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読むダイエット 高橋源一郎

第3回 コロナと『養生訓』と『論語』

更新日:2020/04/08

貝原益軒の『養生訓』を読んだことがありますか?

 貝原益軒といえば『養生訓』。この本、日本が生み出した健康に関する本の最大のベストセラー&ロングセラーである。健康やダイエットについて語ろうとするならば、18世紀初頭に書かれたこの本を無視することは不可能なのだ。みなさんも、「貝原益軒の『養生訓』」と著書名とタイトルのセットで覚えていらっしゃるのではないかと思う。
 しかし、有名だからといって実際に読まれているわけではない。そういうことは実に多い。多くの古典や名作は、ワンフレーズとあとはタイトルと作者名しか記憶されてはいないことが多いのである。

貝原益軒『養生訓 全現代語訳』
伊藤友信(訳) 講談社学術文庫

 たとえば、パスカルの『パンセ』なら「人間は考える葦である」とか、である。川端康成の『雪国』なら、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。シェイクスピアの『ハムレット』なら、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。堀辰雄の『風立ちぬ』なら「風立ちぬ、いざ生きめやも」。では、「貝原益軒の『養生訓』」は、どうなのか。ちょっと書きにくいんですが、「接して洩らさず」なんですよねえ……。この意味、古文だからなんとなくかっこいいけど、現代文でいうと「エッチしても最後までイキません」である。それが、我が国健康本史上最大のベスト&ロングセラーの「記憶に残る一言」なのだ。正直いって、ビミョーな気持ちになる。だからというわけではないが、わたしもまた、食わず嫌いで今日まで来たのである。
 しかし、実際に読んでみると、印象はまるでちがう。貝原益軒サイコー! そう思わずにはいられなかったのである。
 というか、わたしは(あるいは、多くの人たちは)誤解していたのだ。『養生訓』は、ただの健康本ではなかった(し、「接して洩らさず」中心の本でもなかった)。正確にいうなら、「精神の健康本」なのである。といっても、精神論が書いてあるわけではない。現代語訳でも230頁近くあるこの本、健康に関して全分野を踏破しながら、最終的に、人間にとって、真の健康とは精神の健康でもあることを立証しようとしたのである。

「巻第一・十六 養生の道を守る
 昔の君子は、好んで礼楽を行い、弓と乗馬とを学んで運動し、詠歌・舞踏をして血管を養い、嗜欲をおさえて心気を安定し外邪を予防した。こうしたことをたえず心がけていれば、鍼・灸・薬を用いなくても病気にかからないであろう。これこそ君子の実行している養生の根本であって、上策といいうるものである。よく病いにかかるのは、みな養生の術を心得ていないからである。
 病気になって薬をのみ、痛い鍼、熱い灸にがまんすること、父母から賜わった身体を傷つけ、焼くようなこと、つまり熱痛を我慢して身を責めて治療することなどは、きわめておろかで下策である。たとえば、国を治めるのに徳をもってすれば人びとはおのずから心服して乱は起こらないので、兵をもって討伐する必要はない。ところが保養しないで、ただ薬や鍼・灸にたよって治療するのは、さながら国を治めるのに徳を用いないで、力をもって政治をするようなものである。だから下のものを治める道がなく、人びとが恨みそむいて乱を起こすと、それを鎮圧するために軍隊を使うことになる。かりに百戦百勝しても尊敬するどころか、無駄なことといえよう。
 養生をなまけて、薬と鍼・灸などをあてにして病いをなおすのは、こうしたたとえと同様であるといえよう」

 えっ? これ、ものすごく『論語』ぽくないだろうか。使ってることばも、「君子」とか「礼楽」とか「道」とか、だし、健康になるのに、わざわざ「父母」が出てくるところもあやしい。
 ご存じの方も多いと思うが、わたし、最近、『論語』の完全現代語訳を出版させていただいたのである。はっきりいって、この国でも有数の『論語』の専門家のひとりではないかと思うのだが、そのわたしの目から見て、『養生訓』が、『論語』を下敷きにしていることは明白だ。というか、この本、『論語』の日本語健康本バージョンなのである。驚くよね、ふつう。だが、考えてみると、当たり前なのかもしれない。なぜなら、『論語』は、もともと、社会を健康にするために書かれた本、だからである。正確にいうなら、『論語』は、この社会を身体にたとえ、その身体としての社会が健康であるためには、どのような健康法があるかを考えた本なのである。
「仁」も「礼」も、みんな、社会が健康になるための体操や食事法みたいなものなのだ。 いや、このことを気づかせていただいて、ほんとうにありがとう、『養生訓』。
 とはいえ、というか、それだからだろうか、『養生訓』に書かれた健康法は独自のものというしかない。最初に書いておくと、『論語』が、(社会的)人間としてとるべき行動を「仁」や「礼」ということばで表現したように、『養生訓』では、生命体としての人間がとるべき行動を「養生」のひとことでいい表しているのである。

