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読むダイエット 高橋源一郎

第3回 コロナと『養生訓』と『論語』

更新日:2020/04/08

 いまや世界の話題は「新型コロナウイルス」一色になろうとしているが、みなさんはいかがお過ごしだろうか。この原稿を書いている3月26日現在、小池東京都知事が、三密(密閉・密集・密接)注意を呼びかけ(このことばの語感、あまりにも仏教的、というか末法的で、ちょっと怖いです)、週末の不要不急の外出を自粛するよう要請している。それに呼応するように、首都圏の各知事のみなさんも同様の趣旨の発言をされているようだ。その一方で、困窮する国民には、「お肉券」と「お魚券」が配られようとしている。栄養のバランスの点からいって、「お野菜券」もつづくだろう。「お米券」の話が出ないところをみると、もしかしたら、ひそかに国民をダイエットさせようとしているのではあるまいか。その際には、「納豆券」や「キムチ券」を含む「発酵食品券」は、ぜひとも加えてほしいものである。
 そういうわけで、コンビニでもドラッグストアでも、もう何カ月もマスクの姿を見たことがない。もしかしたら、マスクを売っていたというのは「幻」だったのかも。さっき、テレビを見たら、文科省が子どもたちに、「マスクの手作り」を勧めていると報道していた。いよいよ、「千人針」の時代に突入したみたいだ。空から「新型コロナウイルス」を投下するB29に、子どもたちの手作りマスクで対抗するというイメージだろうか。最新の機械に対して人力(と大和魂)で対抗する。我が国の得意技だ。なにしろ、日蓮が祈ったから、蒙古襲来を撃退できたのだから。できないことはないはずである。一億一心、火の玉になって戦えば、「新型コロナウイルス」なんて目じゃないです。こんなに国民の心が一つになって戦おうとしているときに、呑気に「ダイエット」の話を書こうなんて、炎上しないように祈るだけである。
 東京の友人から連絡がきて、あちらはコンビニでもスーパーでも、食料品がなくなっているそうだ。だよねえ……。これは、放っておいても、やせるんじゃないだろうか。こんなやり方があるとは知らなかった。あらゆるダイエットを研究したわたしでも、「買い占められダイエット」について言及したものは読んだことがありません。
 その一方で、わたしたちより先に、封鎖されたパリ在住の作家・辻仁成さんが、家から出られなくなったので食べてばかりだと滞仏日記に書かれていた。なんでも、他にすることがないので、つい食べてしまうのだそうだ。「新型コロナウイルス」で食品がなくなり、結果としてダイエットすることになるのか、はたまた、その逆に、「新型コロナウイルス太り」になるのか。まったくわかりません。だが、その点について、我が家では、実に驚くべき事件があったのである。

こんなダイエット法があったとは

 タカハシ家の「巨神兵」といえば、中3の長男と中2の次男だ。いや、ふたりとも、大きいし、せかせかしないで悠然と動いているし、いざというとき(どんなとき?)には、ものすごい破壊力を秘めていそうだから、勝手に「巨神兵」と呼んでいるだけなのだが。彼らが、知らぬ間に「食べ順ダイエット」をしていたこと、それから、特に次男が、スローイーター(ご飯を食べるのに時間をかける人……の意味である)であることは前回書いたと思う。しかし、次男は、わたしの想像を超える、異次元のダイエッターであることが発覚したのである。
 次男はスローイーターではあるけれど、量的には、長男にひけをとらない。というか、もしかしたら、もっと食べているかもしれない。おそらく、あまりにもゆっくり食べるので、食事の終わり頃にはもう、最初に食べたものを消化してしまうせいだろう。結局は、誰よりも多く食べることになるのである。学校にいるときは(なにしろ、ふたりとも寮生活をしているので)、いくらなんでもそんなに長く食べているわけにはいかない。定められた時間に食べ終わらなければならないので、おそらく、次男は途中で食べることを断念しているのだと思う。しかし、家にいるときは別だ。我が家では「早く食べなさい!」とせかすようなことは一切しないのである。各人の「食事の自由」を最大限に尊重しているからである。そのせいだろうか、冬休みのあたり、次男は、相当程度「増量」していたようだ。はっきりいって、ダイエットを始めたときのわたしのように、少々お腹が出ていたのではないか、と思う。そして、この「新型コロナウイルス」騒動だ。さっきの辻仁成さんの日記にあったように、さらなる増量の機会が訪れた、とわたしは思った。2月下旬以降、子どもたちの学校も、長期休校という名の「長い春休み」に突入していたからである。
 ところが!
 この「コロナ春休み」に、次男が、ぐんぐん痩せはじめたのだ。出ていたお腹は引っこみ、ウエストにくびれが戻ってきた。よかった。でも、なぜ?
 そう思いますよね。誰だって。もちろん、その時期は、買い占めなど起らず、食品はふんだんにあったのだから。

