるということが、わかってなかったということでしょうか。
目取真
当時の沖縄県知事は屋良朝苗(やらちょうびょう)さんでした。彼は米軍統治下で最後の行政主席となり、施政権返還後の最初の県知事となりました。彼は戦時中、台湾で教員をしていて、その教え子が自民党の山中貞則議員で、初代の沖縄開発庁長官となり、「沖縄族議員」の中心となりました。革新系の屋良知事にしても戦前、戦中に抱いた天皇崇拝の意識は変わらないわけです。主席になる前、彼は沖縄教職員会の会長をしていました。沖縄教職員会は「祖国復帰運動」の中心でした。私は小学生の頃、「復帰」を求める行進団を迎えるため、先生たちの指示で日の丸の小旗を作り、沿道で振った記憶があります。日本を祖国と見なして復帰運動を進めていた当時の教師たちには、日の丸への否定感などなかったのです。そういう復帰運動に疑問を抱いたのが学生たちです。当時は米国留学だけでなく国費による本土留学もありました。ヤマトゥの大学で全学連の運動に接した学生たちや、琉球大学のマルクス主義研究会(マル研)の学生たちが、沖縄の中で復帰運動批判を行っていくわけです。
木村
パスポートを持って。
目取真
パスポートを持ってヤマトゥに行き、大学で学んだり、工場で働いたりしていく中で、新しい思想や運動に接しながら沖縄の現状を考えるわけです。そして、復帰運動に内在する民族主義への疑問や天皇制批判の欠落を見いだしていく。沖縄戦の悲劇の原因となった天皇が依然として存在している日本に復帰するとはどういうことか。そもそも琉球は明治になって日本に併合され、支配されていった。そのことを不問にして祖国というのはおかしいんじゃないかとか。施政権返還後も「反復帰論」で議論されたことや天皇制批判は受け継がれていくわけで、沖縄戦を引き起こし、そのことへの反省も謝罪もしない昭和天皇の息子に、ひめゆりの塔を訪れる資格があるのか、沖縄を改めて日本の支配下、天皇制の下に組み込んでいく策動は許せない、という批判も起こる。知念さんたちは皇太子に火炎瓶を投げつけることで、その批判を顕在化し、戦争で殺された沖縄人の怒りと怨念をぶつけた。だから『ひめゆりの怨念火』なのだと思います。
木村
しかしそれは殺傷が目的ではなく、一つの啓蒙と思考の転換を狙っていたことが、手記に書いてあった。何日か前から壕に入り込んでいて、火炎瓶は投げるんだけども、何を目的にしていたかということが緻密な議論の中で出てきていたというのが、分かりました。
目取真
皇太子夫妻から離れたところに投げていますからね。至近距離でしたから、本気で体をめがけて投げたら当てることだってできたわけです。
木村
1975年のNHKの調査によると、すでに沖縄の中では過半数の人が日本復帰は良くなかったという回答をしている。復帰から3年後に、もうそういう発露をされてたんですね。米国のクビキから脱して日本に復帰すれば平和な国民になれるという意識があった中で、それが全く逆であったと。
目取真
復帰運動に対する批判は1960年代の後半から起こっていました。沖縄タイムスの新川明、川満信一を中心に「反復帰論」が展開されます。琉大マル研の学生たちや、ヤマトゥの大学に留学した学生、集団就職に行った若い労働者など、復帰運動への疑問や批判が若い人を中心に出てくるわけです。だけど、復帰運動全体に影響を与えるまでには至らなかった。屋良主席の革新体制を守らなければいけないということで、B52墜落に抗議し、撤去を求めるゼネストを上からつぶしたりとかしていた。そのことへの反発や、CTS(石油備蓄基地)建設に対する金武(きん)湾周辺住民の反発も起こります。ドル危機の中で通貨が円に切り替えられ、続けて石油ショックが起こり物価が高騰する。そして、海洋博は失敗する。ヤマトゥの不動産会社に二束三文で打った土地が、何倍にも値上がりするのを見た住民の怒りは、反ヤマトゥ感情として残ります。戦前と同じくヤマトゥンチューは復帰してもウチナンチューをだますんだと。私の記憶に強く残っている事件があります。海洋博にむけた公共工事で、ヤマトゥから多くの労働者が来るわけですよ。そこで沖縄の若い女性を拉致して集団暴行を加える事件が起こった。女性が解放されたら太ももにハブの入れ墨が彫られていた。そのことを新聞で読み、衝撃を受けました。日本復帰後の混乱の中で海洋博というお祭りが開かれ、悪質な事件が起こって差別意識が露呈する。復帰しないほうが良かった、という意識が75年に高まるのは、祖国日本という幻想が沖縄人の中で崩れていく過程だったわけです。暗い時代だったと思いますよ。私はあの頃中学生でしたけど、校内暴力とかひどかったです。これも今、振り返ってみたら、社会の乱れや不安と関係すると思います。それと、当時は戦前の軍国主義教育を受けた人たちが教師でしたから、体罰が当たり前の時代で、それが生徒たちの暴力を悪化させたと思います。
木村
海洋博については沖縄の文化人たちはどういう受けとめかただったのでしょう。
目取真
