読み物
第15回 戦争と味噌汁
更新日:2022/11/16
さきほどから書いているように、土井さんの「一汁一菜」、とりわけ、その中心である「味噌汁」のつくり方は、驚くべきものだ。わたしたちの味噌汁、というか、料理に関する常識をぶち壊してくれるのである。
まず、
(1)だし汁は不要である。
えっ? 味噌汁といえば、だし汁だ。あの「料理の鉄人」で、道場六三郎が、カツオ節と昆布をふんだんに使った「命のだし汁」をつくっていた。「だし汁」といえば、あそこまでやらねばならないものなのか。いくらなんでも無理だと思った。もちろん、一般庶民は、あんな豪勢なだし汁は使用しない。それでも、できうるならば、いい「だし汁」をとりたいと思っている。昆布とか、カツオ節とか、煮干しを使ってだ。それぞれに、昆布の表面を布巾で拭いたり、カツオ節は沸騰させた後、鍋底に沈むまで待てとか、煮干し(いりこ)は頭とワタを取り除けとか、レシピには書いてある。うーん。なんだかめんどうくさい。だいたい、当方ひとりだし。そこで、インスタントの「だし」を買う。とはいっても、できるだけいいものを買いたい。わたしが行くのは、もとまちユニオン鎌倉店か東急ストアだ。美味しそうなだしがたくさん積んである。けっこう高額なものもある。これ買うくらいなら、自分で、だしをつくった方がいいんじゃないか。迷うのである。
だが、土井さんは、いう。だし汁はいりません。だって、具材からさまざまな味が滲み出してくるのだから。
さらに、もう一つ。決定的なのはこちらである。
(2)味噌汁には何を入れてもいい。
えっえっ?
「(前略)これまで食べ慣れてきたもの以外の食材を入れるのはタブーでしょうか。トマトやピーマンを味噌汁の具にすることも、ソーセージや残り物のおかずのから揚げを具にすることも、そのたびに驚かれました。毎度『○○を入れてもいいんですか』と確認されます。味噌汁に入れたくないものはあっても、味噌汁に入れていけないものなんてありません。それが味噌汁の凄さです」
「焼き飯は強火が基本だとか、材料は切り揃えなければならないとか、豆は煮崩れてはいけないとか、私たちは何かに縛られてお料理をしてきたようです。そうした料理の決まり事の多くはハレの日のために洗練されたプロの仕事です。ハレの日やプロの仕事が日常の暮らしに入りこんでしまったから料理が『面倒なもの』になったのです。そんな箍(たが)はすべて外せばいい」
簡単にいえば、土井さんは、「料理は自由だ」とおっしゃるのである。
わたしは、番組に出演してくれた土井さんに、以上の2点について確かめてみた。「もちろん、その通りです」と土井さんはおっしゃった。そして、「人は自由になるために料理をするのです」と付け加えられたのである。
実際、やってみると、この「だし汁は不要」「具は何を入れてもいい」というメッセージほど強力なものはないことがわかる。いや、なんだかすごく自由な気になるのである。 実は、ここ数カ月、料理(といっても味噌汁をつくるだけなんだが)がまるで苦にならない。こんなことは生まれて初めてだ。
味噌汁をつくって余裕があれば、もう1品、あるいは2品付け加えることもある。
さきほども書いたように、わたしは、1日2食なので、とりあえず午前11時頃に、朝食兼昼食の1回目の食事の時間がやって来る。最初に試みるのは、冷蔵庫を覗いてみることだ。そして、中に入っている「具材になりそうなもの」を見つける。それで、もう仕事の大半は終了である。「だし汁」はつくらないが、「だし汁」になっちゃうものは使う。わたしの場合は、肉や魚である。本の中で、土井さんがつくった味噌汁の具にベーコンがあった。美味しそうだったので、これを良く使うようになった。太い燻製ベーコンをぶつ切りにして、鍋に入れる。それから水を注ぐ。目分量である。あるいは、味噌汁を入れるお碗に必要なだけ水を入れて、鍋にあける。さきほども書いたように、具材は、あるものを入れる。ネギ、キャベツ、ニンジン、大根、ニラ。腐ってなければ、なんでもいい。もちろん、気分で選ぶ。おや、蒲鉾があった。賞味期限終了から二日しかたっていない。これも入れちまおう。それらをまな板の上で切って、鍋に入れ、少しの間煮立たせる。そして、味噌。味噌だけは高級品を使っている。量も適当。一応、水1カップにつき大匙1杯という常識は知っている。最初のうちは、適当すぎて、味が濃かったり、薄かったりしたが、いまはもうそういうことはない。できた。いただきます!
