ミクソヴァース—変形菌たちの世界—より 増井真那

最終回

未来の自己へ

更新日:2024/06/26

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変形菌との対話
 変形菌は、か細くて弱々しい存在に見えるかもしれません。だけど、私はその生き方からエレガンスを、さらにたくさんの問いかけ——「自己ってなんだろう」「これからの自己はどうなっていくのだろう」——を感じ取ります。愛する変形菌たちと共に生き、対話を続け、その特異な「自己」のあり方に、私はこれからも触発されていくのです。
変形菌が見せてくれる別解
 変形菌は、数億年前には地球上に存在していたと考えられています。
 億年の単位で時が過ぎれば、進化という名のバージョンアップをしていそうに思います。でも、そうではなさそうです。約1億年前にできたとされるコハクに変形菌の子実体が封じ込められている写真を見たことがあります。その姿は、日常の中でしばしば目にするムラサキホコリの姿そのものでした。これはすごい! だって、変化し続ける環境の中で、数え切れないほどの生きものたちが異なる生き方を試し、あるものは生き残り、多くは絶えてしまう——その繰り返しが生命の歴史なのですから。変形菌は、その荒波にもまれながらも、ひとつの生き方を貫き、今日も存在しているのです。
 私たち人間は複雑な生物として、あらゆる環境や関係に深く介入する存在です。そうあることによって、地球上に広く生きるという「解」を得ている。
 でも、変形菌は「別解」があることを教えてくれているように思います。
 変形菌たちは、シンプルな体に「死など存在しないかのようなライフサイクル」を秘めていました(第1回)。そして「自己に厳しく、他者に寛容な生き方」を選び、生き続けてきました(第4回)。ならば、変形菌は生態系というシステムとのつながりが弱いとも解釈できるのではないでしょうか。そうすることによって誰とでも共存できる。それは人のあり方と正反対にも感じられます。
 この強さ。したたかさ? そして美しい生き方!


変形菌イタモジホコリの変形体たち 産地が異なる同種の3匹が、お互いを気づかい合って棲み分けているように見える。変形菌らしい姿。

社会のような「自己」
 変形菌は「自己」を環境に発信しながら、ゆるやかに、しなやかに他者と関係し、自己を守ったり広げたりします(第3回)。
 では、変形菌の内側はどうなっているのでしょうか。変形菌たちが巨大な単細胞生物であることは第1回でお話ししました。さらに加えると、この自在な生きものは多核単細胞なのです。多くの単細胞生物は1つの細胞に1つの核を持ちます。人間は多細胞生物で、37兆もの細胞を持ちますが、おおむね1つの細胞には1つの核です。一方、我が愛する変形菌は1つの細胞に多数の核を持つのです。それも10とか100ではないですよ。体の大きさに比例し、数十万にも及ぶというのです! 体が2つ3つに千切れても平気という理由はここにあります。
 無数の核が体の中を流れているって、どんな気分でしょうね。
 変形菌の変形体2匹を出会わせる実験は1000回を超えました。毎回をじっと見ていると、「ある1匹に対して最初に接触した時は避けたのに、次の接触では融合した」というケースに気づきます。判断の不一致ですね。2匹が、ほぼ同時に体の2つの部分で接触し、その2つの判断——融合するか、離れるか——が一致しないこともあります。
 私は、この不一致を変形菌のマヌケさとは思っていません。むしろ、システムの強靭さ、スマートなところだととらえています。融合可能な相手でもスルーすることがあるのは、間違いが安全サイドにだけ起きるようにしているということです。変形菌は「間違った相手と融合すること」だけは避けたい。それゆえに(擬人化した表現をするならば)確信が得られるまでは融合しないのだと考えられます。
 変形菌の体の中には無数の核があって、そのあちこちで自由な判断が下されている。ここでは「避けておこう」、あっちでは「融合するぞ!」というように。この複数の「考え」の間に連絡や交渉はありません。でも、最終的には自己存在に有利なように動いていくのです。
 まるで社会みたいだな。
 ひとつの大きな細胞(社会?)の中に、膨大な数の核(人?)。それぞれは個々の考えに基づき行動し、その多くは互いに遠く離れ無関係なまま。でも総体は常に社会の選択と有り様を更新していく。
 変形菌の「合議なしの体内社会」がうまくいっている様子を見つめながら、そんなことを考えています。


変形菌イタモジホコリの変形体 左上と右下は、それぞれ別の個体。この産地が異なる2匹は、同じ種でありながらもまったく異なる表情を見せている。あたかも「自分というもの」を主張するかのように。『変形菌ミクソヴァース』より

「自己」ってなんだろう?
 あらゆる生きものは自己を持っています。内と外を分けることこそ、地球上での生物の誕生なのですから。
 思い返せば9歳の時に、変形菌たちの「自分と他人の境目」に強く惹かれたその瞬間から(第2回)、私は「自己」というものに取り憑かれていたのかもしれません。変形菌の自他認識の研究を続ける中で自己への関心を強め、いまでは「生物にとっての自己というものの理解」を自分のライフワークと考えるようになりました。
 今日の私たちは「自己」のことを考えずには生きていけません。複雑で変化の激しい社会において、どのような自己を描き出していくのか? この問いへの取り組みは生涯続き、それは時に人を悩ませます。
 さまざまな機会で変形菌の自己の話をします。すると研究者だけでなく、あらゆる人々から熱い反応が返ってきます。
「みんな、自己について考えたがっている」「自己の話を聞きたがっている」
 この気づきは、変形菌の自他認識研究の大きなエネルギーとなっています。
「自己」の探究は、まだ始まったばかり。これからさらに見えていく、大好きなあの子たちの自己像は、私たちの「次の自己」そして「未来の自己の集まり=社会」への示唆を与えてくれる。
 ミクソヴァース——変形菌たちの生きる世界——は、未来。
 そう信じています。


変形菌イタモジホコリの変形体 夕方のミクソヴァースに立ち、何を思う。『変形菌ミクソヴァース』より

 短期集中連載全5回、これにて完結です。
 ミクソヴァースからのささやき声を聞いてくださり、ありがとうございました。
「自己」の理解への道は続きます。
 またどこかでお会いしましょう!

著者プロフィール

増井真那(ますい・まな)

2001年東京生まれ。変形菌研究者。5歳で変形菌(粘菌)に興味を持ち、6歳から野生の変形菌の飼育を、7歳から研究を始め、9歳から現在まで「変形菌の自他認識」の解明に取り組み、「自己」の理解を目指す。日本学生科学賞内閣総理大臣賞など受賞多数。16歳で『世界は変形菌でいっぱいだ』(朝日出版社)、20歳で『変形菌ミクソヴァース』(集英社)を上梓。17歳で国際学術誌に論文が初掲載された。講演、メディア出演など変形菌の魅力を広める活動にも力を入れる。慶應義塾大学先端生命科学研究所所属。公益財団法人 孫正義育英財団 正財団生。
https://mana.masui.jp

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