小説家の大城立裕は海洋博にかなり協力していましたから、彼に対する批判も強かった。ウルトラマンの脚本家の金城哲夫もオープニングセレモニーを担当するのですが、海洋博に反対した人や、振り回された人、経済的損失を受けた人の中からは批判も起こるし、叩かれもするわけです。
木村
円谷プロを辞めて、沖縄に帰ってあの開会式の演出を頼まれるんですね。それで果たしてこれは自分が望んでいた未来だろうかみたいなことで、飲酒の量が増えて酔って窓から書斎に入ろうとして転落され、3日後に脳挫傷でお亡くなりになるんですけれども、潜在的に緩慢な自死に向かわれたのではないかと言うのを円谷プロのOBから聞いたことがあります。
目取真
自殺という言葉は言いすぎかもしれないですけど、精神的に追い詰められていく一つの要因ではあったでしょう。
木村
金城さんは東京の玉川学園にまさに留学のかたちで中高から行ったのかな。ご存じのとおり、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』でうちなーぐち(沖縄語)を少しずつまぶして、チブル(頭)星人とか造形していた。それで結局沖縄に帰られた。私は金城さんが、円谷プロ入社前の1963年に自主映画で監督された『吉屋チルー物語』のフィルムをお兄様に借りて沖縄県学生寮の南灯寮のある狛江で上映会をしたことがあるんですが、全編うちなーぐちでほとんど言葉が分からなかった。沖縄に戻られてからは、特撮もののウルトラシリーズとは対照的に『風雲!琉球処分前夜』など、沖縄の歴史を描いた芝居の脚本も多く書かれた。そういうところではやっぱり復帰後も根強い琉球アイデンティティの葛藤があったのかなという気がしますね。
目取真
靖国神社の問題にちょっと戻って話したいんですけど、遊就館で行われた戦後80年企画「青少年に伝えたい 沖縄戦の学徒隊、特攻隊」のパネル展示で、主催団体の中心になっているのは日本会議なわけです。ひめゆりの塔に対する自民党の西田昌司参議院議員の発言が問題になりましたね。(「沖縄戦で日本軍が入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放された。そういう文脈で(展示の説明を)書いている。歴史の書き換えに当たる」)西田議員が積極的に訴えたかったことが、遊就館のパネル展示に表れていると思いました。ひめゆりの学徒たちは自ら進んで戦場に行き、国を守るために命を捧げた。そういうイメージを作りたいわけです。特攻隊に参加した若者たちも同じです。子犬を抱いて笑ったり、赤ちゃんを抱いたり、美しい別れとして描いたショート動画がAIを使って作られ、いくつも投稿されています。それこそ靖国神社や日本会議が描きたい特攻隊の姿なわけですよ。しかし、実際の特攻作戦は、非合理的で兵士の命を粗末に扱った愚劣極まりないものです。日本軍の負の側面、ダメなところを象徴的に表しています。沖縄の住民たちは、特攻の最後の様子を見たわけです。前も言いましたけど、私の祖父も敵艦に突っ込む前に片っ端から撃ち落されていくのを見ていたわけです。そんな若者たちの悲惨な最期、実相をすべて隠して、出撃するまでの姿を美談として描き出す。それが靖国神社や日本会議の手法で、そういう戦争の上っ面だけをとらえたきれいごとこそ、奥崎さんが一番否定したかったことだと思います。

プロフィール

目取真俊(めどるま しゅん、右)

作家。1960年、沖縄県今帰仁村生まれ。琉球大学法文学部卒。1997年「水滴」で第117回芥川賞受賞。2000年「魂込め(まぶいぐみ)」で第4回木山捷平文学賞、第26回川端康成文学賞受賞。2023年第7回イ・ホチョル統一路文学賞受賞。著書:(小説)『目取真俊短篇小説選集』全3巻(第1巻『魚群記』、第2巻『赤い椰子の葉』、第3巻『面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)』〕(評論集)『ヤンバルの深き森と海より』(以上影書房)、『沖縄「戦後」ゼロ年』(日本放送出版協会)、(共著)『沖縄と国家』(角川新書、辺見庸との共著)。
ブログ「海鳴りの島から2」:https://awamori777.hatenablog.com/

木村元彦(きむら ゆきひこ、左)

ジャーナリスト。1962年愛知県生まれ。中央大学文学部卒業。アジア・東欧などの民族問題を中心に取材、執筆活動を続けている。著書に『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』『オシムの言葉』『争うは本意ならねど』(以上、集英社文庫)、『オシム 終わりなき闘い』(小学館文庫)など多数。『オシムの言葉』で2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。

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