Nonfiction

読み物

読むダイエット 高橋源一郎

第3回 コロナと『養生訓』と『論語』

更新日:2020/04/08

留置所ダイエット

「買い占められダイエット」も「睡眠ダイエット」も、人間が極限状態に追いこまれたとき、偶然、発見されたものである(まあ、次男の「睡眠ダイエット」は、極限状態のせいではないのではないか、という見解も存在するだろうが)。そんなことを考えていたわたしは、突然、あることに気づいた。わたしがかつてやったことがある、というか、やりたくなかったけれど、やらざるを得なかった「ダイエット」だ。すなわち、「留置所ダイエット」。
 いまから半世紀も前のことだ。わたしは逮捕されて、およそ8カ月の間、拘置所で暮らすことになった。あらかじめ書いておくが、性犯罪でも、汚職や詐欺でも、殺人や暴行でもありません! 学生運動と呼ばれるものに参加して、逮捕されたのである。
 その拘置所にたどり着く前、逮捕されてしばらくの間、警察署内の留置所にいなければならない。そこがもう極めて苛酷な環境なのである。だいたいのところ、多くの留置所は地下にあるので、日が当たらない。朝7時の起床から夜9時の就寝まで、何もやることがない。じゃあ、寝ればいいじゃないかと思うけれど、寝るのは禁止。寝ることどころか、横になることも、壁にもたれることも禁止なのである。ちなみに、本や新聞等の活字を読むことも禁止である。簡単にいうと、「一日のうち14時間は何もせず無念無想で座っている」だけ、なのである。はっきりいって、座禅よりハードルが高いんじゃないだろうか。それも最長で23日間。これを経験した者の中には、おそらく「悟り」を開いた者もいたはずである。わたしも23日組ではあったが、残念ながら、「悟り」を開くには至らなかった。さて、この「無念無想」の最大の敵が「空腹」なのである。いや、生涯であれほど、腹が減ったことはない。同じように留置所を経験した知人たちに訊いてみても、異口同音に「いや、あんなに空腹を感じたことはない」というのだ。
 なぜだろうか。まず、絶対的に量が不足していることである。どうやら、留置所に入れられた者の食事代は法律で決まっているようなのだが(しかも少ない額である)、それをさらに、外部の給食業者に委託している。どうせ文句をいうまいとタカをくくっているのか、そこで供給される弁当は、おおむね、量が少ない。どのくらい少ないかというと、入っている弁当箱を縦にしてトントンと机に打ちつけると、あら不思議、中身が半分以下(!)になってしまうぐらいだ(スカスカだったのだ)。
 いうまでもなく、この留置所の弁当が少ないことには、理由がある。そのような飢餓状態の勾留者に対して、取調べ中「カツ丼でも食べるか?」と誘うのである。これは困る。どんなに思想的に堅固な人間だって、腹が減ったら、取調官のいうことを聞くようになるのだ。給食業者と警察がグルになっているのである。留置所で出す食べものの量が少なく、マズイことには理由があるのだ。
 それだけではない。後から、医者に教わったのだが、いちばん消化にいいのは、静かにしていること。中でも寝ていること、なのである。だとするなら、ずっと留置所の中で静かに座り、夜はひたすら寝るだけ、というのは、もっとも消化にいいのだ。消化するべき食物がほとんどないというのに! そりゃ腹も減るわけである。
 ところで、もっとも苛酷なダイエットは、「断食道場」に入ることだといわれている。そんなのウソに決まっている。「断食道場」からは脱走できる。しかし「留置所」からは脱走できない。比喩ではなく、ほんとうに、それ「脱走」という犯罪になってしまう。これができるのは、映画『パピヨン』に出ていたスティーヴ・マックイーンか『ショーシャンクの空に』出ていたティム・ロビンスくらいだろう。なので、心の底からどうしてもやせたいと願う方は、留置所に入ることをお勧めしたい。
 いや、それより、拘置所はどうなの、もっとやせられるんじゃないか、と思われる方もいるかもしれない。ダメです。あっちは。まず、ご飯の量が多い(拘置所の中で作っているからである)。その上、外部からの差し入れも可能なのだ。なので、せっかく、留置所で劇的にやせたのに、拘置所でリバウンドして元より太った連中が続出したのである(わたしもそう)。
 なので、どうしてもダイエットされたい方は、留置所までにしておいてくださいね。

 申し訳ないが、ちょっと前のところへ戻っていただきたい。次男の「睡眠ダイエット」のところである。わたしは、次男の長時間睡眠には、人類の深い叡知が含まれているのではないか、と考えている。しかし、そうではないと頑固に主張している人もいる。それこそが、かの有名な貝原益軒センセイなのである。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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