 ところで、次男はよく寝るのである。たぶん、ものすごく寝ることが好きなんじゃないかと思う。そのせいだろうか、家にいるとき、朝起こすと、ほんとうに辛そうな顔をするのである。次男を起こすと、みんな、自分がひどい罪人であるような気がしてくるほどに、だ。学校の寮では、当然のことながら、「眠たいから起きません」とはいえない。なので、家にいるときぐらいは、思いきり心ゆくまで寝かせてやりたい。それが親心である。
 次男は、11時くらいに床につき、だいたい12時くらいに寝るようだ。長男の方は、やはり同じ時間に寝るけれど、朝7時には起きてしまう。きわめて寝起きがいい。わたしと同じである。問題は次男で、放っておくと10時になっても11時になっても寝ている。いや、この春休み、ついには12時になっても起きない事態が発生したのである。もちろん、長男や妻が起こしにいくのだが、眠そうな顔を見ていると、それ以上に無理強いするのはあまりに可哀そう……ということで、彼が自然に起きてくるのを待つことになったのである。
 やがて、次男が起きる時間が1時になった。もちろん、午後である。そして、2時に。いったい、どうなるのか。そう思っているうちに、次男の起床時間は、前人未到の午後3時になった。これで驚いてはいけない。わたしたち家族の中に、いつの間にか、次のような共通認識が生まれるようになったのだ。
「こうなったら、どこまで眠るつもりなのか見守ろうではないか」と。
 そして、その日はやって来た。いちおう、いつものように、午前10時、正午、午後3時と声をかけた。次男は「うーん」と唸ったきり、眠りつづけた。彼が、意を決して起きたのは午後6時だったのである。たぶん、起きた瞬間、早朝だと思ったのではあるまいか。ちがうよ。それから12時間後だから。
 次男に関して、わたしは、かねがね、そのゆるやかな動きと態度、また鮮烈なことばづかい(その点に関してはまたいつか書いてみたい)から、「新しい人類」ではないか、と思ってきた。次男が眠いのは、人類が次の段階に進化するための一種の「冬眠」なのではないか。おそらく、真の目覚めが来たとき、わたしたちは、新しい人類と出会うことになるはずなのである。
 まあ、それはともかく、その結果である。午後3時に起きても、6時に起きても、やることは変わらない。まず風呂に入るのである。次男は風呂も大好きだ。そして、悠然と食堂に降りてきて、「ご飯は?」と訊ねる。午後3時の場合は、「もうすぐ晩ご飯だから、ヨーグルトでも食べておいて」「うん」、である。午後6時の場合は、「もうすぐ晩ご飯だから」である。要するに、次男は、いつの間にか、一日一食になってしまったのだ。やせるわけである。

 おわかりだろうか。起きているから腹が空くのだ。寝ている限り、腹は空かない。これぞ、究極の「睡眠ダイエット」。
 いや、さきほどとりあげた「買い占められダイエット」もそうだが、これもまた、世界で認知されたことのない、新しいダイエットではあるまいか。そして、次男が、この「睡眠ダイエット」を開始したのは、偶然ではないのではないか、とわたしは考えている。
「新型コロナ」が世界を襲う前から、世界は、長い停滞期に入っていたではないか。低成長、環境汚染、平均気温の上昇。このような世界で生き抜くために、新しい、低代謝で生きられる新しい人類に、次男はなろうとしているのではないだろうか。
 そういうわけで、とりあえず、体重が減った次男なのだが、ここ数日は、午前中に起きるようになってしまい、食事の回数も、2回、もしくは3回になりつつある。この行く末を見たかったのだが、ちょっと残念だ。

著者情報

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。

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