「巻第一・二十四 勤勉即養生の術
(前略)長く安坐し、身(からだ)を動かさないと、元気が循環しないで、食欲がなくなり病気になる。とくに寝ることを好み、眠りの多いのはよくない。食後の散歩は必要で、かならず数百歩あるいて気をめぐらし、食べたものを消化させることである。すぐに眠ってはいけない。
 父母によく仕え、君主に忠節をはげみ、朝は早く起き、夜は遅く寝て、四民それぞれ自分の家業をよく努めなければならない。
 武士たるものは、幼時から読書、習字、礼楽を学び、弓を射、馬に乗り、武芸一般を習練して身を動かすべきであろう。
 農・工・商の人びとは、各自が怠けないでその家業にはげみ、朝となく夜となく努力しなければならぬ。婦女は家庭にこもりがちであるから、気が停滞しやすく、そのために病気にかかりやすいので、仕事に努め身を動かすべきである。
 富貴の娘でも、親・姑・夫によく仕えて面倒をみ、織物を織ることや針仕事や糸をつむぐことから料理をすることまですべて自分の職分と心得て、また子供をよく育てて、つねに同じところに安坐していてはいけない。(中略)。
 四民ともども家業に励むことは、みなこれ養生の道である。勤めなければならないことをつとめず長時間にわたって安坐し、そして眠りたがるのは、養生の道からはずれていて健康上有害で、病いをひき起こすもとになって短命におわる。注意すべきことであろう」

 いや、これ、ほとんど「修身」の本ではあるまいか。というより、健康であることには社会的な意味がある、社会の中の個人として「善く」生きることが健康に至る最短距離なのである、と貝原益軒センセイはおっしゃるのである。
 それにしても、貝原センセイ、「眠る」ことを、異常に嫌っているような気がするんですが。気になって調べてみると、この表現が出るわ、出るわ。

「巻第一・二十八 睡眠と養生
 昔のひとは三欲を我慢せよ、といっている。三欲というのは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。(中略)飲食と色欲を慎むことはよく知られている。だが、睡眠の欲をこらえて眠りを少なくすることが養生の道である、とは意外に知られていない(いや、ほんとに知りませんでしたよ)。
 睡眠を少なくすれば病気にかからなくなるのは、元気がよく循環するからである。睡眠が多いと元気が停滞して病いとなる。夜ふけて床について寝るのはよい。昼寝はもっとも有害である(有害なのかい!)」

「巻第二・五 寝る時間を少なくする
 酒食のまだ消化しないうちに横になって眠ると、かならず酒食がとどこおって、気もふさがり病いとなる。心がけて注意しなくてはならない。昼間は横になって眠るのはよくない。元気を大いにそこなうからである。もし、ひどく疲れたならばうしろに寄りかかって眠ればいい(留置所や拘置所では無理です)。それでも横になりたいときは、そばに人をおいて少々眠るがよい。長くなったらそばの人に呼び起こしてもらうがよい」

「巻第二・六 昼寝の禁止
 日の長い時節でも昼寝はいけない。(中略)晩食のあと身体を動かし、歩行し、日没のころから横になって体気を休めることもよい。横になっても眠ってはいけない。眠ると身体にきわめてわるい」

「巻第二・十七 飲食と睡眠
(前略)しっかり養生をするひとは、朝は早く起き夜半に寝て、昼寝をしないで、たえず仕事を務めて怠けず、睡眠を少なくして精神を清らかにし、飲食を少なくして腹の中をきれいにするよう心がけなければならない」

 とにかく、寝たらあかんのである。

「巻第二・五十 養生の要訣と十二少
 養生の要訣に一事がある。要訣というのはもっとも大切な奥儀を口伝えに授けることである。養生を志すひとはこれを覚えて実践しなければならない。
 その要訣というのは『少』の一字である。少とは万事をひかえめにして過度にしないことをいうのである」

 なるほど。この連載でも書いてきたように、ダイエットの根本は「食べない」ことだったのだが、益軒センセイも、「少」を根本原理として採用している。ダイエットの場合の「食べない」が、長く、少食で生きてきた人類のDNAに刻みこまれた「飢え」の記憶を目覚めさせ、本来備わっている免疫力を回復させることにつながったように、「少」こそ、他力ではなく、自力で健康を取り戻すための中心概念なのである。
「巻第二・五十」は。こうつづく。

「欲を少なくするには条項が十二ある。『十二少』と名づけられている。これをぜひ守らなければならぬ。
 それは、食事・飲物・五味の味つけ・色欲・言語・事・怒り・憂い・悲しみ・思い・睡眠などを少なくすることである」

 いや、どれも納得だ。食事を減らし、味つけを薄くし、エッチな方面には淡白になり、面倒くさいことはやらず、怒らず、憂鬱にならず、泣かず、物思いにふけりすぎない。そういう人間にわたしはなりたい……って、宮沢賢治じゃないか!
 ほんとに、睡眠以外の項目に関しては、ほぼ全面的に共感である。でも、睡眠は、カロリー消費をもっとも「少」なくすることができると思うんですがねえ。うちの次男の睡眠は認めてくださらんのだろうか、益軒センセイは。
 さて、あらゆる健康本やダイエット本と同様、この『養生訓』でも、益軒センセイは、「食べ(過ぎ)るな」と主張している。びっくりしたのは、この項目だ。

