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Nonfiction

読み物

馬の帝国 星野博美

第2回 「君は馬」

【前編】

更新日:2020/05/20

 前回書いた通り、私は1986-1987年、1996-98年と、計3年弱香港に住んでいた。
 1998年2月。香港が宗主国イギリスから中国へ返還され、初めて迎えた旧正月。私は招かれて友人の日本人編集者の家に向かった。
 銅鑼湾(コーズウェイベイ)駅から歩いて数分の場所にある、かつてはそこそこ高級だったと思われる、古い賃貸マンション。自分が暮らす違法建築の古アパートや、とにかく狭い面積に大勢を収容することが目的で建てられた公立の団地とは異なる空気が流れている。なにしろ、床が飴色の寄せ木細工だ。木の床を踏むのは、日本を離れて以来のことだった。
「とにかくおもしろい人がいるんだ。いつか会わせたい」
 友人にそう言われたのは、かれこれ数か月前のことだった。ようやくその人物と会う機会に恵まれたのである。
 香港に来てすでに1年以上がたち、それなりにいろんな人と出会ったが、「お呼ばれの手料理食事会」というシチュエーションは今回が初めてだった。これが日本なら、近所でワインか総菜などを買って気軽に訪れるところだが、歴然とした格差社会の香港で、しかも私が暮らす深水埗(シャムシュイポ)のように低所得者層の多いエリアでは、そんな類のものは売られていない。たまたま家に、人から頂いたワインが一本あった。それをビニール袋に入れ、小脇に抱えていった。
 出迎えてくれたのは、友人とその妻、そして友人の同僚女性の、計3人だった。全員が日本人である。お目当ての人物は、まだ来ていないようだ。
「まだ来ていない。多分30分くらい遅れるんじゃないかな。いつものことだよ」と友人は言った。
 ワインを飲みながら待つこと小一時間、ようやくその人物は姿を現した。
 ベージュ色のロングコートに中折れ帽、グレーのカシミヤのセーターにツイードのパンツといういでたちの、銀髪のスマートな好々爺。「なじみのテーラーショップに立ち寄ったら、なかなか帰してもらえなくて」と詫びながらコートを脱ぎ、中折れ帽子とともに友人の妻に渡す。少なくとも私は香港で、これほどたたずまいが優雅な人と会ったことはなかった。財力も教養もある北方出身の人、それが李さん――親しみをこめて老李と呼ぶことにしよう――の第一印象だった。

大連から香港へ

 老李は非常に丁寧で流暢な日本語を話した。満洲国(中国では侮蔑をこめて「偽満洲」と呼ぶ)が存在した時代の大連で生まれ育ち、日本語教育を受けたためだ。さらに、私の耳には大変心地の好い普通話(中国の公用語。いわゆる北京語)を話した。
 一方、広東語は得意ではなかった。香港はもともと、様々な時代に様々な理由で中国をあとにした亡命者と難民の多い街だったため、非広東語話者が案外多い。特に日本の侵略と国共内戦で大陸をあとにした世代は、広東語を話せない人の割合が高い。そのため、広東語が話せなくても生きられる街だった。最近の香港は、香港人のアイデンティティと広東語があまりに一体化し、普通話話者を排斥する動きが出ていることが心から残念である。
 日本人4人に老李1人が中国人という面子だったが、会話は日本語で行われた。東アジアで日本語を話す高齢者に遭遇すると、日本人としては罪悪感でいっぱいになる。相手がいくら日本語が上手であろうと、できるだけ日本語以外で話そうと試みる。しかし老李と友人夫妻と同僚は広東語が、私は普通話が得意ではない。結局、この日の列席者5名全員が意思疎通できる共通言語は日本語しかなかった。
 老李はその言語能力を生かし、香港駐在の日本人妻たちに普通話を教えたり、観相(顔相占い)をしたりして生計を立てていた。また、私が連載を持つ日本人向け情報誌で、干支占いコラムを書いていた。広義で私たちは、仕事仲間だった。
 老李は、たちまち私たちを虜にした。歴史の語り部といった具合に、とにかく話が魅力的なのである。中華人民共和国建国前の中国大陸に生まれ、香港に逃れてきた人に、安寧な人生を送った人など一人もいない。その洒脱なたたずまいからは想像がつかないほど、彼の人生も壮絶だった。
 老李の父親は大連で果樹園を営む大地主だった。八路軍がいよいよ大連に迫っているとの一報を受け、十代後半だった老李は南へ向かう列車へひとり飛び乗った。前の晩、母親にだけはその決意を告げた。泣かれたが、決心は揺らがなかった。
「家族全員で逃げようとは思わなかったのか?」という私の問いに対し、もう聞かれ慣れているというように老李は言った。
「父は先祖代々からの土地を離れる気はない。家族を説得しようとすれば、一日、二日と時間が過ぎていく。それでは一人も助からない。ああいう時は、一人で決断するものだ」
 結局、それが両親と共にすごした最後の日になった。文革が終わるまで中国に帰ることはできず、大連を再訪したのは、家を出てから30年以上が過ぎたあとだった。故郷に残った兄と再会した時、彼が大連を去ってからじきに、父親がりんごの木で首を吊って自殺したことを知らされた。母親は、文革(1966~1976年)をかろうじて生き延びた。しかし老李が里帰りする前に亡くなっていた。