サバの缶詰(水煮)を丸ごと入れることもある。この場合はネギが合うが、香味が強いものといろいろ合わせるとおもしろい。ここで書いておくが、味噌汁の場合には、いっさいレシピを見ない。というか、レシピなどありません。これは、いわゆるあら汁である。煮立ってきたら、そのサバをガツんと砕く。ほんとに、他のオカズは不要だ。
最新流行は、「食べる煮干し」だ。もともと、「煮干し」は、だし汁をとるためのものだが、それを食べられるようにしたもの。何種類も出ている。だし用の「煮干し」よりは安くはないが、実に美味い。これは、土井さんの本にも出ていない……と思うが、すべての本を読んだわけではないので、断言はできない。お碗を横断するような巨大な煮干しが浮かんでいる味噌汁の写真は見たことがあるが、あれは、元々だしのためだったのだろうか。たぶん兼用していたはずである。きっと、誉めてくださると思う。
鍋にざーっと好きなだけ入れて、水を入れ、火をつける。すぐにいい匂いがしてくる。この「食べる煮干し」は、だし汁もとれるし、そのまま具材になる優れものだ。大きさも形もいろいろ。頭・内臓・うろこをとったものも、丸のままのものもある。お勧めは豆腐、あるいは、カボチャとのコンボだ。絶妙の味になる。味噌汁が残ったときには、翌日、卵を入れてオジヤにする。もう一度書くが、具材はなんでもよろしい。気がついたら、冷蔵庫の中が空になっている。それでは、ちょっと、もとまちユニオンまで買物に行ってくるか。
買物に行くと、どのコーナーに行っても(肉、魚、野菜はもちろん、それ以外の食材のコーナーでも)、「これ、味噌汁の具になるんじゃないの?」と思ってしまう。納豆はもちろんお試し済み。大豆&大豆だから相性ばっちり。おせんべい、もちろん、OK。東北地方の「せんべい汁」は、醤油味だが、味噌汁でも問題なし。繰り返して書くが、ダメなものは、ないんじゃないかな。ヤバいです。この間は、つまみの干しブドウとナッツを入れてみたが、実に美味かった。なんてフリーダム。もはや、味噌汁というアナーキズムだ。それとも、味噌汁というユートピアか。このことを称して、土井さんは「一汁一菜は念仏だ」といったのだろう。
いや、土井さんは、その理由を、こう書いている。
「念仏が悪人も善人も全ての人を救うように、一汁一菜も全ての人を救うからです。仏教のことはわからないのですが、一汁一菜の誰でも幸せにする万能性は、仏教とも重なるように思います」
その直感は正しかった、とわたしは思う。わたしは、ここ10年ほど、親鸞を読んできた。読めば読むほどおもしろい。そして、土井さんのいうように、一汁一菜は念仏だ。というか、親鸞の教えは(土井さんの)味噌汁のつくり方に似ているのである。
親鸞が師である法然から受け継いだ教えに「称名念仏」(しょうみょうねんぶつ)という考え方がある。これは「称名」、つまり「南無阿弥陀仏」などの仏の名前(名号)を称えることで、それだけで、人は救済される、救われるとしたのだ。いったい、どういうことなのか。それまでは、仏典を深く研究したり、厳しい仏法の修行をすることで、深く仏教の奥義を知ることこそが、「救い」への道だった。しかし、親鸞は、決然と「それはおかしい」といったのである。ほとんどの人たち、一般大衆は、字さえ読めなかった。貧しくて、修行をする余裕などなかった。だとするなら、インテリで、豊かな人たちだけが救済され、貧しい人たちは、「衆生(しゅじょう)」と呼ばれるふつうの人たちは、救われないのか。それが仏教なら、そんな宗教はいらない、と親鸞はいったのである。
また、親鸞の名言として「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものがある。これは、「善人すら往生を遂げられるのだから、ましてや悪人のほうがなおさら往生を遂げられるのだ」という意味だ。要するに、悪人のほうが善人より成仏できる、救済される、といっているのである。常識的にいうと、おかしいでしょう、これも。
だが、親鸞は、こんなふうに説明している。
……悪人は、善いことをしようなんて思っていないし、もともと自分が悪い人間だとわかっている。もちろん、修行なんかする気もない。自分はそんな立派なこととは無縁だと思っている。それに対して、善人は、なにか善いことをしようといつも思っている。また同時に自分は善いことをしているという自覚もある。やることなすこと、そういう自覚に基づいてやっている。それは修行して、浄土に行こうという考え方と同じだ。そもそも人間が考えるようなちっぽけな「善」が判断基準になっている。そんなものなんの意味もない。そういう「善」とは生涯無縁なのだ、と自覚している悪人の方がずっと、悟りに近いのである……
この親鸞の考えは「信仰」というものを極限にまで自由にしたと考えられている。念仏を称えれば、それだけでオーケイ。極端なことをいうと、生涯一度でも念仏を称えれば、いや、心の中で一度でも称えれば、それでいいのである。というか、心の中では「あかんべー」をしつつ、口で念仏を称えてもオーケイ。なぜなら、信仰は人を救済するためにだけ存在していて、救済とは、要するに、その人を自由にすること以外にはないからだ。
ここまで書けば、土井さんの「一汁一菜は念仏」の意味がわかってもらえると思う。従来の、常識的な料理のつくり方、レシピ優先、たくさんの準備、等々は、それは、救済されるためには、修行や知識が必要だとした仏教の考え方と同じなのだ。そして、すべての装飾を取り外し、味噌と水と具、あとは不要とした「一汁一菜」とは、親鸞のいう「称名念仏」そのものなのではないか。
豪華絢爛な食事「でさえ」美味しく、栄養があるなら、(すべてが自由な)「一汁一菜」のほうがずっと美味しく、(すべての人びとの心身にとって)栄養があるのだ。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」なのである。
高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)
1951年広島県生まれ。横浜国立大学経済学部中退。1981年、『さようなら、ギャングたち』で作家デビュー。『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。
主な著書に『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』、『恋する原発』、『銀河鉄道の彼方に』、『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』などの小説のほか、『ぼくらの文章教室』、『ぼくらの民主主義なんだぜ』、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』、『お釈迦さま以外はみんなバカ』、『答えより問いを探して』、『一億三千万人のための『論語』教室』、『たのしい知識──ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代』、『「ことば」に殺される前に』、『これは、アレだな』、『失われたTOKIOを求めて』、『居場所がないのがつらいです』『だいたい夫が先に死ぬ これも、アレだな』など、多数ある。