「巻第三・六十八 飯の味
 朝夕食事をするたびに、最初の一椀は吸物ばかりをすって副食をとらないようにすると、ご飯の味がよくわかって、その本来のおいしさを味わうことができる。あとからいろいろな副食を食べて気を養うのがよい。初めから副食を混ぜてご飯を食べると、ご飯そのものの味がなくなってしまう。あとから副食を食べれば、副食が少なくてもよい」

 これって、「食べ順ダイエット」じゃないですか。というか、うちの子どもたちの間に見られる、「食べるものが口の中で混ざらないように、一つの皿を食べ終わってから次の皿に移動する」食事法なんじゃないだろうか。益軒センセイ、うちの子どもたちの食事を見て喜んでくれるんじゃないだろうか。まあ、睡眠はダメだっていうんだろうが。
 
 ところで。せっかく『養生訓』を読むんだから、と思ってらっしゃる方もいるだろう。「接して洩らさず」の方も少し読んでみたいんですが、と。了解である。あまりにも有名なこのパートを無視するのはからだに悪いだろう。
 問題の箇所は、「巻第四」の途中にあって、わざわざ「慎色欲」と掲示板が出ている。

「巻第四・六十二 交接の回数と年齢
 男女の交接の周期は孫思邈(そんしばく)の『千金方(せんきんほう)』に述べてある。それは『人、年(とし)二十の者は四日に一たび泄らす(というわけで、「接して洩らさず」ではなく「接して泄らさず」なのである。確かに、「洩らさず」じゃ、「お洩らし」のイメージだものねえ。すいません、ここから、「洩」ではなく「泄」を使わせていただきます)。三十の者は八日に一たび泄らす。四十の者は十六日に一たび泄らす。五十の者は二十日に一たび泄らす。六十の者は精をとじて泄らさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄らす。気力すぐれて盛んなる人、欲念をおさえ、こらえて、久しく泄らさざれば、腫物を生ず。六十を過ぎて欲念おこらずば、とじて泄らすべからず。若く盛んなる人も、もしよく忍んで、一月に二度もらして、欲念おこらずば、長生なるべし』というものである」

 このように書いて、益軒センセイは、この考えは一般に通用するから「交接をできるだけ慎むがよい」と主張しておられる。さらに、「巻第四・六十五 房中補益の説」になると、有名な、あの一節が出てくるのである。

「(前略)四十歳以上のひとはまだ血気がそんなに衰えてはおらず、枯木や灰のようなものではなく、情欲の我慢はむずかしい。といって、精気をしばしば泄らすと大いに元気を消耗するから、老年のひとにはよくない。それゆえに、四十歳以上のひとは交接のみで精気を泄らしてはいけない。(中略)
 この方法を実行すると、泄らさないで情欲を満足させることができる。そうであるから、この方法は気を循環させ、しかも精気をたもつ良法ということができよう」

 しかし、これ、神経を使いすぎて、逆に難しくないのだろうか……。
 益軒センセイは、「巻第三・三」の中で「『論語』の『郷党篇』に述べられた聖人の飲食の法は養生の要点である」と書いている。ちなみに、『論語』の中で食事について詳しく書かれている僅か四カ所で、そのうちの一カ所が、益軒センセイが述べられた部分である。その一部をちょっとご紹介して、今回は終わりということにしよう。翻訳しているのは、もちろん、わたしである。すいません。

高橋源一郎『一億三千万人のための『論語』教室』 河出新書

「巻第十・郷党篇・二百四十三
 今度は食事のとり方について、です。そんなことにまで決まりがあるのかよ! そう思うかもしれませんが、これにもまた、実は合理的な理由があるわけです。そこまでは説明しませんけれど、こういった『教え』の中に、過去の経験の堆積が含まれているんです。さて、まず、主食の米ですが、最近は健康食品としての玄米が推奨されているようですが、我々のお勧めは、大吟醸酒用に使えるぐらいがっちり精米された米ですね。前菜で食べるカルパッチョの肉も細かく刻むのがグッドです。生肉だから消化不良にならないようにね。当たり前ですが、鼻にツンとくる匂いがし始めたものや、押して凹んだままのものや、変色しているものは、米も魚も肉も口に入れてはいけません。煮崩れたものも、季節外れのものもダメ。どちらも、栄養分が少なくなっています」

 とまあ、こんなふうに続いていくのだが、孔子センセイの方が、益軒センセイより、「食」については寛大なんじゃないかと思うのだが、その辺、益軒センセイはどう思っておられたのだろう。それから、睡眠に関してなのだが、わたしの知る限り、孔子センセイは、授業中にうつらうつらすることについては怒っておられたが、それ以外での言及はないような気がするのだ。どうして、益軒センセイ、あんなに「寝る」ことを敵視しておられたのだろうか。ほんとに謎。

撮影/中野義樹

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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