観相は統計学

 そんな重苦しい話をしたかと思えば、突然話題を変えて炒飯の極意を話し始める。炒飯をおいしく作るポイントは、一にも二にも米の乾燥具合が重要。彼の家では、晩に残った御飯を大きなザルにあけ、一晩外で乾燥させておいた。そうして粘りけがなくなった御飯を炒めるのが、おいしい炒飯を作るコツなのだという。
「使用人がいつも、そうやって作っていた。母は料理をしなかったから、料理はすべて使用人から教わった。それが香港でも役立った」
 血縁者も知り合いも誰一人いない香港に逃げ、最初は路上生活を送った。そして親切な警察官に拾われ、しばらくは警察で働き、警察の官舎で暮らしたという。警察がどうしても肌に合わず、飛び出してからは、日本語教師や普通話教師をして食いつないだ。そして最終的には、見よう見真似で覚えた「観相」で生計を立てるようになったのだという。
 ふむふむ、とうなずきながら、ん? と立ち止まった。観相は手相、骨相、人相などからその人物の性格や気質を予測する学問で、六十干支(ろくじっかんし)と同様、古くから中国に伝わる、いわば知恵の総結集であろう。それほど簡単に習得できるものなのだろうか。
「観相は、正直言って統計学よ。額の広さ、眉の位置、鼻の形、顔の骨格、そういうもので性格が決まっている。それを覚えればできる。路上で人を眺める時間が長かったから、いつの間にか覚えてしまった」
 何かひっかかるところはあったのだが、酒の助けもあっていい気分になっていたので、そのまま会話は進んでいった。
 この日の主役となった老李は、すっかり気をよくし、「君たちのことを占ってあげよう」と言い出した。友人の同僚は「それを待っていたんです! 私の結婚運を占って」と言い、身を乗り出した。そうか、彼女が今日ここへ来た目的は占ってもらうことだったのかと、この段になってようやく気がついた。
 私は占いを好まない人間だ。おみくじの類も買ったことがない。美容院で読むファッション誌に掲載された占星術コーナーを絶対に見ないというほどの激しさではないものの――あれは不特定多数を想定したものだから――、自分自身を直接占ってもらうことには強い抵抗感がある。占いが嫌いというより、暗示や言霊に弱い人間なので、人の発言に不用意に影響を受けたくないのだ。手遅れになる前に「私のことは絶対に占わないでください」と老李に念押しした。占い目当てで近づいてくる人間が多いのか、老李はキョトンとした顔をしたが、「わかった、そうしよう」と言い、早速同僚女性の結婚運について占い始めた。

君は馬だ

その年の干支の動物など、縁起物をモチーフにする中国の切り絵。香港でも旧正月の時期に見かけることが多い。著者私物。©星野博美

 その間、私は友人夫妻と他愛もない話を続けていた。サービス精神旺盛な老李は、占いをしないと申し訳ないという気持ちがあるらしい。ちらりちらりとこちらを見ては、「君のおでこを見なさい」と言い、私が「占わないで」と制止しても、「脳みそがいっぱい詰まっておる」などと告げて歓心を買おうとする。そして引き続き結婚運の話をしながらもこちらを向き、「何年生まれだね?」と尋ねる。「1966年ですけど、占わないで」と、再び私は制止する。
「丙(ひのえ)の午(うま)か……」
 老李はパッと暗算し、何事かを思いつめたかのように黙りこんだ。そして結婚運の話を止め、私のほうに向きなおった。
「君は、馬だ」
「そりゃ、そうですよ」
「いや、そういう意味じゃない。馬そのものだ」
「占わないでくださいよ」
「一言言わせてくれ。駿馬……いや、駿馬とは少し違う。どこまでも走っていく馬だ」
 そう一言告げると老李は、再び結婚運の話に戻っていった。
 杯を重ねたワインで朦朧とし始めた頭に、その言葉がぐるぐるこだました。
 どこまでも走っていく馬……。どういう意味だ?
 単純に聞けば長所のように思える。しかし同時に、「行ったきり帰って来ない」という意味にもとれる。短距離走より長距離走が向いているという意味なのか。あるいは、目的地を決めずに走り出し、帰り道を見失うという意味なのか……。
 含蓄する意味を知りたい。しかしそれを尋ねれば、占いの誘惑に敗北したことになる。早くも私はその言葉に呪縛され始めていた。だから占いは嫌いなのだ!
 私たちが友人宅をあとにしたのは、長い長い夜が終わり、空も白らんだ明け方だった。上環(ションワン)に住む老李は車で送ると申し出てくれたが、私はぼちぼちフェリーと地下鉄を乗り継いで帰るつもりだったので、マンション前の路上で別れた。
 軒尼詩道(ヘネシーロード)をとぼとぼ歩いていると、背後からブォォォォッという轟音に続き、けたたましいクラクションが聞こえた。驚いて振り返れば、真っ赤なスポーツカーが減速して近づいてきた。馬のエンブレムがついた高級車だ。運転席には老李が、助手席には2年後に結婚できるだろうと予言された女性が座っていた。
「またいつか会おう!」
 老李はそう言って手を振ると、再びブォォォォッとアクセルをふかし、さっそうと走り去っていった。
 どこまでも走る馬は、私ではなく、老李のほうだった。

(後編につづく)

著者情報

星野博美(ほしの・ひろみ)

ノンフィクション作家、写真家。1966年、東京生まれ。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著者に『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)、 『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『みんな彗星を見ていた─私的キリシタン探訪記』『謝々! チャイニーズ』『銭湯の女神』『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)などがある。

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度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
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一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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